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目次

 ・国造り














国造り


国土ができたのは、何万、何十万年も昔のことでございます。当時の方々は、私どものように霊的な力を持っており、また古い時代の記憶を人間として生きながら持っていた人も居たのです。そういうことが、過去の記憶として、われわれの力、神の力を使って天にあったように伝えられているのですが、やはり天上界の事実としては、日本の国土を創る時に、あそこの場所に島を造ろう、ここに高い大きな山を造ろう、このように私たちは話していたのです。

私たちが計画したことが、やがてこの地上に影響がでてきて、想ったことが形の中に顕われて、やがて島となり、山となり、海となり、湾となり、出来てきたのです。

地球の上でも地殻変動があったり、いろんなことがあって、ある土地が浮き上がったり、沈んだりしていますが、偶然ではないのです。私たちは、まず国土の建設ということを天上界で計画するのです。そうしてやがてその通りの国土が出来てきます。その後に私たちはその”器(いれもの)”に、神の意志を積み込むために、次々と肉体を持って生まれていったのです。

そして最初の国造りが始まってきたのです。いま、この日本の国も、一つの国として栄えておりますが、それは遡ること数万年前に、まず島国を創るということに端を発し、そして三千年程前に、私たちが集団で肉体を持って現われ、今の日本の国の基礎、基(もとい)、が造られたのです。その後三千年経ってこのような立派な国になってきました。これは私どもが何千年も昔に計画したことなのです。

わたくしたちが国造りをするときには、さまざまな神様が、さまざまな役割をしたのです。わたくしの役割は、この地上を明るく照らすということ。明るく照らすということは、人々の心を明るく照らすということ。御中主の仕事は、この国の土台を創ること、基礎をつくること、柱をつくることにあります。

わたくしは、このようなことを申しました。皆様方は今はこの地上で生きているけれども、皆様方一人ひとりは、あの空に輝ける太陽のように、日の光のような明るい、まぶしい光の子供たちですよ、と人々に説いておりました。


神の世界の秩序を秩序とした世界の建設


日本神道の神々の中にも、決して祭祀だけを執り行っているのではなくて、人々を正しく導き、この日本という国を創るために、具体的な導きを行っている方がたが数多く居られるということ、あなた方が肯定しようが否定しようが、そのようなことにかかわらず、この日本の国は、われらの影響下にあるということを、ゆめゆめ忘れて頂いては困るのであります。
たとえ、日本の国において、クリスチャンとして生きておられようと、仏教徒として生きていようと、或は他の新興宗教に生きていようと、彼らもまたわれらが庇護のもとに活動しているということなのです。
そういうことを、ゆめゆめ忘れれないで頂きたいのです。

既にあなた方もお聴き及びのとおり、日本神道におきましたは、神を敬うという気持ちを非常に大切にしております。
いまあなた方の世の中を見渡したならば、世は乱れ、混乱の極致にあるかにみえます。物質は溢れ、文明は栄えているかにみえますが、この文明社会において混乱を持ち来たらしているものは一体何でありましょうか。それはこの地上に生きている方々が、この地上こそが、彼らにとって楽園だという考えがあるからです。
僅か数十年の人生を、どのように花開かすかということ、他の者にどのようにみえるかということ、自分がどのように満足できるかということ、こういった視点から人生観が成り立っているのではないでしょうか。

しかしです。この地上の混乱を救うものは、この地上的な生き方、この地上的なでき事、この地上的な事業の中にはないのです。そうではなくて、この地上の混乱を救うものは、地上には無い。本来の世界、本源の世界とは何であるか、本来の「秩序」の世界とは何であるか。こういったことを明らかにさせる必要があるのです。

われわれが主として説き来たたったことは、「秩序」であります。キリスト教は「愛」を説いたでありましょう。その前にモーゼといわれる方は「義」を説いたでありましょう。釈迦はインドにおいて「法」、これは生きていく人間のとるべき選択肢、選択の基準、という意味での行動基準、「法」を説きました。
然して、私たち日本神道系が主として教えているのは「秩序」であります。
この”秩序”とは、われらが世界、神の世界における秩序でありますが、この秩序を、ある形においてこの地上にも反映させたいと思うのであります。

