※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

目次










(1987年2月19日の霊示)

1.楽しいあの世、早よう知らにゃ損


あー、出口です。私の本も半(なか)ばをすぎて、第5章ということになった。今日は、「七曲がりの丘」という題をつけてみた。まあ、ずいぶん妙(みょう)ちくりんな題じゃのうと、思っとる人も多かろう。まあ、時代がかっとるのう、出口っていう人は。千年ぐらいも前の人じゃろかと言うとる人もおるかもわからん。まあ、そう言わずに、皆さん、私の話を聞いて下さい。

まあ、昔懐かしい母の胸か、祖母の枕元か、どこかは知らんけれども、大昔に、寝物語で聞いたような話をしてやろうと思うとるんじゃ。この話を聞いて、まあ、ゆっくりと、ぐっすりと寝れば、それでいいんじゃ、うん。

さて、私のおるところの世界の話をいろいろとしておるわけじゃけれども、地上の人間にとって興味があるのは、やはり、こちらの風景じゃろう。どんな風景しておって、どんなことがあって、どんな毎日を送っておるのか。これが興味があって、あってしょうがないじゃろう。じゃから、そういうことをなるべく言うてやらねばいかん、と思うとる。

まあ、いろんな偉いお坊さんじゃろかな、いろんな聖人とかが出て、あんたらに、いろんな話をしとるようじゃけれども、まあ、お坊さんとか、聖人さんの話は、どうも抹香臭(まっこうくさ)くてのう。道徳論ばっかりとは言わんけれども、ああしろ、こうしろばっかりの話でのう、この世の人でも、そんな人、おるわいな。あの世へ行ったら、ちょっとピクニックの報告でもせんかいと、言いたくもなるじゃろう。そっちは楽しいのか、楽しくないのか、はっきりせよとね。楽しゅうないなら、行かんぞよとね。楽しいなら、早よう―言え、急いで行くから、と。

楽しいやら、楽しゅうないやらわからんから、皆んな、もうあまり行きとうなくて困っとるんじゃ、ね。楽しいなら楽しいと、はっきり言うてくれりゃあ、それなりに心がけもできてのう。死ぬっていうのは、焼き場に行くっちゅうのは、もうほんと、ピクニックに行くようなもんじゃ。ああ嬉しい、こんなおもしろいところへ行けるんかなー。じゃあ、わしは早よう行かにゃあいかん、ってね。九十、百まで生きようとは思わん。まあ、平均寿命がきたら、早ういかんとな、バスに乗り遅れる。平均寿命を上まわらんように、早ようあの世に行って、ええ思いせねばいかん、と。まあ、こうなるわけじゃ。

じゃから、あの世のことが、ようわからんとこが、地上の人間にとっては、まあ、悩みの種なわけじゃ。あの世って、どんなんじゃろうか。もしかしたら、魂がヒュルヒュルと抜けていったら、あの世の鬼かなんかおって、パクーッと食われてしまうんじゃろか。魂が食われてしもうて、それで終わるんじゃろうか、のー。

あるいは、おどろおどろしい血みどろの幽霊みたいのが、あの世の世界か。そんなところへ行ったら、大変なことになるのう。わしは困ったのう。そんなところで、血みどろの幽霊に追いかけられちゃあ、困るのうって、まあ、そういうふうに思うておるかもしらん。じゃから、あの世の風景というものを、できるだけわかりやすく、できるだけ希望があるような、そういうことを言わねばいかんわけじゃのう。


2.七曲がりの丘の頂上は、七色に輝く神殿


さてわしも、まあ、天女の舞いを言うてみたり、仙人、天狗も新しゅうなっとるぞと、あの世は、研究所も建っとるぞと言うたけれども、今日は、また違うところの話をしようか。まあ、わしが住んどるところの近くにはのう、大きな丘があってのう。うん、これを七曲がりの丘と言うとるんじゃ。まあ、なぜ七曲がりの丘と言うかのう。まあ、これがあんたらには、わかるじゃろうか。

あんたら、まあ、最近はいろいろ言うとるのう。光にもいろんな光があって、黄色じゃの、赤じゃの、白じゃの、緑じゃの、まあ、いろんな光があるとか言うとるけれども、それはのう、まあ、あんたらにわかるように、言うとるんじゃ。そして、プリズムかけとる人がおるじゃとか言うて、プリズムじゃとか言うて、わかったような気になっておる。まあ、プリズムと言うと、小学校のときの理科の実験か何かでやったことがあるんかのう。何か、ガラス玉みたいのに、入ってきた光が、曲がって、そして、七色になるちゅうのを見て、ああ、あんなもんかと言うて、わかったような気になっておるようじゃのう。まあ、プリズムと言わんでも、そうしたもんがあるわけじゃ。

