目次
(一九八三年十一月二日の霊示)
1.聖賢から「神理」を聴けるということは王者の位とも代えがたい幸せ
恵果 (――中国語による長い自己紹介ようの言葉が陳べられる……)
善川 あなたはいま中国語で何か長々と陳べられましたが、私はいま中国語については分り兼ねますので、恐れいりますが、あなた様のお名前をお聞かせ下さい。何んと仰しゃるお方でしょうか――。
恵果 恵果です。私の身分を証すため古い中国語で語りました……。
善川 ――ああ恵果上人さんでしたか。
恵果 そうです。またお目にかかることができ嬉しく思います。
善川 先日はいろいろご教示賜りましてありがとうございました。
恵果 どういたしまして……。
善川 今日またお出で下さったということは、私どもに特にご縁があってご指導に来られたというふうに解釈してよろしいか。
恵果 そう考えて頂いて結構であります。
善川 ということは、かつて過去世において私が中国の地で、密教を修行した者であるというご縁によるものでしょうか。
恵果 そうです。あなたとも縁がありますし、他のおふた方とも、皆様方、私と法縁のある方ばかりであります。特にあなたとは共に法を学んだ仲間であります。
善川 遺憾ながらあなたと、私どもとは、現在次元を異にした世界に生活しており、その生活様式を全く異にする立場におかれており、このような形で近年、あなた方の天上界から、過去のいろいろな方がたらの交信なりご指導を受けるようになりましたが、私どもに対して天上界の方々は、私どもが何かなさねばならぬということがあるために、このように私どもに対する霊現象を起こされているのでありましょうか。
恵果 ひじょうに大きな任務が与えられております。
善川 その点について、私ども現在これを如何に受け止めて、またその使命を如何に実践するかという方法論については、未だ判然としないのが現状であります。何かのヒントでもありましたら、ご示唆ねがえませんでしょうか。
恵果 たしかに今、あなた、およびあなた方は次の段階の方向なり行動についてひじょうに悩んでおられ、また迷っておられるということ、私たちも十二分に承知しております。そしてこのような形で私たちが語りかけることがあっても、これがいったん過ぎ去ってしまうと、いったんこの機会が終ってしまった場合、またあなた方は平凡な日常生活に帰って行き、その中でまた様ざまなことに悩み苦しみ、また地獄霊たちの波動をうけ、そうして更に苦しみが続く、果してこのような苦しみの中に生きておりながら、自分達が、偉大な使命を帯びた霊的指導者であろうかという疑い、これは常に起ることと思われます。しかし、これはひとりあなた方だけに起っている現象ではないのです。恵果といわれている私も、人間として生きていた時に、同じような悩みも乗り越えて来ました。天台智顗といわれる方もそうです。他の方々も日蓮にしてもそうでありました。彼らも何度もなんども魔境を通り越してきました。あなた方がご存知の日蓮という方も、何度もなんども法難にお遭いになっておられます。現在においてはそのような歴史的な事実しか残っておりませんが、彼がその法難に遭ったその瞬間、瞬間、その前、その後の心理状態が如何なるものであったか、あなた方お考えになったことがありますか。命を奪われるかも知れないというような、ひじょうな危機であります。彼は島流しにも逢いました。冲の島に置き去られたこともあります。通りかかりの漁師に救われなかったら一巻の終りでありました。そのような危機を、彼は何度もなんども繰り返しました。そのような中において、彼のこころの中には、善なるものも、悪なるものも幾たびか去来したはずです。光の天使達もささやきかけましたが、地獄の悪魔たちも、彼を呼び込もうとして、しきりに彼に対して話しかけていきました。彼はその中で、本当に自分が、仏、み仏の子として、釈迦の弟子として、この地上に゛法゛を伝えるために生れた光の天使かどうかということを、何度も何度も悩んでいるのです。しかし彼自身、私はこの日本という国に、仏法を説くために生れた人間なのだという、強い自覚、この自覚だけが彼を守ったのです。そうじゃありませんか。何度も命を奪われかけたり、或は何度も島流しに遭い、人里離れたところで何年も独り暮らしをするような生活の中におかれて、果して自分が、神の心を、仏の心を、説きに来た偉大な聖人であると言ったところで、そんなことを誰が信じますか。また自分自身の心を欺いているような気持になって、彼自身みじめな気持で日々を送っていたそのことは推測に難くないと思われます。
それにひき比べれば、あなた方はまだまだ順風満帆のうちであります。まだ命は奪われかけたことはなかったでしょう。島流しになったこともありません。しかしたしかにあなたは、社会的地位は得られなかったかも知れません。しかしそれは、イエス・キリストも言っているように、社会的な地位を得るということ、巨大な富を造るというようなことは、天国に一番遠いということであります。そのような心の事実に気付いたならば、現在のあなたというものはひじょうな成功者であります。そうではないでしょうか……。
