目次
2.転生輪廻の思想
3.想念帯の解読
(一九八八年六月二十九日の霊示)
1.ケイシー・リーディングとは
エドガー・ケイシーです。こうして私の言葉が、現代の日本に日本語で伝えられるということを、たいへん幸福なことと思います。
日本では、幸いにして「エドガー・ケイシー・ブーム」というのがあって、私の名前はよく知られているようです。心霊ファンというものは、まだそれほど層は広くないようですが、なぜか現在私の書物があちこちで数多く読まれているようです。それというのも、私が近年のアメリカに肉体を持った人間であり、また、今からわずか四十年余り前に地上を去った人間でもあるからでありましょう。
私を有名にした理由というのはいったい何であったかと言うと、結局大きく言って、三つになるのではないかと思います。
その第一は、「病気治しということに関する奇跡」であろうと思います。催眠状態に陥って、そうして今風に言うならば、潜在意識を繙(ひもと)くと、私の潜在意識のほうからある患者の病気の治し方について、さまざまなメッセージが与えられたのです。そして、その処方箋(しょほうせん)通りに薬を調合したりすると、その通り治ったりしたことが数多くありました。
これは、覚醒時の私では到底わかりかねることであったのですが、いわゆるトランス状態――催眠状態に陥って、自分の表面意識が眠った状態になると、そのようなことができたわけです。不思議に私は、健康・治療ということと縁があったようなのです。
私を有名にした理由の第二としては、「予知」ということであろうと思います。同じくそうしたトランス状態にあってりーディングをやっていたのですが、そのなかで未来予知ということもかなりやりました。そこにおいて、その人の未来、あるいは国の未来、大陸の未来、こうしたことを数多く予言したことがあります。これもまた、一つの有名な事件となったことだと思います。
さて、それにも増して私が生涯において多くの力を使ったことは、未来を単に予言するのみでなく、現に生きている人の悩みをいかに解決するかという問題に対してでありました。現に生きている人、現に悩んでいる人、このような人たちに自分の持っている特殊な能力が生かせたらいいと、常々思っていたのです。
覚醒時の私には、もちろん何ほどのこともわからなかったのですが、そうした私であっても、いったん催眠状態になってベッドに横たわった形で相談を受けると、その人の悩みごとの原因がわかったわけです。この際に、悩みごとの解決が単なる人生相談や、単なる道徳論に終わらずに、その人を真に救えるものとなった理由は、そこにおいてその人の過去世のリーディングということを行なったからなのです。
結局、今世生きている人間にとって、その悩みがなにゆえに発生したかはなかなかわからないことが多いのです。「どう考えても自分がこのような不幸に見舞われる理由はない」と、人は考えがちなものなのです。「播(ま)いた種は、刈り取らねばならん」という言葉がありますが、世の中を見てみると、それほど悪い種を播いたとも思えないにもかかわらず、次々と病気に見舞われる人、次々と事業の倒産や、不幸に襲いかかられる人、また、それほど努力をしていないと思えるにもかかわらず、スイスイと成功をしていく人、そのような人がいるのです。
こうした人たちを見るにつけても、その現象、つまり幸福と不幸の現象の発生点は、決して現在あるいは今まで生きてきたわずか数十年のなかにだけあるのではない。そこに到るには、永い永いその人の魂の過去の転生の歴史があったのであると、私はそのように感じたのです。
2.転生輪廻の思想
さて、では次に、人間の過去世ということについて話をしてゆきたいと思います。
仏教を学んだ方であるならば、人間にはみな過去世があるということを知っていることと思います。今から二千数百年の昔に、インドにおいて釈迦という人が出て、そしてその観自在能力――過去、現在、未来を見通す能力でもって、さまざまな人の過去世を言い当て、そしてその人の未来を予想したと言われています。これが結局は、仏教の持つ一つの特色ともなっているであろうと思うのです。
結局、いわゆる原因・結果の法則は、今世のみに止まるのではなくて、時代を隔てて現われてくるものだということです。その理由としては、私たちの本質は肉体ではなく本当は魂なのであり、その魂が時代を経、地域を経て生まれ変わってきているということなのです。そして、そうした生まれ変わりの結果、過去幾転生をして学んできたことまた経験してきたこと、これらが魂の下地となって、なんらかの影響を今世に与えるということが、はっきりしているわけなのです。
