※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

目次










(1985年12月31日の霊示)

1.まず礼儀を弁(わきま)えよ


―― 吉田松陰先生の招霊を行う。――

松陰  ――松陰です――

善川  ああ吉田松陰先生ですか、お初に拝眉を得ますが、このようなところへお招きして恐縮しております。私ども、現在わが国における有識者、特に次代を担う若ものたちに対し、価値意識の転換という全く新しい人生観をもって貰おうと、新世界観確立に向っての精神革命運動を起こさんとして居るものであります。――これは、スピリチュアリズムということを通して新しい霊文明の展開と、ひいては地上ユートピア建設をその目的としているものであります。

その意味において、既存の人生観、世界観の、コペルニクス的転換を図り、その新たな世界観、宇宙観に基づいて、人文科学はもとより、広く自然科学の世界にまで、その思想を広めようとしているものであります。要するに私達は、この二十世紀後半に新たな精神革命をひき起こそうとしておるものでありますが、その意味におきまして、近代におけるわが国の政治革命、即ち明治維新を強力に遂行しこれを成功せしめた、先生方維新の志士達、元勲方の、現代日本人に伝える――、とでもいうべきご教訓を賜われば幸いと存じますが、お願いできましょうか。

松陰  しばし待たれよ、――(この間数分間編者の心を洞察するごとく凝視する。)

松陰  ――むしろ、いま大切なことは、あなた方にとって如何なる示唆が必要か、ということであって、私自身にはないのではなかろうか――。

善川  私達自身が求める示唆が何であるかということでしょうか……。

松陰  即ち、あなたが私に何か聴きたいことがあるのか、――それとも私に勝手に語れと仰しゃるのか。私は、少なくとも、このような場に、あなたにおよび頂いて、私の方から、あなたに、お話しするような義理はござらぬ。何故をもって私をこの場に呼び、何の目的で、私を訊問せねばならぬのか、それを明らかにして頂きたい。少くとも私の意志によって今日、此処に参ったのではござらぬ。

善川  まああなた様は、さきに申し上げましたような、私どものこれからなさねばならぬと思っている事業の大要について全くご承知ないのでございましょうか……。

松陰  ないわけでもないけれども、人間というものは、自分の都合に合せて他人を動かしてよいものではないということだ。少くともあなたは、私とは縁のない人間である以上、私を、こうしてここに呼び話をする以上は、それなりの礼儀を尽し、何らかの言葉がいるのではないか。

善川  それではどのように申しあげればよいのか、さきほども申しあげましたように、明治の元勲となられた多くの志士たちを育成された教育者として、いろいろご苦心された歴史上の人物として尊敬して居るのでありますが、今日本におきまして、これからまた新たな時代を迎えようとして居ります時に、私達は、あなた方とは形こそ違え、現代の若者達に対し、新たなモラルというものが如何なるものであるかということを啓蒙していかねばならぬと思っております。困難ということにつきましては、その質は違いますがまた時代に即した困難さを今後乗り越えていかねばならぬと思うのでありますが、私どもといたしましては、かつての維新の大先輩に当たる先生の、現代の日本の青年に希求するもの、ということについてのお言葉を賜わったなら、私どもの仕事の上においても大変有難いと思いまして斯くはお招きしてお願いいたして居る次第ですが、如何でしょう、何かご教示願えませんでしょうか。

松陰  ――人間には、人間を引きつけるだけの魅力がないなれば他の人は動かぬものである。あなたはわたくしに何らかの仕事をせよと申しておられる。けれども、わたくしにとって、今こうして出て来て、あなたと話することが、何らかの、私自身にとっての学ぶべきものでなければ、私にとってはまた、意味のないことである。よろしいか、私は基本的な礼儀をいま語っているのだ。人から教わろうとする前に、教わるだけの、あるいは他の人に何かを教え得るようなあなた自身でなければならないと言っておるのだ。

いま、あなた方はこのような形で、様々な過去世に生きた人間を、呼び立てては、話しているようではあるが、それはある意味においては失礼なことである。すくなくとも、彼らの生き方、生活というものが、あの世の世界においてはあるのであるから、それを邪魔をして、敢て三次元に出て貰っている以上、彼らにとっても、何か学ぶべきことをあなた自身が語るだけのものでなければならない。それを忘れてはならない。

師にもまた弟子を選ぶ自由はあるのである。あなたは私に何を教えてくれますか、――

善川  まあ私があなた様にお教えするような立場にあるかないかということは、これは先刻あなた様がご承知であろうと思いますがお分りになりませんか。それでもなお敢て語れと申されるのであれば、お話しいたしますが、これは釈迦に説法、ということになるかもわかりませんがそれはお赦し下さい。

