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目次
















(1987年7月2日の霊示)

1.神想観(しんそうかん)とは何か


谷口雅春です。さて、本章では、いよいよ真説・神想観の話をしてまいりたいと思います。本書の読者が必ずしも「生長の家」の信徒であるとはかぎらんので、神想観とは何かについて、まず簡単に話をしておかねばなるまいと思います。

神想観というのは、字を見るとわかるように、神を想い観ずる、と。こういうふうに書いております。まあ、言ってみれば、精神統一の方法であります。私が、数十年にわたって説き来たり、説き去ったところの生命の実相哲学というものは、単に思想や哲学に止まらず、宗教と言われる領域にまで踏み込んでいるのです。

その理由は、そうした精神統一の方法、高級神霊との交流という方法が、やはり、そこにあるからです。だからこそ、宗教とも言い得るのだと思います。

単に思想としてのみ見れば、私の教えも、もしアメリカに現われれば、ニューソートという光明思想になっているわけですから、単に宗教とは言いかねるものがある。ただ、「生長の家」が宗教と言われておる理由は、神に対するそういう神想観というひとつの修法を持っておるからであります。

神想観についての詳しい説明は、私の著書、生前の著書のなかの『生命の実相』という書物のなかに詳しく説明があるので、それを別の機会に参考にしていただきたいと思うのであります。ここでは、精神統一ということ、祈りということ、そうしたことに関して、こちらに還った私の率直な感想を踏まえて、話をしていきたいと思うのです。

これはね、ある意味では、自力・他力という古来から闘わされておる宗教的な問題に対する答えをも含んでおると、こういうふうに言うことができると思うのです。


2.神想観の実修方法


神想観というのは、要するに、姿勢を正して、合掌の姿をとるわけですね。合掌の手というのは、通常の仏教で言う合掌よりも、やや高いところまで上げる。その場合、手のひらの隙間(すきま)に、呼吸、すなわち、口から出る息がかかる程度の、通り抜ける程度の高さまで手を上げてくるわけですね。こうして、精神統一をする。

まあ、正坐してやるのがもちろん本筋でありますが、とくに正坐でなければいかんというほど堅苦しいものではない。女性とか、子供とかは、正坐が無理であれば、おかしくない程度に足を崩してやられてもいい。ただ要は、やはり背筋をピンと伸ばして、威儀を正して、精神統一をやる必要があるということです。

そして、この手を口の前まで持ってきて合掌して、神招(かみよ)び歌、招神歌(しょうしんか)ですね、これを唱えるわけですね。大きく呼吸を整えながら、招神歌(かみよびうた)を唱えていく。

「吾(わ)が業(わざ)は吾が為(な)すにあらず、天地(あめつち)を貫(つらぬ)きて生(い)くる祖神(みおや)の権能(ちから)」
「吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能」
「吾が生くるは吾が力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命(いのち)」
「吾が生くるは吾が力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命」

と、こういう言葉がありますが、これらの言葉を繰り返し繰り返し、合掌の姿で語っていく。こういう言葉を唱(とな)えておると、この招神歌のなかには、つまり、言魂(ことだま)というのが宿っておって、この言葉を口から発すると、天上界にいる諸神霊が感応してくる。

具体的には、こういう言葉を発すると、本人の守護霊や指導霊が感応してくるというわけですね。本人の守護霊と言っても、霊界でやはり仕事を持っておりますから、いつも、常時来ておる人間の傍(かたわ)らに立っておるほど暇(ひま)なわけではないのです。あの世でも仕事をしながら、やはり家庭教師のような具合であってね、ときおり、教えにくる、と。こういうのが、守護霊なわけであります。

そういうことで、こういう招神歌(かみよびうた)を唱えて、守護霊、あるいは、指導霊という一段と霊格の高い霊もおるわけですが、こうしたものの注意を喚起すると、彼らの光が天上界からサーッと流れ込んできて、心のなかに暖かいものが入ってくる。こういう経験をされた方は、数多いであろうと思うのであります。

