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Last update 2008年03月15日

記憶  著者:暖房



 部屋の隅で電話はしばらく鳴り続いた。俺は薄っすらと感じていく冷えた朝の空気に苛立ちながらそれを無視した。やがて電話は止まり、その瞬間に俺は突如思い出して後悔した。それはきっと彼女からのモーニングコールに違いなかったからだ。だが俺の頭の中はまだ混乱していたので、続いてメッセージを吹き込む彼女の声を聴きながらもこのまま電話には出ない方がいいと判断したのだった。何を話そうとしてもきっとうまく喋れないに違いない。それ程に昨夜から今迄が繋がっていなかった。『おはよう、今日も元気出して頑張ってね』そんな彼女の明るい声を頭に右手を押し付けたまま聴いていた。そしてメッセージが終わった後、仕方無く起きる為にまず被っている布団を蹴飛ばして上半身を空気に晒した。昨夜は彼女と呑み過ぎたかも知れない。寒いが眠いぼーっとした後味の朝はこうして始まった。
 何とか起きて顔を洗いに洗面所へ行ってみると鏡の中の寝癖は酷かった。目も腫れぼったくてとても人前に出せるような状態ではなかった。だがその日は大切な朝の会議がある日だったから、余計な事は考えずにとにかく急いで顔を洗い歯を磨いた。歯車のどんな部位が寝惚けていても機械は止まれない。だから俺は歯車のひとつとして磨きをかけた。やがてネクタイを締める頃には俺はごく普通のサラリーマンになっていて、歯車としてはまあまあ合格だと言える程には準備が整った。尤も今朝の議題が予め決められていたにも拘らずそれを思い出せない程に眠気は深かったが、こういう時は動きながら考えるしか方法は無かった。そうして部屋を飛び出しながら必死で議題が何だったのかを考えた。
 慣れた通勤の道程というのは便利なもので、何かを考えながらでも辿って行ける。ぎりぎりの朝にぎりぎりの思考を繰り返している内に俺はやっと議題が『接客マナーについて』である事を思い出した。後は通勤電車の中で自分の言うべき意見を考えながら揉みくちゃに揺られていれば良かった。自力では真っ直ぐ立ってもいられない車内ではいつでも体重を誰かに持って行かれる揺れが絶えなかったが、それに耐えるのは朝の仕事の内だった。歯車は何処に居ても歯車の扱いだという事だ。
 箱から放り出されるように電車を降ろされ、そのままの勢いで改札を抜けた。大きな出勤の群れに呑まれながら程無く会社に着くと、誰の顔にも朝の会議の緊張感が満ちていた。「おはようございます」その場の皆にそう声を掛けて俺は鞄を机の上に置き会議が始まるのを待った。だが会議では準備も虚しくスポットライトが当たる事さえ無かった。平穏無事に過ぎて行く時間の中で俺は正直ほっとした。それはまるで高校の頃の授業に似ていた。名指しされなければこれ程退屈な時間も無い。こうして少なくとも給料の内の三十分程度は出席によって単位が取れたという訳だった。
 やがて会議が終わり、俺は今日一日の営業先ルートを頭の中で繰返し思い出していたが、何かしらが思い出せなかった。そんなに大きな商談では無いが会わなくてはならない相手を一社どうしても思い出せなかった。慌ててシステム手帳を開き今日のルートを書いたメモを読み返したが、やはり書かれていない。それは営業マンとしては失格と言っていい程に間の抜けた話だった。御蔭で相手から来ないという苦情の電話がくる迄は相手が誰なのかさえ分からない状況になってしまった。しかし営業は動き始めれば止まれない。止む無く俺は鞄を持って会社を出て社の車が置いてある駐車場へと急いだ。「おはよう」という声がしたと思い振り返るとそこには彼女が灰色のOL姿でシュレッダーの塵の袋を両手に提げた恰好で立っていた。「うん、じゃあ」と素っ気無く返事をすると俺は再び前進した。そう言えば今夜は彼女とレストランで食事をする予定だった。まさか思い出せない取引先が後になってその邪魔にならなければいいのだが、などと自分に都合良く考えながら俺は車に乗り込みエンジンをかけた。
