目次
(一九八六年二月八日の霊)
1.人間の本性は真、善、美の三位一体
―― 孟子の招霊を行う ――
―― ――孟子様ですか――。
孟子 ――マオシデス
―― この様なところにお招きして恐縮ですが、いま私どもは、これからの新しい時代の精神革命ということを考えておりますが、あなたが説かれたかつての法についていま一度お伺いして、現代の人間あるいは将来の人類に対する一つの光の言葉として述べ伝えたいという希望を持っております。つきましては、この辺について何かご指教を願えましょうか。
孟子 もう大分前からあなた方から私がお招きをうけるということは、わかっておりましたから、心待ちにしておりました。私からばかり教えることもないかも知れませんが、こうした機会にあなた方と話ができて、そのことが私への学びとなることも嬉しいことだと思っております。
さきごろは孔子様や、老子様も出られたそうで、また私をお呼び下さって、孔、孟、老、荘ですか、それでまた書物を出されるということ、これはこの世を去って何千年も経っている私どもにとっては、非常に嬉しいことでもありますし、こういう機会を与えられましたことを神に感謝いたします。
―― そこで聖賢の方々から徐々にお教え賜わっているわけですけれども、各聖賢方にはそれぞれのご意見がございましてそれはそれとしてうけたまわっておりますが、私どもは大きくは万教は一つで、その時代、時代、場所、場所に応じた光の指導霊が、神から発せられている教えを広められたのである、という立場をとっております。ために、どのような方がお説をどのように説かれようとも、全てこれ神から出されたお教えであるというように、私どもは受けとめておりますので、いささかの矛盾も感じずに拝聴いたしておるものであります。従いまして孟子様におかれましては、既に今から二千数百年昔にお説きになられたお教えでございますけれども、今にあなた様のお教えが受け継がれておるということは重要なことでございます。けれども当時のお教えは、現代におきましてはいささか難しく、現代人の頭では中々消化できないような高度なものであるというように考えられますが、私たちは、日本語の現代語で当時の先生のお考えなり、また将来のお見通しというふうなことにつきまして、うけたまわることができましたなら非常に勉強になると思いまして、お招きいたした次第です。どうか一つあなた様の、人の生きるべき踏むべき道についての本来的と思われるお考えをご教授頂きたいと存じます。
孟子 今日は何もかも語るわけにはいきませんが、主として、三本ぐらいの柱を立ててみようかと思います。
最初の柱は、人間性の根底にあるものは何か、人間の本性について、語ってみたいと思います。次にあなた方は、ユートピア論を考えておられますけれども、私なりのユートピア論を語ってみたいと思います。三番目には、あなた方へのアドバイス、あるいはあなた方との質疑応答のようなものをやってみたいと思います。
まず最初にあらゆる宗教や、あらゆる哲学の基礎にあるものは、人間をいかなるものとして捉えるかということです。この視点だと思うのです。人間はいかなるものであるか、その捉え方によって各宗教やいろんな教え方は異なる色彩をもったものとなったでありましょう。人間を罪の子のように捉える捉え方もあるし、人間を不浄なものというふうに捉える捉え方もあるし、あるいは人間を光の子だとか、火の子だとか、そういった捉え方をする人もいるし、ま、いろんな捉え方があると思うのです。
まず、その中で、私の基本的な考え方というのを明らかにしておきたいと思うのです。私は、人間の本性は善であり、真であり、美であると、言葉を換えるならば、真、善、美こそ人間性の根底にあるものだと、このように考えます。そして人生というのは、この内在の真、善、美を、いかにしてその数十年の人生の中において輝かすかということです。これにかかっていると思うのです。人間の本質は真、善、美であります。この三つのものが、渾然一体となって人間の本性を創っていると思うのです。この真、善、美、これを阻害するものが、様々の悪であり迷いであると思うのです。ただ人間の本質そのものは、真理であり、善であり、美であるということです。
あなた方は今、様々な神霊たちとの交霊を通していろいろと学んでおられると思いますけれども、まだ真、善、美、これをキリスト数的だと間違われてはいけませんが、真、善、美の三位一体、これが人間の本性にあるということ、ここまで考えが至っていないように思います。