まあこれはね、昔から神道などでも祝詞(のりと)というのがあって、祝詞で高級神霊の力というものを授かっておりますが、こういう言葉というのは、ひとつの何と言いますかね、つまり、合図なわけです。

まあ、昔から合図と言えば、「山」と言えば、「川」というふうに答えるとか、こういうふうにして合言葉がありますが、これは、地上界におる人間と天上界におるものとの間に、いわば電話をかけるのと同じであるし、橋を架けるのと同じなわけですね。ですから、こっちから、「もしもし」と言えば、向こうが、「ハイハイ」と答えてくる。この「もしもし」にあたるのが、こうした招神歌(かみよびうた)、招神歌(しょうしんか)だということなのです。

この招神歌(かみよびうた)のなかでも、最初に、次のような言葉を言うようになっております。「生(い)きとし生けるものを生かし給える御祖神(みおやがみ)元津霊(もとつみたま)ゆ幸(さきは)え給(たま)え」と。まあ、この言葉を繰り返すわけですね。二度ほど各歌を繰り返す。正式に、もう一度言うとすると、つまり、こうなります。

「生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸え給え」
「生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸え給え」
「吾が生くるは吾が力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命」
「吾が生くるは吾が力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命」
「吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能」
「吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖親の権能」
「天地の祖神の道を伝えんと顕れましし生長(せいちょう)の家大神(いえのおおかみ)守りませ」
「天地の祖神の道を伝えんと顕れましし生長の家大神守りませ」

まあ、こうした四首があって、これを繰り返し繰り返し、唱えるわけですね。そうすると、顔の前に合掌しているこの手というのがアンテナになるわけですね。まさにアンテナになって、大宇宙の生命と一体になってくる。こういうふうになってきて、この手が霊的に感応して、揺れ始めたりすることもあるわけですね。合掌した手が、ひとつの磁石のようになって、磁気を帯びてくる.まあ、こういう感じになってきましょう。

そして、こういうことを、歌を繰り返し唱(とな)えた後、「生長の家を通じて働き給(たも)う神よ、この合掌をアンテナとして大生命と一体にならせ給え」と、こういう言葉を何度も何度も繰り返していくわけです。

続いて、「我れ、今五官の世界を去って、実相の世界に坐(ざ)す。自分の今坐っているのは、これ実相の世界。――神の無限の知恵の海、無限の愛の海、無限の生命(せいめい)の海、無限の供給の海、一切大調和の実相世界である。この大調和の実相の世界にいて、自分は今神の子として、神より無限の生かす力の供給を受けつつあるのである」と、まあ、こういうふうに心のなかで何度も何度も繰り返していくわけですね。

このように、神想観(しんそうかn)というのは、自分で実修ができるというところが、非常に大切なところなのですね。自分で実修ができて、しかも、効果が現われてくる。静かに精神統一をし、瞑目して呼吸を整えておくと、だんだんに、体全体に力が漲(みなぎ)ってきます。

「神の無限の生かす力、自分のうちに流れ入る流れ入る、流れ入る……」と、こういうふうに繰り返して言えばいいわけです。「神の無限に生かす力、自分のうちに流れ入る、流れ入る、流れ入る、流れ入る……」「無限の生かす力に満たされている、生かされている、満たされている、生かされている……」と、まあ、こういうことを何度も何度も繰り返しておると、本当に霊天上界から神の光が降りて来るんですね。


3.神想観実修上の注意点


ただ、こうした精神統一法、神想観をやっておっても、本人の心が不調和であると、この合掌のときに、霊動というのが起きてきて、濡(ぬ)れ手の水を切る形で、打ち振るうような、そういう霊動というのが起きることがあります。

