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目次












出口王仁三郎(でぐちおにさぶろう)じゃ。久しぶりじゃのう。
読者のみなさんは、わしを覚えておるじゃろうか。もう二年も前になるかのう、「出口王仁三郎霊示集」というのを出したじゃろう。ものすごく売れると思うておったのじゃが、まあそこそこであった。しかし、わしはもう出てこんと言っておったが、やはり二年も出てこんと寂しいもんじゃ。このようにまた、おまえたちにお話ができるということ、これはたいへんうれしいことじゃ。

さて、何から話そうかのうー。うーん。「悪霊撃退法」というふうに書いておるからして、悪霊の追い払い方法を述べなければ、これは詐欺にあたるんじゃろう。わしの前に詐欺とか思われる人もおったようじゃが、わしは詐欺に問われるのはきらいじゃ。ああ、じゃから、正真正銘の悪霊の撃退法を申すとしよう。

まあ、そもそも悪霊とは何かを知っておらん人が多いんじゃないかのう。わしはそう思うんじゃ。悪霊とはのう、自分が悪霊とは思わん人がだいたい悪霊になるんじゃ。これは間違いのないことじゃ。

あー。どういうことかというとじゃ、まあ自分は正当じゃあ、といつも思っとるのが、これがあぶない。なぜあぶないかというと、まあ自分を省みようとする気持ちがない。自分をふり返ってみようとする気がない。まあ、こういう人は、確かにきわめてあぶない。

まあ、人間は何を思うかは自由とされておる。まあ、心のなかで悪いことを考えること自体は、そんなに難しいことではないだろう。まあ、たとえば盗みを働いたら、それは悪いことかも知れぬが、心のなかでふと思っただけで、それほど自分を咎め立てする人は少ないじゃろう。

まあ、情欲などというものも、男ならば思いを点検するというか、「心のなかで女性のことを考えたことはないな」などと言われると、どれもこれも有罪になるだろうし、男のほうはそうは思わんかもしらんが、まあ女の子というのも、これまたすごいもんでのう。毎日そのことしか考えておらん者もいっぱいおる。とくに、もう、学校へ行っても、嫁に行くことぐらいしか考えておらん連中というのは、もう明けても暮れても、これじゃ。これというのは男のことじゃ。男のことしか考えておらん。そのことばかりを考えておる。

親が何を言うても、耳は貸さん。ほかの人が何を言おうが、先生が何を言おうが、「おまえさんたちは、教養をつけておかないといい嫁御(よめご)にならんぞ」と言われても、「教養なんて、どうってことないのよ。お茶とお花ぐらいはどうにかなるのよ。私たちは、とにかく楽しければいいのよ」「そうなのよ」と、こう言っておる者がいっぱいおるんだ。これらの心などは、もう地獄そのものじゃ。もう、毎日が地獄じゃ。

こう思うと、まあ地獄もずいぶん繁盛するもんじゃと、わしは思う。まあ、聞けば地獄の繁盛する理由は、地上の人間のそういう悪しき思いじゃと聞いておる。そうすると、地上の人間が悪いことを考えるということは、地獄はその間じゅう存続し続けるということになる。ところが、過去、地獄はある時点にできたと聞いている。そうすると、そのある時点の前の人たちは、悪いことは思わなかったのか、それとも思えなかったのか。これを考えてくるとだんだんにわけがわからなくなってくる。思えなかったのだろうか・・・・・。もし、思えたとしても、反省することができたのだろうか・・・・・。

まあ、いろいろなことを、わしは考えるんじゃが、人間であるということは、まことにまことにいろいろなことを考えるもんだ。まあ、悪い思いと行ないとが連動しとるという考え方もありはするが、しかし悪い思いといえども、それが素直に行動に出せるならば、思いそのものはなくなって、行いのみが残る。行ないのほうができないがゆえに、悪い思いが心のなかでくすぶっておる。ま、これが現状であろう。