私達の使命とされておりますことは、まず第一に形骸化した旧宗教を全く一新させるということで、それはかつて導者によって唱えられ興ってきましたが、これらは実は別個の教えではなくて、本源なる神から、各時代と処に応じて、その現われた光の大指導霊を通して放射された教えとして抱え、万教は一なる゛神゛に帰一されるものであるということ、これを明確にいたしたいと思うのであります。また哲学、科学、芸術といえども同じく根源なる神より発せられる神ご自身の栄光の各側面であると教えられているのでありますが、私達はこのような世界観を、今後より具体的に、かつ明確に、人びとに伝えたいと思うのであります。また併せて、他次元世界の存在と、人間は転生輪廻を通して己れの魂を磨き、神の栄光を顕現していくのだという倫理観を打ち立て、最終的には、人類永年の祈願である地上ユートピア建設に向って努力して行かねばならぬものと考えて居ります。

そのような観点に立って努力していかねばならぬのでありますが、私たちにとっては正に精神革命の時代の到来を自覚されて居るのであります。

このような時に当たり、外国のことはともかくとし、卑近な例として百年前の我が国明治維新に際し、多くの志士が現われ、あのような偉業を成し遂げられたことを範とせねばならぬと思うのであります。ついては、当時の志士の方々から後輩の我ら、およびこれからの日本の若者に、革命の精神についてご指教願えることがあれば、是非お願いしたいとこのように先輩の方々にご霊訓を承っているわけでございます。

松陰  ――しかし、――現代に、この時代に生まれて来たのは、あなた方の自由である。この時代を選んであなた方が生まれて来た以上、この時代をどうして行くかは、あなた方が考えておればよいのではないか。過去に生きた人間が、この時代をどうしたいと思ったところで、そのようなものは縁のない考えではないのか、過去の人間は過去の時代に生きたのである。あなた方は、この時代に生きているのである。われわれ既にこの地上を去ったものが今どの辺に、何辺に考えがあるかということを知るよりも今生きているあなた方が、真剣に考えていけばよいのではないのか。われの考えは、時代時代において人間は、新たな考えを切り開いて行かねばいけないということだ。既に百年前の私の言葉を今聴いたところで、あなた方の参考にも何にもならないと思う。自らを修めて行きなさい。自ら学びとって行きなさい。学ぶというのは書物の中だけでなく、時代の息吹きを感じとることも学びということだ。この時代の息吹きというものは、この時代の中に生きているあなた方一人一人が感じとらねば誰も感じとる人は居ないのだ。私の意見を聴いても、私はあなた方の時代の息吹きは感じとられない。またあなた方の世界に対して今においては、現時点においてはさ程興味も無いのである。


2.努力が足りん、もっと激しく生きよ


善川  それでは現在、あなた様の現代における我々に対してアドバイスして頂けるというのは今の言葉に尽きるわけですか。

松陰  少くとも私は、あなた自身に対して少し良くない感じを持っている。少くとも、私は弟子の養成をしたけれども、私の弟子であった方々は、自らもっと学びとっていこうという意欲に燃えた人達であった。師は弟子を選ぶのだ、少くとも今のあなたは何か人の意見を聴いて廻っているだけのような感じが非常にする。あなた自身が自分を磨いて来たという感じがしない。その点において、我れは非常な不満を感ずるものである。あなた自身が自分をもっともっと作り上げていこうという努力がないならば、一体何の教えが生きてくるであろうか。やはり人間というものは、自分を作っていかねばならないのだ。あなた自身を見ていると私は決して自分を作っているとは思えない。あなたはただ人の意見を聴きたいだけである。人の意見を聴いても袋に詰めて腰の囲りにぶら下げたところで、それは何らあなたにとってプラスにはならないのである。あなた自身が燃えている時に、はじめてわれわれの言葉が血となり肉となるのである。あなた方は、少くともあなたは、何年にもわたって諸聖賢の言葉を聴いてきたはずである。知識としては、何らかの得ることがあったと思う。けれども、人間として、人格として、あなたはどれだけ優れた人間となり得たか、それをこそむしろ私は問いたい。努力しておらん。あなたは真の意味において努力しておらん!もっと激しい生き方ができるはずである。裡(うち)に秘めた情熱があるはずである。それを燃え上がらせずして徒らに水をかけて濡れた灰ばかりを作っているようで、どうしてわれらが意見を聴けようか、どうしてわれらが教えを得ようか、どうしてわれらが教えをうけてこれを世の人びとに説けようか。あなた自身がもっともっと優れた人格者とならねばならぬ。