いまあなた方の世界においても、たとえば年齢ですね、年上のものを敬うということ、或は立場が上の者、上役を敬うということ、地位の高い人を敬うというようなこと、このようなことは行われておりますが、これは、本来の意味においての秩序ではないのですけれども、その秩序の考えの残骸と申しますか、残滓と申しますか、そのようなものであります。
決して肉体人間が、年齢をとることによって、偉くなることもないのでありますし、いまあなた方の社会において、会社において、例えば、課長になり、部長になり、或は役員になり、社長になるというようなこと、このようなことが立派なことだと思われているようですが、このようなものは必ずしも神の秩序には服していないのです。けれどもただ秩序、というものがあるということを、そのような形を通して、人間は感じることができるようになっています。

けれども、私たちが希っていることは、そのようなこの世の文化、文明が生み出したところの地位とか上下ではないのです。
私たちが、今あなた方の世界、この地上界において、実現してほしいと希っている世界には、神の世界の秩序を秩序とした世界の建設なのであります。やがてそのような世界が来ると希っています。
その世界においては、「神」により近き人間が、人びとの尊敬を受け、人びとを指導すべき立場に立っていなければいけません。古代のように、決して神主が人びとの上に立たなければいけないと、私は言っているのではないのです。
たとえば役所においてでもよろしいのです。貿易業者でもよろしいのです。或は工業、或は商業の中でもかまわないのです。どのような世界かは問いません。その中において、神の子としての自分を発揮している人、神の側近き人が、人々の尊敬を受け、人々を指導できるような世の中、なんとかしてそのような世の中を作っていきたいと思うのです。

年齢が上だから人の上に立つのではないのです。これからの世界は、年齢の上下ではなく、生まれついての金銭の多寡でもなく、勤めている会社の格の上下でもなく、そのようなものではなくて、その中に生きている人の人生観と申しますか、信仰と申しますか、或は哲学と申せましょうか、その人の考えが、その人の思想が神に近い、神により近い人間が人の上に立つような世界、そういった世界が作られるべきです。私たちはそういった世界を作るために少しなりとも力を貸したいと思っているのです。


人々を指導すべき人たちは、指導される人たちよりも秀れた人たちでなければならない


孔子、孟子の思想が近いと申されますが、確かに彼らもちょうど、われらがこの日本のやまとの国において国造りをしている同じ頃に、中国に降りて、大和の国よりも一歩進んだ中国の国において、文化を開くために出て行った霊たちでありますから、その意味においても、時代的にも、われらの考えと相似通ったものがあったということは否めません。

それは、「神の法」神の世界構造、神の光の中の一つの分光なのです。われら日本神道系、そうして中国に降りたいわゆる儒学、「儒教」、こういった方がたも光の色としては同じ色なのです。たとえて言うなれば、七色の虹で表すなら、われわれは”紫”色の光なのです。紫というのは尊さを表わす色なのです。こういった”紫”の色としてわれらは日本の国を照らし、われらの一部が中国を照らしたということなのです。

秩序ある世界は素晴らしい世界であります。人を敬える。優れたものを秀れたものとして敬える世界というものは素晴らしいものであります。たまたまこの地上に降りて来て、人よりも口がうまかったとか、人よりも腕力が強かったとか、人よりも金儲けがうまかったとか、たかだかそのようなことのために、地位において人より高いところにたった人間が、他の人間を教え導くということは、間違っているのです。

人々を指導すべき人たちは、指導される人たちよりも秀れた人たちでなければならないのです。日本の政治を見てみなさい。国を治める人たちをみてみなさい。何百人かの国会議員という方がいらっしゃるでしょう。彼らの中には確かに秀れた方もいらっしゃることを私は認めます。けれども彼らのうちの大半の方がたはどうでしょうか。人の上に立ちたいという権力欲のために、自らの地位を勝ちとって来た方がたではないでしょうか。或は票集めがうまいということ、或は金集めがうまいということ、或は人を動かし、人を扇動し組織するのがうまいということ、或は今の時代においては、テレビに出て顔を売るということのうまいことで、国の政治をする人たちが選ばれているのではないでしょうか。このようなことが通用するというようなことは、全く間違ってしまっております。そのような方がたは、この国の民を救うことも導くこともできないはずであります。


