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目次













(1989年8月26日の霊示)

1.正義を守るために


大天使ミカエルです。こうして、みなさまにまた私の霊示を問うことができることを、天にまします我らが神に心より感謝いたします。

さて、私はすでに『大天使ミカエルの降臨』 一巻から三巻(土屋書店より刊行)でさまざまなことを申し上げました。悪霊(あくれい)についても申し上げました。しかし、本書では主として諸霊人相集(あいつど)いて、いかにして悪霊を撃退するかという方法論を組むことになりました。その筆頭として、私がまず演壇に立つことになりました。

私は、すでにみなさんご存じのように、七大天使の長(ちょう)です。そして、私の主たる仕事は、天界の秘儀を守り、天界のルールを守るために、その正義のためにあらゆる邪悪なる者と戦うというところに、私の使命があります。私は、みなさんがご存じのように、今から一億年あまりの昔、ルシフェルという、もと光の指導霊であったにもかかわらず、転落し、悪魔となった者を、地獄に閉じ込めた者です。ただ、それ以降、地獄は天上界に対しては、直接の反乱はできないものの、地上にひじょうに近いという利点を生かして地上の人間を混乱に陥れ、そして地獄に引き入れるという活動を一億年以上も展開してきました。

その結果、多くの者が地獄に引き入れられることになって、私たち天上界の諸霊も、それを無くすために地上に肉体を持って生まれては正法神理(しょうほうしんり)を説き、また実在界にあっては地上の光の天使を指導し、また悪霊たちのさまざまな惑(まど)わしを妨げ、そして防止するために日夜活動しています。

ただ、あなたがたもおわかりかと思いますが、この悪霊たちとの戦いは、ちょうど暴力団と警察官との戦いに似て、そのすべてを無くしてしまおうと思ってもなかなかそれができません。警察官の取り締まりが厳しくなれば、暴力団は一時期静かにはなりますが、また、秘かに違った時期に、違った場所で地下活動を開始するようになります。

そのようになっている理由の一つは、たとえどのように心間違った者であっても、たとえ今邪悪な心になっていたとしても、本来は神の子であり、やがて彼らも改心すれば、天上界に還ってくる可能性を持っているがゆえに、その暴力団と見えし者も、すべて殲滅(せんめつ)すればいいというものではないからです。ここに大いなる神の愛があります。

ただ、現に行なわれている悪、現に行使されている悪そのものは、これはなんとしても防がねばならない。なんとしても阻止せねばならない。しかし、彼ら自身もやがて立ち直り、善人となることが予定され、また求められているがために、そうした愛ゆえに彼らすべてが存在しなくなるということはない。それが現状であると言えましょう。

それゆえに、我らはピストルを持って暴力団に向かうのではなく、ちょうどあの梶棒(こんぼう)を持って暴力団に向かうかのように見えることもあるかもしれません。それほど強制力を持たないで、彼らの影響力、行動力を阻止するという仕事を中心にやっているからです。


2.憑依(ひょうい)の原理


主として、この悪霊・悪魔のたぐいは、地上に降りたる心正しき人たちを、なんとか誘惑し、迷わせようとしているのは事実です。もちろん、悪魔・悪霊たちがすべて悪いわけではありません。彼らが入りこんでくる、魅入(みい)ってくるには、それだけの条件があります。それは、地上の人間、が彼らと共通する要素を、心のなかに持っているときです。それは、過去、幾多の光の天使たちが何度も何度もくり返して説いてきたように、執着(しゅうちゃく)というものが大きな根源になることになります。

この執着とは何であるか。悪霊たちが人間にとり憑(つ)いてくるいちばん狙(ねら)いやすい執着の一つは、たとえば名誉欲であります。偉くなりたいという気持ち、これに魅入ってきます。そして、偉くなりたいということのために人を蹴落(けお)としてでも、そうなろうとしたり、あるいは自分が偉くなれない場合に、その欲求不満を破壊的想念として、まわりに放散するようになります。

また情欲というものがあります。正しい異性の間での性的な結び付き、それ自体はすばらしいものであり、幸福をいっそう増進するためのものでありますが、これも人間の根源的な欲望の一つであるために、この現われ方が間違ってくると、魔に魅入られることになります。したがって、この情欲なども、情欲そのものが悪いというよりも、情欲を契機として転落することが多いがゆえに悪いという一般的警告として、情欲の危険性がある、と言えると思います。