生きながらにしてこのような神理の世界にふれ、また私たちと語り合うということができるというような、ひじょうな幸せであります。これは王者の位とも代えがたい幸せでもあろうかと思われます。このようなあなたは幸せな人間なのであります。
善川 私が現在負っている任務というものは、私が過去世においてなさねばならなかったことを、なし得なかったということ、その責任というものを、ひしひしと感じるわけでありますが、しかしながら今日、私に与えられたその方法といいますか、手段といいますか、これはかつての私が体験した時代、時代を遥かに超えた規模での任務、広さといいますか大きさを感じるわけでありますが、これに対応して任務を遂行するということについては私ひとりでは如何ともしがたいほどのものであるということを痛感するものでありますが、これの取り組み方と申しましょうか、それにはより多くの同志の方がたの協力、あるいは先導が必要だと思うのですが、これらの方向、構想、手段というものは今後立っていくものでしょうか。
恵果 立っていきます。もう既に計画といいますか、私たちの計画はできているのです。今後時間が経てばそのようになっていきます。あなた方はレールの上を走っております。ただ走っている途中において時間が速く感じられる時もあれば、ひじょうに遅く走っているように感じる時もあります。いまあなたが困難を感じていることがあるとすれば、それはひじょうに遅く走っていると感じている時なんです。スピードに違いがあるかも知れません。ひじょうに軽快に走っているときと、そうでないときがあるかもしれません。しかしどのような走り方をしようと、あなた方は、ただ一つのレールの上をまっしぐらに走っているという事実、これはどうすることもできないのです。いまあなたが不満に思っていることは、単に走る速度にすぎないのです。もっと新幹線のように走ってもよいのにと思う心があるからそのように感じるのです。しかしながら速いときも、遅いときもある。道さえ真直ぐに走っておればそれでよいではありませんか。ただ、いまひとつ自覚を深めていただきたいことは、世の九十九パーセントの人間は、己れの人生を全うすればそれでよく、また幸せでありますが、しかしながら、あなた方は、自分のために生きる人生と、他人のために生きる人生と、その両方を用意されているといいますか、その両方を経験しなければならないのです。ということは、あなた方は、他人の人生に対しても、責任を負っているということなのです。それとともに自らの人生をも築いていかなければいけないという、他人に比べ二倍、三倍の重みというものを要求されているのです――。
けれども゛法゛は、ひとりだけによって説かれるものではないのです。いつもいつも、やはり私たちの世界から、集団となって人びとが出て行き、多くの衆生に法を説いていくのです。あなたも法を説くひとりであります。しかし、あなたが、またあなた方一人ひとりの個人が法を説くものでもないのです。その法は、神から与えられた法なのです。あなた方は勘違いしてほしくないのです。あなた方の法を説くのではないのです。神から、仏から頂いた授かったものを、人びとにおすそ分けする。あるいは説明する。説明して差しあげる。そういうような役割なのです。すべてが神の補助者であります。根源は神であります。神から与えられる法を、あなた方は説明する。伝えるということであります。すべて補助者であります。イエス然り、釈尊然りであります。どうか自らが説くのではないということ、神の代理人として法を説くのだということを、どうか、忘れないでほしいのです。
善川 しかしながら、その説く神の法というものは、自分自身が悟り得たものから説くという形になって表われるものであろうと思いますが。
恵果 あなたは、あなたが悟った以上のことを人びとに説くことはできないのです。そうであるならば、あなたの悟りを深めていきなさい。あなたの悟り以上のものは説けないのです。そういうことであります。そのために、私たちはこういう形であなた方を援助しているではありませんか。あなた方の考えだけで放置しておくならば、私たちは、毎回出て来ません。常にこういう形であなたがたを援助するために出てきているのです。あなた方が呼んで出て来なかったことがありますか、誰かが出て来て、あなた方に法を説いているではありませんか。
2.天上界と、霊界、幽界の仕組について
善川 それはその通りでまことにありがたいと存じておりますが、この三次元の世界と、幽界、霊界、そしてあなた方が居られる高次元の世界との交信ということ、それと一般社会の、巷にみられるいわゆる゛拝屋(おがみや)゛などが行う霊現象というものをも合わせての、メカニズムというものがよく分らないのですが、たとえば、今日のような場合にでも、恵里上人をお招きしようと思いましてお呼びしたらストレートに、直ちにお出で願える場合と、ある場合には、その前段階として低級霊とか、ひじょうな悪霊とかいうものの障害が加わってくるということがありますが、これはどういう状況のもとでこうなるのでしょうか。