まあ、不自由な社会になったから、そういうふうになると言ってもよい。ほんとうは、人を殺したいと思っておる人はいっぱいいるのだが、それが果たせないので、推理小説を一生懸命読む。書いてあるのは、たいてい殺人事件じゃ。推理小説作家は、殺人事件ばかりを書いておる。そして、読むほうは、それをみてはスーッ、スーッとしている。これなどは、本能的に殺人をしたいと思っておる人は相当おるということを物語っておる。しかし、それが許されないので、文学を楽しんでおるような気になっている。しかし、殺人事件を読んで胸がスッとするというのは、これはきわめて危険な兆候(ちょうこう)じゃ。これは、人間としては、相当傾いておるといってもおかしくはないであろう。

かといって、おめでたい話ばかりも、聞いてはおれんのが人間じゃ。まあ、結婚式となればおめでたいが、だれもよからぬことは一度は心のなかで思い浮かべる。まあ、そんなようなもので、えー、裏ではいろいろなことを人間は考えるものだ。

さて、何がいいたいかというと、悪霊とは何かということを言わねばならんと、わしは思うておるわけです。
そうすると、まあどういうのが地獄に行っておるかということをはっきり言えば、けっきょくよいわけだろうと、わしは思う。おまえさんがた、自分に似ておるかを判定すればよいのじゃ。悪霊が行っておるところは、地獄という。地獄にいない者は、憑依霊(ひょういれい)という。あるいは、浮遊霊(ふゆうれい)といって、フラフラとそのへんをさまよっている。あるいは、地縛霊(じばくれい)といって、土地や建物や、お墓や、そんなものにしがみついている。これが、悪霊の現在のあり方である。




まず地縛霊からいくとするならば、その家で死んで、自分はそれ以外に行き場がないと思って、家に住みついているやつ。仏壇にしがみついているやつ。自分の寝室にずっと寝ておるやつ。これなども、いろいろと障りを起こすことがある。

また、自分の居場所がお墓だと思って、お墓にしがみついておるものもだいぶいる。これなども、ばかばかしい話だが、お墓参りに来てくれるというので、そこに居ないとだれも来てくれないと思って、ジィーッとがまんしている者もいる。

これ以外にも土地に関するところ、まあ自殺者などは、たいてい自殺した場所などの地縛霊になっていることがほとんどだ。その地点で地縛霊となって、土地に縛られてうごめいている。まあ、これなどは地獄でもない、この世でもないという、まことせつない世界にいて、いつまでも自分が死ぬシーンばかりを、追体験していることとなる。

それ以外に、どういうものがおるかというと、積極的な憑依霊というものもおるだろう。自分の好みの世界に生きておる人間を見つけては、それにヒョイッと憑く。

まあ、こういう憑依霊が多いところはどこかというと、もちろんいちばん多いのは繁華街、人が多い雑踏だ。ここへ行くと憑依霊によく出くわす。したがって、街角に出掛け、人がいっぱいいるところに行くとやたらに疲れはせんか。そういう人は、だいたいこの憑依霊をおぶって帰っておるわけじゃ。だいたい霊体質、多少なりとも霊感体質と言われる者は、この憑依霊を受けやすい。したがって、雑踏に行くと、この憑依霊に見舞われることとなる。まあ、そして体をひきずるようにして帰ってくることになる。

まあ、あと多いのは、もちろん雑踏とも関係するが、酒呑み場、バーやキャバレーにもおるぞ、おるぞ、おるぞー、いっぱいおる。目には見えんから、そうした者を見て、赤いライトが当たり、青いライトが当たり、黄色いライトが当たって、「ああ、いい気分じゃ、極楽じゃ」と思うて酒を一杯、二杯と飲みながら、はべってくる女の子のお尻をなでておるようじゃが、そのお尻からフサフサフサフサフサフサと、白いしっぽが揺れておると知ったら、さてどうする。「あなた好きよ」とこちらに振り向くその唇が、耳まで裂けたらさあどうする。その頭に角が生えたら、さあどうする。かわいい耳だとなでてみれば、その耳がとんがっていたら、さてどうする。霊視ができる者であれば、このような者を見るのは、きわめて簡単なことだ。