こういう場合には、たいてい、本人に憑(つ)いておった悪霊というのが浮き出してきておる。こういうわけであります。ですから、こういうときには、いったん神想観を解いて、聖経『甘露(かんろ)の法雨(ほうう)』、あるいは、『天使の言葉』、こういうのを繰り返し、繰り返し読むのがよろしい。そうすれば、次第に精神が統一されてくるでありましょう。まあ、こういうふうに思うわけであります。

まあ、ただね、これが一般的な修法でありますが、神想観においていちばん大切なことは、やはり、この最初の段階であろうと思うのですね。実際、こうした精神統一法によって無限の力というものが天降ってくるわけだけれども、その無限の力というものを受けんとしておる人間の心のなかに、悪しきもの、あるいは、我欲だな、そういうものがあったのではよくない。あんまり我欲のままに神想観をやっておると、精神統一をするわけであるんだが、その精神統一というのが、結構悪いほうに向いてしまう可能性があるわけですね。

つまり、本人が悪霊などにかなり憑(つ)かれておるときに、この招神歌を唱えておると、高級諸霊は何とかして本人に霊示を与えようと感応し始めるんだけれども、いかんせん悪霊というのに完全憑依(ひょうい)されておると、精神統一をしたのをいいことに、本人にかかってきて、そうして、いろんなことを言うことがあるんですね。

このときに、招神者がとくに間違いやすいのは、その自分に憑いておる悪霊の唆(そそのか)しを真に受けてしまうことがあるんですね。とくに、自我我欲のままにね、欲でいっぱいになって神想観をやっておって、悪霊などがかかってきた場合には、悪霊が耳元で囁(ささや)いたりすることがある。

何を囁(ささや)くかと言うと、「そうだ、そうだ、その方向でいけば金が儲かる。会社では出世をする。好きな女性は手に入る。何でもかんでも思うようになる」というように、ずいぶんつごうのいいような答えをする場合があるのですね。あるいは、「競馬をやれば、それは儲かる。パチンコやっても儲かる」と、まあ、こんなことを言って、いろいろと欲を募(つの)らせる方向で囁く場合もある。

しかし、こういう囁きを受けて、そのまま我が意を得たりということで突っ走ってはならんのです。結局、高級霊の波長を受けるのには、受けるだけの素地というのがやはりいるのです。これを同類相集まると申しますかね。同じ波長のもの同士が通じ合うという法則があるわけです。

したがって、奥さんの浮気に悩んでおる旦那(だんな)や、あるいは、経済問題でヒイヒイ言っておるような主婦に、イエス・キリストじゃの、釈迦じゃの、何じゃのかんじゃというような高級霊がかかるかと言えば、そういうことはないということですね。これを知らねばならん。まあ、そういうことです。


4.「神は霊媒にはかからぬ」は一般論


これについて、さらに説明をしておかねばならんと思う。つまり、まあ、「生長の家」の理論のなかで、「神は霊媒にかからぬ」と、こういう言葉があるわけですね。それで、巷(ちまた)の拝屋や霊媒に何とかの神が降りただのと言って、まあ、よくやっておるが、こういうのは、十中八、九はキツネ、タヌキ、ヘビの類であることは間違いない。

こうしたものでも、たまにあてものをしてみたり、そういうことをするので、神様と間違えて神社が建ったり、信者を集めたり、そういうことが、ないわけではない。ただ、そういう町の拝屋や、あるいは、北のほうの地方にあるようなイタコというのかな、そうしたものに神近き高級霊がかかるということは、原則としてない。

しかし、これはやはりあくまでも原則であって、例外というものがないわけでもない。例外がなければ、つまり、神は人間にかからんと、霊媒というのにかからんと言うならば、この地上の三次元世界というのは、これは本当の唯物論の世界になってしまって、何の奇跡も、何の神示も、何の霊示も、天上界から臨(のぞ)まんことになってしまう。まったくの無神論の世界、唯物論の世界となってしまう。そうなってしまっては困るわけだから、一定の範囲で、例外を設(もう)けておろう。こういうことがあるわけですね。