ちょうど、わしが住んどる世界のなかでは、一番上のほうなんじゃけれども、そこでもやはり、多少はそういう仕事が、あってのう。まあ、プリズムとは言わん、わしらはのう。日本神道系の誇りがあるから、そんな外来語は使わん。そこで出てきたのが、七曲がりの丘じゃ。七曲がりの丘というのがあるんじゃ。それはそれは、きれいな丘でのう、もう目も彩(あや)な世界じゃ。そしてまあ、その丘のちょうど上に、それはそれは、きれいなきれいな、御殿(ごてん)があるんじゃのう。その御殿ちゅうのが、そうじゃのう、昔物語でよう聞く、竜宮城の御殿みたいな感じなんじゃが。そうじゃのう、やはり五重の塔のような感じかのう、五重の塔のようで、屋根のてっぺんから、輪っこがいっぱい連なっておって、天に届(とど)いとる感じじゃのう。まあ、七曲がりの丘の上には、こういう大きな建物があるんじゃ。

そうして、その建物の高さはどうじゃろうか、四、五十メートルもあるかのう、大きいぞー。けっこう大きい、四、五十メートルもある建物じゃ。そして、その建物のてっぺんから、大きな出っ張りが出ておるわけじゃけれども、ここにのう、上のほうから、大神様の世界から、光が落ちてくるんじゃ。ここに光が入ってきてのう、この塔でもって、その光を受けておるんじゃ。


3.神殿の天上人は、「国常立之神(くにとこたちのかみ)」


そうして、この光を、まあ、分けとるわけじゃのう、この建物のなかで。それをやっておる人が、おるんじゃ。まあ、わしも最近では、そこでも手伝うとるし、わし以外でものー、ここでやっとるのが、「国常立之神(くにとこたちのかみ)」様というのがおってのう、この神様が偉い神様じゃ。まあ、わしらの世界のほうでは、一番偉い神様のひとりじゃ。

まあ、「丑寅(うしとら)の金神(こんじん)」さんと言われたり、まあ、「天理王之命(てんりおうのみこと)」とか、言うていたときもあるそうじゃぞー。まあ、いろんなことを言うて、天理教のほうへ出てみたり、大本教に出たりして、けっこう千八、九百年代は忙しかったみたいじゃのう、大忙しじゃ。まあ、ちょっと、今、びっくりしておるようじゃ。

まあ、そういうところにおってのー、まあ、何人かおるんじゃ、担当者がのう。何人かおって、まあ、あんたら、知っとるだろうかのう、倭健命(やまとたけるのみこと)様ちゅうのを、聞いたことがあるかのう。大変な武人じゃ。有名な方で、何と言うかのう、勇ましいお方じゃ。日本の歴史の、もちろん草創期の方でもあるし、国づくりのために、まあ、奔走(ほんそう)された方でもあるし、そうじゃのう、すいぶん敵を平らげた方でもあった。そういう勇ましい勇ましい、まあ、英雄なわけじゃ。日本の英雄じゃのう。英雄伝説の、元みたいな方じゃ、倭健命という方は。まあ、そういう方もいらっしゃるんじゃ。ちゃんとのう。

でもまあ、出口じゃとか、倭健じゃとか、国常立(くにとこたち)じゃの、いろいろ見てくると、あなたたちも、ちょっと、感ずる人たちは感づいてくるじゃろう。まあ、どっちかと言うと、荒神様の系統が多いなあと、思うとる人は思うとるじゃろう。まあ、そのとおりじゃ。神様系統にも、いろんなのがおってのう、おとなしいのが好きな神様もおれば、まあ、戦好きと言っちゃあれだけれども、割合い、手荒い神様もおるんじゃ。私らの世界は、まあ、だいたい手荒いのが多いんじゃのう。まあ、お立て直しでも、また言うけれども、まあ、手荒く立て直してやろうと思っとるのが多いのが、わしらの世界の特徴じゃ。だから、大きな政治的な力を持ったり、軍事的な力を持ってみたり、まあ、やりたい放題やっておるんじゃ。


4.塔の瓦(かわら)の色が七色に変われば、銅鑼(どら)が鳴る


それでのう、そういう七曲がりの丘というところに、そういう大きな建物、四十メートル、五十メートルの建物があって、まあ、そこは役所であってのう、わしらは、いつもは住んどるわけじゃない。それぞれに、家を持っとるんじゃけれども、役所で、そこへ勤めに行っとるわけじゃ。ときどきのう、仕事をしに。まあ、役割分担があって、いろんなことをするんじゃけれども、それで神様の世界から、光が落ちてくると、ちょうど、その塔のてっぺんに当たって、塔がピカピカ光り始めるんじゃのう。そして、屋根の瓦が、何色にも変わってくるんじゃ。