それは、ちょうど盗みの悦(よろこ)びにも似て、何の盗みも働いたことのない人から見れば、不思議に見えることですが、いったん、万引きであるとか、その他の盗みのようなものを経験した者にとっては、働かず代価を払わずして人の物を奪い去るということが、だんだんに麻薬のように快感になってくることがあります。

それと同じように、情欲も次つぎと罪の意識が薄れていくがゆえに、それゆえに麻薬にかかったようになって、そして虜(とりこ)になっていきます。情欲のいちばんの問題点は、本来、魂が肉体を支配し、そして心がすべてであるのにもかかわらず、肉体のほうが主となり、魂が従となる傾向があるからなのです。肉体が主となった場合に魂は弱いものです。従となっていきます。そうして、翻弄(ほんろう)されます。これは、まことに悪霊にとって好都合な環境が出てくることになります。

彼らは、地獄におりますが、彼らは地上に戻りたくてしかたがないのです。彼らには肉体としての手足がありません。しかし、彼らのやりたいことは、すべて肉体を縁として生ずることばかりなのです。彼らは、できるかぎり地上の生命を享受し、生き長らえたいと思っているのです。地上の人間と同じように活動がしたいのです。

みすがらが地上に生まれ変わることができないがゆえに、地上の人間にとり憑(つ)いて、その欲望を晴らそうとするのです。ゆえに、悪霊たちは、ほんとうに地上の人間に憑依(ひょうい)するということを喜びとしています。

地獄の世界は、闘争と破壊、殺戮(さつりく)の世界で、一瞬も心の休まることはありません。光は射さず、そして寒く、おたがいが不信感の固まりとなり、闘争をくり返すのです。また、大魔王となって多くの手下たちを従えていても、いつ手下たちの反乱を受けるか、いつ寝首をかかれるかわからないというような集団です。チームワークによる人びとの結合ではなく、恐怖心による人びとの結合です。もし裏切ったならば、みんなに寄ってたかっていじめられるという、その恐怖心ゆえに脱けられない。ちょうどヤクザの世界と同じく、脱けられない世界になっているのです。そこは、暴力、支配欲の渦巻く世界であります。

彼らはしかし、地上の肉体人間を支配するときのみ、一種の喜びを感じます。そうした恐怖のなかから逃れ、そして束(つか)の間(ま)の自由を獲得したかのように思えるからです。しかも、地上の人間に憑依(ひょうい)し、それを操縦しているときには、自分はその悪魔の本領に沿った仕事をしているような気持ちになっているのです。そういう言いわけが立つのです。自分たちの仲間を増やすという言いわけが成り立つのだと考えているのです。

それはそうです。地上の人間で、何体もの悪霊に憑依され続けている人、あるいは大きなサタンに憑依されている人は、地上を去るとき、すなわち命を失ったときに、地獄の仲間入りをすることは必然です。それゆえに、彼らが数多く憑依をするということは、地獄の勢力を増やすということであり、仲間を増やすということなのです。それゆえに、地獄の論理からは是とされ、許される行為となる。地獄にとって、よい行為をしておって、しかも自分は自由を満喫できる。そういうことゆえに、この憑依ということは、いっこうになくならないのです。

もちろん、なかにはそこまで考えていない者もいることは事実です。たんに肉体的には死んでも、死後の世界をまったく考えたことがなかったがゆえに、どうしてよいかわからず、生きている者にとり憑(つ)いて、その苦しみから逃れようとする者もあります。肉親や友人や親類縁者にとり憑いて、なんとかしてその死後の恐怖から逃れようとしている者もあります。どこに行ったらよいかがわからないのです。

また地上への執着が強すぎるがゆえに、地上を去ることができない。自分の家や土地やあるいは役職に執着して、そこから出ることができない。そういう者もいることは事実であります。まあ、これらもやがては、そういう気持ちは失っていくわけですが、目的を持って地上の人間を混乱に陥れる、そうした者の傘下(さんか)、軍門に下ることが多いと言えましょう。


3.心に隙(すき)をつくらず謙虚(けんきょ)に生きる


こうした現状を考え、そうして私の、今こう語る言葉を読んでいる方も、現にそうした悪霊の支配を受けている方もいるであろうし、死後そうした地獄の世界に行かれる方もいると思います。

そこで、これから私以外の他の霊人も、おそらく似たことを言うやもしれませんが、『悪霊撃退法』のまず最初の章を担当する者として、一般的な悪霊撃退の法則を言っておきたいと思います。