水商売風のところには、たいていそうした地獄霊が寄って来ている。来ているものは、そうした動物霊を中心とするもの、とくに、狐の系統は色情がひじょうに強いので、よく来ている。また、それ以外にも、もちろん地獄の蛇とか、そんなものもいるが、多いのはやっぱり人間かもしれない。人間でも、とくにあちらのほうが好くな人間、おるだろう、あそこにもここにも、それそこにも。

この文章を読んでおる御仁も、そうではないのか。この「悪霊撃退法」を手にとっても、すぐ横の週刊誌に手を出そうとしておるのではないか。その瞬間があぶないんだ。それがあぶない。本屋でもエロ本だ、ビデオだ、あるいはそうしたヌードの写真集だとズラズラ並べた、大人用のそんな遊び本ばかり集めているところあたりには、モヤモヤモヤモヤモヤモヤとピンク色の波動が漂っている。そんな所へ行くと、パタッ憑いてくるべきものが憑いてくる。まあ、これなども大変なことだ。

まあ、水商売のところでも、主として色情系統の地獄霊、男女ともに来る。そして、あの世に還っても、まだまだ「女が欲しい」とか、「男が欲しい」とか言っておるのが、パターッと憑く。そして、女の霊がホステスに入り、男の霊が男のほうに入って、急におたがいがよく見えてきて、その気になって目で合図し合って、「行こうか」というようなことになることも多い。

あるいは、これ以外のいかがわしい場所はいくらでもあるであろう。まあ、お金を出せば、異性を自由にできるというような場所もいっぱいあるが、まあ、わしはそれはそれでもかまわんとは思うんじゃよ、本人がそれでよいならば。ただ、わしは思うんだが、お金を払って損をしてはおらんかのうと、それが心配でならん。

というのも、そのようなところへ行けば、必ずやお客さん(悪霊)を連れて帰ることになる。持っとる、持っとる、毎日五人も六人も人間のお客さんが来て、その人間のお客さんがまたいっぱいお客さんを連れておるものじゃから、それがそこにたまっておる。したがって、接待してくれたつもりでいい気になって帰ると、お客さんを連れて帰ることになる。まあ、こういうことで、お金を払って割が合うのかな、どうなのかなと思うことはよくある。

これがまあ、いわゆる地上に迷っておる霊たちでもあるが、それ以外にも、もっと怖いのももちろんある。

たとえば、殺人鬼みたいになったりする者もあるが、これなどもたいていの場合憑依されている。傷害、殺人などをしたい気持ちになる者は、憑依されている。ただ、まあそれなども憑依されるにたるきっかけは、もちろん自分自身にあるであろう。自分自身の心のなかに魔がさすだけの十分なものがある。まあ、そのように言ってよいだろう。地獄の阿修羅界の者が出てくる。

まあ、いま阿修羅界という話をしてみたが、地獄もずいぶんと分かれている。おまえたちもよく知っておるであろうが、やくざとかそういう者が行くのが、阿修羅の世界や無頼漢(ぶらいかん)の世界といわれるところだ。ちょっとやくざっぽい人が多い。あるいは阿修羅のきついところでは、軍人や、あるいは武士、こうした戦をやったような者、こういう者いまだに目覚めていない者がいる世界がある。そこは、戦場であっていつまでも戦争をしておる。また、有名な色情地獄、これは言うまでもないであろう。そういうところがある。また、孤独地獄というて、独りぽっつんとおる者もおる。あるいは、動物地獄と言って、体が動物のようになるところもある。まあ、それ以外にも、もちろんいくつか地獄はある。餓鬼地獄というのもある。おなかが空いて、食べ物が食べたくて、もうどうしようもないというような地獄だ。飢え死になどした人間がよく行くところだ。ま、それ以外にも、妖怪の世界や悪魔の世界、わけのわからん百鬼夜行の世界があちらにも、こちらにも、たくさんあることはある。