屋根の瓦の色が、赤い色に変わったり、青に変わったり、紫に変わったり、白に変わったり、金色に変わったり、そういうふうに、いろんな色に変わるんじゃのう。一日のうちに、周期があって、そうじゃのう、だいたいひとつの色が三十分ぐらいじゃろうか、まあ、地上の時間で言えば、三十分、まあ、そんなもんかのう、三十分ぐらいの時間じゃと思うけれども。そうすると、その間が、大忙しなわけじゃ。

そうするとのう、どうなるかちゅうと、まあ、たとえば、紫色の光が落ちてきたとしようか。で、塔全体が紫色に光り始めるわけじゃ。そうするとのう、そうすると、まあ、忙しいのはどこだちゅうとのう、丘じゃ、丘。丘をのう、右往左往するんじゃ、わしらはのう。丘のいろんなところに、まあいわば、標示板みたいのが立っとってのう、これを取っ換えに行くんじゃ。で、たとえば、紫なら紫の標識を持って走って行ってのう、丘の上に、紫の標識を立ててもらうんじゃ。そうすると、丘の下のほうでまた、それを見よった人がおって、紫じゃ、紫じゃと言うんで、銅鑼(どら)を鳴らしとんじゃのう、下で。紫の時間じゃあちゅうて、まあ、たとえば、紫が三つじゃな、銅備を三つ鳴らす、ドンドンドンと三つ鳴らす、これが紫じゃ。

で、緑になったら、緑じゃ、緑じゃと、言うんで、丘の下でまた銅鑼を、今度は四つ鳴らす。ドンドンドンドン、と。そうすると、その銅鑼の音が、だんだん、こちらの世界に響いてのう、それで皆んな、だいたい行動しとるんじゃ。天女の舞いかなんかやっていても、銅鑼がドンドンドンと鳴ればのう、ああ、もうそろそろ時間がきたわいと、小一時間も経ったわい、というんで、舞いをやめるとかのう。こうせんと、わしらのところはわからんのじゃ。

まあ、地上のお前たちには、日の出があり、日没があり、昼と夜があるわのう。昼と夜がちゃんとあるんじゃけれども、わしらの世界では、昼と夜がないんじゃ。つまり、一日中ぶっ通しじゃのう。ところが、ぶっ通しで同じことできるかちゅうたら、それはできん、区切りがないわのう。メリ張りがない。そういうことで、地上に生きとった人間にとっては、これはおもしろくない、少しも。それで、何か、こちらの世界でも、時間らしきものをつくるかということで考え出したのが、これなんじゃ。

それで、こちらの世界でも、非常に高いところにある。まあ見晴らせるんじゃのう。全霊界が、見晴らせるようなところに、七曲がりの丘というのがあるから、この上に、そういう建物を建ててな、光をいただいて、神の光をいただいて、七曲がりの丘から、七色の光を、まあ、三十分ぐらいの割で放射する。そうすると、それに合わせて、地上、地上ではないけれども、まあ、霊界のいろんな人たちが、仕事を変えるわけじゃのう。やっぱり、こちらでも、仕事を、皆持っとるからじゃのう。もうそろそろだいぶ時間も経ったじゃろうと、一服するかということで、一服する。ま、こういうことができるように、時間の代わりに、そういう色の変化を出しているんじゃ、一日によってのう。

どういう色から始まるか、それもまあ、季節感を出すために、まあ、季節に応じて、その出てくる色の順序を変えたりするわけじゃ。たとえば、春の季節感、地上が春になってくると、あの世も春の感じをちょっと出さにゃあいかんということで、その一日の始まりにあたる部分で、明るい色から入っていくわけじゃのう。

明るい色と言うのは、どういう色かと言うと、まあ、黄色とか、赤じゃのう。黄色、赤、まあ、黄色、赤、緑とあるけれども、これも原色じゃのうて、ほんとうは、極彩色で、いろんな色が変わっていくんじゃ。黄色が、だんだん赤味を帯びてきて、オレンジ色になり、オレンジ色が赤になってくる。こういう感じで、だんだん変わってくるんじゃのう。赤が、今度は、たとえば、ちょっと青味を帯びてきて、紫になっていくとか、ほんとうは七色と言わず、もっと十色も、二十色も、三十色もあるんじゃ。そんなもんじゃな、まあ、そういうふうに、いろんな芸術を楽しんどる。


5.日曜日の白色から始まる一週間


そして、その光の色の出し方を、やはり研究しとるんじゃのう、やはりいろんなふうに。こういうふうにしたら、季節感が出るというので、まあ、わしらは、季節感の研究もしとるわけじゃ。まあ、こういうふうなことをして、そうじゃのう、こちらの世界の人間の、まあ、秩序じゃのう、あるいは、生活のメリ張りをつくっとるわけじゃ。

