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目次





 5.神は光なり




(1988年4月18日の霊示)

1.仏国土・ユートピアとは


さて、本章ではユートピア建設について、いろんな話をしてみたいと思います。

私も生前から、人間の地上に生まれてくる目的のひとつは、やはり「仏国土・ユートピアの建設にある」、こういうことをよく言っておりました。まさしくその通りです。私たちが地上に生まれてくる目的は、ひとつには己(おの)れの魂の修行、魂の進化目的というものがありますが、今ひとつには仏国土・ユートピアの建設、こういう目的があるんですね。

これは結局どういうことかというと、神が創った国ですね、世界、これをすべて良くしていこうとする動きですね。良くしていくというのはどういうことかと言うと、そこに住んでいる人が良くなって、そして、住んでいる人同士が仲良く暮らせる。素晴らしく暮せる。幸せな世界が広がる。まあこういうことを、考えているということなんです。

この仏国土・ユートピアの建設というのは、非常に大事な使命であると思います。そして、人間というのは、自分の念(おも)いを実現する力というのがありますね。念いを実現していく、実現化していく、そういう力がありますが、このユートピアの実現というものも、一人でも多くの人が、そうしたことをやりたいと強く願うことによって、現実性を帯びてくるんです。一歩一歩現実へと近づいていく、ということが言えるんです。

だからやはり、まず念わなければ駄目です。念うところから出発するんです。できるだけ多くの人が、仏国土・ユートピアをつくりたい、仏の国をつくりたい、神の国をこの地上につくりたいこういうことを願うことによって、それが一歩一歩近づいていくんです。ところが大多数の人たちというのは、そんなこと考えてもいないんです。あるいはユートピアというようなことを考えていても、それは頭の隅のどこかにあるのであって、現実生活はまったく別々にあるんです。まったく無関係です。

現実の生活は、今日の晩ご飯のおかずを何にするか、タイのお頭がつくかつかないかね。うちの父ちゃんのボーナスが上がるか上がらんかね。地方転勤になったけど早く帰って来ないかとかね。海外勤務についていけるだろうかとか、まあこんなことばかりが気になっていて、なかなかそうした理想論からは遠い現状があるわけですね。

また実社会のなかで働いていても、「自分はユートピア建設のために頑張るんだ」なんて言っていると、非常にシラジラしく聞こえる。こうしたことはあるでしょう。どうでしょうか、みなさん、経験ありませんか。「自分は他の人びとの幸福のために生きるんだ」なんて言っているのを聞いて、「なんだあ青くせえ、ガキみたいだな」とかね。「ああ二十二、三の青年だあ」なんていうふうに言わないでしょうかね。三十歳過ぎて、四十過ぎたら、もう赤ちょうちんの下くぐって焼鳥食べているのが関の山でね、ビール一杯飲むか、二杯飲むかね、底なしか、こんなのを一生懸命競っていますね。そうじゃないでしょうかね。だから青くさく感じるんですね。

ところが実は、青くさく感じるもののなかに、真実があることもあるんだな。人間は自分が年を取ると、経験ということに自信があるかどうか知らないけど、「若い者はね、理想に走りやすいけど、まあ現実はそんなもんじゃないよ」なんて、こういうことを言うようになりますね。

そして、自分の経験ということを主張するけれども、人間の経験というのは、亀の甲羅(こうら)ほどの値打ちもないこともあるんです。つまり、良い方向に向かって一生懸命努力している場合、その経験は蓄積されていって力になるけれども、方向が全然違うところに向いていて経験、蓄積していっても、これは亀の甲羅に苔(こけ)が生えているような、そんな効果しかないこともありますね。

だから、経験と一言で言うことも、まあ、いろんな見方があって一概には言えない。もちろん、いろんなことを知ってきているという意味で、値打ちはあるけれども、その結果、人間がどうなったか、これが問題なわけだな。人間が良くなっていればいいけど、悪くなっていればなんのために経験したかわからないねえ。ヤクザさんの経験ばかり一生懸命積んだって、世の中わかったとは言えない。そうでしょう。どうかな。ね、そうしたもんなんですよ。