徳の優れた方が選ばれていくというような時流を作っていかなければならない


人を指導する人は、人を指導できるだけの才覚と”徳”がなければならないのです。そのような方がたが人の上に立てるような、そういった時代を作っていかなければなりません。

企業においても然りです。企業において人の上に立つ人は、ただ単に、仕事が早いとか金を儲けるのがうまいとか、たまたま事業で成功したとか、上の者の引きがあったとか、そのようなもので人の上に立つ者が決まっていってはならないのです。これからの企業において、多くの人たちを導いていく人は、ただ単に仕事ができるというだけではならないのです。

企業というものの中では、何千人か、何万人かの人々が、人生のすくなくとも半分以上を過ごすのです。この人生の半分以上を過ごす場において、単に熟練工として、単に熟練した事務員として、人間は生きているのではないのです。これだけの時間、これだけの場において、神の子としての本元を発揮することができないのであるならば、人生修行の大半は無駄になってしまうのです。

ですから、これから二十一世紀の日本社会においても、企業の中においても、徳の優れた人が指導者として選ばれていくべきであるということが模索されていくべきであります。仕事ができるということも一つではありますが、徳の優れた方が選ばれていくというような時世を、時流を作っていかなければならないのです。

ましてや国の政治においては、然りであります。国の政治においては、本当の意味において人々の尊敬を集め得るような人が上に立たねばなりません。今のような選挙制度は考え直さねばなりません。

選挙制度は、これはあなた方にとっては、最高の価値であるような民主主義の一つの典型として、選挙によって政治家を選ぶという方法がとられているのでありますが、これは人類の歴史からみれば、決して最上の方法ではないのです。選挙によって政治家を選ぶということは、独裁者を防ぐ、独裁者の出現を防ぐといおう意味においては、そのような消極的な意味においては大きな役割を果たしておるのでありますが、選挙によって選ばれるということは、必ずしもその人が優れている人であるということを意味していないのです。これからの政治、日本の政治というものを変革していくうえにおいて、如何にして本当に人を選び出していくかということを、あなた方は考えていかねばなりません。

現行の選挙制度においては、それはほぼ不可能であります。たとえて言うならば、非常に徳の優れた方があります。その方は宗教家かも知れません。或は宗教家ではなくて、先生かも知れません。或は地域社会の世話役をしている方かも知れません。けれども、たとえば、今の世界において、国の政治機関において上位を占めることができるでしょうか、或は学問を修め、学徳のある方が必ずしも人を指導すべき立場に立てるでしょうか、そういうことなのです。やはり、人々を治める人は、その秩序の上にあるものは、秩序の上にあるだけの内容を備えた人でなければならないということであります。


政治経済の混乱の原因


日本の選挙による政治家選び、現在の曲がった意味でのいわゆるデモクラシーというものを、いま一つ考えて行きなさい。デモクラシーというものは、必ずしも最善のものではないのです。それは最悪を防ぐための制度であって、最良の政治を実現するための手段ではないのです。

なぜ、わたくしがこのようなことを言い切れるかと申しますと、それは本来の神の国の相(すがた)、真の実相の世界を見えればそのことが分るのです。あなた方いま現世にある人もやがては死にます。そして地上の肉体を去った人たちは、次に幽界の世界に入り、霊界の世界に入り、神界へ、そして菩薩界へ、如来界へと入っていくのでありますが、このようにわれらが世界は、毅然としたと申しますか、整然としたと申しますか、このような神の秩序が明らかに出来上がっているのであって、何人もこれを変えることはできないのです。これが神の実相世界であるにもかかわらず、この三次元の現象世界だけが、いろんなことが起きているわけであります。本来菩薩界、如来界にあるような方が、この三次元に降りたならば、それなりの立場に立てないでいるのです。そして幽界とか、霊界あたり、或は地獄界に堕ちていく人たちがこの三次元において、高い地位を占め、高い立場を占めて行動しているのです。こういったことが混乱を招いているのです。

