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目次


















(1987年2月28日の霊示)

1.神は、救いの綱を地上に垂らしているが、気づかぬ人が多い


きょうは、三章で、「神々は招く」という話をしたいと思います。私たちの世界から、地上のひとびとを見ておるとね、いくつか不満に思うことがあるんですね。

それは、私たちは、彼らを、やはり正しい方向に導くために、あるいは、救うために、あるいは、幸福にするために、いくらかのきっかけを、もうすでに与えてあるのですね。与えてあるのにもかかわらず、これに気づかない人があまりにも多いからです。

まあ、言ってみれば、お釈迦様が、蓮の池からクモの糸を垂らしたという話じゃありませんが、天国からね、綱を何本も垂らしとるんですよ。

で、これにつかまれば、天国まで上ってこれるといって、綱をいっぱい、いっぱい、垂らしておるんだけれどもね、残念ながらね、この綱にしがみついて、上ってくる人は少ないんですよ。ひじょうにね。

そして「なんだ、こんな綱。」という感じで、足で蹴とばしてね、前に行く人が多いわけです。まあ、大部分がそういう感じですね。

こういうふうに、私たちは、いつもあなたがたを幸福にしようとして、救おうとして、招いておるんだけれども、いくら招かれてもね、お客さんのほうが来なければ、どうにもならんのですね。

私たちのほうから見れば、こういう残念な面ていうのが、いくつもあるわけです。いつの時代にもね。


2.真実の教えに接しても、やはり迷っていくひとびと


さて、同じことが現代でも、やはり言えるんですね。近年、いまから十一年近く前に私は亡くなりましたけれども、昭和の初めに出て、昭和四十年代、それから五十一年まで法を説きました。

しかし、私が法を説いておっても、それに気づかない人は、日本人のなかでは多いわけですね。

私の法を直接聞けるという人は、もうおそらく今後、当分といっても、もうほんとう、何百年、何千年、単位じゃない以上の、当分の間、聞ける人は、いないはずなんですけれども、でも、そういう法が説かれておったということを、ひとびとは気づかんのですね。

そして講演会聞けば 「ああ、よかった。」ぐらいでおわってしまって、高橋信次が亡くなったら、また、他の宗教団体を、一生懸命、放浪して、そして、なにがなんだかわからなくなっていく。

また、ある弟子なんかは、私があれだけ教えたにもかかわらずね、先生が死んで、十年もなれば、また、クリスチャンになって、ミサをやってみたり、心霊治療をやってみたり、あるいは、禅の坊さん引き込んでやってみたり、こんなことを始めます。

私が、何年もやったことをね、言ったことは、いったいなんだったか、ぜんぜんわかっとらんですね。

そして、クリスチャンの変な伝道師引っぱり込んで、「ここに、仏壇があるから捨てなさい。」とか、こんなこと言わしている。そして捨てたりしている。私が言ったことの意味を、ぜんぜんわかっていません。


3.教師の心がわからぬ教え子たち


こういうように、人間というのは、ひじょうにあわれなんですね。

イエスの弟子でも、もちろん、そういう面がありましたけれども、ようするに、先生がいなくなると、すぐ忘れちゃうのですね。まあ、学校がなくなれば、宿題がなくなるのといっしょです。

まあ、小学生なんかでも、いますね。きょうも勉強だと思って出てくると、担任の先生が、風邪をひいて休みになった。そして、「きょうは自習です。」と言われると「ヤッタ。」と言って騒ぐ人がいっぱいいるんですね。

まあ、先生が風邪をひいて「ウン、ウン。」言っておるのに、「ヤッタ。」と言って子供たちは、はしゃぎまわっとるわけです。むずかしい勉強からきょうは解放されたと、言ってですね。まあ、そういうふうに、人の気持ちがわからない人たちがいます。

まあ、地上のみなさんがたも、そういうふうに本日休校になったり、あるいは先生が、病気になったりして、自習になって、勉強が休みになったときに、「ヤッタ。」と言って喜びまわっている子供のように、自分がなっていないかどうか、これを、よくよく考えてみなくてはいかんのです。