『真』ということは何か、それは神の法則の下に生きているということですね。これが真理にのっとった生き方です。これが真であります。
『善』というのは一体何であろうか。善というものは自己と他者との関わり合いを決めるものです。つまり、善というのは、大調和を創り出すための原動力です。人間は人のことを思い、人を助けようと思い、人を愛し、生かし、赦していく、育(はぐく)んでいく中に、善というものを発揮してゆきます。その善というものは、一体何のための働きであるかといえば、これは大調和です。宇宙の大調和、これを創り出していく、霊の世界の中に創り出していく、この原動力になるものが善であります。さきほどいいました真、真理というものは宇宙の法則ですね。宇宙の法則に人間は左右される。人間は宇宙の法則によって統(す)べられる存在である。そしてそういった法則の中において、人間は次なる行動基準として善をなしてゆかねばならないのです。善とは愛他であります。利他であります。他人との関係の調整であります。また善とは、人間の本性が善きものであると信ずることであります。なぜ愛他の念が起きるのでありましようか。何故他人のことを一生懸命に考えてあげるのでありましょうか。何故親切をするのでありましょうか。何故人のために尽すのでしょうか。それは他人もまた善きものであるからです。善きものと善きもの同志であるからこそ愛し合うことが必要なのであり、導きあうことが必要なのではないでしょうか。善はこのように宇宙の大調和を創り出すための原動力でありますが、また善の一側面においては、自らも善なるもの、他人も善なるもの、いわゆる、善きもの、存在を善きものとして観る気根と申しますか、心根(こころね)があるわけであります。これが『善』であります。最後に、『美』ということがあります。いまだ、あなた方のところに出てきている神雲たちは、美ということについて語り得ていないように私は思います。人生にはやはり美は大切です。なぜあなた方の目には美しいものと醜いものが見えるのでしょうか。美醜はまた善悪と並び対称される言葉です。何故あなた方は善悪があるのかということを考え、よく議論されると思います。ではなぜ美醜があるのかということは、あまり議論されたことがないと思うのです。なぜ或るものは美しくて、或るものは美しくないのでしょうか。それを今一度考えて頂きたいのです。何故あるものは美しくて、あるものは美しくないのかということです。
美しさというものは一体何でしょうか。美しさの中にはなにか魂に響くものがあるはずです。その魂に響くものとは一体何でしょうか。神の、神仏の心の中に人々を導く方便として美しさということがあるということですね。本当は形の上に表れた美しさが、神仏の美しさではないのです。ただ、この地上的にはそのような美しさでもって説明しなければ説明がつかないようなものがあるということですね。それをたとえば形あるものでいえば美しいという言い方をするわけです。鳥が翔(と)ぶ姿を見て美しいと感じます。なぜ美しいと感じるのか。それは一言では言い切れません。けれども、あなた方は皆美しい何かを感じています。白鳥が翔(と)ぶ姿をみて美しいと思う。けれども鳥(からす)が飛ぶ姿をみてもなかなか美しいとは感じない。何かが違うわけですね。
このょうな美醜という概念があなた方に与えられています。けれどもその美醜というのは単に外部的にあるものだけではなくて、人間の中においても、美というものが、埋まっていると思うのです。美というものは、単に形だけではなくて、動きの中にも、時間の連続の中にも、美というものはあると思うのです。つまり「美しい人生を生きる」という言葉がありますが、美しく生きることはできるのです。その人生の中において、善として、善き人生を生きる。あるいは、真として、真理に生きる。こういう人生もありますが、美しい人生を生きる、こういう生き方もあるのです。では美しい人生とは一体何でしょうか。それを皆さん方は真剣に考えたことがあるでしょうか。美しい人生って一体何んでしょう。美しい人生というものは、やはりその人生の時間の連続の中において煌(きらめ)きが、輝きが、あるということだと思うのです。
そのような煌き、輝きがあるかどうかということですね。この煌き、輝きというものは一体何でしょうか。煌き、輝きというのは、あなた方の人生の一断面において真理の光がほとばしった時、これを煌き、あるいは輝きというのではないでしょうか。たとえばあなた方一人一人は、結構平々凡々とした人生を生きてこられたはずです。それがある時、出合いがありました。神仏との出合いがあり、聖霊たちとの出合いがありました。その時あなた方の人生は、光を放ったのではないでしょうか。輝きを放ったのではないでしょうか。これが光であり、煌きであり、輝きであります。これを称して『美』といいます。