ですから、われらが理想はこの三次元世界においても、神の眼において指導者たるべき人が、指導者となるような世界を作らねばならないということなのです。そのような秩序が実現されるためには、一体どのような工夫が凝らされねばならないということでしょうか。それをあなた方は考えて頂きたいのです。昔のように神主が人の上に立つということはむずかしいでありましょう。古代エジプトにもそのようなことがあったと、わたくしは聴いております。

日本の国においても古代はそうでありました。神のコトバを伝える者が、非常に偉いということになっておりました。今の世の中においては、それは非常にむずかしいことであります。であるならば、一体どのようなことをすれば理想の世界が作られるのかということを選んでいくべきです。

それは、たとえば先程申しました、企業においても昇進なら昇進ということの制度を考え直していかなければいけないということなのです。たとえて言うならば、仕事ができるということが、その人にとっての昇進するための少なくとも五割以内の評価でなければならないのです。それ以外の評価は、その人に”徳”があるかどうか、その人が正しい人生観を持っているかどうか、こういったことが残りの五割の判定基準として選ばれなければいけないのです。

道徳心もなく、信仰心もなく、哲学もなく、人に教えるべき言葉も持たない人たちが、年齢を経れば、自動的に人の上に立てる世界は間違っているのです。そのような社会は間違っているのです。これからは、昇進していくにしても、そのような人の上に立つべき素質を持っているかどうか、ということが吟味されなければならないはずです。

これは、政治の世界においてもそうです。政治家たるべき者は、もちろん世界の経済を知り、国の財政を知り、さまざまなこと、知識技能をもっているということはもちろん必要条件でありますが、残りの十分条件は、彼らに徳があるかどうか、人を感化すべき力があるかどうか、人から尊敬されるだけの信条なり、信念をもっているかどうかということなのです。

そういったものをもっていない人は、どれだけ金集めがうまくとも、どれだけ票集めがうまくとも、どれだけ組織することがうまくとも、落選するような制度にしていかねばならないのです。これは努力すれば、やがて、そうなっていくでしょう。そういった制度はできるはずです。今の選挙制度というものは、単に数量的に一人一票の数を集めればそれで当選するというようになっているのが間違っているのです。


選挙制度の改革


例えばこれは一つの方法でありますが、立候補する人は、識者といわれる人びと、世に良識あるといわれる人々、宗教家であり、学者であり、文化人であり、他の者でもよろしい。識者であるといわれる人々の一定数の支持を受け、推薦を受けて、はじめて国民投票を受ける。こういった制度になっていくべきであります。

良識ある方々のまず推薦を受ける、推薦を受けた上で一般国民の投票によって決めればよいのです。こうしたチェック機能と申しますか、そうした選別というものがなされなければ、いまのようなままでは、どのような人であってもただ票集めが上手な人達ばかりが当選してしまいます。このようなことであってよいはずはありません。まず世の中の識者といわれる方々、こういった方々が選ばれるべきであります。

古代ギリシアの時代においては、ある意味においての賢人会議、賢い人達の集まりがあったと、わたくしは聴いております。そういった方がたの支持を受けられないような人々は、すくなくとも、指導者になるべきではありません。こうした政治体制というものを、いまひとつ考え直して欲しいと思うのです。これがあなた方現象界に密着した方の改革方向の卑近な例でありますが、わたくしの一つの希いであります。


逆転した価値基準


これは他人事ではないのです。あなた方の活動の中にもこれはあるのです。すくなくともあなた方は、日本の政治や、経済を牛耳るということは、それはむずかしいことでありましょう。けれども、やがてそういった世界が出てくる時のための「価値基準」を打ち出して置かねばならないということなのです。

