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目次

 1.魂の構造

 2.魂の性質








(1987年10月23日の霊示)

1.魂の構造


さて、本章ではいわゆる魂、あるいは霊というものに関して、トータルな面で見ていきたいと、こういうふうに思っています。

まず、第一節として「魂の構造」という、こういう題をつけてみました。みなさんは、魂っていうと、まあ、なんと言いますかねえ、夏の夜の人魂とか火の玉のように、ヒュルヒュルと空を飛んでいる、まあ、こんなのを思うかもしれませんね。ただ、ああいうふうに魂が現われることもありますけれど、必ずしもあれが、魂そのものではないんですね。 魂っていうのは、非常に多重的構造になっておるんですね。それは単に、何と言いますかね、霊魂(れいこん)と一言で言えるようなものじゃないんですね。ちょうど十二単(ひとえ)みたいなもんで、何枚も何枚も打ち掛けがあるんですね。そういうふうになっとるんです。そして、一番中心の部分が核になる部分、こういうふうになっとるんですね。

こうした話は、おそらく読者の皆さんの多くは、『心の探究』という本で、すでに学んでおられることと思います。その中にもあるようにね、魂の中には、いろんなエネルギー体が複雑に入っておるんです。一番外側を、幽体と言いますね。幽体の奥にあるのが霊体、こう言います。こういうふうに、何とか体というのが、何重にも何重にも入っておるんですね。

そして視覚的に言うようにすれば、まず、この世を去って幽界に入っていくためには、肉体を脱ぎ捨てて幽体になる。幽界から霊界に入っていくためには霊体になると、まあこういうふうに、順番に脱ぎ捨てていくんですね。そういうふうになっとるわけです。これは、ある程度視覚的にわかるような言い方なんですね。それがそういうふうになるわけです。

ただし、これは物理的に、必ずしもそういうふうに見えるかといったら、そうでもないんです。それが、魂は結局のところ玉ねぎのように、多重にできあがっておるんですね。すなわち、大脳の皮質なんかがあるように、魂にも皮質というのがあって、いちばん神に近い部分から、転生輪廻(てんしょうりんね)を重ねているうちに人間的になってきた部分まで、ずいぶん魂にいろんなものがあるんです。

そして私も、生前いろんな本の中で説きましたけれども、いちばん外側の部分を表面意識って言うんですね。そして潜在意識と言うのが、四次元以降の世界にあるものなんですが、この間に想念帯というものがあるんです。ここにいろんな、この地球に生まれてからの、転生輪廻の過程で得た教え、教訓、体験、こうしたものがたまっておるわけなんですね。それが想念帯の部分ですね、ほとんどがね。

ですから、地上に生きておる人間が、考えたり、行動したりするものというのは、根拠っていうのは、ほとんど表面意識と、この想念帯の部分に蓄えた知識の部分がほとんどですね。けれども、ここから奥の部分は、なかなか実際には伝わってこないんですね。

ところが、反省的瞑想ということをやって、想念帯に付いておる曇りですね、これを晴らしてくると、この想念帯の奥にあった、四次元以降の世界からの光が差してくるんですね。これは内からの光です。中からの光っていうのが、サァーッと差してくるんですね、そして、同通してくるわけです。心がね。こういうふうになってきます。

そして、この魂のいちばん奥の部分に何があるかっていうと、六十ワットの電球じゃございませんが、神様の光とすればね、神様の光そのもののようなものが、各人の個性に合わせて、百ワットか六十ワットか知らんが、そうしたものが中心の部分に光っとるんですね。

この光がピカピカと、真ん中から出とるんだけれども、その魂が何重かの構造になって、遠くへ行くとちょっと弱くなってきておって、想念帯の部分が曇ってなければ、外まで出てくるけれども、たいていの場合は想念帯の表面が垢(あか)や汚(よご)れで覆(おお)われておるので、その光が差してこないんですね。その光が、外まで出てこない。それで大部分の人間は、その表面意識だけで生きていくんですね。

