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Last update 2008年03月15日

夢に抱かれるヴィーナス  著者:AR1


 しばらく沈黙があって、わたしの声の余韻だけが二人の間を漂った。彼女の右手はグラスを水平に携え、その中身はスーツ姿の男の顔面目掛けて投げ打たれていた。先刻、彼女をナンパしたばっかりに遭遇してしまった悲劇に二十代半ばの美男子はわななくが、人目のあるバーの店内ではどうにもしようがなかった。
「帰って」
 それが、グラスの口を向けられる直前の言葉。むせ返るアルコールの刺激臭――不幸にも、男は日本人の定説と化した「酒にあまり強くない」体質だった――に酔いつつも、脳天に上った血の衝動を抱えて退場するしかなかった。椅子に投げられているカバンを引ったくり、キザな彼は扉の蝶番をねじ切らんばかりの勢いで、小さな怒号を交えつつわたしの前から消えた。
 ゆっくりと腰を落ち着けようとした時、最近に位置しているバーテンダーの顔が目に入る。特に驚くでもなく、飄々と「こういう場所にはよくあることですよ」と諭しているようにも見えた。途端、わたしは先刻の熱が急速に萎縮し、このバーの主に申し訳なさを感じた。
「ごめんなさい。お酒はこういう使い方をするもんじゃないのにね」

 少し悪びれた様子で、彼女はグラスを置く。カウンター越しの懺悔は、モップを用意していたバーテンダーの男性に伝わる。彼は苦笑しつつも、次からは勘弁してくださいよ、と釘を刺しておくのを忘れなかった。
「待ち人来たらず、ですか?」
 床に溜まった酒にモップをかけつつ、男は訊ねる。バーテンダーはまだ若く、女子大生である彼女とさして年齢は違わないように見受けられる。若いわりに落ち着きのある物腰で、きっと常連客の間では人気があるに違いない。彼が抜けた店は売り上げが何パーセントダウンするのだろう?、と予想してみたくなる。
「ええ」
 肯定しつつ、自らの冗談じみた続きのセリフにシニカルな笑みを浮かべているように見えた。
「アポなしですけど」
 ほう、とバーテンダーはモップをかける手を止めて、つい好奇の眼差しを向ける。「それは変わったご趣味で」
 そこに皮肉の響きはない。でしょ?、と彼女も軽い返事。目的地のない航海、それは本末転倒に値する。大抵の人々は鼻で笑って、蹴散らして、終わり。
「こんなことを言って笑わない男性は、あなたが初めてですよ」
 彼女がバーテンダーに小さな秘密を明かした時、ちょうどモップがぶちまけられた液体をすすり終わったところだった。カウンターの中に戻ると、彼女の手元からグラスを回収し、ひと時の雑談から仕事の顔に戻る。細い輪郭に、柔和な印象を湛えたまま。
「さて、いかがいたしましょう?」と切り出してから、続ける。「小さい店なので、お酒しか出せるものはありませんが」
「知っていますよ。初めてではないですから」
「三度目――いや、今日で四度目?」
「へえ……客商売をやってる方は、やっぱり記憶力命なんですかね?」
「なにぶん、小さいお店ですので」
 バーテンダーは笑う。L字型カウンターに8席程度で、都心であることを鑑みても小さい方だろう。彼女は一週間に一度――バーテンダーの記憶によれば日曜日のゴールデン・タイム頃――顔を出している。彼女は若く、またかなりの美貌を持ち、友人を連れてくるでもなく、携帯電話で談笑するでもなく、黙ってブランデーを嚥下して頬をほんのり赤くしている様は、情熱的なクール・ビューティという相反する印象を植え付けさせるには十分だった。
「ところで、ワインってスピリッツなんですか?」
「はい?」
 思わず目を剥く。失態であることを反省し、バーテンダーは改めて回答する。
「いえ、全然違うものですよ。スピリッツは蒸留酒一般の総称ですし、ワインにそういった工程はありません」
 バーテンダーは更に、ブランデーの製法の一部はワインとほぼ同じです、と付け加えた。そうですよねぇ、彼女の生返事。それがバーテンダーを困惑に誘う。
「どうかされたので?」
「いえ、昔に付き合っていた彼が時々言ってたんです。『ワインを飲みたくても、1969年以降のスピリッツは腑抜けみたいなもんなんだよ』って。そう言うと、いつも自分だけ笑ってました。自分だけが知ってる冗談みたいに。あたしにはなんのことか、さっぱり分からなかったけど」
 謎かけに等しいジョークに顔つきを少し険しくしたバーテンダーの反応を見て、彼女はこの場所で解を見つけられそうにないことを悟る。
「過去問の答えを今更ながら知りたくなっただけです。気にしないでください」
 そうですか、とバーテンダーは清流のような笑みを浮かべ、疑問を柳のように受け流した。
「あの、さっきと同じのをもらえますか?」
 それは、先程のナンパ師にぶちまけてやった酒のことであり、この店で唯一頼んでいる酒のことだった。琥珀色の液体に満たされたふくよかな形状のボトルには、もう見慣れた「E&J」の文字。新しく取り出したグラスに傾けられるボトルの口から、宝石のような流体が零れ落ちる。なにも足し引きすることなく、ストレートで出すのが彼女の好みであるらしかった。
「ありがとう」
 ゆっくりとグラスを持ち上げて眼前の高さで止めると、ブランデー越しのひずんだ世界を眺める。それも彼女の癖であることを、バーテンダーは観察によって心得ていた。その間の彼女は物憂げで、双眸には現実など映っていないのだと察したのは、三度目の来訪の時だった。
「あなたはその瞳で、男を何度も振っていますね?」
 隠すほどのことでもないので、彼女は頷く。この店で男を振ったのは二回目。そのどちらとも、同じ質の目をしていたのだろう。
「男にはよく誘われるんですよ。そのたびに、あたしが呼び出して――」
「で、酒をぶちまける、と」
 アレは極端な例ですけど、と彼女は苦笑する。毎回のように過激な武力行使をしている訳ではないようだ。
「そうすると、大抵の男は諦めますよ。二度と寄っても来ない」
「例に漏れたのは何人ほど?」
「一人です。さっきの……あたしには分からないジョークを言う人です。去年、別れましたけど」
 と、思い至ることがある。バーテンダーの脳裏に浮かんだ疑問は、彼女の迂遠な振り方に対するものだった。気に入らなければ、わざわざバーに誘うまでもなく、即決で宣告してしまえば済むことだ。
「まるで儀式のようですね」
 彼女は目を細めて、ややあって首をかしげる。無言の質疑を投げかけられて、むしろ驚いたのはバーテンダーの方だった。意識的にやっていることでないとしたら、この女性は病んでいるのではないだろうか? それも、良くない方向に。
「もしくは、試験のようにも受け取れます。なんらかのハードルを設けてあって、それをクリアーした者のみが蜜月を手にする……っと、すみません。口が過ぎましたね」
 以降は自戒を心がけよう――そう決めたのは、ブランデーに一口触れた途端、動きを止めてしまった彼女に対する償い。やれやれ、これで来週からお得意様候補が消えるかな。
 心中で自嘲をこぼしていた時、入り口の扉が開いた。極力鳴りを抑えた、ささやかなベルの音ともに現れたのは、見た目にも静かな印象の若い男性だった。年齢は……カウンターに座る彼女と同じくらいか。淡いベージュのロングコートが全ての衣服を覆い隠し、またコート自体も地味なデザインのため、完全に没個性に埋没してしまっている。顔立ちはお世辞にも整っているとは言いがたい。
 お洒落という単語の片鱗も窺えない井出達の青年は、彼女の後ろを通過し、壁際の席に腰を下ろす。注文をするサインを逃さぬよう、グラスを洗剤で洗いながら横目で覗いた。青年はどうやら、メニューよりも先客の彼女に注意がいっているらしく、なぜか懐に手を差し入れている。その掌が握り締めているものは……
 直感が直球の嫌悪を引き起こす。そのヴィジョンは、瞬間的に想定する限り、もっとも起こってほしくはないこと。グラスを流し台に置いて諸手に付着した泡を洗い流すと、青年の方へとさりげなく移動する。