今の日本の世の中では、一体何が偉くて、何が偉くないのか、どういう人間が偉くて、どういう人間が偉くないのか、何が価値があって、何が価値がないことなのか、これが判らなくなっているのです。文部省でさえも、神とか霊とかいうことに対してはなるべく触れないようにして置こうという有り様で、これは特殊な宗教学とか、そういった世界にだけ通用することであって一般の人々の教育には触れたくないという、そういったことは教えたくないというような時勢であります。

しかし、それが間違っているとことは、あなた方には既に明らかであります。霊が存在するか、しないかというようなこと、こういったことは当然の前提問題であって、存在することに基づいてその後の世界が、さまざまな世界が開け、そしてさまざまな勉強の材料があるのでありますが、その以前の、霊があるかないかというようなことで迷っている人びとが大半だというような世の中、これは間違った世の中です。そうした世の中にもかかわらず、神代の世界を間違って理解して、彼らは文化が未発達であったため、科学が進歩していなかったため、神や仏があると思ったり、霊があると思っていた時代があったなどという、大変な誤解をしているわけです。時代が進んでも霊的な意味においては進歩しているかどうか分らないのです。退化しているのかも知れないのです。むしろ退化していると言い切ってよいでしょう。

わたくしどもが地上に降りた時には、すくなくとも、神と一体である人間を敬うだけの心を人びとは持っていたのです。神と一体、神と話ができる非飛び地は尊敬の対象であったのです。ところが、今の時代に、たとえばあなた方は、わたくしたち上位神霊界の人々と話ができますが、たとえば個別にいろんな人に言いたいですか。言いたくないでしょう。なぜ言いたくないか。それは、そういったことを知っているというと、或は怪しい人ではないか、或は何かちょと変なのではないか、と思われるのが普通の世の中になってしまったのです。価値が逆転してしまったのです。三角形が逆さまになっているのです。底辺が広く、頂点へ行く程狭くなるにもかかわらず、今の世の中は逆になっているのです。逆三角形になっているのです。頂点に立つべき人が、ほんの一部分が底辺を支えて、底辺に本来あるべき人が上に居るのです。逆三角形の世界となっているのです。今のこの世の中は、逆三角形の世界なのです。底辺に居るべき人々が上を占め、上に居るべき人々が、ごく一部の人が底辺を支えているという逆三角形の世界が出来上がっているのです。明らかにこれは間違っております。


徳による価値基準


あなた方は、本来の価値とは何か、ということを教えていかねばなりません。たとえば、いまこの日本の中においては、どのようなことが偉いこと、素晴らしいことと思われているでしょうか。一つは教育というものを通してさまざまな試験、テストというものがあります。こういったものを経て、勝ち抜いたものが、たとえば選ばれたものとして、人々から尊敬を受けるようなことがあります。これは少なくとも腕力が強いとか、家柄が良いとかいうことによって人を選別するよりは、優れた基準でありましょう。

知力による基準というものは、家柄や腕力や、或は財力によって人を選ぶよりも優れた基準であるとわたしも認めたいと思います。しかしながら、知力というものは一つの才、才能の才であります。才能を超えた”徳”というものがあるのです。徳、或は雅量、或は器(うつわ)というものがあります。こういったものがもっと大切なのです。いくら知力を測ってもその人の愛の深さは測れません。いくら試験でいい点をとっても、その人がどれだけ人々に尽くそうとしているかどうかは量れません。しかし本来人の上に立つ人は愛深き人であり、慈悲深き人であり、人を救わんとする、人を助けんとする心の広い人であります。そういった人を如何に選び出していくか、そういった人が如何に選び出していくか、そういった人が如何に自己実現をしていくのを助けられるような世の中にしていくかということであります。

そのためには、少なくともあなた方はまず確固とした価値の基準というものを、人々に提供する必要があるのです。そういった人々が、徳ある人々が、優れた人々として認められるための価値基準を、あなた方は世に提供していかねばならないのです。