この表面意識というのは、一体何かというと、結局、オギャーと生まれてからこのかた、人間として呱々(ここ)の声をあげてからこのかた、数十年の間に蓄えられた知識、経験なんですね。。それから、親から受けたいろんな教育、それから感情的ないろんな習慣ですね、こうしたものです。家庭環境、こうしたもので蓄えられて、人間は一定の性格の基礎構造というのができるんです。これが表面意識の部分なんですね。

ところが、これだけではなくて、深い深いところから引っぱられるものがある。カルマと言って、過去世からの業(ごう)があって、これでいろいろ影響を受けるんですね。何故か知らないけれども、思わす知らず、引かれていくものっていうのがあります。

職業なんかもそうでしょうし、病気とかね、そういうものもそうですよ。病気のカルマがあるような人というのは、やはりそういうものすることがあるし、男女間でカルマがある人はね、二十までは普通に育ってきたのに、二十代になってくると、男女の葛藤(かっとう)、いっぱいつくってくるんですね。わからない。生まれ育ってから、そんなこと教わった記憶がないのに、二十代になるとそのカルマがムクムクと出てきてね、男女の葛藤、あるいは結婚、離婚、あるいは事実上の結婚と事実上の離婚、まあこんなのをいろいろ繰り返して、苦しみをつくっていきますね。

あるいは、両親は二人とも酒飲むの大嫌いなのに、なんか二十歳過ぎてから急に酒が好きになってきて、酒におぼれていく人もいます。ま、こういうふうなものですね。

それから、二十歳過ぎて、あるいは三十過ぎたあたりで、だんだん人間として基礎が固まってきますけれども、三十過ぎたあたりに、だんだんその人の性格の徴候が見えてきますね。どうも天狗(てんぐ)さんになる傾向の人というのがいますね。うぬぼれの傾向が出る人。あるいは、自己卑下(ひげ)的な傾向の出る人。あるいは他人に優しい人、厳しい人。食べ物にやたら興味のある人、車に興味のある人、本を読むことに興味ある人。まあいろんなそういう魂の傾向が出てきますね、はっきりと出てきます。

こういうときには、結局、表面意識の底にある、この潜在意識までいってないけどもね、想念帯あたりにたまっておる過去世のカスですね、経験によるカスの部分がにじみ出てくるんですね。油紙に油がにじみ出てくるように、そういうようににじみ出てくるんです。まあ、こういうことがあるんですよ。

ただ、そういう現状の中の、人間の生き方というものを見てみると、結局、表面意識として頭で考えておる判断以外の、盲目的意志といいますかね、習性というものにゆさぶられておる自分、金儲けばかりに執着する自分。あるいは、やたら異性に執着する自分、あるいは人の上に立って、いばることばかりに執着する自分。貧乏性の自分。

何だかんだと、いっぱい出てくるんですね。こういうのは、にじみ出てきて、そして、自分の表面的な心の念(おも)いとは逆なことが、人生にいろいろ起きてくるというのを感じてきますね、これで、引きずられているという思いを持つことがあります。このへんで、たいてい、何と言いますか、その人の傾向性というものが出てくるんですね。

ただ、ここでもう一つ考えねばいかんことはね、そういう表面意識の動きと、想念帯の中に蓄えられたカルマの部分と、両方が競合して、その人の一生がいろいろ決まってくるけれども、この奥に、まだ百ワットの電球が輝いておるという事実を忘れてはならんということですね。この電球の光が、生きている人間の表面に出てこないままに一生を送る、そういう哀しい人もいますが、ただ、人生の途上途上でね、そうした電球の光を感じさせるようなものというのは、どこかであることがあるんですね。それは、一つのやはり、常(つね)ならざる体験ですね。これを通してであります。

たとえば、異常な悲しみの底に置かれる。肉親の死、あるいは自分の病気、闘病、あるいは事故、倒産、離婚、ね。えーまあたとえば、師を失う悲しみとか、まあこんなのあるでしょう、ね。弟子にすりゃあ、先生が死んでしまったという悲しみ。こういういろんな衝撃があるわけですね。

