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目次

















1.止観の「観」とは、霊的な目で人を見、世の中を見るということである


天台智顗です。まあ、このたび、私の止観瞑想について、簡単なテキストづくりをするということになったわけですが、私は、今から千数年前に中国に生まれたときも、止観瞑想、あるいは、天台の摩訶止観(まかしかん)と言われるようなことをやってまいりました。

ただ、それは、現在においては、非常にむずかしい教学のようになっておるがために、一般人にとっては簡単には受け入れることができないであろうと思います。

そういうことで、非常に現代的な言い方で、この止観瞑想ということを、ひとりひとりの人に対して、よくわかるようにお話を申し上げたいと思うのです。

まず、現代人にとっては、この止観ということが、なかなかわからんであろうと思います。止観とは、一体何であるか。まあ、漢字を見れば、「観ずることを止める」と書いてあります。

この「観」とは何だろうか。この「観」というのは、決して観光の「観」ではないのです。この「観」という字は、実は、心の目で見るということであり、心の目で観察するということであり、まあ要するに、人間の二つの目以外の、この奥にある霊的な目でもって、人を見、世の中を見るというのが、この「観」という字の意味なのです。


2.本来の自己を正確に捉(とら)えるために、「観」を止める方法が二つある


では、その「観」を止めるとは、いかなることであろうか。これについて、話をしていかねばならぬでしょう。

まあ、現代流にわかりやすく言うとするならば、あなた方は、新幹線というものに乗って、東京から大阪へと、たとえて言えば、旅行をいたします。人間の「観」、観ずる心というのは、ちょうど新幹線の車窓から、外の景色を見ているのと同じなのです。本人が意図的に努力しようが、しまいが、それに関係なく、窓の外の景色が流れていくように、人間は意図しようと、しまいにかかわらず、その心の目でもって、さまざまなものを見、さまざまなものを考えておるのです。

これはちょうど、車窓に流れる、流れていく景色のようなものです。さて、ではそうした景色のなかから、たとえば、日本であれば富士の山、富士の山なら富士の山を正確にスケッチしようとすると、なかなかできないものです。

なぜならば、列車が動いていくときに、景色が刻々と変わっていくからです。これでもっては、正確に富士の山というものを捉(とら)えるということがむずかしいのです。できかねるのです。そういうことによって、富士の山というものを正確に描こうとするならば、動いておってはならんということなのです。

ですから、富士の山を描くには、現代的に言えば、方法は二つです。新幹線を止めて、車中からではなく、大地に降り立って、富士と相見(あいまみ)え、相対峙(あいたいじ)して、富士の姿の絵を描くというやり方がひとつ。もうひとつのやり方は、車中にあって、高性能の写真機を持って、富士の姿を撮るという技術、これがひとつであろうかと思います。


3.止観の方法① ―― 人間と会うのを止め、人里離れたところで自分を見つめる


この二者のうち、まず、前の話をしましょう。車中を降りて、大地に降り立って、三脚を立てて、キャンバスを開き、それで富士の絵を描くというやり方は、まあ、わかりやすく言うならば、人間と会うのを止めて、人里離れたところへと隠棲(いんせい)し、そして、静けさのなかで、自分を見つめるという方法であろうと思います。

つまり、窓の外の景色が流れぬようにするということです。人間は、人びとのなかにおいては、常に心はいらだち、イライラし、怒りっぽくなり、愚痴っぽくなってしまいます。なぜならば、他人の精神波動に巻き込まれていくからです。

そこで、これから逃げる手段のひとつとしては、人から離れるということがある。すなわち、人里離れた場所でもって、ひとり長閑(のどか)な生活を送り、この世のことに心執わるることなく、執着なき生活をするということがひとつなのです。

しかし、このようなことは、現代では非常にむずかしいこととなっておる。反省とか、内観とか、坐禅とかいって、人里離れたところで一週間なり、二週間研修をすることはできても、すぐまた現代人は、もといた古巣に帰っていかねばならないからです。


4.止観の方法② ―― 自分自身の光り輝いた神性を見い出す


そうであるからして、もうひとつの止観の方法があるのです。つまり、新幹線のなかで流れていく景色を尻目に、高速度撮影をし、ブレのない写真を撮る。そして、ブレのない富士山の写真を撮るという方法が残されているはずです。むしろ現代においては、この方法こそが、非常に有用な方法ではないかと私は思います。