だからね、まあ青くさいと思われるユートピア議論のなかに、本当は真実のものがあるんだな。イエス様だって言っているじゃないか。「幼子(おさなご)の如くならなければ、天国へは入れない」って言っているね。幼子の如くって言うのは、まあ赤ちゃんのように無邪気だということだ。大人で赤ちゃんのように無邪気な人は、そう多くはいないだろうけど、まあ青年だね、「青くさくなければ、天国の門は開かん」とこういうことですね。

ま、青くさいと言っても、ゲバ棒ふるっているような学生じゃ、こういう青くささでは天国へは入れませんが、やはり理想というものを失う人間は駄目ですよ。理想とロマンがなければね、人間、本当は駄目ですよ。理想とロマンを失っていく。これが人生の歴史であることが多い。ただ、二十歳過ぎても、三十過ぎても、四十過ぎても、五十過ぎても、六十過ぎてもね、理想を掲げて生きれる人間、これはやはり、ユートピアの戦士であるし、神様の心に近いね。

だから、僕は思うけど、七十、八十になってもまだ理想のある人、立派だね。これは偉人ですよ、一種の偉人だ。だからみなさんどうだ、六十過ぎて七十ぐらいになってくると、もう愚痴(ぐち)ばっかり出るよ。体が痛い、あっちが痛い、こっちが痛い。孫が言うことを聞かんだの、何だのね。

そういうふうな人の悪口、愚痴になっていきますね。これ、平凡人って言います。だから六十、七十過ぎて、そしてまだユートピア建設なんかの理想があると、これは平凡じゃありません。やはり一種の偉人だと思います。歴史に名前が残るかどうかは別だけれども、一種の偉人であることは事実です。

だからね、僕はみなさん年齢に関係なく、あんまり醒(さ)めてほしくないね。ホットな心を忘れないでほしい、情熱をね。そしていくつになっても仏国土・ユートピアという理想を持っててほしい。念うことから始まるんですよ。だから一人でも多くの人が、それを念うということによって、実際に始まっていくんですね。そう思いますよ。


2.転生輪廻の法則


この仏国土・ユートピアを考える際に、私は大切な思想のひとつだと思うのが、やはり「転生輪廻(てんしょうりんね)の法則」です。ま、これは仏教の根本中の根本です。「人間は幾度(いくたび)、幾度も生まれ変わる」「あの世とこの世を循環している」、こういうふうに言われています。

ただ、この生まれ変わりの法則も、原始仏教のなかでは、人間がトカゲに生まれたり、ヘビに生まれたり、カエルに生まれたり、ウサギに生まれたり、まあいろんなものに生まれ変わるようなことも言っているけども、ま、原則それはないっていうことです。例外としては、もちろんないことはないけれども、原則はない。こう考えていいんだな。人間がウサギに生まれたり、ブタに生まれたりっていうことは、そんなにありません。まあめったにない。よっぽどなにか魂修行でもなければ、そういうことはない。ま、ごくごく例外としてね、非常にまれな例外として、ないことはないけどね。

すなわち、なんというかなあ、人間として生まれ変わることの有り難さというのは、もうそういうことをする以外に、わからせることができないというような人ね。こういう人の場合には、たまに一時期ね、一年や二年、動物のなかに宿(やど)って修行するということもないことはないけど、やはり魂は人間です。魂は人間であって、長い意味においては、それも進化の一過程ですね。

だから、たとえばみなさん、自分で想像してみて下さいよ。今世人間やっているけど、人間として今世何十年か生きるけど、やっぱり点数はつくんだよ、必すね。一生の点数つくんだよ。九十点以上とった人、八十点以上、七十点以上、六十点以上、五十点以上、あるんだな、いろいろ点数はつきます。

たとえば、もしそれでね、二十点以下だったら、人間として生まれないっていうような点数だったらどうする。ゾクッとくるだろう。急に心配になってきて、「おう、そうか、それじゃ勉強しなきゃいかんな」と、こうなるねえ。二十点以下だったら動物になっちゃう、なんてね。十五点か二十点の間は犬になって、十点から十四点までの間は猫になってとかね。十点未満は猿になるとか、そんなことだったらみなさん大変ですね。血相を変えちゃいますね。

ま、こういうふうになりますが、単純な動物への生まれ変わりということは、現状ではないけれども、あまりに極悪非道で動物的な畜生のような生涯を送った人の場合には、いったん畜生道に堕(お)ちた後で動物として生まれ変わってくることも、可能性としてはあります。