4.神々は、招きはするが、強制はしない


まあ、法というのはね、ほんとうに厳しいものなんですね。

そしてね、なんといいますかね、まあ、人間というのは、さっきも、ロープの話をしましたけれども、招かれはするけれども、強制はされないのです。これは、神様の与えられた方法論だからです。

神様は、私たちを通じて、人間を救うための方法論をいくつかお教えになりました。

すなわち、救助用のロープ、これを垂らすことは、かまわぬと。しかし、これで上ってくるかどうかは、各人の問題だというふうに、神様は、決められたんです。

私たちは、行って、各人の胴体に、ロープをグルグル巻きにして、それを引き上げたりするようなことを、こういうことは、許されていないんですね。ロープは伸ばしてあるけれども、ここから登ってくるかどうかは自由なんです。

まあ、言ってみれば、デパートが火事になって、火が出て、煙が出とるわけですね。そして、なかにいる人たちは、屋上に逃げとるわけです。このままでは、煙にまかれ、火に焼かれて死んでしまうんですね。

そこへ、ヘリコプターが通りかかって、ロープを降ろしてくるんだけれども、屋上の上に、ローブが降りてくるけれども、「そんなヘリコプターに、飛び乗るのは怖い。」とか、あるいは、「あれはインチキかもしれない。」と。

「あんこ、ヘリコプターに乗せられると、外国に連れて行かれて、身売りをさせられるんではないか。」と。

まあ、こんなことを、言う人もいます。信じないんですね、ほんとうに救いに来ているということを。


5.デパートの火事のたとえ


ちょうどね、二十世紀末の現代人というのはいまのたとえどおりなんです。

もう火に焼かれてね、煙にまかれているデパートの人たちなんですね。大きなデパートで、もう窓から飛びだそうとしたり、屋上に逃げてきたり、しているのですね。

そして、私たちは、ヘリコプターで救助に向かっております。あるいは、消防車で、行ってね、ハシゴ車でハシゴを、かけています。

にもかかわらず、そのハシゴをくだらず、また、ヘリコプターから降ろされた縄バシゴにも乗ってこない人がいる。

まあ、こういうように、ひじょうにみなさんものわかりが悪いわけですね。煙にまかれているからようするに、目が見えない。あるいは、心が動転しているから、さっぱりわからないのですね。どういう行動とったらいいか。


6.「実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」の心境がだいじ


たとえば、私の後継のある団体なんかでも、私が生前あれだけね、なんといいますかね、個人崇拝のようなことは、戒めとったにもかかわらず、個人崇拝を始めてしまう。そういうことになってきます。

それから、私が、あれだけ生前、謙虚さということを説いたにもかかわらず、それを、忘れてしまう。

私は、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」ということを、何回も、何回も、教えましたけれどもね。

ほんとうに、神理を悟ってくると、人間というのは、だんだん謙虚に、ならざるをえないんだということを、私は、口をすっぱくして話したはずです。

ところが、かつての私の弟子たちは、どうでしょうかね。

まあ、それぞれに独立して、それぞれに、会長だとか、主宰だとか、総裁だとかになって、それぞれに出版社を持って自分の名前で本を出して、そして写真を載せてね。

自分の写真、私たちからみれば、見たくもない顔写真、いっぱい載せてね。悟ったようなつもりでおるのでしょうが、そんな顔を載せて、「我こそは、正統の後継者なり。」とやっとります。

私が、いったいそんなことを教えたかどうかです。まあ、このへんを、よく考えにゃあ、いかんのですね。


7.過去世の名で増上慢(ぞうじょうまん)となるな


とくに私が、ひじょうに問題だと思うのは、その弟子たちが、みずからの過去世がどうだこうだ、ということでもって、ひとびとを導いているのがどうもようするに納得がいかないのです。

たしかに、私も生前「あなたはだれそれの生まれ変わりだ。」ということを、ずいぶん言いました。それについては私自身も、現在、ひじょうに反省しています。

その人がまだ心の準備ができていないのに、そういうことを言うことによって、そうした人たちが増上慢になり、自惚(うぬぼ)れをもって、みずからを偉い人間だと思ってしまう。そういう危険性が、当然わかるにもかかわらず、それを未然に防げなかった。