じゃから、地上の人間から言えば、そちらで、よくもまあ、バレンタインのチョコレート日がわかるのうと言うけれども、それはわかっとるのじゃ。色の出方を見ればのう。朝一番に出るのが何色か決まっとれば、まあ、二月なら二月というのが決まるのじゃのー、それで、その組み合わせを見たら、何日目かということがわかるんじゃ。順番に変わってくるからのう。出方が決まっとるのじゃ。

つまり、七色あるということは、七色で、一週間つくっとるのじゃ。一週間じゃから、今日は日曜日にあたる、地上だと日曜日にあたる日、月曜日にあたる日、そういうふうに、決まっとるわけじゃのう。まあ、そういうふうになっとるわけで、最初の、まあ、朝一番とされる色、つまり、天上界から、バシーッと光が神様の世界から降りてきて、最初に、屋根が輝いた時間をもって、その日の始まりとしておる。で、たとえば、わしらの世界では日曜日の色が何色か知っとるかのう。まあ、日曜日の色は、「白」じゃ。だから、白が基調でのう。だいたい白中心で、白から始まっていって、白で終わるというのが、だいたい日曜日のパターンなんじゃな、これは日曜日じゃ。まあ、キリスト教で言えば、イエス様じゃのう、日曜日が、礼拝のときじゃ。

じゃあ、月曜日は何じゃ。月曜日は、「青」じゃ。お前らも地上で言うとるじゃないか、月曜日ちゅうたら、顔が青ざめるじゃろうが、ブルーマンデーと言うとるじゃろが。わしでも、そんな英語は知っとるぞ。ブルーマンデーと言うてのう、サラリーマンが憂うつでのう、土曜、日曜が終わって、テニスもやったし、泳ぎもやったし、山も登ったし、また、月曜日から、会社じゃ、気が重いのう、と。これを、ブルーマンデーと言うとるじゃろう。青い月曜日じゃ。当然青じゃ、月曜日はのう。

じゃ、火曜日は何じゃ、火曜日こそ、赤じゃ。火曜は火の色、そりゃそうじゃ。そして、月曜日に青菜(あおな)のように垂れとった男が、二日目になったら、元気が出てくる、さあて、火曜日は、戦いの日なわけじゃ。だから、「赤」なんじゃのう、赤は血の色でもあるのじゃ。火の色を見ると、興奮するのは牛だけではない。人間だって興奮する。じゃから、このいわゆる赤の日というのがあるわけじゃのう。まあ、火の火曜日とはわしらは言うとらんけれども、赤の日というのがあるんじゃ。

赤で始まって赤で終わりじゃの、光が。だから、七曲がりの丘が真赤になって、染って始まって、そして真赤になって終わる。このときが、赤の日じゃ。まあ、火曜日じゃのう、これは。戦いの日のわけじゃ。じゃから、今までのんびりしとった人間ものう。「おっ、赤の日がきたの」ちゅうんで、「これは頑張らなければいかん。今日は書き入れどきじゃ。今日は張り切って、仕事をバンバンやらにゃあいかん」と、こう思うんじゃのう。日曜日はのんびりしとるわけじゃ、白の日は。そして、月曜の、青の日は、うなだれながら、ショボショボと仕事を始めていく。火曜になったら、赤がついたら、これは頑張らにゃいかんというので、やり残しておいたことをやり始めるんじゃのう。

じゃあ、水曜日は何じゃ。水曜日は、働きすぎた翌日は、どうじゃろうかのう、黄信号じゃのう。青がついて、赤がついたら、次は「黄」じゃ。横断歩道にもついとるじゃろうが。黄色じゃ、黄色じゃ、黄色。黄色、危険信号じゃ。赤はバリバリやりすぎとるから、ちょっと気をつけねばいかんぞってな、体も壊(こわ)すし、失敗もするのは大体水曜日じゃ。要注意じゃ。要注意なのが、黄色じゃのう。ちょっと、注意しなさい。なかだるみするときだから、締めていかないかん。仕事も半ばになってきただろう。なかだるみしないように、締めていけ、と。ま、だから水曜日は黄色なんじゃ。

それじゃあ、木曜日は何じゃろうのう。まあ、これは、グリーンじゃ。「緑」じゃのう。緑が何の色かと言うと、安らぎじゃのう。これは。危険信号の翌日は、安らぎじゃのう。ちょっと目を休めて、体を休めながら、まあ、仕事としては、なだらかな仕事が行なわれていく。音もなく、流れ作業のように速(すみ)やかに仕事が運ぶ。これが木曜じゃのう。もう、仕上げが近づいてきているわけじゃ。