もちろん、前述したように、環境を整えるということは大切なことであり、道路の騒音の激しいところで、そうした止観をすることは困難でありますけれども、何も人里離れた山のなかでなければ止観ができないというふうに限定することはないし、また、その方法をとることは、現代人の修行にとってはむずかしいことでありましょう。

したがって、車が動いていることを感じさせぬがごとき高速度でもって、景色を止めてしまう方法、こういった方法としての止観が大事になります。

では、観ずることを止めて、見ようとしている富士の姿というのは、一体何に当たるのでしょうか。車中にいて、車が動いている、景色が後に流れ去っているということを抜きにした、静止した富士の姿とは、人間にとって一体何を意味しておるのか。

それはすなわち、霊峰富士のような気高い、清い姿としての自分自身の光り輝いた神性を見い出すということであろうと思います。つまり、止観の目的はここにあるのです。本来の自己、「いかなるか、これ本来の自己」「いかなるか、これ神仏の子人間」、この姿を真実に、間違いなく捉え切ることこそが、止観のほんとうの意味なのです。


5.人生とは、肉体という名の列車に魂が閉じ込められているようなものである


ではなぜ、そうした真実の自己の姿というものを、つかみ取る必要があるのか。それは、人間というものは、ともすれば、この世の生活に流されていくからなのです。

人生というものは、東京から出発をして大阪に着くまで、現代ではちょうど三時間あまりでありましょうか、この程度の旅と同じなのです。地上生活は、ひとつの旅にしかすぎんのです。

ところが、わずかその三時間あまりの間に、人間というものは、それを自分の本来の姿だと思ってしまうことがあるということなのです。常に車中の人であるということが、自分のほんとうの姿だと思っていることがあるんですね。

ほんとうは、自分というのは、そうした車中の人ではなくて、目的があって、ある出発点から終点に向かっている途中の過渡的な姿にしかすぎないということなのです。本来の人間は、列車のなかの座席に坐って、じっと景色を眺めている人間ではないのです。本来の人間は、自由自在に、大自然の姿を味わえるような人間なのです。

ところが、地上に降りたが最後、肉体という名の新幹線のなかに入ってしまい、この車中から一歩も出ることができんのです。とにかく出発点から終点までの間、出ることができんようになってしまうのです。これが、肉体のなかに閉じ込められた魂の悲しさなのです。


6.列車に乗っている自分が仮の姿であることを知るために止観が必要


本来、魂は自由自在のものでもあるにもかかわらず、車中にあるという事実でもって、つまり、動いている車中にいるということでもって、車の外に出ることがかなわんのです。ここに問題があるわけです。

ですから、車のなかにいようとも、車のなかにいないがごとき自分自身の実相、真相を把握するという技法が必要なのです。これは何かと言えば、結局、その本来の目的、すなわち、なぜ自分が車中の人であるかという旅の目的を自覚するということでもあるわけなのです。

車に乗っておる。列車のなかに乗っておるというのは、これは仮の姿であり、ほんとうの姿ではないのです。これを知るために、人間は、止観、すなわち、流れ去っていく景色を止めて、本来の神性というものを見つめねばならんのです。

車に乗っているということを当然と思わずに、この車中ではなく、自分自身が自由自在に動き廻れる自分であるということを感じ取り、また、大自然を楽しむことができるという、そうした姿を取り戻す必要があるのです。


7.現代人に可能な止観法① ―― この世的なものに流されない人生観を確立


では、先の例ではなく、後の止観の例、つまり、現代人に合っており、可能性のある止観の方法とは、いかなるものでしょうか。

それは、ひとつには、いろいろな人間との接触、それを避けることができない自分、この自分を世の中の波風から守っていくという方法なのです。したがって、止観を日常生活のなかにおいて生かしていくためには、二つの基礎がいるということです。

ひとつは、この世的なるものに流されてしまわない人生観を持っておるということです。この世の生活だけが、本来の生活ではなく、人間の本質は、神仏の子であり、永遠の生命体であり、魂修行のために、この地上を旅しておるのだということを悟るため、そうした人生観を持っているということ。そして、そうした人生観を持って、日々、自己を点検して生きていくということが、まず、最初の前提なのです。

この世にあって、この世のあり方、この世での人間の、この世での人間らしいあり方、そのものを単に肯定してしまうのであるならば、止観はできぬのです。すなわち、まず、人生観を確立する。これが大事なのです。