そういういろんな事件というのが、重大事件というのが、人生のどこかに必ずあって、その人の魂の、なんといいますか、想念帯のところに楔(くさび)を打ち込む。こういうことがあるんです。これを人びとが体験するようになっていきます。


2.魂の性質


以上で、魂の構造について若干(じゃっかん)話をしましたが、魂の性質ということに関しても、話を続けておきたいと思うんですね。

人間の魂の中には、いろんな性質があります。魂と言われる、人体状のね、肉体に入っておる、すっぽりと入っておる、その霊的エネルギーにも、いろんな性質があります。

その性質の一つにね、人びとは自分は気がつかないけど、魂の性質っていうのが出てくることがあるんです。それは、たとえば、みなさんが単なるモノでないこと、肉体でないということの理由としてね、人の気持ちっていうのがわかるでしょう。どうですか、ね、一日でいろんな人と会うけれども、人の気持ちというのがわかるね。


これは、説明をうけてわかるものじゃないよ。「私はあんたが嫌いです」と言われて、「ああ、この人は私を嫌いなんだなあ」なんて思う人もそりゃあいるけれども、そこまでいくのはよっぼど後のほうであって、その前に、気配というので感じとりますね。好感、あるいは憎悪、嫌悪、こうした気持ちがありますね。

特に夫婦なんかだと、以心伝心(いしんでんしん)でもう、ちょっとした目の動きね、肩のすがたね、ちょっとしたあれで、片方の感情の動きとか、こんなのでわかります。恋人でもそうですね。会社でもそうですよ。好きな者同士じゃないですよ、嫌いな者同士でもよくわかるんですよ。「うちの上司でこんなことがあった、たぶんこう反応する」なんていうのが、もう手に取るように予測ができる。こういうこともありますね。

こういうふうに、人間の精神生活というか、感情生活というのを見てみると、意外や意外、説明のつかないものによって、大部分が動いておるんですね。これに関しては、人びとは学校教育で何も教わっていないんですね。教わってなくて、自分の実体験でそれとなく感じとっているんですね。

そして、その理由なきものを、ある時は勘(かん)と言ったり、以心伝心と言ったり、まあそういうように言うとるわけですが、まさしくそれが、霊的な性質そのものなんですね。魂の性質なんですね、それが。本当は。だからその、言葉でもって説明しがたい部分、これが、あるいは形でもって表現しがたい部分、そして、それでいて人間の生活にとっても大事なもの、それが魂の性質の部分が出ておるところなんですね。

それで、地上にいる人たちの中には、唯物論者もおりますし、霊的なことに関心のある人でも、霊能者に非常になりたいと思っておるような人もいます。ただ、霊能者になりたいと思おうが思うまいが、そんなことに関係なく、実際はすべての人が霊能者であるということなんですね。それは、他人の感情が全然わからんというような、ロボットのような人間はいないからです。ほとんどの人が、ある程度察するという能力を持っておるんですね。人の気持ちを察するという能力を持っています。これが、各人が霊能者である理由なんですね。証拠なんです。

ただ、その霊的能力の開発の具合いが、違っておるわけですね。で、異常に洞察力の鋭い入っていうのは、この肉体の中にこもっておる本当の真我の部分がね、非常に目覚めてきておる。まあ、こういうように言えるし、肉体中心といっても、ご飯を食べる機械ではありませんからね。ドンブリ一杯入ったら、ガチャンと音がしたら、パラパラパラッてね、なんか喜びが出てくるような、そういうわけじゃありません。

だから、人間を機械論、動物論、動物のように言っても、必ずしもその通りじゃあありませんね。だから、それは教えられると教えられざるにかかわらず、自覚すると自覚しないにかかわらず、魂の性質っていうのはいろんなところに出てきます。

それは、人間はたえずたとえば、予知ということに関心を持っていることでも、頷(うなず)けると思うんですね。人間が単なる物体であるならば、先のことなんかは気にならないはずですね。ロボットであるならば、何か自分に対して外的な影響が出たときに、石ぶつけられたら振り向くとかね、石があたったからたぶん痛いんだろうと思ったら痛くなってきたとか、こういうのはロボット的反応ですが、相手が、ようするに石を投げそうな顔付きしただけで、石があたったら痛いなと思ってしまう。こういうことありますねえ。

