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目次



 3.忍び寄る魔



 6.英雄の最期




(一九八九年八月二十一日の霊示)

1.運命の引き潮(しお)


全智全能の主ゼウスである。さて、私の話も続いてきた。語れば、まだまだ長く長く続く物語となることであろう。

しかし、時間はすでに決められたものであり、この枠を超えることはできぬかもしれぬ。許された残りの時間のなかに、我が智慧(ちえ)と力と勇気の限りを尽くして、おまえたちへの教えを遺(のこ)したいと思うのだ。

さて、本章では「大いなる光の最期」という題を選んでみた。まだ私は活躍中の身であったが、はやくも最期を語らねばならぬようになったということは、残念なことであるがやむをえまい。人の一生とは、生きているさなかにおいては、じつに長く感じるものであるが、過ぎ去ってみれば夢幻(ゆめまぼろし)、一瞬のごときものであることは、これまた否定することもできぬであろう。

さて、全智全能の悟りを開き、そしてギリシャ全土の士気を高め、国としての国威を誇りに誇った私であったが、運命というものは気がつかぬうちに、ヒタヒタと背後から押し寄せて来るものらしい。潮(しお)が気づかぬうちに満ちても来るように、我が運命はいつのまにか満ち、そして気がついたときに引き始めていた。

満々と水をたたえた海が、気がつけばいつのまにかその浅瀬にかすかな水たまりのみを残して引き去っていくように、我が人生もまた終わらんとするときがあった。それは、四十代を過ぎてからのことであったろう。まだ我も男盛りではあったし、よもや大ギリシャ帝国に問題があろうとも思わなかった。このころには陸はもちろんのこと、海、地の果てのアフリカヘも我が支配権は及んでいた。そして、ギリシャをとりまく各国から次つぎと貢物も持って来られるような状態であった。

さて、しかし、この四十歳を過ぎたあたりから、我が心の内にも変化が起きた。我はオフェアリスの神と一体となり、またあるときはヘルメス神(がみ)と一体となって、国の拡張を行ない、政治を行ない、さまざまな文化の復興にこれ努めてきたが、齢(よわい)四十を過ぎるにいたって内面に変化が現われてきたのである。

それは何であるかというと、人間の生死というものは、あまりにもはかないということに気づいていたということなのだ。我は数多くの戦いをし、つねに勝ち続けてはきたが、しかしながら、そのために流された血のおびただしきことよ。そのためにつくられた屍(しかばね)の山よ。我は正しきことはあくまでも正しきものとして地に満ちねばならんとは思うが、それにしても吹き荒(すさ)ぶこの無情の風よ、風よ。我が残りの人生のあいだに、いくたび今後戦(いくさ)をくり返し、多くの流血を見ることかと思うときに、心は深く傷んだのである。

むしろ許されるならば、もはや一戦も交えることなく、すべての諸国を平定し、そうして大いなる帝国を続けてゆきたいものだと深く願ったのであった。

父のこのような性格を汲(く)んでか、アポロンも次第しだいに心が内向的になってきた。十代になってからというもの、父の軍事的優位、またその軍勢の指揮というものを尻目にして、つねに竪琴(たてごと)とともにあり、つねに笛とともにあるアポロンがあった。アポロンは、こよなく芸術を愛する少年となっていた。姉のアテナが、あれほどまでに勝ち気で男勝(まさ)りであったのと対比されるべく、弟であるアポロンは内気で、やさしく、どこか美少女の面影(おもかげ)をもたたえたような少年になっていった。


2.我が愛、我が哀(かな)しみ


このころ、私のまわりを取り巻く重臣たちも、このギリシャの国の将来を憂(うれ)えた。今、各国はゼウスの軍勢のもとに一丸となってまとまっており、平定されてはいるが、そのなかにおいてもひそかに爪を研(と)ぎ、矛を磨いている者たちもいるという噂(うわさ)があった。もし、万一(まんいつ)のことあるならば、これはまた大きな混乱も起きてくるやもしれぬと思われた。

とはいうものの、戦によって平定された場合には、平定されてもし善政が布かれたとしても、またかならずやその殺された者たちの肉親、縁者たちがなんらかの機会というものをうかがうものである。これが宗教家と政治家のいちばんの違いであり、政治家は政敵を葬(ほうむ)り去ったときに、その恨みの念および葬り去られた者の縁者の恨みの念から、なかなか逃れることはできない。