あなたは、私とかあるいは坂本龍馬、福沢論吉、勝海舟、桂小五郎、このような人達とこれから話をしようとしている。しかしながら、彼らは百年前に生きた人間である。けれども彼らの時代において彼らは第一級の人物である。時代において、時代を抜きん出た人物である。そういった方々とあなたが話しする以上は、あなた自身もこの時代において、この時代を抜きん出た人でなければならない。いや、そうであるべく努力するあなたでなければならない。あなた自身が、自分はこれ以上の向上もなくとも、もう死ぬまでの日日を数えるだけの人間であると思っておるなら、われらを呼ぶことは止めなさい。そのような無駄なことは止めなさい。そのような失礼なことは止めなさい。よいか、徒に年を重ねても人間は賢くはならないのである。

我れは二十代の後半にて倒れた。けれども私の生き方自体は、日本の大きな精神的遺産を残したはずである。短くともよいのだ。人間はその中において燃焼せねばならんのだ。あなたは燃焼しているか、今燃焼しているか、よく自らに問いなさい。このような明治時代の国造りにおいて第一級の人々と話しする以上は、あなたもそれだけ心を引締めて話をしなさい。心を引締めて話をしないのであるならば、彼らにとって失礼以外の何物でもない。そういったあなたであれ、時代をリードするような人間たるあなたであれ、益々向上するあなたであれ、そういうあなたであってこそ、彼らと話が出来るのではないか。宗教家は違うかも知れない、彼らはもっと優しいかも知れない。彼らはもっと過保護かもしれない。しかし、厳しい時代に生きて来た我らにあってはそのような過保護な思いはない。無駄な教えは説かない。無駄な人物は斬り捨てるまでである。それだけの覚悟がお主にあるか、それだけの肚(はら)をつくって当たりなさい。


3.指導者は自分に厳しくなければならぬ


善川  お訓えのおもむきよく判りました。私も年を寄せてまいりましたが、また今後如何程の寿命を与えられるかは存じませんが……、

松陰  その言葉が気に食わない――

善川  生命の尽きる最後の一瞬まで、生命の火が燃え尽きるまで゛神法゛普及のために尽す覚悟であります。

松陰  真か、それは実か、僅かこの一日、今日一日を振り返ってでもその言葉は誠(まこと)か、過去は問わない、今日一日を振り返ってでもそれは、その言葉は真か、自らの心に問い質して実か、私達にはあなたの心はすべて読めるのだ。あなたが今日一日朝起きてから言った言葉は、眼に見えるのだ。耳には聞こえるのだ。そのような心で私と相対しようとする心は失礼ではないか。よいか、――ただ私達と話している時だけのあなたがあるのではないのだ。あなたのすべては、あなたの二十四時間、あなたの六十余年の生涯の総ては、すべてが現在のあなたとなって結晶しているのだ。そうであるならば、あなたの生命のある限り自分の生き態、生き方というものを常に点検して行くようなあなたでありなさい。毎日の生き方そのものが平均以下のあなたであるならば、あなたは平均以下の方と話をしなさい。それがあなたに相応しいのです。あなたは明治維新の志士達と対等な心を持ちなさい。国造りのためにほとばしるような情熱を持ちなさい。私達にはあなたの心の中は見通しなのだ。

あなたが朝起きてから今までに言った言葉は、すべて分るのだ。それをすべて分ったとしたならば、あなたは私の前に坐っているのが恥しいと思わぬか、昨日一日あなたが語ったことも私にはすべて分っているのだ――。あなたは、その私に対して恥しいとは思わないか、それを私は言っておるのだ。礼儀というものがあるであろうと言ったのはそのことだ。あなたの親しい友達では私はないのである。その私をこうして呼ぶ以上は、あなたもそれだけの心掛けのあるあなたでありなさい――。

厳しいかも知れないけれども当然のことである。これが人間の生きるべき道であり、この道を踏み外しては何の世直しぞ、何の国造りぞ、よいか!、まず、あなた自身が自らを作って、自らを修めていかなければ、隣人も、社会も、国家も、よくはならないということだ。指導者というものは、何時も自らに厳しくなければいけないということだ。私が言っていることを言葉を換えれば、指導者は自らに厳しくなければならないということだ。あなたは自らに厳しいか!私の眼には自らに甘いあなたが見える。私は、私自身に対してはあなたより遙かに厳しい私であったと思う。自らに厳しいからこそ、他人を真に生かすことができるのである。自らに甘い人間は、他人を真に生かすことはできないのである。結局のところ、あなたの心は、あなたの心の大半は、自らのことしか考えていないのである。この心を恥じなさい。