それとね、私も生前、この点については詳しくは説かなかったけれども、やはりね、神は霊媒にはかからんけれども、神は預言者にはかかる。あるいは、大宗教家、これにはかかるのですね。これについては、言っておかねばならぬと思う。ただ、神という言葉に非常に多義性があるので、何をもって神とするかという問題は、これは、別にあるわけです。

しかし、宇宙の根本神、この大宇宙を創った造物主が人間にかかるかと言うと、こうしたことは、決してあり得ない。そういうことは、あるわけはないのであります。ただ、人格を持った神霊、高級神霊というものは、これは一定の範囲で、一定の限度で、何百年か何千年に一回か、そういう神示や霊示というものを送ってくることがあるのです。といっても、これは、ごく限られた人だけであります。


5.巨大霊媒としてのキリストと釈迦


ナザレのイエスという人間にも、高級霊たちは、やはり霊示を送っておったし、イエスのなかに入って、ずいぶんいろんな言葉を語っておる。じゃあ、イエスは霊媒であるから神がかからんかと言うとそうではない。こうした巨大な神霊能力を持った人の例外というのは、やはりあるわけです。通常の口寄せとはまた違っておる、と。こういうふうに言えると思うのです。

また、釈迦にしてもそうです。現在、釈迦を霊媒だと言う人はおらんであろうけれども、仏典をよく読んでみると、釈迦の顔が二十通りにも変わったというようなことが書いてある。では、なぜ釈尊の顔が二十通りにも変わるのか。現代的に言えば、怪人二十面相になってしまうわけじゃが、結局、釈迦が説法をしておるときに、いろんな高級神霊が釈尊の体を支配して、話をしておったわけです。

そこで、それを見ておった弟子たちの多く、つまり、釈迦教団では芸能者が非常に多かったがため、彼らには、その仏陀の顔が変貌するのが見えた。こういうことがあったわけです。そして、釈尊が何通りもの顔に変わっていく。説法の内容に応じて、顔が変わっていく。その姿を霊視して、驚いたわけです。こうしたことが、いまだに伝えられております。

釈迦の法門というのは非常に多くて、八万四千の法門があると言われております。そして、そのなかで、あるいは法華経(ほけきょう)と言うたり、あるいは維摩経(ゆいまきょう)と言うたり、あるいは阿含経(あごんきょう)と言うたり、あるい華厳経(けごんきょう)と言うたりしておる。こうした経典で、どの経典を信ずるかということが、後代の各派が言い争って議論をしておるわけですが、では、なぜそういう議論になるかと言うと、結局のところ、経典ごとに内容がかなり異なり、個性も変わっておるところがあるのです。

つまり、たとえば、こういうことなのです。華厳経というお経のなかには、「愛」についての話がずいぶんあるわけだけれども、これなどは、イエス・キリストと言われた方のナザレに生まれる前の生命体が、どうやら釈尊のなかに入って、説教しておったようなのです。そうすると、そうした内容になる。

こういうふうに、指導霊の考え方によって、多少違ってくるわけです。そういうことがあるんです。内容的にね。

また、法華経というのが大変な人気であるけれども、法華経にも、もちろん、それなりの指導霊というのがおったわけでね、この指導霊の考えが釈尊自身の考えと非常に似ておる、と。まあ、こういうことが言えるわけなんですね。

だから、後世の仏教者たちが法華経を最勝の教えだと言って、これこそが間違いない教えだと言って、日蓮宗のように発展するようになるわけです。こういうふうに、お経相互でいろんな内容に違いがあって、各派が分かれた理由のひとつは、釈尊自身がひとつの巨大な霊媒であったことは事実なのです。ですから、そういう巨大な霊媒である釈尊に、いろんな高級神霊が入って、語っておった。そのため、釈尊の顔が変貌したり、そのお経の内容が変わることになったわけですね。