これは何なんだろうか、ね。石を投げようとする仕草(しぐさ)をする前にもう、痛いと感じる。こういうものがありますね。これも霊的な性質そのものですね。そうなんです。もう、すでに感じとってしまうんです。それは、実際に石があたって痛いと感じる前に、相手の念、石を投げたいと思う念が、もう感応してくるんですね。その念が痛いと、こういうようになるわけですね。まあ、そういうことがあるわけです。

これ以外には、たとえば、過去一回、たとえば川の中に落ちたりしたような経験があるとね、川の近くへ行くと、また落ちるような恐怖心というのがあったりする。まあ、こういうのも霊的な経験ですね。こういうものを感じるわけですね。そういう危険を。

高い所へ登ると、高所恐怖症っていう有名な、精神病でしょうか、神経症でしょうかね、そういうものがありますが、高所恐怖症の人なんていうのは、実は、まあその落ちるということを予知して、いろいろ不安を感じておるんですね。それも、実際その人の過去世なんかをリーディングしてみると、たいていの場合は、過去高い所から落ちたりした経験があるんですね。戦(いくさ)で負けたりね。たとえば、城壁の上で弓つがえてね、射ったと思ったら、向こうの方が先あたっちゃって落ちちゃったとかね。西部劇のインディアンなんか、よくありますね。屋根の上からころげ落ちたりするの、ありますね。あんなの経験すると、深いところにね、魂の深いところにやっぱり残るんですね。記憶が。で、こういう人は、だいたい高所恐怖症になりますね。

また、水が異常に怖いというような人もいるんですね。水を見ると恐怖を感じる。こんなの昔、水死したり、あるいは、獄死したりした人もいますね。水責めなんかあっちゃって沈んじゃったなんて、こんなの大変ですねえ。こういうことがあります。

こういうように、過去あるいは未来のいろんなことを感じとって、支配されることがありますね。そうして、人間の幸、不幸っていうものを考えてみると、結局ねえ、意外や意外、唯物的じゃないところに、ほとんど原因があるんですね。

たとえば、今月は月給があっても、来月、月給がなくなるんじゃないか、つまり、会社がつぶれるんじゃないか、おれが首になるんじゃないか、っていうようなことは、唯物的というよりは、これは非常に感情的なものですね。

感情も霊的な性質の一部分ですね。たとえば、また話が変ってきますが、おもしろいですね。人間は魂とか、霊とか言うとなかなか信じないけども、感情って言ったら認める。意志って言ったら認める。違うでしょうか。精神て言っても認めるね。で、「精神て何だ、見たことあるか」って言ったら、「見たことない」。「証明できるか」って言ったら、「できない」。そんなもんですね。「じゃあ、感情って言ったらあるか」って言ったら、「あるような気がする」。「じゃあ、それ取り出してみろ」って言ったら、できないね。ただ、「あれだ」って、指差すと、うちのかあちゃんが髪逆立てて怒ってると、あれが感情だ。現われかたはわかるけど、感情そのものの本体っていうのはつかみ出せない、ね。

意志っていうのも、そうですね。念とかいうのもそうですね。だから、結局そうしたものでもって、霊とか魂とかいうものを推定するしかないんですね。

それで私なんかもまあ、最近よく言ってますが、魂っていうのは肉体の中に入っている部分を言うんで、肉体から離れてね、あの世で自由自在になってきたら霊というふうに言えると、まあ、こういうふうに理解しておるんですね。

そうしてみると、肉体の中にあっても、肉体なきが如くいろいろ感知する能力、感得する能力、感じとる能力、これがやはり魂の性質そのものだということですね。だから、人の感情が、言葉なく感じとれるっていうのは、すでにそれがあなたの魂を認めるということの、第一歩になっておるということですね。これを人びとは、知らねばなりません。説明なく相手が怒っとる、不愉快だ、楽しい、嬉しいというのがわかる、ね。これが第一歩であります。