ひとつの天国をつくり出すために、戦場という名の地獄をつくり出したということは、これは消しがたい事実であった。まして、四十代の私の心に忍び寄ってきたものは、たとえ神のための戦であり、正義のための戦であったとはいえ、実の弟であるところのポセイドンを討ち、ハデスを討たねばならなかったということは、深く深く心の傷として残ったのであった。

ポセイドンは、もちろん海の軍勢を中心とし、私が海戦に優れていなかったということを十分に知って、私を助けていたものであったが、いざ自分だけのそのような専門的なる政治というものがあったときに、その権限が野心に変わる。これはいつの時代もそうであって、特定の人にすべてを委(ゆだ)ねた場合には、このようなことが起きる。指導者たる者は、たとえ苦手なものがあるとしても、それを明らかにしてはならない。すべてがやれるようにしておくか、あるいはそのように装(よそお)わねばならぬものである。

また、私をもっとも悲しませたのが、あのハデスの最期であった。私としては、血を分けた兄弟、しかもはるかに若い弟であった。その弟は、霊的な資質にも優(すぐ)れて、もし我に万一のことがあるならば、我が跡を継ぎて、この国を支えてくれるものだと期待をしていた。ところが、我が弟の心の扉が開き、霊的な道ができたということが、これほどまで悲惨な最期になるとは、よもや思わなかった。

私は弟をかわいがってきたつもりであった。愛してきたつもりであった。学問を教え、芸術を教え、武芸を教えてきた。手塩にかけて育ててきたつもりであった。そして、あの難儀なアフリカヘの遠征に関しても、長旅においては人心が離れることがあり、謀反(むほん)を起こすこともよくあるから、肉親のおまえに任すということで、この大いなる行動が、戦ができたものであった。


3.忍び寄る魔


ああ、しかし、天はいたずらに運命を変えてしまうこともあるのか――。もっとも優れた資質を持ったと思われたあのハデスの心に、いつのまにあのような魔が忍び寄ったのであろうか。おそらくは、かのエジプトの地に赴(おもむ)いたときに、さまざまなよからぬ占い師、呪術師(じゅじゅつし)たちと交わったことが、その発端であったのではあるまいかと思える。古来より、ギリシャはひとつの大いなる聖地ではあったが、そのギリシャと対抗すべくエジプトの地にも大きな聖地があった。連綿とし、エジプトの地には大きな聖地があった。

とくに、ハデスがエジプトに赴くほんの二、三百年前のこと、エジプトの地にはクラリオという魂が生まれ、そうして大いなる業績をあげていた。この魂は、ある意味での理想的な政治をめざそうとし、そうして多くの人びとに生きるすべを説いたが、その最期においては、悲惨な最期をとげた。偉大なる霊能者であり、人びとに愛の教えを説いた者であったが、その最期は悲惨なものであった。とくに信者たちに囲まれて、ナイル渓谷のほとりを逃げつたって死んでいったその哀(あわ)れな物語は、遠くギリシャの地にまで響いていた。

しかし、そのクラリオを信奉する生き残りの者たちが、新たな教えの根を張り、つねに反体制的な思想を養っていたのであった。すなわち、もちろんクラリオという偉大な神は、けっして政治そのものを悪しきものとはしなかったであろうが、最期、エジプトの旧体制によって追い詰められ、死んでいったという事実から、それを信奉する者たちは、次第に反権力的様相を示し始めていた。

すなわち、どういうことかというと、すべて人びとを支配せんとする力は、これは悪であると、人びとを抑圧し、支配し、そして君臨する者は悪であると、そういう考え方を持っていた。現代で言うならば、ある意味での左翼的な運動がこれに近いかもしれぬが、権力ある者を、上に立つ者をすべて悪と見る思想が、その裾野(すその)から広がっていた。

ハデスは、この思想の虜(とりこ)となった。クラリオの教えと我が教えは、根本的にそうちがうものではなかった。しかしながら、我は全智全能の神を名乗り、そのような活動を続けたのであったが、クラリオは全智全能のまさに逆のごとき死に方をしたのであった。彼は何も欲しなかった。ただ、民(たみ)の自由を得んとして戦い敗れていった。その愛の教えは、強力な伝染力を持っていたと言ってよい。