まあ、そういう世界を見てきて、これがまあ人間かと思うが、しかしよくよく見てみると、地上にいる人間にも、そうした気配のようなものがすでにある。これは、事実だ。地獄の霊であっても、生きていたときになるほどなと思わせるような、そうした気配はやはりある。似ているのだ。地上の人間であったときには、魂の一部しか出ていなかったのでよくわからなかったが、それが地獄に行ってはっきりと本性(ほんしょう)が出る。まさしく本性が出るということになる。それゆえに、悪霊とならんためには、本性をよくしなければならない。本性というものが、邪悪なもので満ちていたら、それはますます悪くなってくる。ますます悪くなる。本性は清く美しいものであったならば、地上にいたときにはそれほど輝かなくとも、地上を去った世界では、きわめて美しく光り輝いた存在になることもできる。

まあ、なんだかんだと言ってはいるが、けっきょくのところ心が悪い者は、悪霊になるということだと、わしは思う。罪を犯した者も、と言ってもよいであろうが、罪を犯す前には、心が十分に悪いはず。だから、地獄に行っておる者は、心が悪くて罪を犯して地獄へ行った者と、罪は犯してはおらぬが心が悪くてけっきょく地獄へ行った者と、その二種類があることになる。

外面的な罪だけを犯していないから、自分はだいじょうぶだと思っても、そうではない。本性というのが、きわめて大事じゃ。その本性が残忍であるか、その本性が邪悪であるか、そうしたものがいけないというのだ。人間であって、そういう本性を持つということ自体が、まあ神仏の子であるということを否定していることになる。それゆえに、そうした苦しい世界に行くことになる、ということだ。




そこで、まあこの本は主として悪霊撃退法じゃから、自分が悪霊になるかならんかは問題外であろう。

そして、まあ先ほどは、「自分が悪霊だったら、自分をぶっ叩け」と言う方もいらしたようであるが、わしは悪霊撃退法というのは、あくまでも自分にかかってくる悪霊をどうやって撃退すればよいかと、こういう意味だと思うので、そういう話をしたいと思う。

まあ、第一は、悪霊はどういう人に憑きにくいかを、よく知っておくことが大事だ。どういう人に憑きにくいかというと、まず明るい人には憑きにくい。これは、原則だ。まあ、明るい人には憑きにくい。もちろん、これも表面だけの明るさではいけない。表面だけの明るさではなくて、やはり本当に根っから明るいという、明るさが大事だ。あるいは、別な意味で言うならば、人生の悩み事がなくて明るいというのがいちばんだ。悩み事を抱えていて、努めて明るく振舞うということもあるが、それは一時しのぎであって、本性のほうは悩みそのものであることがある。したがって、まず根っから明るくなるということが大事だ。明るくなるためには、不安や心配事を吹き飛ばしてしまうことが大事だ。不安や心配事を吹き飛ばしてしまうためには、方法は二つだ。一つは、自分自身を強く信頼するということ、もう一つは、神、仏、あるいはそれ以外のものたちが、自分を必ずよい方向に導いてくれると深く信ずることだと思う。まあ、この二つだ。あー、明るいことだな。

これ以外にあるかということだが、優しいことも一つだと、わしは思う。優しく生きている人、つねに他の人によかれと思って生きている人、これにも憑きにくいであろう。まあ、ただ優しすぎるがゆえに、悪霊たちがおねだりをしてくる人もないとは言えぬから、これは一概には言えないけれども、ただ優しさというものは悪霊の対極にあるものであることは事実。そうした心の状態でいると憑きにくいということはあるだろう。

まあ、これ以外で言うとするならば、そうだなあ、心が穏やかな人、これにも悪霊は憑きにくい。喜怒哀楽が激しすぎる人はあぶない。すぐ怒る人、すぐに大はしゃぎをする人、すぐなく人、すぐに苦しがったりする人、まあこうした人は、悪霊感知能力が優れていると言ってよいだろう。すぐかかってくるタイプだ。だから、やっぱり心が穏やかで揺れないということが大事です。