以上を総合して考えてみると、人間の心性の中に真、善、美というものが埋まっています。『真』というのは神の創られた法則、これを仏教的にもキリスト数的にも、いろいろ言われています。あるときはそれはカルマの法則のように言われています。蒔いた種は刈り取らねばならぬというようなことです。あるいは中庸(ちゅうよう)、中道の法則、作用、反作用の法則、あるいは達磨のように、だるまの法則といわれているのですか ―― 人生は起き上がり小法師(こぼし)―― のようなものであるというような考え方、こういう考え方もあるのですね。そういった様な神の法則というものを、いろんな人がみてきているわけですけれども、そういった真理ですね。法則が人間の本性(ほんせい)の中にあるということ、これが一つだし、善なるもの、善きものそのものが、人間そのものの中に善きものが埋まって居り、それぞれの人がまた善きものであり、善きもの同志が共鳴しあわねばならないということ、こういった人間観が二番目にあり、最後において、美というもの、形において美しさがあるように、人生もまた美しくなればいけない。人の魂も美しくなければいけない。こういった観方があると思うのです。
この真、善、美すべてが満たされて、はじめて人間として完成された人間になってくるのではないでしょうか。私はそういうふうに人間というものをみております。ですから私があなた方に、人間として生きていく道で何が大切かということを、問われたとするならば。まず一人一人の人に言いたいのです。真善美というものを心に描きなさい。今、自分の生き方は″真″まことがあるかどうか、神の法則にのっとった生き方であるかどうか。まずこれを心に問いなさい。
二番目には自分の今の生き方は、善なる生き方であるかどうか、神の子としての善なる自我の発露が出ているのかどうか、善であるかどうかを問いなさい。最後は美であるかどうか。自分の人生は美しい人生であるかどうか。これを考えていただきたいと思うのです。美しい人生というものは、最初から最後までが輝いているような人生ではありません。輝きというものは薄汚れているものの中から輝いてきたり、曇った空の中から光が差してくるようなものです。お釈迦様は、蓮の池に、あの泥沼の中から咲いてくる蓮の華というものを人生に喩えられました。同じようなものであります。蓮の華であります。そうした人生というものは美しくなければいけない。ですから生きていく途次において、時折立ち止まって、私の人生は果たして美しいだろうかどうか、こうしたことを踏み止まって考えてみて頂きたいのです。この真善美ということを、人間として生きていく上での反省の材料として頂きたいのです。釈迦は八正道ということを言いました。正しく見る、正しく語る、そういったことを順番に言っていきましたね。けれども八正道は少し難しいかも知れない。もっと簡単に真、善、美でいいのじゃないか、自分は真実の生き方をしているかどうか、法則にのっとった生き方をしているかどうか、自分は善き生き方をしているかどうか、人間として善く生きていくということ。三番目は、人生は、自分の人生は美しいかどうか、穢れた生き方はしていないか、醜くはないか、こういった真善美という、いわゆる三つの言葉を反省の材料として十分に使って頂きたいと思うのです。あなた自身に対しても、これは当てはまることなのです。あなたは、真なる生き方をしているかどうか、真実の生き方をしてきたか、これはまずまずあなたをとれば、まずまずの合格でありましょう。あなたは善なる生き方をしてきたかどうか。ま、これもまずまず善なる生き方、悪なるものに心負けたことも何度かあったけれど、まずまず善なる生き方をされたはずです。
あなたは『美』なる生き方をしてきたかどうか。これは今一つあなたにとっては課題の残るところだと思います。ただその美しい生き方として光が煌きが、近年に至って後半になってから初めて現れてきております。あとこれ、死ぬまでの間に、どれだけの煌きを出していくかということでしょうけれども、こういった真、善、美という立場、これを守っていかれることが大切なことだと思います。
ここまでで質問があればお聞きします。
2.真、善、美の魂の本質確認が基本要件