恵果 簡単に甲しあげましょう。二十階建ての建物があるとしますと、私は十九階に住んでおります。二十階に住んで居られる方もおられます。あなた方は何処に住んで居ると思いますか、あなた方は一階に住んでおります。地下一階、地下二階に棲んで居る、そのような人間がおります。彼らと、私たちと、どちらがあなた方のところへ来易いかというと、結論は明らかであります。あなた方が彼らに――つまりこの地上界に執着を持ち、あるいは、この地上界周辺に徘徊している霊の方が、あなたのところに訪れ易いということであります。私は十九階、二十階の住人であります。降りてくるのに時間がかかるんです。分って頂けますでしょうか、喩えていうなれば、遥か下の方なんです。遥か下の方に霞んでいる世界へ、私たちは降りてくるんです。いつもいつも降りてくるわけにはいかないんです。しかしながら、あなた方の日常生活の中で、あなた方の周りで蠢(うごめ)いているさまざまな霊たちがいるんです。彼らは近くに居るんです。近くに居る以上、さまざまなことを言い寄り、さまざまな干渉をしてくるんです。そういうことであります。
善川 いまのお話の続きなんですが、私どもが認識する範囲で申しあげますならば、まず霊界と甲しますか、それから様ざまな階層についてもう少し……。
恵果 つまり天上界の仕組についてお知りになりたいといわれるのですね。
善川 はい、もう少し詳しく知りたいのですが。たとえば、あなた方がお出でになる霊域と申しますか、層と申しますか、この地上界での比較級の概念で表現すれば、どの辺においでになるのでしょうか。
恵果 端的に申しますと、地上三千メートル位の高さのところという感じであります。ですから、いま申しあげましたが、たとえば地上三千メートルの高さから、地球上を見下ろした場合に、あなたの眼にはどのように映るでしょうか。遥かに下の方であります。そこからですね、このように呼ばれている、あるいは呼ばれていると感じたときに、私どもは降りてくるわけであります。三千メートルの距離から下りてくるのです。ところが地表には様ざまな霊が蠢いているのです。おわかりでしょう。そういうことであります。たとえていうならば三千メートルの上空からあなた方を日夜観ているという状況であります。降りて来ようと思えば降りて来られます。しかし、いつでも降りて来るというわけにはいきません。なぜなら、私たちの住家は、三千メートルの上空だからであります。私たちの住家はこの地上界ではありません。いつもいつもこの地上界に居るわけにはいきません。この地表に下りているわけにはいきません。
善川 如来界の方がたは、さらに高いところにおられるわけですね。
恵果 もっと、もっと高いところです。その高さは数千メートルといいますか、一万メートルの高さといいましょうか、これはあくまで譬にしかすぎませんが、如来界の方がたというのは、たとえて言うなら一万メートルの上空からあなた方の生活、地球というもの、日本というもの、中国というもの、アメリカというものを一望の下に観ているのです。そのような多くの人たちの毎日の生活を見ているのです。そう簡単に下りて行って、それぞれの人を救ったり、話しかけたりできないことは、既にご存知のはずです。
善川 それでは、その間に菩薩界の方が居り、その下に神界の方が居り、その下に霊界の方が居りというようになっており、一つの方針を伝えるという場合には、それぞれの担当者を通じて伝えるということでしょうか。あるいはまた逆に、下の方から上の方の方のご意見を求めるという伝達方法が行われているのでしょうか……。
恵果 ひじょうにむつかしいです。下のものから上の方に対して意見を伝えるということはひじょうにむつかしいことであります。
善川 いや、建言という意味ではなく、教えをうける、尋ねるという場合にです。
恵果 下のものというのはどういうことでしょうか。
善川 たとえば、菩薩界の下の神界の方、或は、そのまた下の霊界の方でも上段階の方で三次元のこの現象世界で生活している人間の守護をしている人達のことです。
恵果 人間界の普通人の守護霊を努めているのは神界段階のものですが、中には霊界段階の人でも、神界へ上進する程の悟りに達した者、たとえば、死後自分の生前における自己反省が行われ、この世は神の支配したまう世界であるということの自覚に達し、自己に与えられた環境を修行の場と考えるに至った人達のことですが。
善川 たとえば、その普通の人間界の守護霊を努めている、主に神界の方ですか、こういう方が菩薩界の方に、自分がいま指導している人間に対する指導方向なり、教育の方法なりをお尋ねするという場合に、上に向いてそのことを聴けるのでしょうか?
