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匿名ユーザー
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開店までの僅かな時間は俺が自由にピアノをできる時間だ。といっても、アレンジを決めるための時間であって、好き勝手に弾いていい時間ではないが。
「早いな、シン」
「アスランさんこそ、編曲中ですか?」
「アスランさんこそ、編曲中ですか?」
大体こういうラウンジで流れる曲というのは決まっているから、アレンジを変えたり、クラシックから持ってきたりしなくてはならない。準備をしないと一ヶ月もすれば曲が尽きてしまうのだ。
「まあな。今日はどんなで攻めようか」
「俺に聞くんですか。答えられないの知ってて」
「大丈夫、元から当てにしてない。そうだな、今日は雨降りだし、雨関連で行くか」
「俺に聞くんですか。答えられないの知ってて」
「大丈夫、元から当てにしてない。そうだな、今日は雨降りだし、雨関連で行くか」
そうと決まれば、雨に関連した曲をピックアップする。手持ちの楽譜では曲数が足りないから、持っているノートパソコンから楽譜をダウンロードして時間を計算する。
雨だれ。雨の歌。雨の庭。田園。雨に歌えば。このあたりは超有名だろう。
雨に濡れた朝。悲しき雨音。Fire and Rain。Rainy Days and Mondays。他にもポピュラーやニューミュージック、邦楽から持ってきて組み合わせるのもいいかもしれない。
雨に濡れた朝。悲しき雨音。Fire and Rain。Rainy Days and Mondays。他にもポピュラーやニューミュージック、邦楽から持ってきて組み合わせるのもいいかもしれない。
「これ全部今日の分ですか?」
「あー、弾いたことない曲もあるけどね」
「あー、弾いたことない曲もあるけどね」
こういう時、印刷しないで済む電子スコアは便利だ。俺はほとんどと言ってソフトペダルを使わないから、左足でページ操作を行っている。
とは言え、いくら楽譜があっても、正直、初見で弾くのは緊張するから、この午前中の時間に一通り目を通しておきたい。シンが準備のために厨房の奥へ消えたのを見計らって、ざっと楽譜を洗ってみた。
とは言え、いくら楽譜があっても、正直、初見で弾くのは緊張するから、この午前中の時間に一通り目を通しておきたい。シンが準備のために厨房の奥へ消えたのを見計らって、ざっと楽譜を洗ってみた。
その日は妙な邪魔もなく、準備したとおりに一日を追えることができ、ほっと一息つく。途中で雨が上がったらどうしようかと、実はひやひやしていたのだ。
「お疲れ様」
「これ、エイブスさんの実験作だって」
「これ、エイブスさんの実験作だって」
置かれた新作カクテルに口をつけて、今日の演奏を振り返る。
途中、曲の順番を失敗したとか、アレンジの粗さが出た曲もあったけれど、どうせ誰も気づかないわけだし、聴いていたとしてもあのシンだ。分かるわけない。
途中、曲の順番を失敗したとか、アレンジの粗さが出た曲もあったけれど、どうせ誰も気づかないわけだし、聴いていたとしてもあのシンだ。分かるわけない。
まじめにやれ!