―― 私への訓えの内容につきましては全くその通りでありまして、これが人の生きる道の規範となるものであろうと思います。そうではありますけれども、人間というものは、本来、この現象世界に出る限りにおいては肉を持つということ、大きな、いうなれば十字架を負うわけでございまして、その意味でこれがその通り万人が万人実践できないというのが、課題ともなっておるように思うのですが、人びとが少しでもこの方向に人生を打ち込んでいけるというためには、如何なる努力が必要かということ、ここらが問題の核心になろうかと思いますが。
孟子 確かに努力ということではおっしゃるとおりでありましょうが、基本的な人生観を誤ってはいけないということです。ですから、キリスト教でいうならば、罪の子という思想がずい分害を流していますね。それはキリスト教以外の方からみればよく分かるはずなのですけれども、人間罪の子、原罪ありと、いうようなことで、不当に人間に悪い暗示を与えているのです。こういった考え方はとってはいけないということです。人間は、確かに肉体という肉の衣を被っているかも知れませんけれども、その中にあるものは真なる魂であり、善なる魂であり、美なる魂であるということです。まずこれを信ずることから出発しなければ、その後に構築されるものは違ったものとなってしまいます。
真であり、善であり、美であるということを信ずることによって、はじめてそこからプラスの人生、素晴しい人生というのが拓けてくるのです。もともと本質そのものを、悪いもの、汚れたものと考えてしまうと、なかなか人間というものはプラス・マイナス零以上にはなってこないものなのです。それを私は言っているのです。
―― まあこれは、人間の性善説と申しますか、本来人間は神の子としての、善性をもって生まれておるのであるけれども、そういう自覚がないと現象界におけるいろんな誘惑とか、いろんな迷いとか、悩み、苦しみというものに囚われて己れを見失って、己れを暗いものに、みすぼらしいものにすると、悪なるものへ、ズルズル引きずられていくというかたちになるのではないかと思います。けれども、その善なるものであるという自覚を強めるという方法が第一に大事なことであると思います。
3.地獄霊は生まれ変わって来ない
孟子 少なくとも、まずその前提になるのが、正しい知識なのです。あなた方はこういった様々な霊達と話しあって、また、宗数的人生観を持っているために、かなり汚れていない魂というものを知っております。けれども、普通一般の人たちはどうでしょうか。世の中には善人も悪人も居ると思っているのです。というよりも、悪人がはびこっている世の中だと思っている人の方が数においては多いのです。善人、悪人という両方の種類があると思っているのです。現象界において二種類の人間がいると思っている人がいます。それともう一つは初期段階です。霊的興味をもっている方々、霊的な生まれ変わりとか、転生輪廻ですね、或いは魂ということを信じていても、この世に生まれてきている人間の、或る人たちは天国から生まれてくるけれども、残りの人たちは地獄から生まれてくると、まっ暗な世界から生まれてくると、こういうふうに思っている人は、どちらかというと宗数的なプロの中にも多いのです。だから、ある人達は威(おど)しています。よく周(まわ)りを見なさいと。あるいは悪魔の手先かもしれない。そういう人として生まれ代わってきているとみている人もいるかもしれません。こういう観方は結構多いだろうと思うのです。それはキリスト教の中にもあります。天から来た人とか、地から出てきた人という言い方をしているために、あたかも人間が地獄から生まれてくるかのように、思われているのです。
けれども今私は、はっきり言っておきます。地獄からこの世に生まれては来ません。少なくとも最低限度としての人間としての最低限の悟りを経ていなければ生まれてくることはないのです。最低限自分が霊的な実在であるということ、この辺が気がつかなければ地上に生まれ代わってくることはないのです。ですから、世の宗教家たちがよく間違っていることは、あるいは世の霊的信仰を持っている人が間違っていることの中には、地獄から生まれてきたから悪い人であると。ああいう人間というのはきっと、ひどいところから生まれてきているに違いないと、思うかもしれないけれど、本来はそうでないということです。美しい魂をもって、美しさの程度はちがうのだけれど、そういった人が生まれてきて何十年か育っていくうちに、色々に分かれてくるだろうということなのです。魂の傾向ということは勿論あります。カルマということもあります。ただ、本来的な悪人とか、そういうものがいると、思っちゃいけないということです。これは正しい霊的知識として知っておく必要があります。