恵果 ご質問の主旨、よくわかりました。――こういうふうな形になっております。例えば、如来界の下に菩薩界があります。しかし、如来界の人達の内の一部は、常に菩薩界の方に下りていっておりまして、あなた方の言葉でいうならば、駐在とでも申しますか、菩薩の方の監視役、監督ということで、一つ下の世界へ数名のものが派遣されていつも出ております。そういう者たちには話をすることができます。それは可能です。また菩薩界の方がたは、神界の上段階において様ざまな教えを説いております。そういう方がたにご相談することはできるはずです。そういう形で相談ということはできますが、直接上の世界に行って、直か談判とでも申しますか、そのような形はひじょうにむつかしいです。
善川 そうですか。それで私どもこの三次元で肉体を持っていろものであっても、このようにして恵果先生のような大菩薩(ボサター)の方から高高なお教えをうけたまわるということは――。
恵果 これはひじょうな、稀なことだとお思い下さい。
善川 われわれ地上界に居る人間が、大ボサターのお話を直接お聴かせ頂くということは、これは稀なことであって、普通にはないことなのでしょうか――。
恵果 五百年に一回あるか、ないかというようなことだとお考えになって下さい。
3.丹波哲郎、隈本確氏らも天上界からの指導を受けている
善川 現在日本でも霊能者といわれている人がたくさん現われてきて、いろんな説をとって語っておりますし、霊治療などということもやっておりますが、そういう人達を守護、指導されておられる方は、どういう方面の方が指導されておられるのでしょうか。
恵果 ――たとえて言うならば、どういう方なのでしょうか。
善川 例えば、死後の世界の存在を説いていろ俳優の丹波哲郎氏とか、霊治療を行っている隈本確氏のような方については――。
恵果 隈本ですか、ちょっとお待ち下さい――隈本は、いま主として指導している霊は――矢張り、天上界の人間でありますが、病気を治療する、あるいは怪我人を直したりする分野で、かつて地上で指導していたような霊、このようなものが主に、指導しております。ですから彼の仕事そのものは私たちのように法を説くことではないのです。菩薩界にもいろいろな段階、分野、役割がありまして、直接如来を助け、法を説き実践するような人びと、或は各界において、実業界、或は政治家のような形で、直接法ではなくて、何といいますか、法の七光りと申しますか、プリズムにかけられた光と申しますか、他の形、変形したかたちで菩薩行を行う人が居ります。事業を興す、政治家になる、外交官になる、学者になる、またこのような病気治療をしていく、というような様ざまな形があるわけであります。彼に与えられた役は、病人を癒す、怪我人を治すという、そういうような役割であります。
善川 次に、丹波哲郎、という俳優でありますが……。
恵果 存じております。
善川 現在、霊界の問題について、さかんに書物を著わしておりますが、氏の根本思想は、『……私は俳優としてまず知名度を得た、その知名度をもってして、私が書く、また私が訴える霊の世界というものを多くの人に知って貰って、死というものに対する恐怖心を取り除く、というのが私の使命である』ということで、著書の出版に、テレピ放送にと、精力的に活躍しておりますが、これもまた今申されました天上界なり、菩薩界なりのプリズムの一つの顕れでありましょうか……。
恵果 そのとおりであります。彼には彼の使命があり、彼は自らの使命を実行しております。彼は既に自らの使命に気付いております。彼自身は、釈迦やイエスや日蓮や、或は親鸞のような人間でないことは、彼自身が気付いておりますし、彼の役割はもっと限定されたものであります。しかし彼はその限定された役割を十分に果たそうとして自分を励まし努力しております。
善川 氏の書き著わしている書物の諸説は、氏がインスピレーションというか、霊能力で得たものでありましょうか……。
恵果 そうではありません。彼は知識として得たもので書いておりますが、しかしながら、間接的には、守護、指導霊たちが、彼にインスピレーションを与えたりしながら、彼の毎日を指導しておるのです。彼はまだ本当の意味でそれに気付いておりません。それは、余りそのような力を持つと、俳優業という彼の職業の方にマイナスになっていくからであります。
善川 それでは、丹波氏の場合は今後もそういうことで、俳優業と相兼ねて活躍していくということですね。