俺になりにまじめにやっているさ。
アスランはふと、先日の銀髪男を思い出してしまった。
アスランはふと、先日の銀髪男を思い出してしまった。
「あれ、どうかしました?」
タイミングの悪い時に声をかけられたもんだ。
「もしかして、今一?」
「カクテルのことか? ちょっと甘いけど、まあ、女性向けにはいいんじゃないか」
「じゃ、俺、そう言っておきますね」
「悪いな」
「カクテルのことか? ちょっと甘いけど、まあ、女性向けにはいいんじゃないか」
「じゃ、俺、そう言っておきますね」
「悪いな」
そう言って、その日のローテで最後まで残っていた俺とシンがフロアの後片付けを行った。楽譜とパソコンをかばんにつめてエレベータに乗る。走ってきたシンが飛び乗って、88階から一気に2階まで下る。
この身体が一瞬浮く感覚が俺は好きだったけれど、シンは嫌いだといって、歯を食いしばっていた。
この身体が一瞬浮く感覚が俺は好きだったけれど、シンは嫌いだといって、歯を食いしばっていた。
「今日もやたら重そうな鞄だよな、お前」
「だって辞書2冊ですよ? 英語語とドイツ語。この機械翻訳があったり前の時代に第2外国語とか信じられませんよ」
「だって辞書2冊ですよ? 英語語とドイツ語。この機械翻訳があったり前の時代に第2外国語とか信じられませんよ」
シンは大学生で、ミネルバのバイトだ。
その重い荷物が、エレベータが止まった時にずっしり重さを感じるから嫌いだとかなんとか言っていた。
その重い荷物が、エレベータが止まった時にずっしり重さを感じるから嫌いだとかなんとか言っていた。
「しかも明日一限がドイツ語だし!」
「それは大変だな」
「それは大変だな」
かえってすぐにシャワーを浴びて寝ればなんとかなる時間だが、どんなに早く寝ても朝のまどろみは気持ちよくて、起きたくないのはきっと万国共通だろう。
「いいですよね。ミネルバ明日休みだし」
「いや、明日はピアノの調律があるから実は俺は出勤なんだな、これが」
「いや、明日はピアノの調律があるから実は俺は出勤なんだな、これが」
チーン。
地上に降りたエレベータが止まり、お互い手を上げてお疲れと声を掛け合う。シン程ではなくても、俺も明日は通常起きだから、今日は早く寝ようと家路を急いだ。
翌日は店長と俺だけで、調律士の到着を待つことになった。まだ、朝の9時。しかし、約束の時間は9時だから今すぐ現れなければ遅刻ということになる。
正直、俺はこの店長が少し気に入っている。
何よりリアクションが面白くて、どんなに場違いで空気を読めないことを言ってもどこか憎めない。
そんなところを少しうらやましいと思ったりして。
「来ませんね」
と肩をすくめたところで店の電話がなった。
正直、俺はこの店長が少し気に入っている。
何よりリアクションが面白くて、どんなに場違いで空気を読めないことを言ってもどこか憎めない。
そんなところを少しうらやましいと思ったりして。
「来ませんね」
と肩をすくめたところで店の電話がなった。
「えぇ―――っ!?」
ほら来た。この一声が店長の決まり文句で、後はひたすら低姿勢。あまり起こったところも見たこともないし、基本的にいい人なのだと思う。
「アスラン! 昼からになるそうだ」
「えっ、昼?」
「えっ、昼?」
それは・・・いきなり時間ができてしまった。まだ、4時間もある。俺がいくら店長が気に入っているといってもさすがに4時間も何もなく時間を過ごすのは勘弁して欲しい。かも知れない。
それは相手も同じだったようで、そわそわと俺を見ている。
それは相手も同じだったようで、そわそわと俺を見ている。
ああ、いったん帰りたいんだな。
「店には俺がいますから、店長は午後からまた来てくださってもいいですよ」
「そうか! いやあ、アスラン。済まないなあ」
「そうか! いやあ、アスラン。済まないなあ」
と、全くそう思っていないだろう嬉れし顔で言われてもね。
「なんか昼買って来ていただけると・・・」
「お? おう、分かった!」
「お? おう、分かった!」
店長は荷物を抱えるとそそくさと帰ってしまった。俺はまだ朝早い時間の(朝の9時は俺にとってようやく起きたかどうかの時間だ)スカイラウンジに一人残されてしまったわけだ。なんとなく窓際によって、めったに見ることのない朝の街を見下ろした。
安全のために、人が乗り出せるほど窓は開かないが、通気口程度なら窓を開けられる。アスランは地上88階のラウンジの小さな窓を一つ一つ開けていった。途端に空気が流れて、部屋の温度が下がる。
昨日の雨が嘘のように今日は快晴で雲一つない。
見渡せる港と背後の高層ビル群がはっきりと見える。
それなのに、ここには騒音一つ聞こえなかった。風向きのせいだろう、貨物の汽笛も聞こえない。
見渡せる港と背後の高層ビル群がはっきりと見える。
それなのに、ここには騒音一つ聞こえなかった。風向きのせいだろう、貨物の汽笛も聞こえない。
まるで完全防音だな。
誰もいないフロアのグランドピアノが目に入る。
今日調律される予定の漆黒の物体が静かに佇んでいる。
今日調律される予定の漆黒の物体が静かに佇んでいる。
誰も聞いてないと思っているのか?