じゃあ、金曜日は何じゃろうか。金曜日は「紫」じゃ、そりゃあそうじゃ。金曜日は一番楽しい日じゃ。地上でもあるじゃろう、花の金曜日じゃ。花金(はなきん)とこれを称する。花金というのは、我らが世界においては、紫じゃ。すなわち、我らが伝統の色、我らの締めくくりの色、仕上げの色なんじゃ。要するに、こちらでも、週休二日制で、今普及中じゃから、月から金までしか働かん人が多くなってきた。したがって、金曜日というのは、仕上げの日じゃ。仕上げというのは、完成じゃ。完成というのは、秩序じゃ。秩序は、紫じゃ、すなわち、日本神道じゃ。これが、金曜日の紫じゃ。

それでは、土曜日は何じゃ。そうじゃの、「銀」色じゃ。じゃあ、土曜日が何で銀じゃと思うのか、普通は。まあ、これはのう、この世の世界じゃないわ、あの世の世界というのかのう、我らの世界は、あの世の世界でも、日曜大工が今はやっとってのう、日曜日は日曜大工なんじゃ。けれども、まあ、土曜日は土曜大工じゃのう。土曜大工がはやっとるんじゃ。日曜日は、皆んな休みの日で聖書を読む人はおらんけれども、まあ、古事記を読んだり、日本書紀を読んだりするのか、わしはよう知らんが、まあ、心の勉強をする日が、日曜日じゃから、働かずにのう。

土曜日っていうのはのう、日頃の、仕事でできんような、手作業をする時間なんじゃ。手作業の日ちゅうと何かと言うと、まあ、科学技術じゃのう。技術者の色なんじゃ。じゃから、土曜大工がはやっとるんじゃ、わしらの世界では。土曜日に、日頃できんことをする。たとえば、お前らでも、講演会じゃの、何じゃの言うて、いろいろ準備をやっとるようじゃけれども、まあ、わしらの世界でも、講演会もあれば、そりゃあ座談会もあるし、発表会もあるし、いろいろあるんじゃ。そうすると、そういうのがあるとすると、舞台の設定とかのう、やっぱりあるんじゃのう。日頃の仕事は忘れて、放ったらかして、まあ、皆んなで、村でのう、協同して作業する日があるんじゃ。それが、土曜日なんじゃ。まあ、土曜は、たとえば、そういう舞台の設営とかのう、そういうことをよくやるんじゃ。講演会があるときに舞台をつくる、土曜日に。そして、看板を掛けるんじゃのう、「出口王仁三郎講演会」、あるいは、「出口王仁三郎先生霊示集刊行記念パーティ」「出口王仁三郎先生霊示集十万部突破記念パーティ」とかな、こういうふうな看板をつくるわけじゃ。なー、土曜日にはトンカンやって。

で、日曜日は休みの日じゃから、皆、仕事しとらんから、聴きに来るわけじゃ。そしたら、王仁三郎先生が壇の上に上がって、マイクもあるぞ、もちろん、わしもマイクぐらい知っているのじゃ。マイクもあってのう、羽織袴(はおりはかま)じゃけれども、まあ、これはやむを得んじゃろう。紋付袴(もんつきはかま)でのう、「諸君、大本の教えは、もう変わってきたんじゃ。大本の教えは、やがて生長の家に受け継がれ、生長の家の教えはやがて、〇〇〇〇〇に受け継がれ、日本では、今や大きなうねりとなっておる。しかし、その大本は、大本教じゃ」って、わしが一発ぶっとるわけじゃ。まあ、そういうふうでなあ、あの世の様子が、ちょっとわかったかのう。

そういうふうに、まあ、一日中、光が輝いとったら、何色かわからんじゃろうと言うけれども、たとえば、日曜日が白から輝けばのう、白から始まって白に戻って、まあ、塔がのう、ちょっと光るのを止めるんじゃ。休憩があるんじゃ。その間、ちょっと、薄ぼんやりするんじゃのう。それが、消灯の時間じゃのう。で、すぐまた、始まるんじゃけれども、じゃからたとえば、日曜日にその塔の色が、五重の塔の色が、朝が白から輝き始めると、屋根も真白、窓からも白い光が出てくる、そうすると、七曲がりの丘がのう、もちろん芝生が一面に生えておるのじゃけれども、この芝生が、皆、白色に輝いてくるのじゃのー。白い色になってくるんじゃ。鮮(あざ)やかな白に変わってくるんじゃ。そして、皆んな、いよいよこれは日曜日じゃのーと思うわけじゃのう。


6.七色は、この世の色とは違う荘厳(そうごん)色


月曜日になると、これがまた、朝が青から始まってくる。塔が青光りしてのう、そして、七曲がりの丘も、青色に変わってくる。こういうふうに、順番に変色というかのう、こういう色をしてくるわけじゃ。七色というのはわかったけれども、しかし、七曲がりの意味がようわからんと、まあ、こう言うじゃろうのう。まあ、これがじゃから、今言うプリズムなわけじゃのう。プリズムという日本語は、まあ、日本語では、見るメガネか、これが七曲がりという意味じゃ。七色に曲がるんじゃ。曲がるというのは、分かれて出てくるという意味じゃのう。まあ、こういうこっちゃ、これが七曲がりじゃ。