まず言っておくことは、もちろん悪霊の行動ということはあるわけですが、あくまでも原因としては、地上の人間側にその原因があるということを忘れてはなりません。原因というのは、心のなかに原因があるということです。もし、一分(いちぶ)の隙(すき)もなくば悪霊はけっしてつけ入ることがないのです。心のなかに、必ず隙があります。

また、個人個人、その人自体をとれば隙のない方であっても、他の人間を介して隙ができることがあります。外部の人間が、他の人間が、その人を非難する、悪口を言う、怒りをぶつける、そういうことによって、今まで心を穏やかに生きていた人に、心に執着ができることもあります。いずれにしても、この場合も抵抗力が弱かったということで、一人他の者に害されない環境にあれば安全であっても、他の者との関係を持つことによって安全でなくなる場合もあるということです。

しかし、大事なことは、まず悪霊を呼び込む原因は、みずからの心のなかにあるということだけを、忘れてはなりません。そうして、第二次的に、他の者を介して心が揺れることがあったとしても、やはりそのときの心構えは、どんな地震にあっても倒壊しない家屋のごとく、不動心をもって耐えることである、というふうに私は考えます。また、そうでなくてはならないと思うものです。

つまり、まずこの二通りがありますが、最初の゛心に隙をつくらない゛ということをもっと語っておきたいと思います。

それは、まずつねに謙虚(けんきょ)な心で生きることだと思います。この世界は神の創られた世界であり、自分は神の創られた生命の一員として、一部として、この地上で魂の修行(しゅぎょう)を行なっているのだ。それゆえに、自分はいま貴重な体験を積まされているのであり、自分の使命は、神の使命をこの地上に展開することにあるのだ、という聖なる意志を持って生きていくことだと思います。この謙虚さを忘れたときに、最初の間違いがおきます。

人間は、肉体に宿った魂として独立を許されている者ですが、個人個人に名前がついているように、各人というものは一人歩きし、その個性が一人歩きして自分のためにより生きやすい環境を、より得がたい環境を得んとして努力するようになっていきます。ただ、その自我の思い、自分が自分がという思いが、自分と他をへだて、そして異常な世界を作り出しているのだということを忘れてはなりません。あなたがたは役割として、一つの歯車として、一つの部分として、独立した個性をもちろん持ってはいますが、それはあくまでも全体との調和のなかにおいて許されているものであるという観点を、けっしてけっして忘れてはならないのであります。

それゆえに、まず謙虚さということを中心に置いていただきたい。


4.足ることを知る


第二番目に言っておきたいことは、欲望をそそられると魔に対しては無防備になるということです。さまざまな欲望が人間である以上はあります。魔の惑(まど)わかし、誘惑に対してみずからを守っていくための方法としては、これは他の者も言うかもしれませんが、゛足ることを知る゛という考えが、きわめて大事であります。つねに、つねに足ることを知って、人間としてすべてを与えられている自分の、その生き方に深く感謝をすることです。神によって与えられた環境と、生命、そして今日まで生きてこれたことを深く感謝することです。

゛足ることを知る゛の生き方は、感謝の生き方であります。小さなことにも感謝をし、よろこびをおぼえること、それが大事です。住む家は、雨風を凌(しの)げばよしとし、食事はおなかが充(み)たされることをもってよしとし、そして家族が幸せであることをもってよしとし、日々働ける仕事があることをもってよしとする。この人生の中軸に゛足ることを知る゛という考え方を持ってくることは、欲望のさなかにある人間にとって、きわめてたいせつな軌道修正であると思います。

欲望は執着と転化していきます。あまりにも一点に思いが集中すると、それは執着となってくるわけであります。ゆえに、欲望を去るということが大事です。欲望を去る方向は、欲望そのものを否定しようとしても否定できるものではありません。そうではなく、足ることを知った生活のなかに入ることです。

それは、生活のリズムのなかで言うならば、毎日を、単調であっても規則正しい生活のなかに、日々よろこびを感じるような生き方をすることです。ドラマチックな生き方だけではなく、そうした生き方をもよしと考えることだと思います。


5.みずからの想念をコントロールし、他を祝福する思いを持つ


謙虚(けんきょ)さと、足ることを知るという話を述べましたが、それ以外にとくに言っておきたいことは、゛自分の想念のコントロール゛ということです。゛足ることを知る゛とまことに大きな関係がありますが、他の人への嫉妬(しっと)、猜疑心(さいぎしん)、疑い、それから他人との比較によって傷つく心、こうした心はひじょうに魔に入(い)られやすい心である、というふうに思ってよいでしよう。