ここに名前の上っている勝にしても、福沢にしても、桂にしても、坂本にしても、自らを考えることの少なかった人達である。自らというものは殆ど無くなって、日本という国のために命を投げ出した人々である。この人々と話する時に、あなたが自らをばかり考えているような人間であるならば、そのようなあなたであるならば顔を洗って出直して来いと私は言わざるを得ないのである。よいか、昔でも神仏と話する時には、自らを洗い浄めたであろう。それは一つの作法ではあるけれども、神仏と話する時には、それなりの清らかな心でもって話をしなければいけない。われらは神仏ではない。けれども、われもまた神仏の賛(たす)けとして補(たす)けるものとして世の中を動かし、その世の中を変えて来ようとして来た者達である。――そのわれらと話する時には、あなた自身が、それだけの清い心を持っていないでどうして我らと話することができるか。――古い言葉ではあるが、日本神道におけるような゛禊(みそぎ)゛の気持を持って当らねばならないということだ。自分の穢れ、汚れ、驕り、このようなものを打ち棄てて、すべて振り払ってわれらに臨みなさい。よいか、単に人の意見を聴くだけではあなた自身は、よくならないのだ。自らの心をいつも見つめ返して、その汚れや埃を取り除きなさい。そのようなものは、私達の眼には非常な嫌なものとして映るのです。そういったものを取り除いて、いわば出直して来て、私達と話するような気持でなければならない。またこのような形で、私達と話をするにはその前から何日も何か月も前から心の準備をしなさい。よいか、そうであってこそ、はじめて礼儀というものは尽せるのである。

われらにとってはこの不自由な地上世界にまた舞い戻って、あなた方と話することは、決して幸運なことでも楽しいことでもないのだ。むしろ不愉快なことであり、私の二十何年の生涯など、もう一度話ししなければならない義理などどこにもないのだ。それを敢てさせようとする以上は、それだけの礼儀を尽さねばならぬということだ。よいか、――心を引締めよ、もっと磨け、洗え、そうしてはじめてわれらと話が出来ると思え。

善川  いや、どうも大変ありがとうございました。私自身肝に銘じるお訓えでございました。


4.誠実と熱意と行動で世を変えよ


松陰  言葉は厳しいかも知れないけれども、私は決してあなたや、あなた方を責めているわけではないのだ。事に当たるに対しての基本的な心構えということを、私は説いたのである。今私が言ったようなことは、私の弟子達にも私は常に説いていたのである。こういったことを常々私は説いていたのである。

学問をやるにしても、学問をやるためには、学問をやって世の中を変えていこうとするためには、己自身を常々正していかねばならぬということだ。自分自身に正直に、誠実に、生きていかねばならぬということだ。キラリと光るような人間でなければ、真の学問は修めることは出来ない。であるから私は、弟子を教えるにしても、その人の知識の如何ではなく、その人間の生きる姿勢を見て、この人間であるなら日本のために尽せると思える人を、弟子としたのである。よいか、心構えである。要は心構えである。要は意気込みであるのだ。明治維新においても志士達が、日本の国に影響を与え得たのは彼らの心構えであり、彼らの心意気であり、彼らに熱意があったからである。熱意程人間を揺り動かすものはないのだ。よいか、あなたは、あなた方は、私達と違ったことを今しようとしている。しかし、事に当たるに際しての基本的な姿勢はいつの時代にも、どのような状況下においても同じである。それは一に誠があり、熱意があるということなのだ。常々、自らに誠があるかどうか、熱意があるかどうかということを内省しなさい。人間というものは誠の心と、熱意には勝てないのだ。真実の誠をもって、熱意を持って自らを錬え、世を変えようと思っている人間に対しては、人々は心を動かされざるを得ないのだ。そうして人々の心を動かしてはじめて世の中が、時代が変っていくのではないか。

ですから私はあなた方に言いたい。誠と熱意、誠と熱意を持って行け、さすれば、あなた方が成した事業そのものは、世に残らなくてもよいのである。業績を残すこと自体が、素晴しいことではないのである。誠と熱意を持って行ったならば、たとえどんな短い生涯であったとしても、私のような短かな生涯であったとしても、何程かのものを世に残すことは出来るのである。よいか、誠と熱意である。その凛とした気魄が、凛凛とした気魄が、時代の中に余韻として残るのである。この余韻が時代の中にある人々を感化していくのである。あなた方もこの様な凛とした気魄をもって毅然とした態度でもって世に処して行きなさい。あなた方の気魄がこの時代に影響を与えるようでありなさい。誠と熱意、を持って凛凛としたそういった余韻をこの世の中に残して行きなさい。