恵果 そうです。
善川 丹波氏のような方は、既に財力、知名度共に備わっている方でありますが、われわれにいたっては、その点全く劣っているのですが、これはどういうことになるのでしょうか。
恵果 協力者が出てくるのです。協力者が出てくる前に、あなた方は自らを固めておきなさい。協力者が出てくるんです。
このような形での宗教というものは、広がる時はひじょうな速さで広がっていき、様ざまな階層の人びとを引きつけて行くんです。やがて気運が出てきます。あなた方が今後説くべき法というものが、どのくらい用意されているかということを問われるときがやってまいります。そのときのためにも、いま十分力を蓄えておかねばならぬということであります。さきほども申しましたように、あなた方にいましばらくの余裕が与えられているということであります。
4.「正法」は今後四十年、五十年という長期間かかって創りあげていく壮大な体系である
善川 私どもの現段階における知恵、知識、能力につきましては限界がありまして、私どもが想像する限りにおいては、今世紀末から二十一世紀にかけての文明は、ひじょうに高度なものが求められてくると思うのでありますが、私たちにそのような時代に即応した指導能力が備わりましょうか。
恵果 先のことは先のこととして、今あなた方に何ができるかということが問題であり、そのあなた方のできる、現在実行可能なことから始めていきなさい。あなたに今から二十年後、三十年後になさねばならぬことをせよと、言っているのではないのです。あなたが現に今なせることは何かということ、それを手始めとしてかかっていけばよいのです。もうその手段というものについては、お分りになっているはずです。それから先のことは、あなたの次の世代の人が引継いでいきます。正法もいきなり完成したものが具現するものではないのです。徐々に創られていくものなのです。あなた方の今の活動は、五年、十年、十五年の短い視野で行われることではなくて、今後、四十年、五十年かかって次第に創って行かれる壮大なる体系なのです。今から四十年、五十年あれば相当なものができると思いませんか。その土台造りをあなた方にしなさいと言っているのです。
善川 今後、天上界の皆様方からこのようなご指導を受けたということを、名入りで報告するということになるのですが、それでよろしいか……。
恵果 神理は一つであります――隠すこともなにもいりません。神理は一つ、ありのままであります。かくの如き状況の下にかくの如き現象が起き、かくの如き討論がなされたということであります。あなた方の任務は、法を人びとに伝えるということであります。中味を伝えるということであります。こんなことを言って人がどう思うかなど、もうそのようなつまらないことに悩む心は捨てなさい。事実を事実として書きとめなさい。現代の人に受け入れられなくてもいいのです。後の世の人びとがそれを見てどう判断するか、そこに偽りのない事実を書いておきなさい。脚色は不用であります。
5.死後の世界が科学的に明らかになった場合、人の精神は向上するか、堕落するか
善川 私が考えまするに、これからの新世紀に向って、新しい文化は日本を中心として展開していくというお説をお聴きしているのでありますが、これは、一つの「価値観の転換」というかたちで進められていくのでしょうか。つまり、物質万能、或は最重視とした考えから、精神性の尊重、霊的世界の探究、つまり物質重点の世界観から、霊的世界観の確立へという考え方の基準の転換、人生の価値観の転換ということに――。
恵果 日本を中心にしてということと、価値転換ということの、この二つの主題は別に連関していないはずです――。
善川 まあそれはそうですが、ただそれを主唱し先導していくのは、われわれ日本人が、歴史的にも、精神環境的にも主体となっていかねばならぬのではないでしょうか。
恵果 そうです。
善川 たとえば一つの立証例としましては、四次元以上の世界の、つまり異次元世界存在の科学的解明等の実証について。
恵果 三次元世界の今後の科学の発展をまたなければ、これは理解できないことです。更に科学といいますか、あなた方の世界で物理学といわれているものでしょうか、進歩し、やがて子供にも分るような時代になったときに、私たちの世界の仕組も理解されるようになるでしょう。
善川 そこで、そのことが明らかになることによって、人間の精神の向上が約束されるのでしょうか。或はそのことによって、かえってそこに、精神に怠惰が生じはしないでしょうか。