我が教えが主として統治というかたちをとり、聖なる支配という考えをとっていたのに対して、このクラリオの流れをくむ一派たちは、愛の平等主義というものをとった。これは、悪くすれば無政府主義、いわゆるアナーキーともいうべき状態になっていくものであった。人の上に人が立つことを許さないという思想であった。これにハデスは影響された。

しかも、このクラリオの教えを正当に継いでいる者からの教えを乞うたならば、かならずしもそうではなかったといえようが、クラリオ死してすでに二、三百年の歳月が流れ、その教えをひく者たちの心に、次第しだいに魔が入り始めていた。こうした者たちに入った魔は、すべて進歩的なるもの、また発展的なるもの、繁栄的なるものを悪と決めつけた。そうして金持ちの家に入っては、その金銀財宝を奪い去り、あるいは身分ある者のところに夜襲をかけては、その妻を凌辱(りょうじょく)するというような暴挙さえまかり通るようなことも起きてきた。

しかし、このクラリオ派の一派たちは、こうしたことはすべて正義だと語っていた。なぜならば、上なる者はかならず悪を犯すものであり、下なる者はつねに正しいから、下なる者の要求は正しい。下なる者はつねに飢え、上なる者はつねに満たされている。したがって、下なる者の渇(かわ)きを満たすということはつねに正義である、という考えがあった。

この考えの悪しきところが、伝染病のごとく蔓延(まんえん)し、身分の低き者、収入の少なき者、あるいは病気の者、その他さまざまな虐(しいた)げられた階級といわれる者たちは、何をしても自分たちは天国に入れるのだ、神のそば近くに還ることができるのだという思想を持つにいたったことであった。

そうして、こうした宗派の教祖のなかに霊的能力を持っていた者もいた。そして、彼らはその霊能力を用いて、さまざまなことを予言した。当てることができたのである。

ハデスは、これに大きな影響を受けた。自分も霊能力を持っていたが、ギリシャの神々だけが神ではないということに気づき、このエジプトの神々の力をも得ようとしたのである。この心がけそのものは、かならずしも悪とは言えぬものがあったが、しかしながらそこに野心が生じたときに、悪の忍び込む余地がある。エジプトの神々の教えを取り入れることによって、我がゼウス軍、ゼウスの政治以上のことができるのかもしれないと思い始めたのだ。しかも、このハデスに取り入った一味は、ハデスをほめあげ、ほめあげ、ほめあげ、あくまでも自分たちの宗派を広げるための後ろ楯(だて)に使おうとしたのであった。

かくして、ハデスはエジプトの地において、彼ら一党を繁栄させるための協力を行ない、さまざまな神殿を建築したりするようになった。

それに対して、我は海路より使者を幾度(いくたび)も送り、そうして「ハデスよ、そのような異郷の神々を信仰してはならない。先祖代々ギリシャに伝わる神々はけっしてそのようなおまえを許しはしないであろう。おまえはいち早く、心を改めてギリシャの神々の仰(おお)せに耳を傾けよ。わが主なるオフェアリス、わが主なるヘルメスは、けっしておまえのことをよくは言っていないようだ。」そのように私は使者を送った、それも数度(たび)。

しかし、ハデスはこれを見て、逆にとっていった。そうしてクラリオ派の長老たちと相談した結果、彼らが言うには、「このゼウスというあなたの兄は、悪魔に支配されている。それが証拠にこの心の狭量(きょうりょう)を見よ。弟が新たな教えに触れ、それを学ぼうとしているのに、それに嫉妬し邪魔をしようとしているではないか。自分は全ギリシャを支配し、そして妻を欲しいままにし、また金銀財宝を欲しいままにし、名誉と地位と金銭を、一挙に手に入れておりながら、弟の自由なこのような行動をも嫉妬するとは、神々の上(かみ)にもおけぬ方。これは、きっとその驕(おご)る心が魔を呼び込んだにちがいない。ハデス殿、もはやギリシャは神聖のギリシャではない。あなたこそ、ギリシャを統一される方だ。兵を挙げなさい。兵を挙げて、この悪魔の手先となった兄を討たねばならない。そうしてギリシャの地にも偉大なるクラリオ様のお教えを広めるべきです。」このように進言した者が数多くいた。