―― ある程度、霊的存在であるという自覚を持っていない者は生まれてこないということでございましたけれど、しかしながら、現象界に生まれてくると、やはりそれを忘れてしまっておるということですね。そして、かえって、たとえば出てくる以前より以下の生活をして、以下の成績でまた還っていくという者があるということについては、いかがなものでしょうか。
孟子 確かに、おっしゃる通りです。それは人間として生きていった何十年かの間で、そういった借金をつくってしまうわけです。けれども、私がいっているのは、借金を背負って生まれてきているのではないのですよ。借金はない人なんですよ。むしろね、天にいるお父様から、お小遣いをもらって、旅費をもらって生まれてきている人ですよ。しっかりやってこいよと、言って小遣いをもらって出ているんですよ。旅費は持ってきているのです。ところが、旅をしている途中でですね、いろいろと、あちこちで買物をしたり、物事に使ったり、食べたりしてですね、そして大きな借金をつくって、そして還ってくるんですね。それが地獄です。ですから、生まれてきた時に、借金をもって生まれてきているんじゃないということです。みんな善なるもの、まあ旅費ですね、旅費を頂いて生まれてきているんです。ただ、それを旅の途中で使っていく中において、大きな財産にしていく人もあれば、借金をつくってしまう人もいるということなんです。
―― 要するにまあ、自由であるということなのですね。
孟子 まあ、自由とまで言い切れるかどうか分かりませんけども少なくとも、借金した状態で生まれてきた人間ではないということ、これは知っておく必要があるということです。
―― ということは、カルマを持って生まれてきたものではないということですか。
孟子 カルマはあります。カルマはありますが、その修正をある程度終わって生まれてきているということなんですね。いいですか。一万円の借金はあるかも知れないけれど、二万円のね、貸金(かしきん)は作って、はじめて生まれ代わってきているということなのです。差し引きすれば、プラス、マイナス差し引きすればプラスになっていなければ、人間は生まれ代わってはこないということなのです。
―― ああ、そうですか。にもかかわらず、財産を増やしていく人もあれば、却って負債を増やしていく人もあるということですね。
孟子 そうです。ですからね、前世においては、たとえば、五十万円の借金をつくりました。そして地獄へおちました。地獄で修行をしてね、そして五十万円以上返済しました。五十万円の負債を六十万円返すことによって、六十万円を生み出すことによって十万円の、要するに資産をつくって、はじめて人間は、また生まれ代わってくるのですね。ところが今世においては、その元手の資産は十万円なのだけれど、それがまた今度は、一千万円の借金をこしらえてしまうかも知れないのです。そうすると来世に還ってくると今度は一千万円以上働いて返さねばならないのです。
こういうふうに借金をつくる体質、借金をつくる傾向というのがカルマなのです。が、その額がね、悪くなっていく人もいるわけです。しかし、生まれてきた時十万円持っていて、それを死ぬ時には百万円にしたり、一千万円にして還っていく人もいるということです。しかし、生まれてきた時十万円持っていて、それを死ぬ時には百万円にしたり、一千万円にして還っていく人もいるということです。ですからカルマはあるんです。そういう借金をつくるような体質ということですね。あるいはお金を貯蓄していくような体質の人がいます。これもカルマです。しかし借金をつくっていくようなカルマの人もいます。そういうことたんです。そういうふうにカルマは残っています。けれどもその負債は一たんは帳消しにされてから人間というものは生まれ代わってきているんですよ、ということを言っているのです。
4.堕落は無知と悪魔の誘惑
―― まあしかし、そういう生まれ方をしているにも拘らずそれを、負債を残すということは、そういう原理を元もと知らないか、自分の努力の欠如による勉強不足ということになるのか、それとも第三者の悪魔の誘惑でそういうことになるのか、どちらかですね。