ただ、長い目では人間として、もちろん戻していくつもりであるけれども、二年や三年ね、たとえば犬という体に宿ることによって、人間としての意識は全部あるわけですが、体が犬、でロを開けばワンワンとしか言えない。これ苦痛ですね。で、飼い主たちが話していることは全部わかるんですね。全部わかるけど、自分の意思表示ができない。そして与えられる食物を食べるだけ。自由な範囲としては、鎖につながれているけど、一日一回散歩につれていってもらえること。これだけが自由。

こうした経験を本当に二年ぐらい積んでみるとどうなるかというと、もう犬の目で見れば、人間ていうのはものすごく限りなくうらやましく見えるんですね。そして、この次に人間として生まれてくる時には、どうかその自由、人間として生まれることの素晴らしさを学んで、精いっぱい生きてみよう。こういうふうな決意ができたら、もう犬に生まれることはないです。人間として生きていくことになるけれども、一部動物のなかには、そういう者もいるんです。

すなわち、人間的感情をそっくり持っている動物もいるんです。ペットを飼っている人のなかに、そういうのを感じる人もいるでしょう。これは人間と一緒だなあ、と思うような感じがあると思いますが、そういう魂もなかにはいるんですね。そして、人間としての素晴らしさを感じることがあります。

まあそれは例外であって、たいていの場合は、天上界と地上界を人間として転生輪廻しています。それが普通の場合です。

そうして、そういう転生輪廻をやっているということによって、ひとつの結論が導かれると思うんです。それは何かというと、一回限りの人生だと思うからこそ、自分の勝手気ままにやりたい、やりたいことをやりたいと思うけれども、何度も何度も転生を繰り返しているとするならば、やはりその間、自分の魂の向上と、それと多くの人たちのために尽くしたいという気持が、みなさん起きないでしょうか。この辺どうでしょうか。まあ、そういうことだと思うんですね。

たとえば、自分の財布の中に千円札しか入っていないと思えば、買い物もできないけども、いっくらでも本当はお金があるんだと思えば、いろんな買い物もできますね。いろんな行動もとれますね。そういうことがありますが、本当は無限の生命を生きていて、いろんな地域に、いろんな時代に生まれてきて、魂経験をするという思想を持っているということは、一体どういうことか。そういう観点からもう一回見てごらん。

たとえば、今の二十世紀の日本に生まれるということは、どういうことかということを考えてみると、ああこれはまれなチャンスだなあと思う。こうした非常に高度に発達した文明に、そうした仏法が説かれる時代に生まれ合わせたということは、有り難いことだよね。

この感激というのを忘れちゃあいけないね。この感激を感じたら、さあじゃあどうする、ということになるわけだな。じゃあ一生人間遊んで暮らして、一生酒飲んで、一生女性とつき合って、一生それだけかどうかだな。考えてみたら、そうでもないなあ。やはり、もっと有意義なことをしなければいけない。そんなちゃらんぽらんな人生でいいと思うかい。そうだろう。

だから、自分が死んだ時のことを考えて、自分の人生を振り返ってみた時に、そこにやはり何かの反省点があるんじゃないかい。僕はそう思うよ。そこには、何か死んだ時のことを考えたら、「ああしまった。もっとああしとけばよかった」ということがあるんじゃないかい。そうしたことをひとつの発想の出発点としてね、ユートピアというのも考えていく必要がある。まあ僕は、そういうふうに思うねえ。


3.光の天使の使命


まあ、こうしたユートピアづくりだけども、やはりね、物事には、いつの時代にも先生役っていうのがいるんですね。先生がいなきゃあ、やっぱりわからんところもある。学校にも先生がいるぐらいだから、やっぱりユートピアづくりにも先生がいるんじゃないかと、まあこういうことだな。

この先生になっているのが、光の天使たちなんですね。光の天使として地上に出る人、これが先生なわけですね。そしてその先生の後ろ姿を見て、人はついてくるわけです。この世的に人材登用、選出の方法はいくらでもあるわけだけども、先生方がいわゆる神理を悟っているわけではない。だから、まあ光の天使が地上にも数多く出るわけだけれども、どれが本当の光の天使かどうか、これがわかりにくいね。随分わかりにくいということがあると思いますね。