魂っていうのは、本来的にそうしたものであって、地上を去ったあとも、相手の思ったことがすぐわかる。これが根本的な性質なんですよ。それは理由なくわかるんです。直観的に、パッとわかるんですね。この直観的にパッとわかるという感じが、魂の性質そのものなんですね。直覚的なものなんです、非常に。感じるんです、説明なくわかるんですね。

これは三次元的なもんじゃないんです。非常に四次元的なものなんですね。説明なく全体がわかってしまう。パッとわかってしまう。あるいは、ある人の姿を見ただけで、その人の印象がわかってしまう。パッとわかってしまう。もうちょっといくと、黙って座ればピタリと当たるというんで、これ商売になるようになる。まあ、こういうことですね。こういうことがあるわけです。


3.守護霊の役割


さて以上で、魂についての基本的な考え方を述べましたが、人間には守護霊というのがついておると、こういうふうに、よく言われてますね。この守護霊の解明の部分が、非常に難しいんですね。

GLAで私は、「守護霊というのは自分自身のことである」、「自分自身の一部である」と、こういうふうに話しました。そして私の著書の中にも、人間というのは本体一、分身五で形成されておって、これが順番に地上に出てくるんだ。こうして、次に地上に出てくる人間が、守護霊をやっておるんだと、こういうふうに説明しましたね。

基本的には、これはあっておるんですね。基本的には、そういうことです。ただ、これが地上的な説明としては、非常にわかりにくいんですね。こういう六人の人がバラバラにおるかと言ったら、そうではないんですね。つまり、六と思えば六、一人と思えば一人というような認識が、三次元ではできない。ここが難しいとこなんだ。六と思えば六なんだ。一と思えば一。こういう認識ができるかできないかなんですね。

だから、この部分に関してはいくら説明しても、地上の人には十分にわかりかねるんですね。一部分が出てくるという言い方も、非常に物体的ですね。まるで綿菓子(わたがし)かなんかが、ちょっとカケラが出てきたみたいに思っちゃいますねえ。そういうものでもないんですねえ。

だから、どういうふうに言えばいいでしょうかね。まあ、人魂(ひとだま)っていうのは、さっき話しましたが、人魂みたいなのがちょうど人体に宿るぐらいのエネルギー体だとすりゃあね、ああいうのがまあ、肉体から離れると人魂って、直経三十センチぐらいの、ユラユラしていますが、ああいう形で抜けるとして、これがもどっていくとね、実在界にもどっていくと、その元の魂があるんですね。魂があって、それと一応合体するわけですね。合体するわけです。

だから、直径三十センチぐらいの人魂があったとすりゃあ、ユラユラユラと上がって行って、もどるとね、一メートルぐらいの本体さんにガボッと入っちゃうんですね。そして太陽じゃありませんが、こう、なんて言いますかね、精子と卵子の合体じゃありませんが、卵子の中に首突っこんだ精子なんて、みなさん想像してみて下さいね。頭突っこんだ、おたまじゃくしが頭突っ込んだ図を。しっぽがユサユサッと、ユサユサッとしてますね、しっぽが。

まあ、ああいう感じで、卵子の中に精子が、たとえば、五本突っ込んだと思って下さいね。卵子があって、黄身、卵の黄身みたいなのがあるとするでしょう。そこにおたまじゃくしが泳いで行って、五匹頭突っ込んだんですよ。その黄身の中にね、五匹頭突っ込んだ。それぞれしっぽユサユサしとるんですね。ユサユサしとる。まあ、こういう状況が普通の状況なんですね。

で、この中で、「じゃあ次、ちょっとおたまじゃくし出てくるか」言ったら、「ハイ」って、卵の黄身から頭ズボッと抜いてね、ヒョロヒョロヒョロヒョロッと泳いでいくんですね。そして、地上の肉体の中へ宿って、生活して、還ってくる。そして、人魂になってユラユラユラッと、またおたまじゃくしで還って来て、卵子の中ヘズボッと入ったら終わりと。で、次は「出るか」言うたら、またユサユサッと出てくるんですね。