孟子 それは両方です。たとえば、ある人は五十万円借金して返すのが大変だったから、もう借金は金輪際すまいと思う人もいるんですね。一方では、五十万円借金したぐらいではね、何も学ばずに、もっともっと借金しなきゃ気がつかない。そういう借金ということがいけないことだということが分からない人もいるんです。五百万、一千万借金、あるいは一億円の借金をこしらえて、はじめてこれは大変なことになると、こういうことをしてたんでは私は間違ったことをしてしまうと、人生を駄目にしてしまうと、こういうふうに思う人がいるんですね。
それとまた、借金をすると、あなた方の世界でサラ金とか、高利貸がいますね。そういうもんです。借金をしている人に金を貸そうという甘い声をかける人がいるんです。これが地獄の悪魔たちです。実際困っているんですね。五十万円の借金があると。――じゃあ、私が百万円を貸してあげましょうと、百万円貸してくれるんです。が、使っているうちにいつの間にか利息がかさんできて、二百万、三百万の借金になったとする。それを埋めるためにまた、借金をする。また増える。こういったことなんです。そういう意味において、地獄の悪魔たちも決してね、その生きている人間に対しては、彼らとしては悪いことをしているつもりはないかも知れないのです。また生きている人達も、地獄の悪魔たちがやっていることを悪いことと思っていないかもしれないのです。それはそうです。借金している時に、お金を貸してくれるというのですから。それはいいんです。ありがたいんですが、増々それが自分の墓穴を掘っていくんです。こういうことになってはじめて気がつく、ですから第三者としてもかかわりはあるんですね。
5.地獄に堕ちる宗教家の大借金
―― たとえばいま一つの例ですが、人の道を教える立場にある宗教家ですね、宗教家においてこれまた、莫大な借金をつくってしまうおそれがあるわけですね。
孟子 そうです。
―― こういう場合には本人は気がつかない。生前においては少なくとも自分は正しいことをやっていると、人のために世のために尽くしておるんだと、そして一生懸命やったにもかかわらず、それが実は、大きな借金であったと、負債であったということですか。
孟子 というのはね、宗教家というのは、普通の人は自分の借金、自分の負債だけを考えればいいんだけれども、宗教家は違うんです。宗教家というのは人の負債まで抱えこんでしまうのですね。人の負債まで返済できる能力があればいいけれども、それがないと大変なことになってしまうんです。つまり自分の負債、自分の多少の過ちというものはあるかも知れません。これがいろんな人、何万人、何百万人に伝わっていくと、その人たちの負債をまたまた増大させてしまう。結局、自分が原因になってつくり出した他人の負債までも、背負いこんでしまう。つまり、宗教家というのは、いわば連帯保証している人なんです。自分の教えを聴く人たちに対して、連帯保証ですね、これをしているのと同じなんです。だからまた借金を返すのが大変になってくるんです。
ですからその宗教を信じている人というのは、その宗教を信ずれば天国に行けるとか、信じているわけですね。つまり教祖さんたちというのは保証人になっているんです。ですから、保証人ですから、彼らが借金をこしらえた場合には払わなければいけなくなるということです。自分が、つまり他人が苦しんでいる分、他人が地獄に随ちた分まで苦しまなければならんということになるのです。だから逆の場合は素晴しいのです。
―― しかし、仮に同じ教祖にしましても、その信者なり弟子なりは、借金つくらずに資産をつくって還る人もあるが、教祖は借金をつくってしまうと、いう場合もありますわね。
孟子 あります。
―― そういう場合にはどういうことですか。
孟子 ですから教祖というのは、まあ保証人の親元ですね。弟子たちというのは逆にやはりまだ保証されている仲間なんです。ですから、弟子が十万円の借金をこしらえて、それを保証されていたとしてもね、ただ弟子が五十万円以上の資産をつくっていた場合、その人にとってはもう関係のないことですね。ですから先ほどもいいましたけれども、教祖が保証している人たちの、たとえば全負債額が一億円だったとしましょう。教祖さんに資産が一億円以上あれば全部払えるんです。ところが一億円の資産がないために、払えなくなってしまうのです。
どのような宗教家であってもね、誤った宗教家であっても、その教えの中に一片の真理がないというような宗教家というものはないんです。彼らに信者がつくという以上は、そのどの教えの中にあってもですよ、何らかの真実なるものはあるんです。心の糧になるものは確かにあるんです。それがその教祖の資産でありましょう。ところが資産より負債の方が多い場合には、それは破産してしまうんです。結局はそういうことなんです。ただそれを小じんまりと説いとればいいけれども、大規模にやればやる程、負債が大きくなってしまうということです。