4.ハデスの妻、メドゥーサ


ハデスは、しかし、多少のためらいもあった。けれども、ハデスを最後に窮地(きゅうち)に陥れたのは、このエジプトの地において娶(めと)った妻であった。すなわちエジプト人の妻であった。この妻は、じつはメドゥーサという名前で呼ばれている。おまえたちはメドゥーサといえば頭に蛇が幾重にも巻きついている魔女のように思っているであろう。そして、そのメドゥーサの顔を見たならば、すべてのものが石になる、化石になるという恐ろしい伝説だ。そのメドゥーサ退治もおまえたちは耳にしていることであろう。このメドゥーサは、実はハデスの妻であったのだ。

しかし、現実にそのような化け物がいたわけではない。エジプトのそれは身分ある者の娘であったが、このメドゥーサの特徴は嫉妬心が強かったということ。そして、伝説にあるとおり、毒蛇をこよなく愛し、いつも身のまわりに飼ってはいた。飼い慣らした毒蛇を数匹特っていて、体にいつも巻きつけていた。頭の上に、肩の上に、腕の上に毒蛇がいて、いつも自分のまわりに巻きつけて、これによって人を威嚇(いかく)したりしていた。まあ、いねば蛇使いの女であったと思っていいこれがメドゥーサ伝説の起源だ。

このメドゥーサは、嫉妬心の強い女性であるということは、ささほど語ったとおりであるが、また野心の強い女でもあった。女性のなかでもとくに名誉心の強い者、嫉妬心の強い者はままいるか、このメドゥーサは、こともあろうに我が妻ヘラに戦いを挑んだのであった。ギリシャにある、あの名にし負(お)うヘラに対抗せんとしたのであった。

ヘラには霊能力があるらしい。いわば一種の女教祖であるらしいが、この私が面と向かったならば、彼女の霊能力など風の前の蝋燭(ろうそく)の灯(ともしび)にしかすぎないと、つねづね豪語していた。

「ハデス様、ぜひそのヘラとかいう女の鼻をへし折り、わが前にひざまずかせとうございます。そうして、この私の愛する蛇の一匹で噛(か)ませとうございます、その高い鼻を。」と常づね言っていたのであった。こうした妻を娶(めと)ったが最後である。

我もまた、「そうした妻をもらうな。」とまでは言えなかった。遠隔の地において、身分ある者の娘をもらうというのであるから、これは許可せぬわけにはいかなかったが、これがまちがいの始まりであった。歴史の裏側には、歴史の転回する裏側にはつねに女がおり、この女は、よき女がいることもごくまれにはあるが九十数パーセントは、悪女によって歴史は手玉にとられてきたと言ってもよい。そのようなところに魔が忍び込み、そうして偉大なる者を狂わせて、歴史を転回させることはよくあった。

ハデスはこの妻の意見には従順であった。なぜならば、その悪しき心に反して、そのメドゥーサの体は、じつに女性らしく優雅で、ギリシャの女性にはないような官能を秘めていた。それは、西洋人が今日(こんにち)でも東洋人に対する神秘的な感覚を持っているように、ギリシャの人間から見れば、そのエジプト的なる深い深い雰囲気は、一度心が虜(とりこ)になると、もはやそこから抜けがたいものとなるのであった。ハデスはこの官能の魅力にとらわれて抜け出すことができなくなった。


5.悲劇の終焉(しゅうえん)


こうして、彼は兵を起こすこととなったのだ。ハデス軍は兵をあげることとしたが、そして中立を保っていた弟、中の弟であるポセイドンもやがてたきつけるにいたった。そうして、ハデス、ポセイドンの両軍が、ハデスは陸地を中心としてトルコ側から、アラビアの側からギリシャヘと攻め上ってき、ポセイドンは海から海軍を率いて我を攻めんというありさまであった。このとき、ポセイドンには、まえにも語ったように、海神、竜神というような、まあ言ってみれば正規の神ではないものが援護していたのである。

こうしたハデス軍、ポセイドン軍との戦いは、実はそう短期間に終わったのではなく、我が三千代の後半から四年、五年、六年という長きにわたって続いていったのである。そうして、我がハデスを滅ぼしたのが、ちょうど四十歳のころであったと思われる。そしてポセイドンの軍を破ったのが、四十二歳のころであったと思う。