本来ならば、光の指導霊といわれる方々が、如来、菩薩といわれる方がたが、不幸なことに、あるときは「拝屋(おがみや)」の一人のように思われ、ある時には精選分裂のように思われ、ある時には奇人変人のように思われる世の中は、間違っております。これは三角形がひっくり返った世界であります。逆三角形の世界であります。三角形が逆転しているということをあなた方は教えていかねばならないのです。本来尊敬されるべき人が、一番軽視されているような世の中では困るのです。

昔、「哲学は、神学の婢(はしため)」という言葉があったとわたくしは聴いております。それは、哲学者達よりも神学者、神の道を説く人たちが上だという意味であります。これは昔の諺として残っているのでありますが、その真実の意味をわかっている人は少ないのです。それはこういうことなのです。神の世界においては、まず神のお考えを、神のお心を自分の言葉でお伝えすることができる人が、一番神に近いところに居るのであります。これが如来や、菩薩といわれる方がたであります。

ところが、哲学者といわれる方がたは、これは知恵の力、心裡の力、或は知識の力をもってこの世の中を解明していこうといわれる方がたですが、哲学者といわれる方がた、或は他の科学者でも結構ですが、こういった方がたの中でも善なる方がたは、いわば神界(六次元)の人々なのです。神の世界においては、神の言葉を伝える人の方が、知識を総動員して世界を解明する人よりも上にあるのです。これは確かなことです。けれどもこの世の中においては必ずしもそうではありません。これも何が素晴らしいかということが、必ずしも人々に分っていないことなのです。知識偏重という言葉がありますけれども、知識の上に”愛”があり、”慈悲”があるということが分っていないのです。

知力ということは素晴らしいことです。人が世に立って何かをなすためには、知識、知力というものが必要です。今の時代においては知識と知力というものがなかったら、ひとかどの人間として世を渡っていくことはできません。けれどもこれは最高のものではないのです。試験で一番よかった人が一番偉いのではないのです。本当はそうではないのです。知力というものは人間が世の中の役に立つために有用性を図るための一つの物差しであって、そのような有用性、或は実用性と申しましょうか、実用性でもって人間は量られてはいけないのです。役に立つ人間が一番偉い人間であってはいけないのです。役に立つ人間のもっと上に優れた人間が居るのです。役に立つ人間の上に、人々を導く人が居るのです。愛に溢れた、慈悲に溢れた人がいるのです。神の心を伝える人々が居るのです。神の心を体現した人々がいるのです。”愛”は知に勝り、”慈悲”は知に勝り、神の光はすべてに”優先(まさる)”ということが人々に分られなければならないのです。


秩序を維持していくための指標としての礼節


秩序ということと、秩序の中においては、礼節ということもいま一つ考えていかなければいけないと思うのです。秩序は秩序としてありますが、これがすぐ乱れ、すぐに入れ変わるということであっては、本来の秩序ではないのです。

ですから価値基準としての秩序をわたくしは申しあげましたが、いま一つ、行動基準、秩序を維持していくための指標としての礼節ということが大切であるということを、説いて置きたいと思います。

今、「礼節」という言葉を用いると、それこそ中国の儒学、儒教という彼らの世界の話になってしまって、今の世の中では、時代遅れと言われると思うのです。けれども、秩序を維持していく原動力は礼節ということなのです。この礼節ということをいま少し掘り下げて考えてみて頂きたいと思うのです。これは仏教の中においても、キリスト教の中においても、十分には説いていない言葉です。礼節ということ、それは本来の神の秩序を守るための行動基準なのです。礼節ということをもっと深めて考えてみて下さい。

今の世の中を見てみると、どうでしょうか。例えば、”非行”の問題があると思います。或は”いじめ”の問題とか、或は世の中でのさまざまな暴力の問題、いろいろな乱れた職業も数多くあるということを私は知っております。そのようなさまざまな現象の基礎にあるものは何かと言えば、礼節の喪(うしな)われた世界だということです。