8.現代人に可能な止観法② ―― 極端な思いと行ないを修正する


第二には、そうした人生観を持って生きているとして、人間の心は、新幹線のたとえのごとく、惰性(だせい)に流されていくのです。あるいは、感性に流されていくのです。したがって、感性に流されない自分の発見ということが大事です。

その感性とは、一体何であるか。その感性とは、日常生活のなかで、心のなかに起こった、極端な思いであり、極端な行動ではないでしょうか。その極端な思いと行動によって、人間は、惰性と感性を得て、生きておるのです。そして、それを毎日続けていくことによって、その人の性格が一定の方向性を持つがごとく見えるようになります。

常にイライラ、イライラとしている人であれば、一年もそれを続けていけば、顔にもにじみ出てくる。言葉にもとげがある。常にがまんばかりしていると、ブレーキばかりをかけているようで、人生に軋(きし)みの音が聞こえ、悲しみが満ちてくる。目に悲しみが宿ってまいります。怒りの人は、人を見ると、常に敵に見えてくる。そして、心が落ち着かない。

また、欲望のままに生きている人たちは、自分をコントロールできない。欲望のままに身を任(まか)せて、そして、自分自身は、それで満足である。自分は自由自在だと考えておるようだけれども、これは大変な考え違いであります。

欲望のままに生きるとき、人間はその肉体を、魔界の者たちに支配されて、彼らのおもちゃになっておるのです。彼らのおもちゃになることが、はたして自由でしょうか。真実の自由でしょうか。真実の人間のあり方でしょうか。そうではないはずです。

真実の人間の自由とは、自分自身で自分自身をガッチリと操縦(そうじゅう)でき、支配できるということではないでしょうか。自分の意思で自分の肉体を支配できなくなったとき、そこに一体何の自由がありますか。それは単なる堕落(だらく)であり、単なる放恣(ほうし)、ほしいがままの生活であります。つまり、止観のやり方としては、こうした極端に揺れる思いと行ないを修正していき、そして、自分の支配下に置くということなのです。では、自分の支配下に置く方法として、何があるか。これが、いわゆる反省なのです。


9.人間は何を思うこともでき、その心は、ものをつくり出す能力を持っている


人間の心は自由自在です。何を思うこともできます。如来界、菩薩界のような心を持つこともできれば、魔界のサタンのような心を持つこともできます。人間は自由自在であり、その心はつくり出す能力を持っています。いったん心のなかに思ったものは、目に見えなくとも、深層心理の世界のなかでは、実現化しておるのです。

戦争というものでもそうです。戦争というものは、物理的にはじまるものではないのです。それは、憎しみ合う国と国との感情、さらに言えば、人間と人間との感情、相互不信、憎悪(ぞうお)、こうしたものに根拠を発しておるわけです。そして、相互不信と憎悪がはじまったときに、もうすでに、実在の世界においては、そうした戦争の第一歩がはじまっておるのです。

同じように、たとえささやかであっても、人間の心のなかの思いというものは、自分だけではなく、自分の周りの世界に何らかの影響というものを与えておるのです。

すなわち、この地上が、良いことよりも悪しきことを多く考える人で満ちてきたのならば、この地上はやがて、地獄界を展開していくようになります。そうして、実在の世界においても、地獄が大変力を持つようになってきます。地獄霊たちが、数多く暴れ出しはじめます。

ところが、この地上にいる人たちの多くが、良き想念を持って生きていくようになると、この地上もまた、調和に満たされ、地上に天国が出現していきます。そうすると、あの世の天使たちも、地上の人たちに、にこやかに語りかけることができるし、魔界の者たちは山陰(かげ)に身を潜(ひそ)めるようにとなっていきます。そうした自由自在のものです。


10.天国、地獄、どこにでも通じる思いの性質を一念三千(いちねんさんぜん)と言う


この人間の思いの性質、念の性質、これがどこにでも通じるという性質のことを、一念三千(いちねんさんぜん)と言います。三千というのは、割り切れない数、すなわち、数多いという意味です。心の針というものは、どこでも指(さ)すことができる。同じく指すことができるのであるならば、良き方向へ、より調和の方向へと向けていくべきではないだろうか。そのための止観ではないでしょうか。

すなわち、自分の心の針が地獄に向いていると思ったならば、それをいち早く修正し、天国のほうへと向けていくことなのです。

では、針が地獄のほうへ向いているとは、一体何でしょう。それは、昔から言われている、心のさまざまな毒です。ます、怒りの思い、妬みの思い、嫉妬の思い、憎悪の思い。また、足ることを知らぬ欲望、他人を蹴落(けお)としたいという感情、人をだまそうという思い、人を貪(むさぼ)ろうとする思い。こうした破壊的想念の多くは、他人を害しているだけでなく、自分自身の神性をも損(そこな)っておるわけです。