したがってみずから発する想念の管理ということが、とてもとても大事です。毎日毎日、自分自身をふり返って、他の人を害するような、そうしたマイナスの想念を発しなかったかどうか、マイナスの思いを発しなかったかどうか、これをよくよく考えていただきたいと思うのです。

地獄界は地上の人間の悪想念(あくそうねん)のエネルギーによってつくられています。地上の人間が発するそうした破壊的エネルギー、悪想念のエネルギー、苦しみのエネルギー、迷いのエネルギー、悩みのエネルギー、このようなものがその比重が重いがゆえに、地下世界にたまり、そして彼らの活動エネルギーになっているのです。もっともっと比重の軽い、澄みきった、調和のとれた、繊細な、精妙な波動を出してゆかねばなりません。

ゆえに、想念のコントロールが大事で、これは他を害さないと同時に、他を祝福するような、他の者を幸福にするような思いを持ってゆかねばなりません。そうしたことが、きわめて大事なことであると私には思えるのです。


6.指導者とサタンの影響


さて、以上で一般論を述べてまいりました。しかし、これ以外の特殊論というのはもちろんあります。以上で述べた方式は、いわゆる一般の悪霊、普通の人でも憑依(ひょうい)される可能性のある悪霊の問題でありますが、私はこれより後、サタンの問題について説明をしてみたいと思います。

サタンというのは、確実に存在します。今、現代人として生きているあなたがたは、笑いもするでしょう。嘲(あざけ)りもするでしょう。信じられないと言うでしょう。そんなのは、おとぎ話だ、昔話だ、童話の世界だと言うでしょう。しかし、事実は事実です。悪魔ともサタンとも言われている者は、現に存在します。

そして、彼らもまた人間であったということも事実です。人間であったが、地獄に堕ちて、数千年あるいは数万年、それ以上の長きを経ているうちに、もはや人間とは思えないような心の持ち主になっているということです。このサタンになった者の多くは、宗教家であることが多いのです。地上にあって宗教を興(おこ)し、間違った方向で人びとを指導した、そうした教祖たちがサタンになっていることが多く、それ以外では、間違った心をもって生きた政治家、また間違った生き方をした軍事的指導者、軍人、また間違った生き方をしたいろいろな思想家、間違った考え、すなわち神を愚弄(ぐろう)し、否定し、そして人びとに間違った思いを伝え、人びとの心を腐らせたような思想家、このような者がサタンとなってゆくのです。

彼らの特徴は、念が強いことが一つ。それと、もう一つはプライドが高いということです。プライドが高く、念が強いがゆえに、自分の過ちを認めようとはせず、自分の考え方が通らないならば、まわりの世界が悪い、神の世界が悪いというふうに必ず考えます。あなたがたのなかにも、そういう人はいるでしょう。自分の非はけっして認めたくはない。自分の考えが通らないのならば、それは世界が悪いのである、神が悪いのである、というふうに考えるような人がいるでしょう。それほどまでに、傲慢(ごうまん)になったということです。

サタンの発生原因は、この傲慢です。自分の魂というのが全宇宙よりも偉大になってしまった、この傲慢さが、大部分の場合サタンを生んでいます。そして、彼らは地上に生きていたときに、指導者をやっていたために、魂にそれだけの影響力があり、念の力があるがゆえに、その力はなかなか止(や)むことがありません。こうした者が地上で指導者をしようとしている者の欲心に近づいてきて、そしてそれを混乱させようとします。そして、次第しだいにすり替え、違った方向に導いていこうとします。

宗教的指導者で、このサタンたちに敗れた例は、枚挙(まいきょ)にいとまがありません。本来、光の天使として、人びとに正しい教えを説く予定であった者が、こうした魔に魅入(みい)られて、その方向をねじ曲げたことは数多くありました。方向をねじ曲げずに正しい教えを説くことは、じつにじつに難しいことであると思います。

そして、いったん宗教的指導者や、政治的指導者がこの魔に魅入られた場合、その影響を受ける者たちのなかにも、その心のなかにも次第しだいに魔が忍び込み、魔の手下たちが忍び込むという現実があるということです。