だから、こういう卵子の黄身の中に、おたまじゃくしが五匹頭を突っこんでると、まあ、こういうふうにだいたい思っとけばいいんですよ。こういうことなんです。

それで、「おかしい、個性が違うの自分自身だっておかしい」って言うが、通常の形はそういう卵子の黄身の中に、おたまじゃくしが五匹頭突っ込んでいるというような、こんな異常な姿が、これがあなた自身の姿なんですよ。笑ったって。しっぽはそれぞれ別々に揺れてるんですよ。ユサユサユサユサ揺れてるんだから、別なんですよ、ね。

こういうもんなんです。だから、人間というのを、その姿というのをね、頭一つ、手二本、胴体に足二本と、このように考えるからね、何人もいるように感じるんだけど、実際の人間の姿というのは、そういう、たとえで言えば姿なんですよ。

で、おたまじゃくしは順番に出てくる、ね。本体の黄身の部分は、まあ滅多に出てこないと、こういうことですね。まあ、たまには出てくることもあると、まあ、そういうふうに言えるわけですね。

ですから、たとえば高橋信次、という名前で私は地上に出ましたが、この高橋信次の部分も、エル・ランティ意識の中の、ようするにおたまじゃくしが一匹出てきたんですね。ニョロニョロニョロッとしてね。すきそうなおたまじゃくしが一匹出てきたんです。ニョロニョロッと出てきて、ね、信州の山の中出てきたんですよ。両親の結合のもとにね、不幸な、えー不幸じゃない、幸福な星のもとに生まれたんですよ、ね。そして四十八年間法を説いて、死んじゃったんですよ。誕生日を前にね。四十九の誕生日を前にして死んじゃった。そしておたまじゃくしが還ってくると、また地上でゴタゴタやっておると、まあ、こういう感じになったわけなんですね。

だから地上の人間から言えば「高橋信次っていうのは、ちょっと全知全能の神にしてはおかしいんじゃないか、よく間違えが多いんじゃない」とかね、いろいろ言うけど、まあそらおたまじゃくしだからね。おたまじゃくしはあっち泳いだり、こっち泳いだりしますから、それはしようがないんですよ。ただ、トータルの霊格はまあ、素晴らしいと、まあこういうふうに言われてるんですね。まあ、基本的にこういうふうに言っていいんですよ。

で、おたまじゃくしが順番に出てくるんだけど、出てくるたびに食べ物が違ったりね、川の水が違ったり、ドブの中に落ちたり、いろいろするもんだから、においがついちゃったりして、おたまじゃくしの個性がね、少しずつ変わってくるんですね。こうして全体に感じが変わってくると。そしておたまじゃくしが頭突っ込むんでしょう。で、前回はきれいな川の中泳いでおったおたまじゃくしだから、還ってきたらもう、すがすがしい気分で、卵子の黄身の中ズボッと頭突っ込んできたけれども、今度生まれてきたらドブの中へ落ちちゃってね、ドブの中で一生すごして生きてきた。で、そこ去って、もどってくるとプンプンね、もうあのにおい、臭いにおい、下水のにおいつけて卵子の中ズボッと入っちゃったら、卵子の黄身の中入っちゃったら、卵子の黄身がたまらないね。「ああ、くさくさくさ」って言ってね。ただそのドブのにおいが、やっぱり移って来ますねえ、黄身の方にも。そして全体にちょっと霊格が下がるんですね。こういうことがあります。だいたいこういうふうに考えていいんですよ。

ただ、この卵の黄身とおたまじゃくしの比喩は、その人の霊格によって多少違ってくるんですね。多少違ってくるんですよ。だから卵子の黄身とおたまじゃくしって言うけど、まあ、霊格が下がってくるとね、そんなに明確なものでもなくて、それぞれが自由自在に動いておるように見えるときもあるんですね。パラパラに、おたまじゃくしはね、自分が卵子の黄身の中に頭突っ込んでね、黄身一体とおたまじゃくし五匹で、一緒に生活してるっていうことがわからなくて、それぞれパラパラでやってることも結構あるんですね。