だから、現代、釈迦を霊媒だという人はおらんけれども、霊媒能力というのも巨大な霊能力のなかのひとつであって、そうしたことがあるということですね。


6.霊能力の多面性


霊能力のなかには、霊視というような、霊が見えるというような能力もあれば、霊聴と言って、霊の言葉が聞こえる、こういう能力もある。また、霊言(れいげん)と言って、口から霊の言葉が出る、こういう能力もある。あるいは、自動書記(じどうしょき)というのは、体に入った霊が、手を動かすようにして、書く。まあ、こういうものもある。

あるいはまた、テレポーションと言うのかのう、幽体離脱(ゆうたいりだつ)と言って、体から抜け出してあの世を見てくるような、こういう霊能力もあるし、予知能力と言って、将来起きることを予知する能力、まあ、こういうものもある。

大本教祖の出口王仁三郎などは、予知能力とか、あるいは、あの世を見てくる能力、幽体離脱の能力と言うか、こうしたものが大変優れておったように思います。

私の霊能力もいくつかはあったことはあったけれども、谷口雅春の主たる霊能力というのは、いわゆる自動書記であったわけであります。すなわち、私の肉体のなかに高級諸霊が入って、いろんな文章を書かしたり、いろんな詩を書かしたり、お経を書かしたり、まあ、こうぃうことをしておったわけですね。だから、霊が入るということ自体は、私も霊媒と変わらぬわけでありますね。霊媒はロで語ったりするけれども、手で書くのも、霊媒は霊媒です。

日本語というのは、霊媒という言葉に非常に悪いイメージがあるけれども、霊媒体質でない教祖というのはおらんわけです。大宗教家で霊媒能力のなかった者もおらんわけであるから、神は霊媒にかからんという言葉をもって、たとえば、新しい真理が説かれるときに、その真理を説く者を批判するようなことだけは慎しんでいかねばならん。まあ、こういうふうに、私は生前の自分の教えを補っておきたいと思うのです。

巨大宗教家、真理を説くために出た釈迦や、キリストや、モーゼや、マホメット、こうした巨大な宗教家というのは、みんな、もちろん霊能力の持ち主であって、ある意味では、巨大霊媒であることは確かなんです。出口王仁三郎もそうであったしね。

そういうことであるからして、それは口で語るか、手で書くか、耳で聞こえるか、目で見えるかということであって、それほど差異があるわけではないのです。ですから、神は霊媒にかからんということに関しては、これは一般論にすぎない。それで商売しておる巷の拝屋とかそういうところに行って、神の言葉を聞いたなんていうのは、もってのほかだと、こういうことであります。


7.如来の声が聞けるのは如来だけ


したがって、神想観などやっておって、神の声が聞こえた、高級霊の声が聞こえたという人も数多いと思うんだけれども、ここで大事なことはね、やはり、その人の人格です。これが問題なわけです。

同類は相通じる、と。同じ波長同士が通じるという原則があるんですから、如来の声が聞ける人は、やはり如来の霊格を備えておらねばならん。菩薩の声が聞ける人は、菩薩の霊格を備えておる、と。まあ、こういうことが一般的には言えるわけです。

ですから、自分が如来や菩薩の声を聞いておると言うならば、じゃ、その人の日頃の生活はどうか、言動はどうか、人格はどうか。どれだけ多くの人を救ったかどうか。こうしたことが試されるわけですね。菩薩から霊言を受けたり、霊示を受けたりするような人であるならば、やはり世に立って、世の人びとを少しでも教化し、救っていく、こういう実践活動をやっておるはずだし、現に、そうしたことができるはずなのです。

そういうことなくして、すなわち、家庭問題に苦しみ、借金に苦しみ、劣等感に打ちひしがれておりながら、我れに菩薩がかかっただとか、我れこそは何とか菩薩の生まれ変わりだとか、言っておっても、こういうことは、あり得ないのです。如来にしては、もっとあり得ません。如来というのはね、ひとつの時代に、出てもせいぜい数人です。二人か三人、それが限度です。たいていね。