―― たとえば信者なり、弟子なりはその教祖の資産の部だけを吸収して、負債の部はあまり吸収しなかったと……、
孟子 しなければ勿論大丈夫です。
―― ということでその人は救われるということですね。
孟子 そういうことです。
―― 負債で破産した教祖が、立ち直るというのは、自力以外にはないのでしょうか。
孟子 これが難しいところなのです。自分一人だと何とか立ち直れるのですけれども、要するに他の人達の保証をしたために、彼らの借金が返されてしまわないと、自分は自由になれないということですね。自分の借金を返す前に、自分が保証した人達の借金が一つ一つ返されていかないとですね、自分の借金を返すところまでいかないということです。そういう意味で宗教家達が間違った場合には、地獄で苦しむ時期が長いということです。まあ人間の「本性」については、そういったところです。
―― そうですね。
6.ユートピア観と、私の王道国家論
孟子 二番目に私が考えているユートピア論、私は昔、「王道政治」ということを説いておりましたけれども、王道、王様の道ですね。まあこれは、神の道といってもいいです。現代でいうなら「神道政治」でも結構です。王道政治―王道国家はいかにあるぺきか。つまり、黄金郷ですね、理想郷というのをどのようにつくろうか。このことについて多少考えねばならないと思うのです。たとえばあなたは、そういった理想郷というようなものは、一体どういう世界だと思われますか。
―― 少なくとも、三次元の世界における理想郷というものは、やはり物心両面にわたる恵まれた幸せな世界が実現するということではなかろうかと思いますけれど。ま、心の世界だけで、その心の王国だけでは本当のユートピアとはいえないのではないかということですね。
孟子 たとえば狩猟生活と、現代の交通網の発達した世界と比べて、その物心の物だけをとった場合、あなた方は現代がやはりより理想郷に近いと思われますか。
―― それは比較の問題ですし、また心の問題とも関連しますけれども、理想に生きる者にとっては、狩猟時代に生きているものの幸せというものは分からないわけで、また狩猟時代に生きていたものは、現代の社会の幸せというものがどうかということは全く分からないはずですが。我々は現代に生きているものであるわけでして、現代に生きているものの幸せというものは、より多元多様に発達した文化の中に生きておりますから、その日常の時間も非常に濃密に生きておるわけで、また空間も複雑な空間を毎日生きているわけです。ここに酒でいうならば、ただ一品だけの酒を飲むというだけで是しとするのではなく、清酒、ビールにウイスキー、さらにカクテルですね、色んな酒を混ぜ合わせにして、それぞれの酒の芳醇(ほうじゅん)な香りと味のある、美酒を飲んでおるということになってくると思うのです。そういう意味では狩猟時代の地酒を酌んでいるよりは、現代の人たちの幸せというものは、時間的にも、空間的にも、より濃密になっているのではないかと思うのですが、そして将来においては、その本来の質を更に高めて幸せというものをよりふくよかにすべきではないかと思うのですが―。
7.新時代には文明観が二分、三分と岐れる
孟子 ただ私はあなたに言っておきますけれども、この後もうそう遠い将来ではございません。ここ百年から三百年のうちに起きることですけれども、人類の中にもう一度原始に還れというような運動が起きるということを、私は予言しておきます。そういった機械万能の世界、そういったものを打ち壊してですね、やはり自然な生活に帰ろうという動きが、段々本格化して参ります。いまの時代においてはあなた方は、神に帰れという宗教運動をしていますが、この次の時代においても、ある意味での中世というものが、もう一度戻ってきます。゛中世運動゛゛中世への復興゛こういった運動というものがやがて出てきます。それはやはりね、人間というのは、物心両面が発達するのがすぱらしいのであるけれども、物の面が異常に発達すると、どうしても心がそれに奪われてしまう。そういう傾向があるんです。三次元世界では心は一面それだけの弱さを持っているからです。ですから、まあいわば、その時代に出てくる人たちは、形式主義者なのですけれども、形式主義者としてね、物質が溢れた世界においては、真実の理想郷はつくれないという形式主義者が出てきます。