ハデスは陸戦において最後、敗るることとなった。ハデス軍につきたる霊能者たちの、さまざまな予言があり、彼らは融通無碍(ゆうずうむげ)な神出鬼没(しんしゅつきぼつ)の戦術でもって、我が軍を攻めてきたが、これに対してオリンポスの神々は深く悲しみ、怒りたもうた。そうして、ヘルメス、オフェアリスの両神の力を中心として、この魔界の者たちを、一挙に追い落とすことに成功した。それは彼らが考えていなかった戦略によって彼らを滅ぼしたのである。この滅ぼし方は、実は意外なかたちであった。

それは、戦いにおいて敗れたのではない。遠いエジプトから遠征してきた彼らは、食糧に不足し、また異国の風土になじみかねて、次第に弱ってきた。そのときに、不思議なことが起きた。まあ、一種の食あたりといってもよいが、ギリシャの酸味の強い、油の多い食物を食べるにあたって、彼らは次つぎと胃腸を害するようになった。そして、暑い夏の陽を浴びて、熱射病にかかって倒れる者も出た。

ところが不思議なことに、それらの病は個人個人のものであるが、それがまさしく流行病(はやりやまい)のごとく、次から次へと伝染するのであった。パタパタパタパタと体の不調を訴えて倒れる者が相次いできたのである。その数、数百。そうしてハデス軍はひじょうに弱り、退却を開始しようとし始めたときに、ゼウス正規軍が背後から襲って、彼らを降服せしめるにいたったのである。

ポセイドン軍の敗れ方は、またこれは芸術的なる、また華麗なる、美しき最期であった。

彼らは海戦を得意としていたが、しかし彼らはつねに風向きがどのような風向きになるかということを計算していたのであるが、我が海軍を追いつめて、そうしてまさにギリシャに乗り込もうとしていたころに、不思議なことに季節風の向きが変わった。そうして、帆船でもって攻め込もうとした彼らのところに強力な逆風が吹きつけ始めた。そうして船は、次つぎと右旋回し、左旋回し、たがいにぶつかり合うというようなことが生じた。

このときに、我は命じた。

「小さな船でよい、小さな船を出し、火矢を射かけよ。」そのように命じた。

私の命ずるごとく夜陰に乗じて小さな船がいくつか出され、そうしてたがいにぶつかり合わんばかりになっているポセイドン軍の、この帆船の帆に向けて火矢を放ったのである。メラメラと一隻(せき)の帆船が燃え上がるや、その炎は海を染めた。夜の海を染め、次から次へと他の帆船をも燃やし始めた。こうして、思わぬ奇襲攻撃とまた季節風がその向きを変えるというアクシデントによって、このポセイドン軍はたいへんな損害を被(こうむ)った。

これではならじということで、とりあえずは現在のスペインの側に逃れんとして彼らは行ったのであるが、我がゼウス軍は、これを海路と陸路の両方より攻め追い続けた。このポセイドン軍は、いったんその勢力をまとめて、スペインにあたる半島に上り、そこで兵を休めんとしたが、そこの国の領主たちが彼らを歓迎するかに見せて、実は心はギリシャの神への深い信仰心に染まっていた。それゆえに、このポセイドン軍たちは、味方と思った者の裏切りによって、その陸からもまた追い放たれることになる。

こうして、やがてその間に我が海軍と陸軍が追いつき、その海辺においてポセイドン軍を壊滅させるにいたった。あわれ我が弟ポセイドンは、その首を取られ、マストの上に突き刺されるというあわれな最期を迎えることになった。


6.英雄の最期


このようにして、いちおう我がギリシャ軍は全世界を支配したことになったのであったが、この間、我が心のなかに忍び寄りたる憂愁は、その影を消すことができなかった。ゆえに、四十二歳を越えてよりのち、我は鬱々(うつうつ)たる生涯を送るようになった。まるで、我が心を象徴するように、あのアポロンが時に竪琴を弾き、夜中に我が心を悲しまさせた。その竪琴の音(ね)は、まるでポセイドンの涙を、ハデスの涙を語っているようであった。

そうして、我は、こうした戦に疲れたので、「今後戦(いくさ)はせぬ。」ということを宣言したのであった。今後すくなくとも十年間は、けっして戦は起こすまい。すくなくとも我が側からは起こすまい。人びとよ、平和を愛せ。神を愛せ。そうして我が教えのなかにも、単に正義のみならず、愛というものを取りいれることとした。他の者をも愛せ、親切を施せ、よきものを人に与えよという教えを説いた。