したがって、自分が如来であるという可能性などは、九分九厘あり得ないと思って、間違いないのです。ところが、その九分九厘あり得ないのに如来と称するものから声がかかってくるというようなことは、たいていの場合は、地獄の悪霊の惑わかしであることが多いわけですね。

ですから、そうした人は、よく心を静めなければいかん。自惚心(うぬぼれごころ)を持って神想観をやり、そして、霊の声を聞いただとか、霊動が起きたと言って、喜んでおってはならぬのです。もちろん、一部の例外はあります。しかし、原則としては、そういうことはないのだということです。

たとえば、天理教の教祖に天理王の命(みこと)がかかったり、あるいは、大本教の教祖に丑寅(うしとら)の金神(こんじん)がかかったり、と。こういうことはあるけれども、まあ、こうしたことは、ひとつの時代を画する、大きな宗教を起こすために、やむを得ず高級神霊が仕組んだことであってね。こうした特殊な例外以外で、そういうことがあるということは、まあ、これは疑って間違いない。

ですから、菩薩や如来だというような声が聞こえてきたら、自分がそれだけのことをやっておるかどうかを、よく考えねばならぬ。たとえば、読者でもいいが、読者に新たに如来の声が聞こえたり、イエスの声が聞こえたり、あるいは、大日如来の声が聞こえたり、天照大神の声が聞こえたり、字が出てきたりしたと言うならば、まあ、せめて谷口雅春と同じぐらいの実績を上げて、事業を起こしてから、そう言っていただきたい。そういうことが、ひとつの基準であろうと思うね。


8.「生長の家」の大神として顕れた天之御中主之神


生前は、私も気がつかなかったけれども、「生長の家」の大神として中心神、根本神をやっておられた方は、天之御中主之命(あめのみなかぬしのみこと)という日本神道の主導神であった。これが、わかった。

しかし、天之御中主之命、天之御中主之神であったけれども、これを、明確には私に知らされていなかったわけであります。天之御中主之神というのは、幽の幽なる神であって、宇宙の根本神であって、それゆえ、人にはかからんと私は言うておった。実際はそれでいいわけであってね、めったに名のるものではないのです。

すなわち、天之御中主之神が谷口雅春にかかって文章を書いておったと言えば、谷口雅春が増長慢となって間違いを犯すことをおそれて、そういうことを隠しておられたのです。「生長の家」の大神ということで、隠しておられた。私があの世に還ることになって初めて、あかされたわけです。まあ、通常は、高級霊はこうした方便でもって指導するわけですね。そういうことなわけです。

ですから、私の『生命の実相』などは、主として天之御中主之神の神示を受けながら書いたものだし、「生長の家」の本部の庭に建っておる、「生長の家」の大神の神像があるけれども、あの神々しい神姿というのは、実は、天之御中主之神のお姿そのものであります。現実に、あのような姿をしておられるのです。あの方が、私たちを指導神として導いておったのですね。


9.住吉大神の役割は地上浄化


天之御中主之神以外にも、住吉大神(すみよしのおおかみ)、すなわち、住吉大神(すみのえのおおかみ)という方の指導も受けておりました。この方もやはり、如来界の方で、実在の霊人であります。

住吉大神というのが、主としてやっておったのは何かと言うと、これはね、「生長の家」の光明思想を助けるひとつの手段としてね、邪霊、悪霊から我らを、あるいは、「生長の家」の信徒たちを守るという、そういう禊祓(みそぎはら)いの役割を、すなわち、地上浄化の役割ですね、こういうことをやっておられたのです。これが、住吉大神の役割でした。

浄める、浄化する、こういうことをやっておられて、そして、浄められた聖域、霊域のなかに、天之御中主之大神が、次々と光明思想の真理を説かれたのです。こういうことが言えるわけであります。


10.「神は霊媒にはかからぬ」が、「神は神にかかる」


ですから、私の生前の思想は、天之御中主之神のお考えとほとんど変わっていない。こういうふうに言うことが、可能だと思います。まあ、これについてですが、私は生前、御中主之神は幽の幽なる神で、この世に出て来る方ではないと言ったがために、今、私の霊示を読んで、そんなはずはないと疑う人もおるかもしれぬが、事実は事実、どうしょうもないのです。それが、事実なのです。