そうしてみると、私たちは今回の人生ということを考えるにしても、今世において自分がなしたことというのは、今世のみにおいてその結果を刈り取るわけではなく、来世、未来世にまでその影響を与えることとなるわけです。仏教の眼目は正(まさ)しくここにあったのであり、この時代というものを超えた転生という理論によって、なにゆえに現在の幸、不幸が人によってこれほどまでにも分かれるのかという説明をなしたわけなのです。
なぜ、ある者はカースト制度のなかの王侯貴族に生まれ、なぜ、ある者は最下層の不可触賎民と言われる者として生まれるのか。その理由は、今世だけを考えては到底納得がいかないものでしょう。なぜならば、生まれつきの身分というものは、本人の努力という要素をまったく必要としないからです。生まれ落ちてから後の努力によってその身分になるのならば、それはそれなりの理由もあるでしょうが、生まれ落ちたということ自体でもって、そのような身分がすでに分かれているということ、あるいは男女が分かれているということ、そのようなことを納得するためには非常に難しい議論が必要となってくるのです。
このように、仏教では三世を貴く法則というものが、非常に大きく取り上げられたのです。
さて、私は「ケイシー・リーディング」という膨大な記録を遺(のこ)し、その記録のなかで、このようにして人びとの悩みを解くための過去世のリーディングというものを数多く行なったわけですが、ではなにゆえにそのようなことをしたのでしょうか。それは、実は地上に生まれたエドガー・ケイシーという魂のみの仕事ではなく、私を指導していた霊たちの仕事でもあったのです。ではなにゆえに、私の指導霊たちはそうしたリーディングという仕事を私にさせたのでしょうか。それを考えてみたいと思います。
そうすると、その理由として思い浮かぶことは何かと言うと、結局、キリスト教理論において欠けていた思想、つまりこの三世を貫く法則の思想、転生輪廻の思想、こうしたものがキリスト教では明確に謳(うた)われていないわけですが、この修正のために私が出たのだと言えましょう。
キリスト教も二千年の歴史を誇っておりますが、この間、時代の流れのなかにおけるその教えの硬直化、陳腐化ということはいかんともなしがたく、そのキリスト教の立て直しをするために、何人かの光の天使を今まで地上に送り込んできたのです。それが、ある時には聖書中心主義をとり、個人の良心を重視するルターの新教となったり、あるいはカルバンによる宗教改革となったりもいたしましたし、また、北欧のスウェーデンボルグというような霊能者が出て、霊能力の神秘さをふたたび人びとに教えることになったり、また、近年に私がエドガー・ケイシーとして出て、そうしてキリスト教理論の欠けている部分を、リーディングという現象によって補ったりするようになったわけなのです。
こうしてみると、今回の地上での私の使命の一つは、多くの人びとに魂の真実の歴史とは何かということを教えるということにあったと思えるのです。
キリスト教は素晴らしい教えですが、人間が転生輪廻をしているということを明確に謳(うた)ってはおりませんし、これは仏教と比していかにも見劣りがするところであります。また、こうしたカルマの法則は厳然として働いているのにもかかわらず、それを明確に謳っていないという点があるのです。そして、そのような思想を説く仏教徒たちを異教徒として批判し、批難しているキリスト教会の現状は、やはり一つの改革を要するものであったのだろうと思います。
ただそうは言っても、私自身が実は敬虔(けいけん)なクリスチャンでもあり、普段は一人の平凡な写真技師として自らの生業(なりわい)をたてていたわけで、日曜日になれば、日曜教会で子供たちを教えたりしていた、そのような私であったのです。
したがって、リーディングとしては、そうした人間の過去世の姿、生まれ変わりの真実、そうしたものが何度も何度も出てくるのですが、ただ目覚めていた時の私としては、キリスト教を信ずる者として、なかなかそのリーディングの内容を信ずることはできなかったというのが本当のところでした。