宗教家も数多いけど、区別がつかないね。みんなどうだい、つくかい。それぞれの人が勝手なこと言っているね。勝手なことを言って、基本的になんだかんだ言いながら、自分のところが最高の教えで他はそうじゃない。こういうことだね。これは、商道徳よりも劣るような状況じゃないかと思うね。ショッピングセンターとか商店街があって、いろんな店やってるけど、みんなどうだい、自分のところだけが本物の品物で、よそはにせ物だなんて、そんなことやってるだろうか。そうじゃないね、いろんな店が集まって、やっぱりなんていうかね、ひとつの繁栄というか、発展、賑(にぎ)わいというのをつくっているんじゃないかね。

だから僕はね、宗教界にも、もう少し寛容の精神が大事だなあと思います。光の天使は、他にも出ていることはあります。光の天使じゃない曇りの天使というのも、まあもちろんいるけれども、なんていうかなあ、やっぱり自分たち以外のところでもね、いいものはやはり誉めてやらなければいけない。

まあただね、問題としてあるのは、宗教界は特に極端が出るんですね。両極端が出る。通常の他の団体だったら、別に光の天使も指導していないかわりに、曇りの天使も指導していないっていうような状況がほとんどだね。ところが宗教界だけは光の天使が指導したり、曇りの天使が指導したりっていうのは非常に濃厚になることがあります。光が強ければ強いほど、影も濃くなる。こういう状況が、現実にあるわけです。

こういうことによって、まあ非常に極端に分かれる。ただ、極端に教えが分かれるけど、そのどれが正しいのか、これが本当にわからないね。だから、真剣に道を求める人にとっては、求めている人にとっては、手引書というのがどうしても必要だ。いちばんいい教え、方向、それはいったい何なのか。どの教えについていけばいいのか。そして、どういう考え方でもって他の教えのことを考えればいいのか。こういうベースがどうしても必要だ。

僕はこれは、現代においてはものすごく貴重な教えだと思うよ。ものすごく貴重じゃないかい。きっとそうだと思う。だから今、私もこうやって霊示集出しているけど、まあそれ以外の人もいろんな教え出しているけれども、光の天使の思想とはいったい何なのかということが、ものすごくはっきりしてきたのではないか。

どうだいみなさん、もうこれで三十何冊目か四十冊目か僕は知らないが、随分本が出ましたが、こういうの読んでくることによって、光の天使の思想とはいったいどの辺にあるのかということが、漠然とではあるけど段だんわかってきたんじゃないかい。ね、どうだい、共通の部分がどの辺にあるのか、こういうのがわかってきたんじゃないかな。そして、それぞれの現在ある古い宗教などの神理が、どの程度残っているのか、どのような輝きが残っているのかね、こうしたものもわかってきたんじゃないでしょうか。まあそう思います。

だからね、もちろんどんな宗教のなかにもいいところはあるけれども、そのなかにも多少間違いもあるし、いいところもある。まあいろいろ考え方があるけれど、霊示集、霊訓集を次つぎと私たちがたたみかけることによって、本当の神理っていうのがどういうところかということが、ニュアンスとしてだいたい感覚がわかってきたのではないでしょうか。その感覚をもとにして、既成のいろんな教えというものを判断した時に、だいたい匂いというものが、そういうものがわかるんじゃないかなあと、僕はそういうふうに思います。

ですから、まあ光の天使の仕事として、私たちは今、天上界からもやってるけれども、地上にも数多くの光の天使が出ているっていうことを、みなさん忘れてはいけないよ。特に、光の天使たちは最後のカルマとして、人より偉くなりたいというカルマをどうしてもみんな持っています。この人より偉くなりたいというカルマが、実は向上心の原動力でもあるし、魂の発展と大いなる仕事の原動力でもあるのだけれども、どうしても人より偉くなりたいっていう気持がある。だから、他人を認めたくないっていう気持があるんだな。

けれども、まあ実際ね、一人だけの力で仏国土・ユートピアができるはずはないんですね。数多くの人たちが、力を合わせてやっていく必要がある。そのように私は思います。ですから、光の天使はやはり、相集まって力を合わせていく、共にひとつの団体でやっていくこともあれば、他の団体でやっていても、お互いに応援歌を送ってやる。まあこういう必要はあるんではないかと思います。

だから、真実の教えだと思ったら、誉めてやるぐらいの雅量(がりょう)、これは大事ですよ。そうして、多くの人が手を携(たずさ)えて、新しいユートピアづくりをしていく。こういう思想を大事にしていただきたい。私はそういうふうに思います。