そういうふうにのう、地上の人間も、あの世は時間もないそうじゃし、ずいぶん退屈じゃのう、と思うとるじゃろうが、ちゃんと一週間があるんじゃ。そして、そういう工夫じゃのう、地上よりも、もっと鮮(あざ)やかじゃのー。地上は、昼と夜しかないではないか、わしらは、七色の光じゃ。七色の光がどんどん点滅していって、一日のなかが、それこそ十万色ぐらい出てくれる、非常に素晴らしい。まあ、お前たちの思っとる色と、わしらの色とは、ずいぶんまた違うんじゃのう。それが、やっぱり天国の色じゃ。

紫じゃなんて言うて、気安う言うとるけれども、運動会のハチマキの色の紫じゃないぞー。あんな安っぽい紫ではなくって、わしらの世界の紫ちゅうのは、ほんとうに、何と言うかのう、上品じゃのう、見るからに。上品な、高貴な感じがする紫じゃ。そうじゃのー、董(すみれ)色じゃあ、まーだ語りつくせんのう、もっともっと深い紫でのう。もっともっと神秘的で、もっともっと鮮やかで、うっとりさせるような色じゃ。

だから、その紫の空の色を見ると、空を飛んでいるカラスが、パターッと落ちてくるぐらいじゃ。塔が紫に輝き始めて、丘も紫、そうすると、空もまた紫色に輝いてくるんじゃ。そりゃ明るい紫じゃぞ、真っ黒じゃないぞ。まあ、明け方頃に、紫色の空というのを見たことがあるじゃろう。そういう紫色の空というのがのう、ものすごく、素晴らしい色の紫なんじゃ。まあ、明るい董色と言ってもいいけれども、それが、空にも広がり、丘にも広がり、そして、だんだん霊界の下の世界にも広がっていくんじゃ。

その紫の光線がのう、わしらの、ちょうど七曲がりの丘に立って見ると、おもしろいんじゃ。それがのう、光の速度とか言うて、わしはよう知らんけども、その紫色がのう、サーッと、下に落ちていくんじゃ、広がっていくんじゃ。これがいいんじゃ。下の人が、順番にのう、あっ紫の光が射し始めたちゅうて、「オーイ、紫じゃぞー」って、言うとるんじゃのう。下から声が聞こえてくるんじゃ。これがええんじゃ。たとえば、山なんかに登ると、まあ、測候所なんかが、よく建ってるのー。そして、山はよく霧が出るじゃろうが、その霧が出るところで、測候所から光が出ておると、その光が霧に映って、何とも言えん。幻燈機みたいな、あの感じがあるじゃろが。あの感じでのう、霧が出るわけではないが、サアーッと、紫色がのう、広がっていくんじゃ。

これが、何とも言えん。空が紫色に輝いていて、丘の芝生が紫色になってきて、そして、下界が、だんだん紫に変わっていく。これがのー、まあ、奇蹟と言うか、美と言うか、まあ、何とも言えない美しさじゃのう、えも言えぬというんじゃ。

赤じゃって、そんな醜(みにく)い赤ではないぞー、この赤が、また美しい。地上にはないけれども、まあ、言ってみれば、そうじゃのー、バラの赤でもないのー。まあ、たとえば、「楊貴妃(ようきひ)」のような美人が、世界一の口紅を塗ったとしたら、こんな色ではなかろうか、というような色じゃ。世界一の美女が、世界一のロ紅を塗ったら、多分、こんな色じゃないかというような、そういう神秘的な美しさじゃのう、何とも言えない赤じゃ。もうほんと、絶世の美女の唇(くちびる)の色のようで、思わず吸い込まれて、わしなど、よだれが出そうじゃ。そんな美しい赤じゃのう。もう、それはそれは、何とも言えん。それを見るたびに、男心がそそられるのう。そんな赤じゃ。

まあ、それ以外にも、たとえば、黄色と言ったって、これも額面どおりの黄色ではない。まあ、金色に近い黄色じゃのう。ただ、金色じゃちょっと眼に悪いからのう、金色ピカピカでは、皆仕事にならん。じゃから、それはもっと薄らいでおるわけじゃ。軟(やわ)らかい黄金色じゃのう。黄金色とまではいかないけれども、黄色は黄色じゃけれども、やわらかい黄土色じゃ。目にあたらない色でのー。しかし、その黄色は、やはり素晴らしいのう。それが広がっていくさまというのは、もう、ほんとうに永遠の何と言うかのー、世界の荘厳さを感じるのー。やはり天が金色、お前たちは、考えたことがあるかのう。