「生長の家」の大神は、天之御中主之神であるのです。これは、事実です。仕方がないのです。私自身も、過去世において、伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)として日本の地に肉体を持ったものでありますが、やはりそうした同じ神々の世界から見ておる者として、そうした中心神のような人が、私を指導しておったということですね。

これに対して、たとえば、「生長の家」の前の団体であると言いますか、大本数のようなところでは、国常立之神(くにとこたちのかみ)というこういう方が指導しておった。やはり如来界の方です。こういう神が、指導しておった。同じ日本神道系ですが、指導神が違うために、大本教と「生長の家」の教えは違う、と。こういうふうに言えるかと思います。

こういうようにね、神想観をやっておるときに、高級霊の霊示がくるけれども、あくまでもその人の人格にふさわしい者がかかってくるということで、伊邪那岐大神であった私であるからこそ、天之御中主之神の神示が下ったと、こう考えねばならんのです。まあ、「生長の家」にも立派な方が多いが、一般信徒に天之御中主之神の霊示が下りることは、まずあり得ない。

その意味では、神は霊媒にかからぬ。しかし、「神は神にはかかる」わけですね。すなわち、神近き高級霊が肉体を持って地上におるときには、神がかかってくることがある、と。こういう例外は認めねばいかん。


11.谷口清超氏の過去世は、日本神道系の偉大な神霊の一柱


まあ、この辺はね、二代目総裁の清超先生、それから若き三代目にも、よくよく理解していただきたい。そういうふうに思うところでありますが、二代目総裁が非常にしっかりしておるために、私も、安心してこうした真理を語ることができるわけですね。

ちなみに、私が全幅の信頼をおいて「生長の家」の後を託しておる谷口清超総裁、この方もまた、過去世において、日本神道系の偉大な神霊の一柱であった。こういうふうに言うことができると思います。

まあ、今その名をあかしてよいものかどうか、多少のためらいもないわけではありませんが、古事記、日本書紀のなかに出てくる神々のひとりです。まあ、これは機会を改めたときにあきらかにしようと思います。

私の霊示集も、こういうふうに次々と出しておるわけですけれども、まあ、「生長の家」信徒一般からは、谷口雅春の声に違いないという声が非常に強く、九九パーセントまでは、そのような声が上がっておる。

ただ、「生長の家」の幹部諸君のなかには、まだ初代総裁の声を理解できん方も何人かおるようであるから、そうした人の納得が得られたときに、谷口清超総裁の過去世の名などもあきらかにしたいと思うわけです。まあ、それを信じる信じないは各人の自由であるから、私はあくまでも、その限度にとどめておきたいと思う。


12.日々、自らの人格を高めよ


以上、いろいろと語ってきましたが、本日の要点は、結局、神想観という素晴らしい精神統一の修法があるけれども、あくまでも、その心の波長に合わせたものが語ってくるのであるから、よくよく心の波長を整えるように訓練せねばならん、と。

したがって、より高い高級神霊からの導きを受けるためには、その人自身がより素晴らしい人格者となっていくように、日々の努力精進が何にもまして肝要であるということだ。その人の人格が高まれば高まるほど、神想観を行じておると、より高級神霊からの光を受けることができ、導きを受けることができるということだ。

そして、人生の悩み全般、こうしたものに対して、次々と解答を与えられていく。百事如意(ひゃくじにょい)という言葉どおり、いろんな難問題が続々と解決されていくであろう。こうしたことで、心の調和を図(はか)り、また、人格を日々高めながら、神想観をしていくなかに、百事如意、すべての道が開かれていくであろう。そして、それがあなたに幸せをもたらす永遠の繁栄の道でもあるということだ。この繁栄の道を信じなさい、と。以上です。