それは、私は思うんだが、努力すれば可能ではあると。まあ、努力をすればできんことは何もない。それは、大人物になろうと努力することと同じであると言ってもよい。まあ、わしのように大人物になることじゃ。わしのように大人物になれば、心が揺れることはない。まあ、このように魂の器を大きくすることじゃ。一人で二人力、三人力、五人力、十人力になっていっけば揺れることは少ない。これを不動心とも言う。




まあ、それ以外であえて言うとするならば、やっぱりトータルで言うならば、マイナスの思いを持たぬということだろう。マイナスの思いというのは、まあこれはもう、耳にイカができるほど聞いておるじゃろうが、タコかの、イカか知らんが、それぐらい聞いておるじゃろうが、まあ「愚痴を言うてはいかん」と言われておるじゃろう。まあ、愚痴は、しかし言う人に聞いてみると、言いたくて言っておるのではない。「言わされるのだ。あるいは言わざるをえんのじゃ」ということになるだろう。

まあ、愚痴というのは、言ってすっきりするという人もおるから、まあそれは悪(あ)しとはしないが、「人がいないところで愚痴を言うてみろ」と、まあ言ってみたい。ところが、人がいないところで愚痴を言ったところで、ぜんぜん愚痴の効果がないんじゃ。愚痴は、愚痴を人前で言って、まわりの人になぐさめてほしくて言うわけだ。だから、まわりの人に愛してほしくて、まあ愚痴を言うわけだ。

まあ、だから愚痴を言わないでも、もっとストレートな表現もあるじゃろう。「私を愛して」とかね、「ウチをかわいがって」とかね、うーん「おれを許してくれるか」とか、まあいろいろあるだろう。まあ、そういうふうに愚痴にならないような表現を心がけるということも大事だろう。

まあ妬みというものも、よく言われるなあ。これは、妬みはとくにご婦人に多いようだ。あー、釈迦は昔、「女に生まれて悟るはむつかし」とよく言っておった。わしは、そんな男女差別するつもりはぜんぜんないが、お釈迦様がいっておったことは、厳然たる事実じゃ。それはなぜかというが、女は恨み深い。とにかくしつこい。よくよく恨む。これは悟れぬ。仏陀は匙(さじ)を投げたわけじゃ。

その仏陀の投げた匙を、出口王仁三郎先生が拾うてやろう。さて、その匙を拾うて、わしが何をなめたいかというとじゃが、恨み深いということは、まあ裏を返せば愛情深いということでもある。愛情深いがゆえに、その愛情が裏切られると、恨み深く出るわけだ。したがって、恨み深い人は、その愛情深い性格の裏返しであるのだから、愛情のはけ口が自分のものでなくなることを、悔しく思うのだ。

そうならば、話は簡単だ。八方美人型にすればよい。そうすれば、恨みは減っていくであろう。あっちにも、こっちにも種をまくのと同じじゃ。畑いっぱいに種をまけば、どれかが実を結ぶのだ。それを一箇所にまいて、それが石の上に落ちただとか、石畳に落ちただとか愚痴を言っても始まらん。種をいっぱいまくことだ。

一人の男性に捨てられて、恨みがましく化けて出るかわりに、その愛をもっと分散させることだ。あるいは小出しにすることだ。女性というのは、もうすべて全身全霊でいくか、全身全霊で逃げるか、どちらかになることが多くて、どうもいけない。もっと、小出しにするということも知恵だ。愛を小出しにする。あるいは、複数に出す。いろいろなことでやるのじゃ。

まあ、株なんかでもそうだろう。一つの株だけ買っておけば、上がり下がりが激しくて、どうしようもない。いくつかに投資をして、そしてその危険を分散するんだろう。同じようなところもある。亭主だけ愛していて問題があると思えば・・・・・。まあこれは、この続きを言うと問題があるかもしれぬが、まあそのぐらいに気持ちで、多少押さえ気味に愛するということも大事だ。子供だけを愛して問題がある場合もあるだろう。まあ、押さえ気味にやっておくことだ。