大人たちは昔のように、子供たちに礼儀を訓えなくなりました。礼儀を訓えず、守るべき節度というものは訓えなくなりました。このようなことを言えば、古い封建時代の遺物か何かのようにとられ、そういったことを教えるのは時代錯誤のように思われているのです。けれども、本当は幼少時から成人するまでの間に、礼儀、節度というものを教わった人間と、そうでない人間とは非常に開きがあります。甚しい違いがあるのです。人間には礼節が大事なのです。そして礼節を学ぶのは幼い頃からなのです。躾(しつけ)という言葉で表されてもいいかも知れません。礼節ということを知らないで育った人たちが、混乱した世の中を作っているのです。

自らの頭脳において、自らの心において、本来の神の世界を感じとるまでには、人間は時間がかかるのです。大人になり年をとってからある意味で悟ることもあるでありましょうけれども、子供の時代には悟ることは無理であります。悟ることができない子供達に対しては、大人達が礼節ということを、もっともっと教えてやるべきです。これは強調されねばならぬことです。古いことでもなんでもないのです。神の教えは、神の光は、神の導きは、いつの時代においても同じなのです。この世界において、古い新しいということはないのです。ですから、秩序と、秩序を守るための方法としての礼節というものをもっと考えて頂きたいのです。


家庭に信仰をとり戻して欲しい


日本神道系の教えの中心となっているのが”秩序”であり、”礼節”であるということです。ですからわれわれは、どちらかというと、形というものを重視して来たのです。形というものが守られるということによって、人々の中に宗教心が芽生えるということを重視して来たのです。

神道においては、教会、寺院に当たるものがそれぞれの家庭にあったのです。それぞれの家庭に神棚というものがあった筈です。今は廃れたはずですが、それぞれ家庭、親子の中において神社があったのです。これが神道なのです。それぞれの家庭において信仰というものを教えるのが中心であったのです。これがわたくしたちのやり方であったのです。

しかし、神棚も、家庭から消えている現在、何かをなさねばならなぬとわれわれも考えているのです。ですから、教会とか寺院において信仰がなされるのは、それは専門家による指導でありますが、本来の宗教、本来の信仰というものは、個人或は家庭といった、ささやかな集まりの中で信仰されるのが本来なのです。そういう特別な世界ではなくて、個人々々の日常生活の中で宗教心を持つのが大切なのであって、日曜日に教会に行って神様の話を聴くことが、それだけが本当の信仰ではないのです。

一人ひとりの個人が、神に祈り感謝しながら生きていくということは、これは非常に感謝すべきことではなかったでしょうか。ですから、あなた方はすぐ”正法”とか”神の法”とかいうと、何か大きなことを、教えを説いて、人々を教化し善導するというようなことを考えがちでありますけれども、必ずしもそういったものでもないのです。信仰は一人ひとりの心の中にあり、ささやかな家庭の中に、本来は属すべきものなのです。

ですから、われわれが今、あなた方を通して言って欲しいことも同じでことでありまして、家庭に信仰をとり戻して欲しいということであります。特殊な仏教の宗派に属したり、特殊なキリスト教系に属したり、特殊な新興宗教に属したら宗教活動ができると思っているのが風潮でありますが、信仰は本来個人なり家庭に属するものなのです。そえぞれの家庭において神を念じ、神を思い、神に感謝するような、そして毎日毎日の生活が送っていけるような、そういった生活こそが本当の素晴らしい生活なのです。


神と共に生きることが天国に住むための最低条件


先程、わたくしの申しましたことの真意は、誤解されないように、もう一言だけ重ねておきますと、いま教育というもの、学校教育というようなものが重視されているけれども、宗教的なものは学校教育にはもう頼れないようになっているということです。むしろ家庭における宗教教育というものが大切だという視点を、あなた方は忘れないで欲しいとわたくしは申しあげているのです。

あなた方の今の行動基準、指針の中には、家庭において宗教が大切だという視点は欠けていると思うのです。むずかしい教養とか、むずかしい体系、本を通じてのむずかしい体系を作って、それに関心のある方がたは信じてくるでありましょうが、必ずしもそういったものだけではないのです。一つひとつの家庭において宗教心をもって生きていくということは大切なことであり、そういったことが、この地上を去ってわれらの世界に来た時に大いに役立つのです。