恵果 そういう必然的な繋がりはないと思われます。明らかになるということは、それとしてよいことだと思います。それと人間の精神が向上するということと、怠惰になることとは関係がないことです。
善川 死後の世界が分るようなことになりますと、これもやはり限界が設けられるのではないでしょうか。でないと、やはり死んだらもう極楽行きだ、地獄行きだということが分って居ったら、その人たちの日常生活が、どういうことになっていくかということになってくると、どうも現在既存の考えとか、モラルとか、いろんな面で変更混乱が生じてくるのではないでしょうか……。
恵果 私が申していることは、理屈と申しますか、筋立った議論として、四次元、それ以上の世界があるということがはっきりと分ってくるということであって、個人個人がそれをどう信ずるか、理解するかということは、いつの時代が来たところで、個人個人の責任にまかされているということであります。あなた方の正法の理解も、そのように科学が進んだ段階においては、更に明確なものになるということを私は述べているのです。どのような進歩した社会にも、乞食も居れば、豊かな人も居るんです。同じように、どのように科学が進み、正法が進んだところで、分る人と分らない人とは出てきます。しかし、どのように全体的に引き上げていくかということは、あなた方の仕事ではないでしょうか。
善川 要するに、真理が明らかにされるには……ただそれを。
恵果 明らかにされるといっても、人間の寿命は僅か七十年、八十年であります。明らかにされたと思っても、その人も亡くなっていくのです。次の世代の人がそれをどう信ずるか、それはその人の問題になって分らなくなってくるのです。
そういう意味において、正法は、根気強く語り継がれていかねばならぬのです。あくまでも、この世界観と申しますか、この本当の世界のすがたと申しますか、これをどう理解するかということは、個人個人にやはり帰属していくことなんです。その個人が過ぎ去ったものとなれば、次の世代の人達がそれを信ずるかどうかは、保証の限りではないのです――。ただ、われわれは、あなた方はそれを「文化」という形で継承していかなければならないのです。
6.起るべき破壊の想念にどう対処すればよいか
善川 ――いま一つお尋ねしたいのですが――いまあなたのお説によれば、一つの新文化を建設、開花させていかなければならないという大目標というものが感ぜられるのでありますが、その一方においては、ここに破壊ということが最近各方面で、とみに言われているという状況下にありますので、これとの兼合いと申しましょうか、私どもはどのようにしてこの破壊という想念と、正法実践の理念とを対置していけばよいのでしょうか――。
恵果 何んとも申せません――。どのような破壊が来るかも申せません。その時々にあなた方は切り抜けていかねばいけません。かつてあなた方の人生がそうであったように、今生においても、あなた方多くの人びとが、そうであったように、あなた方個人についていっても、様々な災難がふりかかってくることを、予め知ることができたでしょうか。できなかったはずです。その都度、その都度切り抜けて来たはずです。同じであります。人類に対する破壊、或は災難、に対して人類はその都度、その都度、切り抜けていかねばなりません。
――そのような心構えを持って居ればよろしい――。その時に誰が死ぬとか、何処に居る人が居なくなるとか、何処の都市が破壊されるとか、そんなことは知らない方がよろしいんです。それは逆に、悪魔の仕業になってくるんです。そのようなことを次つぎと言って、人びとの心をパニックと申しましょうか、混乱に陥れるということは、天上界の仕業ではないのです。
事実は事実として起るでしょう。しかしあなた方がすることは、心の平静を説くことなんです。混乱を助長し、破壊を促進する、そのようなことではないのです。これからもいろんな予言者のような者が出てきて、次つぎと混乱した世の中、破壊の世の中の様相を説いていくでありましょう。しかし、あなた方は、その中において平静な心を持ち、泰然自若と申しますか、人びとにそうではないのだ、そのような事件や災害や、そのようなものに左右されてはいけない、あなた方がたとえ己れの人生が明日終るということが分っていたとしても、残りの一日の人生を精一杯生きなさいと、それを説くのがあなた方の使命なのです。そうではありませんか。あなたは明日死にます、だから今日はどうでもしなさい――或はあなたは一年後に死にます、あの都市は一年後に破壊されます。その都市の人びとは逃げた方がいいんです。そういうことを言うのがあなた方の使命ではないのです。その都市に住んでいる人びとはたとえ一年後に亡くなるとしても、すべて壊滅するとしても、その一年間は、どう一生懸命に彼らが生きることができるかということが大切なことなのです。そうではないでしょうか。目的をどうか誤らないで頂きたいのです。この世的な幸福、不幸ではないんです。根本的な人間の生とは一体何であるかということを、あなた方は教えなければいけないのです。