しかし、平和というものは、実に恐ろしいものをともなっているものだ。平和の代償は大きい。すべて善意に解釈するならば、軍備なくとも平和は維持することができると思うであろうが、その軍備を弱くしたということが、もうひとつのサタンをめざめさせることになった。それは、それは恐ろしいことであった。

我は、その当時、妻であるヘラが重い病にかかって、そうして動けなくなっていたので、その看病をも兼ねて見舞っていたのであったが、そのときマケドニアの方向から内乱が起きたという知らせがあった。時、我が四十七歳になりなんとするころであったと思う。すでに五年近い歳月が流れた。五年間、血を流すことなく、この全ギリシャを統一してきた私であった。さあ、兵を起こすべきかどうであるか、迷いに迷った。

我は、ヘルメス神(がみ)に祈った。ヘラもこのように死の床についている。そして、けっしてもはや戦火を見まいと誓った我に向けて、兵を進める者がある。ヘルメス神よ、この戦、我が最期となるのか。しかし、我が最期となった場合に、残されたこの国は、だれがどのように継いでいくのか。

アポロンはまだ十代の後半であり、二十にもならぬうら若い美少年であり、アテナも二十代前半の女性である。アテナが猛将の異名をもらっているとしても、しょせん女性は女性。いつまでも戦に勝ち続けることはできぬであろう。さあ、ヘルメス神よどうしたものかと、我は祈った。

ヘルメス神がそのときに、我が前に立ち現われて述べた言葉は、「ゼウスよ、最期の時は近づいてきた。おまえの人生はすばらしい偉業に満ちたものであった。そのおまえの最期はおそらく英雄にふさわしい最期となるであろう。後のことは思いわずらってはならない。後のことは、後の人びとが後の時代を思いわずらえばよいのだ。おまえは、おまえの時代を生き切り、駆け抜け、そして燃え尽きればよいのだ。ゼウスよ、もはやおまえの命はそう長くはない。我はこれ以上のことは言わぬ。」

「しかし、おまえも武人であるならば、潔く最期の時を迎えよ。単に攻められるのではなく、おまえもその戦のなかにおいて、この天寿をまっとうせよ。それが全智全能であったおまえの、地上における最期の姿ではないのか。」

そう、ヘルメスは語った。

我は、自分の最期が近いことを知った。マケドニアの軍は思いのほか強かった。しかし、軍力そのものをもってすれば、我がギリシャ正規軍に勝てるはずはなかったが、けれども五年間、平和を愛好した民たち、平和を好んだ兵士たちは、その動きは鈍く、また戦闘意欲は弱くなっていた。我はふたたび彼らに戦闘意欲をかきたてる気力も十分になかったともいえよう。

こうして、マケドニア軍の挑みに対して、我がほうは単に防戦一方という立場になった。そうして、ああこれがヘルメス神の予言であったのだろうか。勢力において圧倒的に勝(まさ)っていたわがほうであったのに、なんとしたことであろう。我が不注意のうちに、野営をしていたときに流れてきた敵の矢が、その流れ矢が、我が脇腹を貫いた。これが因(もと)で、我は深い痛手を負った。そうして、いったん退くこととなった。宮殿に退いた。

そして、治療をしていたのだが、いかんせん我が病(やまい)一向によくならず、やがて戦線は次第に泥沼化していったが、その最後を見ることなく、我は地上を去らねばならぬこととなった。

もちろん、この顛末(てんまつ)を語っておかねばならぬが、我が倒れしのちは、我が長女アテナが獅子奮迅(ししふんじん)の働きをしたことは言うまでもない。

アテナが、現代でもギリシャの守り神と言われているが、わずか二十三、四であったアテナは、このとき全軍の司令官となって、そしてギリシャ全軍をまとめて「父をこのような目にあわせた、このマケドニア軍は相許すわけにはいかん。最後の一兵まで打ち砕け。」と、怒号をとばし、そうして蹴散らした、潰走(かいそう)させた。そうして、ギリシャの国を守ったのであった。

しかし、そうしたアテナの奮戦も空しく、やがて我は病の床につき、そうして死を迎えるにいたった。

ゼウス、享年(きょうねん)四十七歳であった。