日常生活を神と共に生きた人間であるならば、迷わず天上界に帰ってくるのでありますが、日常生活において神を考えたこともなくて生きている人間の多くが、過って地獄へ堕ちているのです。ですから生活の中に、神があるということが大切なことなのです。

こういった視点をどうか忘れずにいて頂きたいと思うのです。霊界(五次元)とか、そういった普通の人が行く天界においても、神への信仰ということが毎日々々行われているのです。それがすくなくとも彼らが霊界に居ることの最低必要条件なのです。日々の生活の中に、神を念うということが天国であるといわれる霊界に住むための最低条件なのです。神と共に生きることができない人間は、天国に居ることはできないのです。ですから生活の中に神仏があるといった、そういう視点をどうか忘れないで頂きたいのです。


宗教とは神と共に生活すること


法というものは、管理された、例えば「六法」とか、そういった法律のような”法”ではないのです。法とは、人間の数だけの法があるのです。千変万化、百人寄れば百人の方があり、千人寄れば千人の法があるのです。一億人寄れば一億人のための法があるのです。そしてあなたがたが解明しようとしている法も、世界の仕組みを明らかにし、時間の流れの中でどのように神の教えが説かれて来たかということを明らかにし、その中でどのように人びとが生きていくかということを明らかにしようとしているのです。エリートのための宗教ではないのです。それは後世に残すための知的産物、知的遺産としてのものは残さなければならないのですが、それだけではないのです。

わたくしの言っていることが分りませんか。あなた方も天上界の世界の仕組みについてもかなり理解された筈ですが、如来や菩薩の法だけが天上界の法ではないのです。霊界に住んでいる人達や、幽界に住んでいる人達、或は地獄界に居る人達への法も法なのです。

いま、わたくしは家庭内における信仰が必要だということを申しました。これは主として霊界に住んでいる方にとって大切なこと、そして人数においては非常に多い方になるのです。あなた方の現象世界においても、そういった方がたが数においては多いのです。ですから、むずかしいことを説くことも大切です。後世に残さねばなりません。これもあなた方の仕事です。けれども、あなた方の教えの中には、一人ひとりの家庭生活の中において信仰心を持っていくことも大切だといったような、非常に初歩的な教えもまたなければならないということなのです。いろいろな方が居るのです。少なくとも生活において、神を信じて生きている人達は地獄に堕ちることはないのです。そういった基本的なことが、まずできていないために世の中の混乱が起きるのです。

その上の段階として、菩薩の法があり、如来の法があるのです。或は予言、さまざまな予言もあるでしょう。これはその上の次元です。こういったことも知らさねばならぬ人々は居るのです。知るべき人達が居るのです。その人達には残さねばなりません。けれどももっと原始にかえって、もっと原点にかえって、宗教というものは何かということを考えてみたなら、宗教とは神と共に生活することなのです。ただそれだけなのです。

今の世の中に生きている大部分の人達には、神がないのです。毎日の生活において神がないのです。自分しかないのです。自分が満足するかしないか、自分が嬉しいか、嬉しくないかということしかないのです。神と共にないのです。ですから宗教そのものは、神と共に日々歩むということです。この視点は決して忘れてはなりません。

高次元の法を説くことも大事だけれども、それだけでは人は救えないのです。神と共に生きるということがあってはじめて、その次に知的な努力として、天上界の仕組みを知るという更に一層進んだ学習があるのです。

ですから、一万人の人に対しては、たとえば八次元、九次元といった構造論をといていいかも知れません。けれども百万人に対して説くのであるなれば、日々を神と共に歩みなさい――。宗教心、信仰心をもって日々生活しなさい――、ということも大切だということです。

法にはさまざまな、プリズムのような光があるのです。さまざまな教え方があるのです。無限大に広いものです。神の教えは、神の世界から、この三次元、二次元、一次元をも包摂するものなのです。