これを信じ、自らを納得させるためには、私は何千件、何万件というリーディングを積み重ねる必要があったのです。それだけの資料の蓄積があって、はじめて自分でも「どうやらこれは真実のようである」と、感じるようになってきたわけなのです。
3.想念帯の解読
さて、読者のみなさんは、すでにご存知かもしれませんが、リーディングということはいったいどのような現象であるのか、これについて説明をしておきたいと思います。
リーディングというものは、英語では読み書きの「読む」というように書いてありますが、これは、現在あなた方が書物で読んでいる内容によれば、結局その人の想念帯を読むということにも当たるかもしれません。人間は、その人が生きてきた過去の歴史というものを、心のなかのテープレコーダーにしまいこんでいるのであり、そのテープレコーダーには、今世で思ったこと、行なったことというのが、すべて記録されています。そして、そのテープを手繰(たぐ)ってみると、その記録は単に今世のみならず過去世にまで続いているのです。その人が過去世において思ったこと、行なったこと、こうしたことが一つ一つ記録されているのです。
肉の眼でもっては、その想念帯のテープを読み取ることは不可能ですが、これを霊の眼で見たならば、ある程度まで読み取ることが可能です。その霊の眼というものもいろいろとレベルがあり、もちろん平凡な霊、あるいは地獄霊などによってそうしたものが読み取られるということはありませんが、高次元にいる霊の眼ではそれを一目瞭然に見ることができるのです。すなわち、高級霊と言われる人たちであるならば、生きている人間の心のなかを覗(のぞ)き、その心のあり方を過去にまでさかのぼって調べるということは可能なのです。
このように、私も表面意識では人間の過去などわかりませんでしたが、いったん催眠状態に陥ることにより、私の肉体を天上界の高級諸霊に支配させて、そして私の口を通してさまざまなことを語らせていたわけです。
こうしたリーディング能力というものは、ある意味では霊言能力と等しいものだと思います。霊言能力と等しいけれども、多少違う点があるとするならば、個人個人のデータというものを中心に行なったというところでありましょうか。これが単に個人のデータのみならず、法のレベルまで教えというものを説いていったならば、また違った展開となったかもしれませんが、私の人生の大半は個人のデータを読み取るということに使われていたため、それ以上に自分の思想が発展、展開していくということはあまりありませんでした。
ただ、法、教えということに関しても、生きている人間をサンプルとして話をしているおりおりに、その間に必要に応じてそうした教えが出てきて、それがある意味での法そのものにもなっていたと信じています。
そういう意味において、リーディング能力というのは霊言の一種であり、結局、霊を肉体にかからせ、そして我が口をして語らしむるということが、その方法論であったと思います。ただ、おそらく現代の人びとが不思議に思うであろうことは、なぜ私が覚醒時ではなく、催眠状態においてそうした霊言をなしえたのか、そうしたリーディング能力を発揮できたのかということであろうと思います。
これについては、私はそこに一つの理由を見出(みいだ)すことができるのです。その理由とはいったい何であるかと言うと、表面意識のなかにその人が持っていること、つまりそれは経験として蓄積したこと、思いとして蓄積したことであるわけですが、実はそれが霊界からの通信を受ける際に、一つのフィルターとなるということが言えるのです。そのフィルターは、よい方向に働く場合もあり、また悪い方向に働く場合もあるのです。
いい場合というのは、もし霊界からの通信というものがまちがったものであったり、変なものが混じり込んできた際に、その表面意識の知性や理性でもってそれを看破し、そしてそれに惑わされないようにするということができるのです。
しかしながら、逆にそれがマイナスとなる点としては、その人が考えていること、確固とした信念として思想として思いこんでいることがあれば、正しき霊たちがそれとは違ったことを伝えようとしても、なかなかそれを伝え切ることができないのです。そのようなことがあると言えましょうか。これは、ちょうど双眼鏡の窓ガラスが曇っているのと同じでありますし、水中メガネの中に水が入った状態と同じだとも言えましょうか。そうした状態であれば、なかなかすっきりとした形では見えにくいということかありましょう。