そして、押さえ気味にやって、余った愛情を違ったかたちで、まあ世の中のために使って行くことだ。それが、私は大事だと思う。そうだな、ほかにまあ言っておきたいこととしては、うーん、まあ悪口をよく言う人というのもあるだろう。まあ、ただ口は悪いが心は綺麗という人もいると信じている人も、たくさんいることはいる。これも事実だ。口が悪い人というのは、あまり隠すところはないことも事実で、相対的にそんなに悪くはないかもしれない。ただ、その口の悪さが他の人を苦しめるところまでいけば、少し問題だろう。その口の悪さを、多少慎む必要があるだろう。まあ、言葉でいつも失敗しているならば、できるだけ言葉数を減らすところから始めるがよい。減らすとよいことが起きてくるだろう。「賢くなった」と、それだけで言われるだろう。




まあ、これ以外にもいろいろあるだろう。自己顕示欲(じこけんじよく)だ、なんだといっぱいあるだろう。まあ、自己顕示欲のない人間はいないが、あまりにも激しすぎると他の人間の嫉妬心を刺激しすぎて、けっきょく墓穴を掘ることになる。生きている人間も、念が強いので、念が集中してくるとやられてしまうことになる。わしのように、あまり力がありすぎると、国家から嫉妬されてしもうた。そんなこともある。一宗教家なのに、あまりにも力が大きすぎて、国家のほうが転覆させられるのではないかと思っておそれた。それで、たかが出口王仁三郎一人相手に、警官隊何千人動員して、そして大本を攻撃するというようなことを、そんなばかなことをした。

まあ、そのときに動員された警官は、おおかた、みな地獄へ行ったじゃろう。また、「大本を攻撃せよ」と言った政治団体も、おそらくほとんどが地獄行きじゃろう。まあかわいそうなことじゃ。神理に刃向かい、神に刃向かうということは、恐ろしいことじゃということを知らねばならん。まあ、わしはそう思う。

だから、まあ真実の教えに刃向かうというのは、怖いことだ。いちばん地獄に堕ちたくば、正法神理(しょうほうしんり)とかいうものに対して反乱を起こせばよい。これらを攻撃し、執拗(しつよう)に弾圧すればよい。もう、残らず地獄へ行くこと必定じゃ。生きているときに、その反動がなければないほど、あの世で堕ちたときは、激しいぞ、それは。底の底まで、ドーンとわしは行くと思うとる。まあ、だからよい人生を送り、よいあの世を迎えたいと思うならば、真実の神仏の教えに対しては、敬意を十分に払うことだ。

何が悪いと言っても、やはりあとでいちばん恥ずかしいことは、まあたとえばイエス・キリストで言うならば、イエス・キリストに荊(いばら)の冠をかぶせた男、つばきをかけた男、ムチで打った男、槍でついた男、こうした男は、もうどこに居る場所があるか。もう、居場所がないと思わねばならない。生きて居場所なく、死んで居場所なしだ。こうした者たちは、もう逃げ隠れしないといられない。十億人のキリスト教徒たちが追い回しておるのだから、たいへんなことになる。こんな割の合わないことはない。

盗みをしようが、強盗をしようが、殺人をしようが、何をしようが、こんなに重い罪にはならない。救世主、あるいはそれに続くような人などを侮辱したり、あるいは鞭打ったり、迫害したりした罪は重い。これは、もう逃れることができない。天地すべての空間から逃れることはできんというのじゃ。これはたいへんなことだ。

また、思想家でもそうだ。神仏を冒涜した思想家は、辛い辛い目におうておる。まあ、生きているときにも、狂人のようになったあのニーチェとかいう哲学者も同じじゃ。神を殺したつもりで自分が殺されてしもうた。そして、地獄の深い所に行った。このニーチェとかいう者の思想を受け継いで、超人国家をつくろうとしたあのヒットラーとかいうのも同じく堕ちてしもうた。まあ、そういうこともあるわけだ。