11.反省の目的 ―― 否定的な思いを、大調和を目指す肯定的な思いに変えていく


こうしたことに気がついたならば、いち早く、その心の針を天国に向けるべく、人間は、「反省」ということをしてゆかねばならぬのです。

では、反省の結果、心の針は、一体どちらを向けばいいのか。心の針が向くべき方向は、人を愛する気持ち、人に親切にする気持ち、人の幸せを願う気持ち、執着のない、執われのない生活、足ることを知った生活、希望に満ちた生活、やすらぎのある生活、自信のある生活、勇気のある生き方、建設的な毎日、積極的な生き方、こうしたものであろうと思います。

二言で言うならば、否定と肯定です。否定的な生き方というもの、否定的な感情というものを消し去って、肯定的な思いに変えていくということですね。その肯定的な思いも、結局、自分を守ればいいという自己保存の肯定ではなく、大調和を目指す方向での肯定的な思いに変えていくということです。

ですから、自分の成功ということを求めるにしても、自分ひとりの成功ではなく、自分が成功するということによって、より多くの人びとに幸せを持ちきたらすことができるような方向での、肯定的観念というものを養(やしな)っていく必要があるのです。


12.反省の意義 ―― 間違いの多い人間に与えられた神の慈悲


心の針の向きというのがわかり、反省ということが必要なことがわかったけれども、では、反省とは、一体何ですか。そう言われたとき、人はまた、はたと困ります。反省とは、こういうことをしてはいけないという道徳的規制なのでしょうか。そうではないはずです。

反省というものは、神によって与えられたる大いなる慈悲なのです。神は、人間に自由を与えました。その自由のなかには、創造の自由と、破壊の自由とが必然的に入ってくるようになりました。創造の自由と破壊の自由。しかし、破壊の自由というのをなくしてしまえば、人間は、善悪を選び取っていくという自由がなくなっていきます。そのために、つまり、人間に主体的な生活をさせるがために、そうした想念をもまたつくり出すことが許されておるのです。

ただ、そうした破壊的想念が出せるという以上、これから人間を救う道もなければ、また、不合理なものとなっていきます。

すなわち、反省とは、過ちの多い人生、間違いの多い人間に対して与えられた、神の慈悲なのです。自分の間違った思いや行ないを反省によって取り除き、二度とそうしたことをしないということを、神仏に対して心から詫(わ)びることによって、人間はその心の曇(くも)りを、重荷を取り去ることができるのです。

そのときはじめて、燦然(さんぜん)と光が射してくるのを感じます。天使たちはそれを待っておるのです。人びとの守護、指導霊たちも、それを待っておるのです。地上に生きて、心の曇りをつくり、真黒になって人生を渡っている人たちに対しては、守護、指導霊たちも、なかなか援助ができなくて困っておるのです。なぜならば、光を当てても、その煤(すす)けた体のなかに、光が通ってゆかないからです。そのインスピレーションが染(し)み通っていかないのです。


13.止観瞑想法 ―― 心の曇りを取り除き、やすらぎの生活に入る精神修行である


ところが、反省ということを通して、心のなかの煤煙(ばいえん)を、曇りを、煤(すす)を取り除いたときに、守護、指導霊たちが投げ掛ける、あの世からの光明、偉大なる神の、神仏のエネルギー波動というものが、その人を満たしていくのです。そうすれば、その人は幸せになり、やすらぎを得て、幸福の道を歩んでいくようになっていくのです。

つまり、止観瞑想の方法というのは、結局のところ、そうした心の曇りを取り除いて、やすらぎの生活に入るための精神修行だということです。ですから、まず、一日のうち、寝る前に一定の時間を取って、その日一日に起こったできごと、心のなかに思ったことなどを、ひとつひとつ思い出して、そして、間違ったことは反省していくことです。

反省によって取り除くということは、二度とそうしたことはしないということを神仏の前で誓うということです。そうするとき、偉大な他力の光明が、あなた方の後頭部から燦々と降り注(そそ)いでいき、人びとは光明に満ちた生活へと入っていくのです。

そのなかで、人間は、ほんとうの素晴らしい生きていく道というものを発見することができるのです。まあ以上が、今日の私の話、止観瞑想ということです。