4.菩薩界の建設


さて、まあこの収録は、現在一九八八年という年数です。もう二十世紀も終わりが来ているわけだけれども、こうした今、天上界にはひとつの大きなプロジェクトがあるんです。それは何かっていうと、この地上世界に、天上界にあるような菩薩界を建設する、こういう大きな計画があるんです。「菩薩界の建設」、これを考えています。そして、菩薩界の建設のために、いったいどういう方法が必要かというと、すなわち菩薩界(ぼさつかい)にあるような、そうした法則性を、この地上に持ち来たらそうと考えているんだね。そういうふうな計画があるということです。

じゃあ菩薩界の掟(おきて)、ルールというものはいったい何か、これについて語ってみたいと思うんだけど、結局ね、菩薩界のルールっていうのは三つに要約されるんですね。三つあります。

菩薩界のルールの第一はね、これは結局、まず常に自分を磨くという姿勢を持っているということ、これがひとつです。常に自ら自己研鑚(けんさん)し、自己向上を目指していくということ。これを菩薩たちは、ひとつのモットーとして持っています。常に自らを向上させていくために努力する。こういうモットーが、ひとつあるのですね。

菩薩界のルールの第二は何かというと、常に他の人びとの幸福を念頭に置いていること。これなんです。他の人びとを、どうやったら幸福にできるかっていうことを、常に念頭に置いている。その意味において、菩薩の世界に住んでいる人たちはお人好しばっかりです。お人好しです。本当にお人好しですね。お人好しの世界なんです。皆さんのなかのずる賢い人から見れば、笑っちゃいますが、本当にお人好しの世界で、お人好しばっかりいるんです。高橋信次みたいなお人好しがいっぱいいるんです。あっちにもこっちにもね。

でもね、僕はいいんじゃないかと思うよ。地上にいる時は、お人好しっていうのは馬鹿みたいで、商売しても損してばっかりいたり、職場でも怒られてばっかりいることも多いけども、お人好しって立派じゃないか。こんな物質世界のなかにおいて、人がいいっていうことは、そのままでいられるっていうことはこんないいことないね。フンフン人の言うことを聞いてあげて、よく騙(だま)されてばっかりいて、損ばっかりしてるけど、でもなんとなくニコニコして生きている。こんなお人好しって非常にいいよねえ。どうだい、僕はそう思うね。だからまあ、言葉を換えればお人好しだけれども、常に他人の幸福を念頭に置いている。これが、菩薩界にいるための第二の条件なんです。

一番目が自己研鑚という姿勢を持っていること。二番目が常に他人の幸福というものを念頭に置いていること。これだったね。

三番目は、やはり、神の使い、使者、あるいは補助者として仕事をするということを自覚しているということだ。神の補助者としての自覚、これが大事です。神そのものになるような人にゃありませんが、菩薩というのは、やはり神の補助者として、あるいは如来(にょらい)の助け人として生きている。これが菩薩の使命です。

すなわち、「神様の仕事を助けるために、少しでも神様が楽になるように、神様の計画が達成されるように、お助けしている。これが私たちの仕事だ」。まあこのように菩薩は思っているわけなんです。根本的な法というもの、それそのものは説くことはできないですが、しかし神様のその法を助ける。そして広める。こういうことをしている。これが菩薩の世界ですね。

ですから、菩薩界の建設が、地上でひとつの目標課題となっているということは、この三つのルールを満たすようになってくるということです。こうしてみると、第一番目に地上に生きている人たちが常に自己研鑚、自己向上の意欲に燃えて生きられるような、そういう風潮をつくっていくこと。第二に、地上に生きている人が、みんな他人の幸福ということを念頭に置いて生活すること。第三番目は、神の補助者として、神の協力者として、神の使命の一端を担う者として生きていくこと。この三つの自覚を持つということです。これがとても大事なわけです。

この三つがだいたい満たされた時に、確かに地上が菩薩界に変わっていくと僕は思います。地上菩薩界の誕生だね。だからみなさん、菩薩になるって難しいことじゃないよ。結局この三つでいいんだよ。自己研鑚を忘れず、他人の幸福を念頭に置いて、そして神の補助者の一人として生きていくこと。これができれば、菩薩です。簡単だろう、どうだ。できない。あっそう。まあできないかもわからないけれども、目標は簡単ですから、この三つですから、これを念頭に置いて生きていくこと。やっぱりこれが大事じゃないかね。