つまり、いつまでも私が生きているものだと思って、そういう弟子たちを、自由のままにさせたということが、私の大きなまちがいだったと思います。

私が、死んだあと、そういうふうに、それぞれがいばってやるならば、そういうことは、けっして言うべきではなかったと、私はいま、後悔しています。

ある者は「ミカエル」だと言い、ある者は、「シャーリープトラ」だとか言い、そんなことをいっぱい言って、ひとびとを迷わしております。そんなことは、どうでもいいことなんですね。はっきりいって、どうでもいいことなんです。

そんな名前でもって、人を見くだしてはいかんのです。そんな腐った肉で、人を導いちゃあ、いかんのです。腐った肉をぶら下げて、犬かなにかにかみつかせちゃあ、いかんのです。

そりゃあ、肉でもぶら下げて歩いたら、狼がいっぱいよってくるでしょう。ハイエナが、よってくるでしょう。

しかし、そんなことじゃ、いかんのです。ほんとうに、いい教えというものを説くことによって、ひとびとを導いていかねばいかんのです。法につかにゃあ、いかんのです。


8.法の同質性こそが後継者の証明


私の後継者であるかどうかは、私が説いたような、同質の法が説けるかどうかです。そして、私が指名したからどうかとかね、そんなことは、関係ないんです。

私が遺言で、「この人以外に通信を送らん。」とか、そんなこと言った覚えないんです、私はぜんぜん。そんなことデッチあげてやっています、まことしやかに。

人間が死ぬときっていうのは、気が弱くなっています。そして、どうしてもあとに迷いが残らんように、死ぬ間際にね、なにもかも、片づけたいと思います。

そういうことで、私であっても、他の人間であっても、いろんなことは言います。死ぬ間際にね、いろんなことを言います。

ただ、死ぬ間際の人間には、その心の整理がついていない、ということがあるわけですね。

まあ、こういうことがあって、よく裁判なんかでも遺産相続とか、跡目争いとか、こういうことがあるんですけれども、こういう死にゆく人間の、ようするに、不安に乗じてね、みずからが後継者だとか、こんなことを言って、争っているのはまちがっとるわけです。

これは、GLAだけでなくて、ほかにもありましたね。なんとかいう、お光を与えるような宗教がありますけれども、そこでも二つに分かれました。

それは、教祖が亡くなったときに、「あの人にまかす。」と言ったのか、それとも、ここちが正統の後継者だ。」と言ったのか、これを言い争って裁判になって二派に分かれたところがありますね。まあ、こういうところもあります。

まあ、これは他の教団でもそうですけれどもね。私でもいっしょなんですね。そんなことしてね、みっともないことでね。後継者争いをしていただいて、私が喜んでいるかどうかです。私ははずかしいですよ。

それは、すばらしい団体がね、あとを継いでて「我こそは後継団体」と言うのならいいよ。それが、どれもこれもね、見るにたえない団体ばっかりで、我こそは後継者と言っとるのです。言ってほしくないんです。

むしろ後継者がいない、と言ってくれたほうが、よっぼどましです。もう高橋信次一代で終わったと、言ってくれたほうが、よっぽどましです。私はそう思います。

ですから、まあ、私の弟子たちね、あとを継いでいる者たちは、私を立てているつもりなのかもしれないけれども、それは、亡くなった人間に対して、顔に泥をぬっているのと同じなのです。

つまり、変な法を説いて、後継者と名乗るぐらいなら、やめていただきたいのです。そういうことはね、もう、それは、故人の名誉を傷つけることになります。


9.あの世のランクは修行のための方便なのだ


こういうもんでね、人間というのはね、私はとくに気をつけねばいかんと思うんだけれども、神々が、こう招いてもね、まあ、さっきは、招くという話をしたけれども、こんどはまた逆に自分を特殊な人間だと思うこともあります。

ほんとうは、すべての人にたいして神様というのは招待カードを出しておるのです。

すべての人たちにたいして、招待カードを出しておるにもかかわらず、自分だけに招待カードを出されたと、こういうふうに、思っている人がいっぱいいるんですね。これは、まちがいなわけです。