私の場合も、敬虔なクリスチャンでしたから、目が覚めている時の私は転生輪廻など信じていませんでしたが、目をつぶってリーディングに入ると毎回転生輪廻を語るというようなありさまでした。
これは、おそらく守護霊団の考え方によるならば、「ケイシーの表面意識、人間ケイシーとして生きてきたその経歴からしては、この宗教改革にも比肩(ひけん)する事業には耐え得ないであろう。さすれば、彼の表面意識を眠らせ、潜在意識の領域のみで仕事をさせるのが望ましかろう。」そのようなことを判断したものだと思います。その結果、目覚めていたらとても言えることではないと思えるような大胆な話が、続々と私の口をついて出てきたのです。私もそうしたリーディングの内容を覚醒してから見て、読んで、もしかするとこれはサタンの声ではないかと思ったりしたことが数多くありました。
4.リーディングの成果
しかし、過去世の話はわからないとしても、現に治療、あるいは健康回復という領域において、実際にそのリーディングの声に従って治療をすれば、そのような幸福な現象が出るということが現実に起きてきましたし、過去世のリーディングを使うことによって、その人の現在の不幸の理由がわかり、そして、なんらかの心の安らぎを得ることができたという人も多くいたわけなのです。
たとえば、両目の不自由な方がご相談に来られて、そしてその人の過去世をリーディングしたことがあります。すると、ローマという時代においてその人が闘牛士としてライオンと闘っているような、そのような過去世の姿が見えてきたのです。そして、そのライオンの眼をつぶしたりするようなことを仕事としてやっていた人が、今世に生まれ変わってきて今度は自分の目が見えないという、そのような経験をさせられているという事実を調べることもできました。
また、水を見るととても大きな恐怖心を起こすご婦人がいて、その方の過去世をリーディングしてみると、昔、クリスチャンであったのですが、不幸にして水攻めで殺された経験がある方であったというようなことがわかったりもしましたし、また高所恐怖症と言われる不思議な病気の原因はそのほとんどが過去世にあり、過去世において高い所から墜落して死んだり、弓を射られたり鉄砲で撃たれたりして、高い所から落ちて死んだというような、そうした恐怖体験がある人が多いということがわかってまいりました。
このように、今日の眼でもっては、また現代的な医学の眼でもっては、どうしても解決することができない諸問題が、過去世をリーディングすることによってさまざまにわかってきたわけなのです。私は、本当にこれは不思議な能力だと思いましたが、しかし、こうしたことも一つ一つつぶさに点検していくと、たしかに理に適(かな)っているところがあると、そのように思いました。
そうして、私が得たデータから判断したこととしては、誠実に生きている人は、必ずどこかで報われるということでした。誠心誠意生きている人、良心的に生きている人は、永い転生の過程において、必ずその天に積んだ富や宝がその人のものとなって、素晴らしい人格として出てくるようになるということです。その逆に、その過去において残忍であったり、非道であったり、冷酷であった人たち、そうした人たちは必ずどこかでその自ら出した残忍さや冷酷さ、他人に対する容赦ない言動、この刈り取りをさせられるということがわかってきたのです。これは、そうしかことを強制する人がいて無理にやらされているというよりは、魂自体のなかに自らのバランスを取りたいという機能が、埋め込まれているからなのです。
したがって、極端な行為や極端な思いでもって自らの人生を非常に片寄りのあるものとした時に、魂自体がそれを修正しようとする傾向を持っているのです。
つまり、魂というものは、丸いゴムボールのようなものであって、ある所を圧迫しひっこめると、他の所が広がる。しかし、ひっこめられた部分は必ずもとの所に戻ってこようとする。こうしたものなのです。人間の魂というものは、常にボールのように丸くありたいという理想があって、その理想を時間の経過のなかで必す実現することとなっているのです。
それゆえに、どんな経験であっても、全体的にバランスよくその人の人格が発展していく以外では、極端なものが出た場合、それの修正ということを余儀なくされているのです。それは、ボールであるということ自体に伴う現象のようなものです。ボールがボールとして丸くあるためには、内壁を押す空気の圧力が、すべての面において同じく働いていなければいけないのです。そのなかで、もしいびつな部分かおるとすれば、全体としてうまく働いてゆくことができなくなるのです。