やがて出ます。今から百年か二百年以内に出てきます。そういう人達は率先して言うでしょう。「文明社会を捨てましょう」と、おそらく言ってきます。脱文明社会ということで、率先してその文明を捨てる人たちが出てきます。そうした方々が文明を捨てて集まって、また自然の生活をしようというような、運動(うごき)が出てきます。自分の手で飲むものも、食べるものも作れるような、そういった生活をしよう、そして素朴な心を取り返そうと、そういった動きが出てきます。
それは、あなた方、これからは大変な教えを残していかれるのですけれど、あなた方の教えをくむ、流れの中の一派として、そういう分派がやがて出て参ります。あなた方の弟子筋の中から出てくるのです。自然復興運動が、中世へ還れ、という運動が出てきます。そういうことも起きるということを、私は予言しておきます。
―― お訊ねしたいのですが、一つには現代の文明社会が頂点まで発展しまして、それと同時併行的に自然科学も進んでいくにつれ、いい方向に進むばかりであればよいのですが、悪い方向へ、はっきり言って科学兵器が進んでいってですね、そしてまあ人類のある意味での淘汰といいますか、そういう試練の道具に使われた時点で、その原因であるこの現代の科学文明なり、それを母体とする近代文明というものに対する人々の嫌悪感、愛想づかしということから、そういう自然文化というか、大自然に還れというような望郷的思想がまた復古してくるのではないでしょうか。
孟子 そうです。
―― それの契機といりものが今日の……。
孟子 現在そういうことの契機が出ているのではなくて、これはもっと時代を下りますが、やがてそういう分派が出てきます。やはりもう一回始めから、零(ゼロ)からやり直してみようと、自分たちで農園を作るところからやってみようと、そういう人達が出てきます。それとは別に、これから宇宙船時代の「正法」を創るというような人たちも出てきます。宇宙船時代における正しい宗教をつくろうと、宇宙的宗教を考える人も出てきますが、一方においてはエデンに帰れというような運動をする人たちが出てきます。今からこういうことを説くのは……あなた方は今、お弟子さんも居ません。――そういう状態において私がこういうことを予言するのは問題があるかも知れませんが、あなた方のお弟子さんの中には、そういった「宇宙的宗教」を求めていく人たちと、「エデンに帰れ」という運動をする人たちと、そういうふうに二分、三分とやがてまたあなた方の教えも岐かれていくことになります。
―― そうですか、これは日本の国だけに起きる問題なのですか。
孟子 そうではありません。文明というのは日本だけではなくて、他のところへも拡(ひろ)がっていきます。あなた方の宗教もやがていろんなところへ、東南アジアの人びとへ、アフリカヘ、そしてオセアニアヘ、いろんなところへと拡がって行きます。いいですか。かつてはユダヤの地に起きた宗教が、イギリスやフランスやアメリカに渡って行ったように、今回日本の国に起きる宗教が、こんどは東南アジアを通り、アフリカに伝わり、またオーストラリアとかその他の島々にも伝わっていくのです。
―― その段階で、宇宙規模的な文化圏を築こうとするのと、一方、地球上で自然に帰ろうとする二つの派が分かれるということですか。
孟子 そうです。たとえばアフリカという国があります。彼らは時代としては遅れた時代を生きているわけでありますけれど、彼らは彼らが今、先進国に追いつく途中において、先進国がとんでもない失敗を犯すことを、彼らは眼のあたりに見るでありましよう。そして彼らは、文明の怖ろしさということに気がついていくでしょう。それでもやはり文明社会に突入していくべきだという人と、やはりエデンに帰ろうとする人達とが出てきます。あなた方の教えはアフリカにも伝わっていきます。そしてその中に文明社会を築いてやっていこうという人と、もうああいう過ちは我々の中では二度と犯したくないという、そういったエデンに帰れという動きが、アフリカにも起きてくるでしょう。それはまた、東南アジアにおいても同じです。文明圈を目指すか、エデンを目指すか、こういった二つの動きが出てきます。
―― それについての私たちの責任というものはないのですね、現在において。
孟子 やむを得ないんです。あらゆる宗教はその最初に説かれたものが、やがていくつかに分かれていくというのはもう歴史の必然であります。そしてその両方ともが必要なものなんです。