客を馬鹿にしているのか!
客を馬鹿にしているのか!
「誰も聞いてないよ。俺のピアノなんて」
どうして今頃、思い出してしまったのだろう。
彼がああ言ったのが、確かに自分の音を聞いていた証拠だという事に、今更ながら気がついて苦笑した。
彼がああ言ったのが、確かに自分の音を聞いていた証拠だという事に、今更ながら気がついて苦笑した。
俺は随分と失礼なことをしてしまったんだな。
アスランはフロアを見渡した。
アスランはフロアを見渡した。
「誰もいないし、どうせ今日調整されるのだから、いいか」
蓋を開け、音が響くように目一杯ピアノ天板を上げた。
昨日鍵盤を拭いたばかりの白と黒のコントラストに自分の指どころか顔まで映る。
昨日鍵盤を拭いたばかりの白と黒のコントラストに自分の指どころか顔まで映る。
4時間か・・・。
すっかりご無沙汰な自分でもまだまともに弾ける曲を探す。
「そういえば通しで弾いたことなかったかな」
弾き終わったら11時半、ちょうど昼前。
弦に負荷はかかるし、音は飛びまくるだろうが、その後、調律、整調されるのならかまわないだろう。
弦に負荷はかかるし、音は飛びまくるだろうが、その後、調律、整調されるのならかまわないだろう。
鍵盤に手を乗せて軽く息を吸った。
ハンガリー狂詩曲がEメジャーの一番で幕を開けた。
ハンガリー狂詩曲がEメジャーの一番で幕を開けた。
「爆音だね」
ピタリと止まるハンガリアン・ラプソディ15番。
轟きわたるピアノの音色の空間を切り裂く声。
掃除したばかりの床の上を歩く靴音がコンパクトサイズのグランドピアノの横に来て止まる。
轟きわたるピアノの音色の空間を切り裂く声。
掃除したばかりの床の上を歩く靴音がコンパクトサイズのグランドピアノの横に来て止まる。
「もしかして19番まで全曲弾くつもりだった?」
「お客様。ミネルバは今日定休日で―――!?」
手を掴まれた。
彼のもう一方の手が伸ばした先が蓋だと気がついて、瞬間的に手を引いていた。
彼のもう一方の手が伸ばした先が蓋だと気がついて、瞬間的に手を引いていた。
「この手がそんなに大事?」
「離してくれ」
「離してくれ」
敵わないと思ったんだ。技巧や独創性、表現力全て。
相手は指揮者なのに。
相手は指揮者なのに。
絶対音感なんて俺にはなくて。
「ピアノやらないなら、そんなに気にしなくてもいいんじゃない?」
「関係ないだろう」
「関係ないだろう」
目の前のこいつのように、俺には何もないんだ。
いくらコンクールで賞をとっても、聴く人を感動させられなければ意味がない。
どれだけ練習しようと、努力しようと、届かないものがある。
いくらコンクールで賞をとっても、聴く人を感動させられなければ意味がない。
どれだけ練習しようと、努力しようと、届かないものがある。
「放っておいてくれないか」
この男を見るといやでも当時の自分を思い出す。