まあ、私は如来だとか、菩薩だとか、あるいは神界だとか、霊界だとか、幽界だとか、言ったけれども、こんなのは、ほんとうは、差別知でもって人間を見ることを教えたわけじゃないんです。

あの世の世界というのは、そういう区切られた世界というのは、厳然としてあります。たしかにありますが、それは、人間のランクをつけたり、人間に箔(はく)をつけたりするために、あるんじゃないんです。

そういう世界があるということは、あの世での修行のために、あるんです。

それはそうです。小学校だって、六年生と一年生とを、同じクラスにぶち込まんはずです。よっぽど過疎の村か、なにかでないかぎり、上級生と下級生をいっしょにしない。

また、小学生と、中学生をいっしょに教えるわけには、いかんのです。中学生と大学生をいっしょに教えるわけにもいかんのです。

それは、それぞれの進度が、あるからです。勉強の習熟度がちがうからです。

そのために、そういうクラス分けがあるんであってね。べつに六年生のほうが、五年生よりも偉いわけではないんです。

ね、そういうふうに、学習の度合いが進んでいってるだけなんです。それ以外のもんじゃないんです。みんな同じなんです。同じ人間なんです。同じ人間としてやがて、社会人になることを、約束されておる人たちなんです。

それにもかかわらず、死ぬときに、高橋信次が、「あいつが、中学三年生だ。」と言うた。「私を高校三年生だ。」と言うたと、いうことで「私は高校三年生だ。おまえは、中学三年生なんだから、わしのいうことを聞け。」こういうことを言ってるわけです。

十年もたったら、みんな大人になってくるんです。社会人でね。だからそんなもんじゃないんです。

それにもかかわらず、死後十年あまり、私が言った、おまえは、何年生だというようなことを、いかにも階級をふりかざすようなつもりで、やっとる人がいっぱいいます。

まあ、こういうあわれな者たちに対して、私はね、厳しく一喝しておこうと思うんです。

あなたがたは、自分を七大天使だとか、大如来だとか思っておるかもしれないけれども、そんなふうに、思えば思うほど、自惚(うぬぼ)れれば自惚れるほど、あの世にきたら厳しい試練が待っておるということを、覚悟せねばいかんのです。


10.幼子(おさなご)のようでなければ、天国の門は開かない


イエス様が言いました。「幼子のようにならなければ、天国の門は開かん。」と言いました。

これは、宗教家にたいしても、同じなんです。幼子のようにということは、無心で、無欲で、謙虚であるということです。無心で、無邪気で、謙虚でなければ、天国には、行けんのです。

ですから、自分を偉い宗教家だとか、七大天使だのと思って、そして、ひとびとを煽動(せんどう)したり、まあ、それを餌にしてね、やったりしたって、そんなことでけっして天国の門は、開かんのです。

私はきびしく警告しておきたい。かつてのわが流れをくんでいる団体、いまは、もう四つや、五つじゃなくて、十にも、二十にも、三十にも、分かれておるって、言っています。

けれども、そんなところでいばったところで、あなたがたが天国にくるかどうか、わかんないです。その点、言っておきます。

むしろ、高橋信次の後継者などと、いろいろやっとるけれども、みんな地獄へ行くかもわからん、はっきり言えば。

それが、どれほど、私に恩返しになっとるかどうか、よく考えてごらんなさい。私は、弟子たちを地獄に堕とすために、教えたのじゃないんです。

ですから、この私の霊言を通じてね、どうか一日も早く悟ってほしいのです。ほんとうのことを、真実のことを。

だれが偉いとか、私が言った学年が、何学年であるとか、そんなこと、どうでもいいんだから。

そうじゃなくて、幼子のように、謙虚に、無邪気に、実るほど頭を垂れる稲穂になりなさい。そうでなければ、まず、天国にはいれんのです。

あなたがた、自分が、天国にはいれんのにもかかわらず、どうして人を導けるのですか。

近代の教祖で地獄へ行っている人、いっぱいいます。天国に行っている人は、ほんとうに珍しいです。数えるほどしかいません。ほとんど地獄に行っております。それだけ厳しいんですよ。