 なにかご注文はありますか? ――声をかけられて、初めて自分の前にバーテンダーがいることに気づいた青年は、持ち前の小心を発揮しておどおどしそうになるが、息を大きく一つ呑み、暴れ出す心臓に鼓舞されるように、見ず知らずのバーテンダーに切り出した。
「あ、あの、頼みたいことがあるんですが……」

 よくある光景だ――映画では女性の気を引き、宵越しの金をひけらかすための常套句のように使われるシーンの断片。なにか適当な酒を用意させ、それを女性に渡す。なんて陳腐な誘い文句。
 だが、今回は少々趣向の異なるものを渡されてしまった。その感触は薄っぺらく、中身が数枚程度の紙であることは容易に想像が付いた。
 お札? いや、違うな――女性の男性に対するある種の性癖を知った上で、これはお金の類ではない。もしそうだとしたら、壁際の青年には残念なことだが、慰めの酒を一杯おごらせていただくことになるやもしれない。
「お客様、あちらのお客様からです」
 と言い置いて、なんの変哲もない封筒を差し出した。彼女はキョトンとして、現実に焦点を合わせるのに時間がかかってしまった。バーテンダーの掌の動きに導かれて首を左に捻ると、そこには緊張しながらも静かに一礼する、冴えない男の姿があった。
「あなたはずっと、そうやって迷い続けるつもりなんですか? 何人もの男を振って……なにも得られない」
 バーテンダーの問いかけに返事はなく、しかしそれがきっかけなのは疑いようがない――女性は彼について説明を始める。
「彼は以前、別の店で振ったんです。凄くうな垂れて、とぼとぼと帰って行ったのを覚えてます。けど……彼にだけは、背中に向かって一声かけたんです。本当に好きなら、もうちょっと洒落たことできなかったの?、って。ムチャクチャだけど」
 自分に対する冷淡。茶番劇だと分かっている。でも、青年は諦めずにアタックをかけてきた――服装にまったく気を遣えていないところが抜けているが、精一杯の演出であることは見て取れる。
「前に付き合っていた彼とも、こんな感じで巡り合いました」
 それが、彼女にとっての門。
「こんな風に振舞っていれば、いつか巡り合えるかな?、って」
「だが、危険な賭けです。夢を見るにはあまりにも細い綱渡りだと思いますよ?」
「そこからチェックアウトできるのなら、とっくにやっていますよ」
 艶然とした、しかし悲しい音色。喉の奥から搾り出される声は、密かに「でも、とっても辛いことよ」と主張しているような気がした。
「ありがとう、バーテンダーさん。ご馳走様でした」
 そう言って、彼女はバーテンダーの指の間から封筒を引き抜く。それは何の飾りも文字もない、ただの真っ白い封筒だった。




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