だから、顕微鏡(けんびきょう)で見てると思って下さいよ。そしたら顕微鏡の中に、卵子の黄身が映ってきている。そこにおたまじゃくしが五匹、周りをうろうろしてるんだけれども、もう好き勝手に動き回ってるんだな。チョロチョロチョロチョロ、あっち離れたりこっち離れたりして、たまにもどってきては頭ズボッと突っ込んできている、ね。そしてまた離れたり、あっち行ったりこっち行ったりしているね。

こういうふうになっていて、おたまじゃくし相互がね、全然自分たちが本当は一人だ、一体だというのがわからないような状況というのがあるんですね。これがまあ、結構六次元以下の世界ではそういうことが多くて、わりに個性化がすすんでるんですね。で、パラパラで生活していることが多いんだね。時どき、でも、本体の中頭突っ込まないと、生きてゆけないんだよね。

そういうことあるけど、個人個人「おれたちはおれたちだー」なんてやってるんですね。そして、だいたい、ドブの水の中落ちたりするのもこのクラスですね。特に四次元あたりのクラスの人が多いんですね。四次元、五次元ぐらいのがよくドブの中に落ちて、真っ黒けになって、おたまじゃくしが一匹どこかへ行っちゃうんですね。行っちゃう。まあ、こんなことがありますね。

ところが、菩薩界以上になってくると、多少感じが違ってくるんですね。そういうふうに、おたまじゃくしが自由に動き回ってるという感じではなくなってくる部分があるんですね。だから、七次元以降でいうと、その卵子の黄身とおたまじゃくしっていうのは、ちょっと説明が当たりにくくなってくる面があるんですね。特に八次元以降になると、もっと当たりにくくなります。

七次元から八次元ぐらいになってくると、どっちかというと、いわば水晶みたいな感じなんですね。水晶ってあるでしょう。いろんな面があってキラキラキラキラ光ってるね。あんなふうな感じになってくるんです。だから、一人でもう独立した生き物というよりは、その人の魂がもっているいろんな面が輝いているような感じになってくるんですね。で全体としてそれが、それぞれの個性の部分が、自分が水晶の一面だということを十分知っている。まあ、こういう感じになってくるんですね。こういうことが言えると思います。

すると、守護霊って結局何かと言うとね、まあ結論的に言うと、自分の魂の一部分であるということは言っていいと思うんです。たいていの場合は。だから、私が理論で言ったようにね、次回出てくる自分の一部分というふうに言ってもいいと思います。

ただこれ以外のね、面として、生きてる人間を、いつもそばについて見ておる人のことを、守護霊と言うこともあるんですね。だから私の魂の、あるいはあなたがたの魂の一部分がいつもついてるかっていったら、役割上そうでない場合もあるんですね。これが、よく世に言う守護霊っていうのがね、間違ってる部分ですね。「あなたの七代前の先祖が守護霊についている」なんていうのは、このへんの間違いをいうんですね。

それは用語の問題ですが、その七代前の先祖が守護霊してるっていう場合に、これが成仏霊の場合ね、いわゆる指導霊か、特に縁故霊っていいましてね、特に縁があって、必要があってその人を毎日見なきゃいかん場合があるんだね。こういう霊がついてる場合がある。これは、単に指導霊というよりは、確かに守護霊と言いうるような、縁故霊といいますか、特別な縁故がある霊。まあこういうふうに言うこともできると思います。魂の一部じゃない霊がね、いつもくっついて、その人の修行助けてる場合があるんですね。何か理由があって。これをも守護霊という場合があります。世の中でね。

ただ逆もあります。「あなたの三代前の先祖が守っておる」って、これ三代前というのは地獄堕ちた霊が崇(たた)って、とり憑(つ)いとるのね。この悪霊をも、現代の宗教界では守護霊と言うことがあります。だから、このへんの認識を間違わないようにしなきゃいけないね。

だから守護霊は、基本的に本人自身の魂で、その人の修行を助けているけれども、そうした縁放霊や地獄霊も存在はする。だから、そのへんは言葉の解釈を間違ってはいけない。まあ、こういうふうに思いますね。
以上が、第三節ということです。