むしろ災害とか、様ざまな人災が起きてくるときに、動揺することなかれ、不動心を持て――、たとえ一時間後に死すとも、揺るぐことのない人生観を持ちなさい、というのが、あなた方の仕事なんです。
――どのような災害が起き、どの国とどの国が戦争をして、その大半が死ぬということを予言するのが、あなた方の使命では絶対にないのです――。わかりますでしょうか。
善川 それはわかりますが、先程も申しましたように、天上界の菩薩界、或はそれ以上の如来界の方がたの、一つの正法流布の顕れとして、そのプリズムとして心霊手術とかいうような形が行われているということにつきまして、これを受けるものの側の心理というものの教育がなされていないように思うのでありますが……。
恵果 それは他人の畑であります。あなたはその言葉を知っているはずです。他人の畑であります。その中で豊かに稔れば、それはそれでいいではないですか。あなた方は、あなた方の畑を耕しなさいと、以前言われたことがあるはずです。そのとおりであります。稔りのちがいはあるでしょう。たわわに稔るところと、少ししか稔らない違いはあるでしょう。しかし少しでも稔ればそれでいいではないですか。それを他人の畑に行って見て、稔りが少ないよと言う必要はないんです。それで満足している人は、それで満足しているんです。稔りがあれば、それはそれでいいではないですか。あなた方は、あなた方の畑を耕しなさい……。
善川 私たちが人びとに正法を伝えて、この正法を実践するならば、人びとは心身ともに健やかに生きて行けるのだということを唱えるということは、間違いではないでしょうか。
恵果 問題になっておりません。今の質問は、問題になっておりません。間違いでないことは明らかであるからです。他のものを排撃する心を持たないということを私は申しているのです。それはそれでいいのです。信ずる者が、自主的に増えてくればそれでいいのです。そうした方向を目指していきなさいと私は申しているのです――。
善川 それはそれでいいのですが、心身と申しますのは心と、いわゆる魂と、体とが正法に向いて実践していくならば、そこに生甲斐と申しますか、幸福感をあじわうことができると言い切れるかということをお尋ねしているのです。
恵果 だからそれは質問になっていないはずです。それは正しいことは、あなたはご存知だからです。
7.病気の八割までが悪霊の憑依によるか
善川 一説によると、人間の病気というものの八割までが悪霊の憑依によるものであると言われていますが、自分の心が明るく、清明心である場合はそのような災(わざわい)を受けることなく済むということ、これはそのとおり正しいものと理解してよろしいでしょうか――。
恵果 どちらかといえば、そのような説には賛成ではありません。なぜなら、憑依というような外部的な事情にその原因を帰しているように思えるからであります。憑依は結果であります。結果であって原因ではないのです。その言葉を正しく言い直すとするならば、病気の八割は自分自身の責任によって起きるということであります。憑依によって起きるのではないのです。自分自身の責任によって病気の八割までが起きる。結果として何らかのかたちで憑依されている。そういうことです。憑依されてから病気になったのではありません。
善川 それはまあ、純粋論でありまして――。とは申せ、あなたご自身が肉体を持っておられたときに……。