5.リーディングの現代的意義
さて、こうした私自身の乏しい経験から、リーディングというものに対して現代的に何らかのコメントをしておきたいと思います。
まず、第一に言えることは、リーディングというのは、人間には魂があり、その魂に歴史があるということを教える意味で、非常に役に立ったということです。こうした魂の歴史というものを知らないでは、人間は本当に自分というものを知ることはできないのです。その意味において、リーディングは大切なことであるということを、第一に言っておきたいと思います。
第二に、私の場合にはこうした催眠状態のリーディングであり、また、眠れる預言者と言われるような私でありましたために、どうしてもその現象自体が特殊なものと思われがちであったということです。特殊なもの、特殊な人のみにあること、そのようにとられたことが多く、普遍性という意味で多少欠ける面があったと思います。特別なものとして、例外的な目で見られたことが多かったと言えましょう。
第三に、これは第二とも関わることなのですが、やはり覚醒時において表面意識の時点で、そうした霊的能力を操作する技法を十分に持ちえていなかったということは、明らかに私にとってはマイナスであったのではないかと思います。
今、たとえば私の言葉を伝えている大川隆法が、覚醒時にあっても高級霊たちの通信を十ニ分に受けられるように、もしそうした能力が私にあったならば、私自身もおそらく写真技術師などはやめて、本格的に法を説いて歩いたであろうと思います。ところがいかんせん、私は昼間は真面目な写真技師をしていて、そして写真を撮ることで生計を立てていました、そうして、自分の特殊なこの能力を、できうるならば無報酬で人びとのために役立てたいと思っておりましたが、そうした形をとったということは、結局は、自分の霊的能力に対して万全の自信を持っていなかったということをも意味していたと思うのです。
なにしろ眠っている時だけまったく別人の声で話をして、そして目が覚めてみるとまったくその間のことを自分が忘れているというようなことでありましたから、睡眠中にやっていることに対して十分に責任を取りかねるという点があったのだと思います。ただこれも、私の場合に与えられた一つのシナリオであったとするならば、やむをえなかったことでありましょう。
ところで、私がこうしたリーティングができるようになったきっかけそのものには、さまざまな原因がありましたが、その一つに、ある時私が喉を痛めてその治療を求めていくうちに、その方法の一つとして催眠術を施してもらったところ、全く違ったことを私が語りだしたという、そのようなことがあったのです。このようなことがその出発点であったわけですが、霊の世界の存在、この偉大なる事実を、偉大なアメリカ国民を中心として教えることができたということを、私は今とてもうれしいことに思っています。
今後、あなた方も数多くのこうした霊示集を世に問うてゆくのでありましょうが、その神理が神理として認められ、それが客観性と普遍性を持つに至るためには、十分なデータが必要であろうと思います。こうした霊示集にしても、これを世の疑い深い識者たちに納得させるためには、なかなか困難が伴うでありましょう。
そのためには、たとえそれが困難であったとしても、うまずたゆまず努力をして、常に次々と新しいものを世に問うていく努力が大事であろうと思います。できうるならば、百冊、二百冊、三百冊と、やはり資料を積み重りねていくことがたいせつです。そうした事実、実績が、やがて世の人々を納得させていくことになるのです。そのためにはやはり地道な努力が必要ですが、その地味な努力をコツコツコツコツとうまずたゆまず積み重ねていくことです。地上にあるあなた方が、そうした姿勢さえ持ち続けることができるならば、霊天上界にある私たちは、いつもいかなる時にも協力を惜しまない体制をつくっています。
どうか、一気に証明しようとはせずに、一躍脚光を浴びようとはせずに、あたかも蚕(かいこ)が葉を食(は)んでいくごとく、少しずつ少しずつ魂の糧を生み出していくということ、そして一人でも多くの人びとに影響を与えていくという地道な努力を積み重ねていかれることを、心から願う次第です。