11.天上界に還った教祖とは


みなさんね、私が見ていて、まあ、明治以降の教祖でね、まあ、地獄へ行っとらんといえる人といえば、そらあ、内村鑑三さんは、天国に来ています。

あるいは出ロ王仁三郎さんかな、これも、まあ、地獄へは行ってません。まあ、天国は、天国でしょう。まあ、ちょっと、毛色のちがう天国だけど、天国は天国です。

あるいは谷口雅春さん、もちろん、これも天国ですよ。私は生前、この人についてもね、あんまりいいことを言わなかったけれども、いまは、りっぱなところに還っておられるのです。

まあ、あるいはそうだね、黒住教の、黒住宗忠、まあ、こんな人だって、天国へは来ています。

あるいは天理教の、中山みきさんかな、こういう人なんかも、女性のなかでは、かなり高いところですね。ヘレン・ケラー女史なんかと同じぐらいのところの女神の世界に、ちゃんと、おります。まあ、こういう人もおります。


12.現世利益を売りものにする教祖は、堕地獄


けれども、あえて名指しはしないけれども、まあ、それ以外の宗教の教祖たちね、だいたい、どういうところにおるか、みな想像してください。

とくに浄霊中心の宗教、あるいは祈り中心の宗教、あるいは、まあ、とくにね、地上のみなさん、現世利益を売りものにする宗教、これらの教祖は、ほとんど地獄に行っているものと思ってまちがいありません。現世利益を売っとる者です。

こうすれば病気が治るとかね、こうすれば、すべからく不幸から脱せるとか、こうすれば、大金がはいってくるとかね。こんなことを言っているのは、ほとんど地獄です。まちがいありません。

ですから、地上の宗教の正邪をわけるときに、現世利益を中心に説いておるかどうかね、これを、とくに気をつけねばいかん。現世利益を中心に説いている宗教は、ほとんど、だいたい、警戒してまちがいありません。

そうじゃなくてね、あえて、そんなに、人がやらないような、心の教えを説いておるかどうかね、この心の教えを説いておるのが、ほんものなんですよ。

そして、心の教えを説いておるなかでも、わしは、偉い偉いと一生懸命言っている人たちは、こんなのだいたい、眉つばです。疑ってかかりなさい。

「わしは、過去世が偉いから、信じよ。」という人は、だいたい疑いなさい。

「そんなことは、どうでもいいけど、教えの中味を見てください。」というような教えかたをしているか、どうかです。これを、よく見なさい。

末法の世の中では、もう、そうですね、宗教家、とくに教祖たち、こういうのが、九割以上は、地獄へ堕ちとるのです。それだけ厳しいのですよ。

だから末法の世に地上に出てきて、教祖になろうなんて思っておる人は、命がけです。あの世の安泰なところから出てきて、この世を教おうなんて出てきたら、もう真黒けの地獄に堕ちとるのが、多いのです。ひじょうにね。それだけ厳しいのですよ。

キリスト教系も、そうです。聖書を、売っとるから、それが正しい宗教かというと、そんなことないんです。

聖書のなかには、イエスの教えは、もちろんあります。けれど聖書を売っとるなかで、おかしい宗教が、いっぱいあるのですね、だから、なにかでもって、合理化できるのです。美化できるのです。

私たちの教えは、聖書を売っとるから、聖書はイエスが言ったんだから、これを広げることはまちがいないと思って、聖書でもって、自分たちの教えを、合理化、美化を、できるかと思えば、そんなことないんです。そんななかでまちがいがあれば、それはどうしようもないのです。

あるいは、病気治しの宗教でもそうですよ。じっさいに、病気が治ることもあります。

病気が治っとるという、良い結果があるんだから、絶対にまちがいがないかというと、とんでもないんです。病気が治ったところで、あの世へ行けば、地獄というのはいくらでもあるのです。

そんなのはね。たんなる霊能力とは、また、別のもんなのです。そういう能力があるのです。また、別にね。だからそれで正当化できると思っちゃあ、いかん。


13.まちがった教えを説くぐらいなら、なにもせんほうがいい


まあ、とくにね、私はそういうことに気をつけてほしいと思うのですよ。神様がたは、みなさんを招こうとして、いっぱい救いの手を伸ばしとられます。

けれども、それをようするに、その救いの手と思わない人もいる。逆にこんどは、まちがった救いの手を伸ばしている。いっぱいいろんな人を連れ込んで、炎のなかに帰って行く人がいます。