空は、青じゃとばかり思っとるんだろう。そして、青い空に白い雲、とばかり思っておる。これ以外の空を考えんだろう。空は青くて当然と思っておる。それはそうじゃ。金色の空というのが出てきたら、どうなるかじゃのう。これはまた、何とも言えんぞ、こんな贅沢(ぜいたく)はない。金銀財宝を集めて、家のなかに隠す人がおるじゃろうけど、空を金色にするような、こんな大芸術は、ちょっとないのう。この金は素晴らしい。

まあ、これを見ていると、わしは、やっぱり神様の世界におるんじゃのーと、確信するんじゃ。それも、わしらのおるような高いところの、七曲がりの丘では、その金も、すぐ上にのう、こう見えるわけじゃ。まあいわば、「プラネタリウム」か、あるじゃろ、満天の星空を見るんじゃろう、部屋のなかで。わしは見たことないけども、あるのは知っておる。そういう感じで、真近に見えるんじゃのう、ありありと、金色が。

しかし、もうちょっと下界のほうへ降りて行くとのう、はるかに高いところの空が、金色に輝いているように見える。まあ、そんな感じじゃ。七曲がりの丘に建っとる五重の塔なんていうのは、ほんの小さな、灯台みたいなもんじゃのう、下から見ると。金色にピカピカ光っとるだけじゃ。そして、その灯台を中心にしたような感じで、空が金色になっとるような感じがするわけじゃのう。まあ、それが金色じゃ。

青だって、まあ、さっきは、くたびれたと言うたけれども、青だって、ほんとうの青は素晴らしいぞー。まあ、そうじゃのー、「マリンブルー」じゃけれども、ギリシャなんかのエーゲ海の色、どうじゃ、あれを見るともう、クラクラクラときて、なるじゃろう。大理石の柱かなんかから飛び降りて、もう皆んながパタンと落ちたくなるような、思わず吸い込まれる。あの青じゃ。いいじゃろ、あの青が、もういっぱいなんじゃからのう。まあ、これが青じゃ。まあ、緑はもうもちろん想像がつくじゃろうけれども、この世の、そうじゃのう、球場の後楽園球場かなんかの、人工芝とは違うぞー。この緑もまた、生命の息吹きがもう溢(あふ)れに溢れとる緑じゃ。素晴らしい生命を感じるのう、緑にはのう。生命、美しき生命、これを感じる。

あと、白とか銀とかもあるけれども、銀は、まあ、ほんとうの銀ではない。やはり、白銀色の銀じゃ、そういう銀でのう。白というのはのう、ちょっと、普通の白とは違って、普通の白だと煙になってしまうだろう。煙がかかったんじゃ、何も見えないじゃろう。そうじゃなくて、そうじゃのう、山羊の乳ってあるじゃろうが、見たことあるかのう。飲んだこと、あるかのう。その何とも言えない、質量感、山羊の乳を絞ってのう、飲むと、おいしいんじゃ。ちょっと臭み、があるんじゃけどものう。コクのある白さなんじゃのう。やはり、生命感がある白さなんじゃ。その透明感。

女性の乳を、わしは、そうむしゃぶりついて飲んだことはないけれども、まあ、女性の乳を絞ればのう、あんまりドクドクと濃いのは困るけれども、まあ、薄いのもあるじゃろう。シャーと出るのがのう。それをまあ、そうじゃのう、大理石のテーブルにサァーッと、その乳を流したような、うっすらと色が出たような、そんなような、生命感が溢(あふ)れる白じゃのう。まあ、これも何とも言えん。その白のなかに、神様の世界の、やはり深さを感じるのじゃのう。


7.日常生活と住居のありさま


まあ、こういう光の世界があって、わしらも、それを行動基準にして、曜日を決め、月を決め、仕事のいろんな手順を決めておる。じゃからまあ、一日のようなものがあるんじゃ。その時間が、ちょうど、お前たちの二十四時間にあたるかどうかは知らん。知らぬ存ぜぬ。ただ、それにあたるものがある。そして、そのなかでは、皆いろんな仕事をしとるわけじゃけれども、あの世の仕事が何か興味があろう。わしらの高いところが丘になっておって、そういう仕事場としての、五重の塔もあって、あと、丘のちょっと麓(ふもと)のほうに、わしらの家がのう、それぞれあるわけじゃ。日本式建築でのう。

どっちかと言うと、やっぱり、そうじゃのう、神社に近いじゃろうのう、ちょっと神社を感じさせるようなつくりじゃのう。やはり建物に入って行くのに、石段が三段ぐらいあってのう、必ず、それを踏んで上がらにゃあいかんし、やっぱり柏手(かしわで)を打つような場所がちゃんとあるからのう、家のなかに。まあ、ちょっと神社に似とるじゃろか。わしらの世界は、まあ、神社の神様じゃからのう、皆んな。社のなかに、ひとりひとり収まっとるわけじゃ。ひとりひとり住んでいてのう。まあ、一緒に住んだらええと言う人もおろうが、実際は一緒に布団を敷いて寝たりするようなことはない。じゃから、出ロ王仁三郎神社に、ちゃんと住んどるわけじゃ。