これを防ぐのは、もちろん一般的な悪霊の場合と原則は同じです。みずからの心を正しく保ち、光に満ちた生き方をする以外にないことは、当然は当然。ところが指導者に入ってくる魔の場合には、指導者が大いなる仕事をしなければならないという、まさにその部分に入ってきます。大きな仕事は使命感にあふれています。そして、多くの利害の調整を伴うがために、さまざまな人の対立、あるいは欲得(よくとく)、こうしたものがからんできて、人間の損得感情、また優劣感情、このようなものに巻き込まれていきます。どちらを正義と判定するのか難しいという局面が宗教や政治のなかには、数多く出てまいります。

指導者は、そうしたところのなかで、渦巻きのなかを生きてゆかねばならなくなります。それゆえに、煩悶(はんもん)ということがおきます。心の悩みということです。いかに決断するか、どう決断しても必ず反作用がある。そうしたなかを乗り切っていくために、どうすればよいのか。それがきわめて苦しい考え方になると思います。

ただ、私は言っておきますが、決断のときは、やはり神のお心に近い結果になるようにという判断をすべきであり、神の心が、もしわからないとするならば、多くの人びとの幸福になるように、という方向で決断をしていくほうが、よいということだと思います。


7.サタンから身を守る法


このサタンとの闘いは、地上のあなたがただけではなく、天上界にある我らも日夜さまざまな苦戦をしております。私、ミカエルのことにしても、ミカエルの名を名乗り、ミカエルからの霊示を受けているなどという、ばかな指導者たちも数多くいます。それほどまで、地上というものは混乱しています。

ただ、そうした者の特徴の一つは、いつも驕(おご)る心があり、謙虚(けんきょ)の心はなく、また上下感覚は強く、そして威(おど)し、怒り、また他の者に対する攻撃、悪口というものがけっして絶えません。サタンの指導を受けて、そして心穏やかで、そして言葉美しく、そして平静だということはありえません。必ずや感情にムラが起きて、激しい怒りや、嫉妬(しっと)、激昂(げきこう)、このようなものを伴うようになってきます。その感情のブレが彼らの狙(ねら)い目であり、いや彼らが支配してくるときに、必ずや感情のブレが起きてくるというふうに言ってもよいでしょう。

ゆえに、みんなで手をとり、手をつなぐことを忘れないことです。みんなで手をつなぐためには、みずからのプライドを治めることです。プライドの角(つの)を矯(た)めることです。そして、たがいに譲っていくことです。間違ったところがあれば、まず自分から素直に謝る習慣をつけ、そして他の人の間違いに対しては、できるだけ寛容ならんと努力することが大事です。要は、神の心に添って、神のお役に立てるような生き方をすることであり、自分にあまりこだわりすぎないとレうことです。

サタンのとりいる隙(すき)は、必ず自己拡張欲、自分向上欲ともかかわっています。アッというまに、そのところに入り込んでくることです。つねにつねに謙虚に、手堅く、確実なものの考え方をしていくということが大事です。


8.反省・信仰を忘れるな


さて、本書は悪霊の撃退法ということですから、撃退そのもののための方法も多少述べておく必要があると私は思います。

もし、あなたが強力なサタンによって、今苦しんでいるとするならばどうすればよいのかということですが、まず根本は心にあるという話をいたしましたから、今、自分がこの場で死んでしまえばどうなるか、ということを考えてみるのがよいと思います。今、この場で自分の寿命が尽きるというふうに考えてみると、さまざまな欲望はすべて消え去っていくことになります。この場で死ぬとすれば、欲望は消え去っていく。そして、自分の過去を点検するということになります。そうすれば、感謝をする人も数多くいます。また、謝らねばならん人も数多くいます。そうしたことを思い返してみるうちに、次第しだいに心は平静となってくるでしょう。

すなわち、悪魔の攻撃にさらされていると思うときには、少し時間の流れを止めて、過去から、原点からふり返ってみることです。初心というものを思い起こして、そして自分史というものをたどってみることです。それが、とても大事なことであるように私は思います。

また、次には、私はこの悪霊の撃退にどうしても必要なことは、信ずる力だと思います。神を信ずる力、仲間を信ずる力、師を信ずる力、そうした信ずる力だと思います。悪魔はつねに疑いのところに忍び込んできます。甘いささやきから入ってきます。自分に甘く、人に厳しいような、そうした結論から入ってきます。ゆえに、信ずるということを忘れないことです。自分で一人相撲(ひとりずもう)をしようとするのではなく、神を信ずることです。神は必ず自分を助けてくださるにちがいない。導いてくがさるにちがいないというふうに思うことです。また、自分の先生や、自分の仲間たちは必ず自分を救ってくださるにちがいない。許してくださるにちがいないということを、強く念ずることだと思います。それは、霊的な目で見て、はぐれてしまった者がまた元なるものに、一なるものにつながらんとする動きです。大いなるものを信ずるという気持ちを忘れないことだと思います。