恵果 例えば、私の言うことを確かめたいと思うならば、あなたは睡眠時間を毎日三時間にして生ぎてごらんなさい。直ぐに病気になります。簡単であります。それは自分の責任であります。そのように身体の不養生ということもあるのです。その結果あなたは睡眠不足で毎日生きていく上で、憑依もされるでありましょうし、それで病気は重くなるでありましょう。あなたの不養生ということでありましょう。悩みから病気を起こすこともありましょう。それはあなたの心の動きであります。どうか、憑依という現象はあるかも知れませんが、そのようなものに惑わされずに、自らの責任というものをもっと考えなければいけません。健康に配慮すればもっと健康になれるのです。それだけのことであります。しかしやむを得ない病気というものもあります。これも否定できません。なぜ、私がこういうことを申しあげるかといいますと、たとえば、いま世の中の方がたに、病気の八割は憑依であると言った場合に、一体どんな反応が起きるでありましょうか。それを信ずる方がたもいるでしょう。しかし信ずる方がたが正法に帰依する人びととは思いません。なぜなら彼らは憑依霊を取り除くためにだけ法を信じようとするでありましょう。そのように現象にとらわれた法は、正法ではないのです。彼らにそんなことを気づかせることではないのです。あなた方は正しい生き方を教えるべきです。霊的な能力によって憑依霊を取り除くよりは、健康法を守ることによって、健康になって頂くことの方が、助かるのです。そのような言い方は、世の中を混乱させる惧れがあるのです。病気の八割は憑依だと――そうかも知れません、病気になっている方は、健全な心ではないでしょう。ですから霊的にも健全ではないでしょう。しかし、病気の八割が憑依だという言い方をするならば、世の中は混乱する方向に行きます。良い方向には行きません。昔の加持祈祷に戻って病気を治そうという方向に向っていくのです。これは私たちの望むところではありません。
8.悪霊の゛磁場゛内での正法行者は、攻撃の的となる
善川 お説のとおりだと思います。しかし、あなたが、かつて肉体を持っておられたとき、或は、空海さんがあなたのもとで勉学をしておられたときにも、先般あなたも申されたように、私も一生の間、悪霊の攻撃を受けて苦しんだと言われたことは、彼らの憑依を受けたと、そういうふうに解釈されたのですが、そういう状況というものは、あなた方の心が病んでいたため、というのでしょうか。それとも、その場合には別の意味があったからといわれるのでしょうか。
恵果 私たちは、現象界に生きておりました。そしてその現象界の中に、彼らの゛磁場゛もあるのです。それはそうでしょう、他人の棲家に入ったと思ったら、中の住民たちはひじょうに怒るでしょう。私たちが三千メートルの上空に住んでいたら、彼らは何もすることはできません。しかし彼らが住んでいるあたりに、私たちもまた肉体を持って修行しているために、様ざまな摩擦が起きてくるんです。
いまのことで私は、一般論として病人の話を説きました。法を説く者について、同じことが言えるかどうかというと、原理としては同じであります。しかし現象としては違う面もあります。なぜならば彼らは、明らかに法を説く者たちに対して警戒をし、或は敵意を抱いているからであります。通常の人たちに対し敵意を抱くということは、個人的な恨み以外にはありません。しかし個人的な恨み以外に彼らは敵意というものを持っております。対決すべきものという認識を持っております。その意味において一層厳しくなるでありましょう。普通の人なら、なんと申しますか、五〇パーセントの心の悩みがある中でもそう大きな影響を受けない場合でも、この正法行者は、ほんの一〇パーセントの心の迷いがあったために、彼らの攻撃を受けるということはあり得ます。それだけ厳しい修行の場であります。これは確かであります。
善川 しかし、その彼らの攻撃と戦い、勝利するということは正法神理の念を堅持し、彼らに愛念のこころで接することでありましょうか。
恵果 というまでもなく、既にあなた方は勝利しているんです。彼らは攻撃する、或は憑依するといったところで、あなた方をどうすることもできないではないですか。そうでしょう。現に不愉快な思いをさせられるのが精一杯でありましょう。命を奪うこともできないんです。病気をさせることもできないではないですか。そうでしょう。不愉快な思いをさせるのが精一杯でしょう。あなた方を狂わすことができるかというと、そこまではできないのです。現に疲れていて、彼らにやられているときに、あなた方の判断はくるい、感情的に起伏は激しくなり、言葉は荒くなり、口論を戦わすことがあるかも知れません。それが限度であります。あなたを殺すことも、どうすることもできないんです。それはあなた方が人生において、日々勝利しているということなんです。