まあ、地上の神社みたいに言われると、がっかりするがのう、あれは、もの淋しすぎる。もうちょっと贅沢(ぜいたく)じゃ。わしらなんか、もうちょっと、金ぴかじゃのう。金箔を張り巡らした、豪華な神社じゃ。そんなところに住んどる。ただ、日光の東照宮のようなもんじゃないぞー。あんな安っぽくない。うーん。そこで、瞑想しながら下界を見たり、あの世の人びとを指導したりのー、しとるわけじゃ。まあ、そういう神社のなかに、祀(まつ)られとるわけじゃの。鎮(しず)まっとるわけじゃ。お鎮まりの、御魂(みたま)になっとるわけじゃ。

まあ、わしらは、神社じゃけども、ちょっと下のほうに行くと、そうでもないのー。わしは、ちょっとその七曲がりの丘の麓のほうにおるけれども、たとえば、わしのところから下へ行こうとするとのー、石段がずっと続いていておってのう。まあ、神社と一緒じゃ、石段が、そうじゃのう、五百段ぐらいあろうかのう。五百段ぐらい降りて行くとまた、ちょっと下の部落が開(ひら)けてきてのう。そこにまあ、わしらの弟子筋にあたる、神主さんたちがいっぱいおるんじゃ。

まあ、神主さんの世界があってのう、いろいろ勉強しておるのじゃ。神道の勉強じゃ、神様の勉強をしとるんじゃ。まあ、わしの担当しとる神主さん、そうじゃのう、四、五百人おるかのう。皆んな住んどるんじゃ、小ちゃい神社つくってのう。わしみたいな金ピカ大神社でのうて、小じんまりした、まあ、プレハブとまではいかんがのう。神社に皆、収まっとる。だいたい、神主さんじゃ。そこへ行って、講演をしたり、相談受けたりしとるんじゃのう。まあ、こういうことが、わしの仕事じゃ。まあ、こういうのを教えとるんじゃ。

そして、その神主さんの村から、また五百段ぐらい、トントントンと降りて行くとのう、そうじゃのう、まあ、神主さんよりは、ちょっと落ちるけども、まあ、信仰心の多い人たちじゃのう。こういう人が、いっぱい住んどるんじゃ、信者たちじゃのう。神道系の信者がいっぱい住んでおる町があるんじゃのう。これが、数千人、数万人おる。

こういうところで、まあ、さっき言った神主さんたちがまず、稲荷大明神じゃとか、何とか大明神じゃとか、祈っとるわけじゃ。恵比寿様じゃ、大黒様じゃ。布袋(ほてい)様じゃ、何じゃかんじゃと言うて、祈っておるんじゃ。不動明王様じゃと言うて、祈っておるんじゃのう。まあ、実際は人間霊じゃけどものう、下のほうの普通の人から見れば、神様になっとるわけじゃ。じゃから、そういう人たち、祭っとって、そういう神様が降りて来たら、ありがたがって、一生懸命、説法、聴いておるんじゃ。

じゃが、出口王仁三郎先生というのは、もう神様どころじゃないんじゃ。大本の神様でな、宇宙の神様になっとるのう。宇宙根本神じゃ。もうわしらの世界ではのう、もうちょっとお出ましになられる、ということだけで、もう、神話の伝説のなかじゃ。

まあ、そういうふうになっとってのう、地上の人間でも、そうじゃのう、いろんなことを言うとるけれども、根本神じゃの、大神様じゃの、いろいろと言うとるけれども、わしらの世界にもそれはあってのう、やはり尊敬なのじゃ、尊称なのじゃ、大神とか、根本神じゃとか言うのはのう。たいてい、偉い人だからそういうことを言うだけであって、ほんとうはそうじゃない。けど、会える段階があってのう、普通の信者たちは、わしに、直接会えんのじゃ。まず、中段階ちゅうのか、お前たちの言葉で言うと、六次元と言うのか、諸天善神と言うのか、よく知らんが、そういう人たちを通して、わしを信仰するんじゃ。こういう世界になっとる。

まあ今日は、そういうふうに言ったけれどものう、そういう千段ぐらいの石段を下まで降りると、上を見上げると、七曲がりの丘がよーう光っておってのう。その上に、五重の塔が建っとるわけじゃ。どうやら、あの塔のなかに、出口大先生がいらっしゃるらしい。お仕事をしておられるらしい。今日もお忙しいらしいと、まあ、そう言うとるわけじゃのう。まあ、そんな世界観なんじゃ。わかってきたかのー、だいたいは。

まあ、今日も、いろんな話をしたけれども、今日はこの辺でおいとくとしよう。