善川  明治以来既に百年を経過し、人心は世の様の移り変りとともに大きく変形して参り、今毅然たる指導理念を失ったまま、人々は明日の己れの行方も知らず、さながら大海に漂う笹舟のような生活を送っております。私達はそういう人々に対し、人生の価値基準というものを明確にし、人生航路の指標というものを示さねばならぬと思っております。唯今の松陰先生のご訓戒を今後「心(むね)」として行きたいと思います。まことにありがとうございました。

松陰  よろしいか。要はこういうことなのである。こういうような形で諸聖賢の言葉を集め、書物を作り、知識として世の中に流布したとしても、それだけでは人々は変らないのである。知識だけでは人は変らないのである。よいか、このような知識を吸収して誠と熱意で人々を変えていこうとするあなた方に動かされて、人々は変わるのである。知識では変わらないということである。

あくまでもこれは材料にしか過ぎないのである。私が喋ったということは、活字になればそれは単なる言葉であり、知識にしか過ぎない。ただ、私とこうして面と向っているあなたには、何か厳しいものが凛とした気魄が伝わっている筈である。この気魄を伝えるのは、あなた自身の仕事なのである。知識ではないのである。単に知識として何十人、何百人の人を呼んだところで、そうしたものでは世の中は変らない。世の人々は変らない。私達に接したこの凛としたものをあなた自身が身につけてこれを世に伝えよ。人々に伝えよ。そういうことだ。その時に誰がこう言った。彼がこう言ったと、あなたが言うことによって人々は真に救われないということだ。われわれに接したその気魄をあなたが体現するということだ。よいか、われわれが話しているのは、少くともあなたしか居ないわけであって、あなた自身が私達の話を聴いて、少くとも何らかの感化を受けないのであるならば、われわれの仕事は、これは徒労に終ってしまうのだ。よいか、あなた自身そういったわたくし達の次元の凛とした気魄を吸収しなさい。それを世に伝えるのです。伝えるのは気魄であって知識ではないのである。


5.真実一路の馬鹿者になれ


善川  いやありがとうございました。今後は「神理」の流布ということをただ書籍の頒布ということだけに留まらず、今後行動によって人々に訴える時機が迫って来ているようでありますので、その時には先生の尊意を帯し、人々と接し、世に当たりたいと存じます。

松陰  そのとおり、誠と熱意をもって、気魄をもって世の中を渡っている人間というものは、世の大勢からみるとある意味においては馬鹿者のように見えるのだ。馬鹿のように、馬鹿一のように見えるのだ。けれどもそうした馬鹿な人間が、真実一路の馬鹿な人間が居なければ、世の中というものは進んでいかないし、変っていかないのだ。

時代の節目、節目に出て来た人々をみてみなさい。皆どこか馬鹿なところがあるのだ。その愚な程、馬鹿なところがあるからこそ、世の中のために、神のために、神仏のために生きることができたのだ。そういう意味においてあなた方は、決して賢い人間になれとは私は言わない。馬鹿な人間になりなさい。真実な意味において馬鹿な人間に、「神」のお役に立てるために、馬鹿にも愚にも自分の身命を投げ出すような、そうした立派な馬鹿者になりなさい。よいか、世の中から笑われることもあろう、馬鹿にされることもあろう、それでよいのだ。そうした淳朴な馬鹿者こそが、この世を造って行くのだ。いい意味での馬鹿者になりなさい。賢く立廻るのではなくて、馬鹿者になりなさい。真実一路の馬鹿者になりなさい。そういったことも私はつけ加えてあなた方に助言して置きます。


6.敵はサタンに非ず己れ自身の怠け心にあり


善川  ありがとうございました。本日はこれ以上のご助言もなかろうかと存じます。今後私どもが行動する中においてあるいはその節目、節目において先生のご助言を仰ぐこともあろうかと存じますがその折にはご指導下さいますようお願い申しあげます。

松陰  ただし、――怠け心あるあなた方でないということが条件だ。よいな、怠け心というものは、私の最も嫌いとするものだ。怠け心はいかん。人間は精進しなければならない、勤勉でなければならない、それでこそ与えられた人生を全うに生きれるということではないのか。怠け心と戦うということだ。

敵は悪魔でもない、亡者でもない、敵は亡霊でもなんでもない。敵は自らの心にある怠け心である。この怠け心に打ち克ったならば必ずや人間は、大きな事業を世に残すことができるのだ。敵はサタンではない、悪魔ではない自らの心の中に潜む怠け心である。このことを篤と心して今後の戒めとしなさい。

善川  ありがとうございました。