せっかく燃えているデパートのなかから、私たちが救おうとしているのに、屋上に、せっかく上がっていた人たちを、「屋上は危いから、なかへ、はいりましょう。」と言って、さとしてまた、階段を下って火のなかへ、降りて行く人たちがいるんです。こういう教祖たちです。まちがった救祖たちです。

まちがった教えを説くぐらいなら、もうなにもせんほうがいいのです。もうなにもしないで、田舎へ帰って、大根でも作んなさい。

もうまちがった女性の教祖さんたちは、そんなことをやらず、やめてね、もう嫁にでも行きなさい。嫁に行けんかったら、もうジイーッとひとりで趣味に生きなさい。そのほうがよっぽどいいのです。

だから自分ひとりが、火のなかへもどって行ってね、煙に巻かれて死ぬのはいいです。

ただ、多くの逃れようとしている人たちを、救いが来ているほうにね、行かさずに、みんなを連れて、火のなかにね、連れて行こうとしてはいかん。そんなことをしては絶対いけない。

せっかく救いのヘリコプターが来ておるのに、そちらのほうへ向かって行く人たちに対してね、「そのヘリコプターはにせものだから、行っちゃあ、いけない。私についてきなさい。」ちゅうて、その、せっかく救える生命をね、また、火のなかに引きずり込むことを、絶対しては、いかん。


14.まちがった弟子たちよ、プライドを捨てなさい


まあ、私のかつての弟子たちにも言います。

あなたがたは、私の霊言を、いろいろ読んできて、自分の教えがまちがっていると思ったら、ただちに、そんな教えをやめて、田舎に引っ込んで、百姓でもしなさい。

百姓がダメなら、ほうきで庭でも掃いて歩きなさい。人の玄関でも、ほうきで。そのほうが、よっぽどましです。

そして自分の説いたまちがった教えは、それは、生きているときに正して還らなければ、あの世へ還ればたいへんなことになります。

生きているときにはね、わずか数年ばかりですみます。

しかしね、死んで、あの世に還ったら、もう数百年、場合によったら、千年、二千年の恥になるんです。あの世へ還ると、訂正ができんからです。

だからこの世に生きているときに、まちがいに気づいたら、いち早くそれを訂正することです。まあ、私はもう、前の霊言でも言いました。私は生前、現象のなかで、釈迦のような現象をしました。

しかし、私自身は、釈迦ではありませんでした。もう、はっきりしています。それは、あの世に還れば、はっきりしておるのです。

それから、「あなたの過去世は、こういう人であった。」と言っても、ちがっている人もありました。あの世へ行ったら、もう、はっきりしているのです。

もう、それは、隠しようがないんです。私が言ったから、どうかって、私が言っても、まちがっているものは、まちがっておるのです。

それにもかかわらず、私に、「おまえの過去世は、こうだ。」と、言われたから、そればっかりを吹聴(ふいちょう)したり、あるいは、高橋さんが、釈尊だから、どうだ、こうだと、言って本ばかり書いておる人、こんなの、生きているうちに、早く修正しないと、死んであの世に来たら、何百年もその汚辱を、ぬぐうことができんのです。

早く、それを、まちがいをまちがいと認めて、引退する人は引退し、隠居する人は隠居し、趣味に生きる人は、趣味に生きなさい。

私は厳しく言っておきます。まちがった教えからは、なにも生まれんのです。自分のブライドを、捨てなさい。

そして、ほんとうの教いがきておるんだから、自分らのほうへ、いろんな人を引きずり込まずに、ほんとうの教えのほうへと導いて行きなさい。自分ひとりが、火のなかで煙に巻かれるのはけっこう。ただ、人を巻き込んではいかん。

私は、かつての弟子たちにね、このことを、いまもう一度、再度、改めてね、厳しく言っておこうと思う。

まちがっと方向に、ひとびとを導いては、いかん。プライドを捨てなさい。まちがっていると思ったら、一から出直しなさい。大根でも作ってなさい。

厳しいけれど、そういうことを、はっきりと、言っておきます。まあ、きょうは、以上です。