9.正義の剣を抜き放ち神の子として立つ


第三番目は、この悪霊が来るということ、悪霊自体が来るということは、残念ながら自分の心に必ずしも万全ではないものがある、悩みがあるということを意味しています。この悩みは、自然に時間とともに消えていくものもあれば、すぐには消えないものもあります。

悩みの根源は、十分な考える材料がないにもかかわらず、結論を出してゆかねばならないところにあるでしょう。AとBとCという結論を選ぶのに、十分な材料がない。どうしたらよいのかがわからない。けれども、決めなければならないということで、ジレンマになっていることが多いと思います。

そのさいに、しかしながら、やはり選び取っていくという工夫をしなくてはならないと思います。一つの選択をしたときに、他の選択肢は消えていきます。悩みは消えるということです。そのときに、大事な判断は、きわめてこの世的な物の考えとも一致します。すなわち、物事の優劣をはっきりとする。幹と枝とをはっきり分ける。また、優先順位をつける。そういう考え方が大事で、今やらねばならないことのなかで、つねに優先順位をつけて決めていくという訓練をしていくことです。これによって、悩みを減らしていくということが大事です。

悩みがすべて解消した人にとっては、悪霊は入(い)る隙(すき)がないのです。サタンはそれを誘惑する術(すべ)がなくなってしまうのです。したがって、みずからができることとして、悩みをなくしてしまうということが大事です。自力でできることは自力でし、他力で消せるものは他力で消し、どうにもならないものに関しては、すべて神に委(ゆだ)ねるということも大事なことであると思います。神に委ねるということによって、執着は消えます。その執着が消えるということにより、悪霊が去り、悪霊が去ることによって、道が拓(ひら)けるということもあります。

ゆえに、つねに生き延びようとするのではなく、いったんその思いを断って、そして現在ただいまの自分を冷静に判断し、そして神の子としての自分にもう一度気づくときに、立ち直りの道が拓けるということがあるということなのです。いちばんいけないことは、バタバタと、あるいはジタバタとするということ。そうした混沌(こんとん)のなかで、さらに混沌を深めるような行為をすることだと、私は思います。

そうしたときによ、ミカエルの名を呼びなさい。サタンに自分が攻撃されていると思うときには、四体、五体という悪霊によって、自分が侵されていると思うときには、ミカエルの名を呼びなさい。我は、つねに正義のためにある。我は、つねに正しき者のためにある。正しさを求めるときに、我はそこにある。我が名を呼びなさい。そして、あなたがたはミカエルと一体となりなさい。正義の剣を抜き、そして悪を断ち切りなさい。

みずからの弱さゆえに悪を切れないこともある。みずからの優柔不断(ゆうじゅうふだん)さゆえに、悪霊を取り除(の)けることができないこともある。やさしさと優柔不断を混同しているがゆえに、その苦しみから逃れられないこともある。正義の剣を抜き放ち、そうした悪を切り裂くことです。それも大事な大事な決断であり、大事な大事な局面であります。

最後というときには、勇気を奮い起こすことです。全身全霊の力をもって、我もまた神の子なりと思うときに、道は拓けます。そのように悪霊を打ち捨てることです。そういうことは可能です。

゛悪は増長させてはならない゛という神理を守らねばなりません。悪霊は、本来彼らが善であるとしても、現に悪として現われている者であるならば、それを増長させ、勢力を拡大させては断じてなりません。その悪を悪として知らしめ、あなたがたが善の側に立つということを、正義の側に立つということをはっきりさせることです。正義の剣を抜くことです。

そのときに、自分一人で立てぬならば、我が名を呼べ。ミカエルを呼べ。

ミカエル汝とともにあり。ミカエル汝とともに立ち、ミカエル汝とともに叫び、ミカエル汝とともに剣を抜き、ミカエル汝とともに悪を切り裁かん。

我が名を呼びなさい。必ずや、我、馳(は)せ参じ、全国各地、世界各地のへびとの幸福のために、勇ましく闘わん。