 午前中の出足はまあまあだった。取れる予定だった見積りの相手からは仕事を取れたし、約束の相手に会えないような事態には陥らなかった。おまけに話のついでに見積りを二件も頼まれて正直な所このまま家に帰っても良い程に順調な滑り出しだった。だが気に掛かっている思い出せない一社が余計にプレッシャーとなってしまい、却って不安は大きくなった。突然苦情の電話が掛かってくる事を半ば恐怖し半ば期待しながら懸命に考えたのだが、どうしても思い出せなかった。
 午後になっても記憶は戻らなかった。俺はコンビニの駐車場に置いた車の中で遅い昼食のサンドイッチを食べてカフェオレを飲みながら必死で考えた。まだ販売の話じゃあない、見積りの話までもいっていない、何かこちらから提案しなくてはならない大事な取引先があった筈、とそこまでは思い出せた。だが名前が、社名も出てこない。このまま一服すればもう午後からは目一杯営業が入っていたから俺は相当に焦った。歯車の俺としては断固仕事上がりの楽しみのデートの邪魔はさせたくなかった。しかし今思い出せば無理にルートに捩じ込んでどうにかできるというのにどうしても思い出せないでいた。香山、鈴木、山浦、田所、いや違う、おかしい、何という名前だったかすら思い出せない。いや、つい顔で営業をする事もある。きっと何処かでついでに傍の誰かに何かの話を持ち掛けた時にすっと聞いたので思い出せないのだろう。だが顔は? いや、そんな筈は無い、顔を忘れるなんてそうそう無い事だ。こいつには弱った、名前どころか顔が浮かびもしないなんて営業を始めて何年も経つがちょっとあり得なかった。俺は顔の見えない誰かの事を思い出そうとしたが、そうすればする程想像上の輪郭ごと消えていくような気もした。
 午後からの営業はもうその分からない誰かが気になって仕方無く半分上の空の状態だった。移動の間も時々落ち着いて昨日あった事を思い出してみたが、話したシーンすら思い出せない。せめて先方から電話でもくれば助かるのだが何度携帯電話を確認してもそれさえも無かった。やがて午後の得意先回りも終え、帰社するだけになった。いつもならば開放感で満ちる仕事終わりの実感が今日は湧かず、むしろいらいらとした気持ちが湧いてきた。埋まるべき穴がぽっかりと開いたせいで何の充実感も起きなかった。と、そこへいつものように彼女からメールが届いた。俺は車を脇へ寄せ携帯を開いて中身を確認した。『時間、間に合う?』そうだった、約束の時間まであと少し、何とか間に合いそうだ。俺は急いで返信した。『平気、間に合うと思う』それから車を車列へ合流させて帰社を急いだ。
 やっと車が駐車場へ着くと、彼女はもう仕事を終え私服姿で駐車場の出入り口で待っていた。今日は紺色っぽいスーツ姿だった。俺は車を空いている箇所に停めると慌てて飛び降り彼女の元へ走った。
「ごめん、時間ぎりぎりだね、今報告書上げてくるから待ってて」
 そう言って社屋へ行こうとすると彼女はそれを引き止めるように大きく声を掛けてきた。
「今日だよ、パパに会って貰うの。遅れるなら電話入れなくっちゃ。どうする?」
 その時になってやっと俺の中で記憶が繋がった。そうだった、今日は初めて彼女の父に会って交際の許可を貰う日だった。その為の外食だった。昨夜はその話の後に随分と呑み過ぎたのだ。歯車に慣れてしまった俺は自分達の大切な話をすっかり忘れていたのだ。道理で顔も名前も思い出せない取引先がいる訳だった。彼女は少し怒ったような顔で俺を見詰めていた。それはそうだ、今日という日だったのに俺は余りにも素っ気無さ過ぎたのだから。仕方なく俺は彼女の右手を掴んだが、何と言っていいか咄嗟には分からなかった。そうして反省した俺は声を出せないまま、ただ彼女の手首を握り締めた。




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