まあ、日本の政治家はみな堕ちたかと言えば、必ずしもそうではない。堕ちたものもおり、堕ちていないのもおる、いろいろな者がおるということだ。まあ、戦争というようなことを言えば、先に亡くなられた天皇陛下はどうなったのか。天皇陛下のおかげで、戦争が起きたから、心配しておる者も多いじゃろう。まあ、安心するがよい。地獄には堕ちておらん。天界に還っておることは事実。まあ、天皇家にまつわる霊域というのがあって、そこに歴代の天皇はほとんど集まっておる。悪いことをしなかった天皇はそこに集まっておる。まあ、そうしたところにおられるということだ。まあ、明治天皇などと同じようなところに、だいたい還られたようだ。




さて、何を言いたいかというと、悪霊の撃退法だた。あー、すなわち、悪霊の撃退法は、悪霊と反対の心の状態で生きるということが、いちばん大事じゃということをわしは言いたかったわけじゃ。まあ、そのさいには、この世的にも十分気をつけて、あまり悪霊を刺激しないことも大事じゃ。いくら悪霊でも、心があり、力はあるのだから、それを刺激しすぎなたら身が保たん。だから、悪霊は避けるにこしたことはない。あまり、悪霊と闘いばかりをしようとせず、悪霊撃退法などと大きな事を言わずに、お引取り願うという気持ちでいたほうがよい。「撃退するぞ」と言うと向こうも、「何を言うか、こしゃくな」と言うて向かってくるから、お引き取り願えばいい。そういうふうに思うぐらいで、ちょうどよいだろう。まあ、なにしろ、あまり縁があって、幸福になることはけっしてない方々であるから、あまり縁をつくらないということが大事なことであると思う。

そのためには、わしは思うのだが、やはり一生涯を貫く生き方として、人を害さない生き方というのが、大事だろうと思う。盗人(ぬすっと)にも三分(ぶ)の理(り)といい、一寸(すん)の虫にも五分(ぶ)の魂というが、やはり悪人と言われる者、悪霊と言われるものにも、それなりの理はある。彼らにも理はあることは認めて、あまりにも彼らに挑戦するような考え方はせぬがよいと思う。

地味に、なるべく静かに、遠くまで旅をすることだ。静かに他の者を刺激しないで歩んでいく旅人は、遠くまで行くことができる。しかし、まあ三度笠(さんどがさ)のような格好をしたり、また、なんというかのう、太鼓を叩き、笛を吹き、チャラチャラしながら歩いておれば、人が寄ってきてだんだん前へは行けんようになる。そうしたものだ。

だから、静かに他の者をあまり刺激しないように、先へ先へと行くことが大事じゃ。どうかあまり悪霊を刺激せぬように、静かに静かにいつの間にか先までいっておったというかたちが、わしはいちばんよいと思う。悪霊と闘っておるうちに、悪霊になることもよくある。ミイラ取りがミイラになるという。まあいろいろな教団で、除霊だ悪霊払いだやっておるが、やっているうちにそれらに入られるということもよくある。相手にしないのがいちばん。そして自分たちのやりたいことを、どんどんどんどんと進めて行くことだ。それに勝る幸福はないと思うぞ。




まあ、今日はいろいろ言った。まあ、目新しいことはあまり言わなかったかもしれぬが、悪霊から逃げるいちばんの方法は、出口王仁三郎の霊示をしっかりと読むことじゃ。それを読んで、心に刻み、そして日々私の力を借りて生きていくことだ。

まあ、最後に言っておくならば、悪霊の対策にユーモアも大事だと言っておこう。つねにユーモアに満ちて、面白く生きていく人には、悪霊は縁がない。悪霊をも、笑わすぐらいのユーモアが必要じゃと、わしは思う。それも忘れんように。悪霊と闘っておる者は、あまりにも深刻すぎる。あまりにも、神経質すぎる。ユーモアをもって闘うもまたよし。そういう心境が大事じゃと、わしは思う。