5.神は光なり


本章の終わりに当たりまして、また「神は光なり」ということを、説いておきたいと思います。

神様というのは光そのものです。そして、地上にいる人間には目には見えませんが、実在の世界には神の光が燦(さん)さんと降り注いでいます。そしてその光は、地上にいる人間にも降り注いでいるのです。人間というのは、実際の太陽、三次元の太陽に照らされているだけではなくて、太陽が沈んでいる時にも、実在界の神の光というのは燦(さん)さんと降り注いでいるのです。そして、心調和して生きていればいるほど、その神の光がますますたくさん当たるようになりますし、神の光を妨げるような、そうした想念の曇りをつくっていると、だんだん光が射さなくなってくる。ま、そういうふうな現状になっているわけです。

こうしてみると、この神の光、神が光であるということの探究が、もう少し要(い)るんじゃないかなあと僕は思います。地上にいても、霊道を開いた人はよくわかるんですが、心の窓を開いていると、光というのはね、神の光というのは本当に燦さんと射してくることがあるんです。

そして、日々真実の心を探究しているうちに、たとえば聖者の言葉を聞いて感動をする、あるいは、こうした霊訓集のようなものを読んで感動する、こうした時に、胸に、サァーッと暖かいものが射してくる感じがあるのです。サァーッと胸が暖かくなって、顔に赤みがさしてくる。まあこうしたことがあります。これが神の光なんです。もし私のこの本を読んでいて、胸がサァーッと暖かくなってきたり、あるいは涙がこみ上げてきたり、頬に赤みがさしてきたりしたら、これは神の光が射してきたんです。本当に体全体が暖かくなるんです。

ところがこれが、たとえば心が間違っていて、地獄霊なんかに支配されていると、本当に体が寒いし、冷たいし、いつも何か調子が悪いです。体が重いです。だるい感じがします。こういうふうに体がけだるくて、重くて、だるく、苦しいと、やっぱりユートピアつくろうと思っても、そう簡単にできないですね。いつも体が重い。いつも苦しい。いつも愚痴がでる。こういう状況では、なかなかユートピアはできないね。やはり、体が温かくて、そして軽くて、そして元気でにこやかで、すこやかだったら、やっぱり他人に対しても笑顔を振りまけるし、いいこともできると思う。だから、こういう個人としてのこの体調、および心の調子の管理、これが非常に大事です。

そうすると、結局どういうふうにすればいいかというと、いつも神の光が射すような状態、状況、これであれば、非常にこの世の中は楽だっていうことです。楽に住めるんです。私はそう思います。楽に住めるんですよ。実に楽ですね。いつも神の光が燦さんと射しているような状況だったら、ニコニコ、ニコニコしていけるんですね。

どういうふうにすれば、じゃあ神の光が射してくるかというと、心にひっかかりをつくらないことです。このひっかかりのことを執着とも言います。心が執着で苦しんでいると、光が射さなくなるんです。曇りをつくっていきます。だから、心に執着をつくらない。ひっかかりをつくらない。これが大事です。

じゃあどうしたら、ひっかかりをつくらないかというと、結局、一日のうちで、心に去来するものを見ていて、いつも一定のところに行っていないか、お金だとか、食べ物だとか、地位、名誉、人の言葉、愛情の不足、こんなことにいつも心が止まってないかどうか考えてほしいんです。だから、そうしたものに止まってるとしたら、それを取り除くことが大事です。正当にそれを評価し、考え、検討して、徹底的に反省したのなら、もう振り返らないで、サラッと流していく。そして、春の小川のように、五月の風のように、爽やかな気持でいつも生きることです。くよくよしないことです。

昨日は昨日でわずらえばいいじゃないか。昨日わずらったことを、今日またわずらわなければいけない理由はないでしょう。昨日の晩、いやな電話がかかっても、今日もそのことについて悩まなければいけない理由はない。昨日いやな電話があったら、それをサラッと忘れて、今日また出直していく。そうじゃないかな。それを根に持って、一年、二年思ったところで何の得もないし、心に苦しみかがあるだけだ。サラサラといつも流していく。そして、透明感のある人生を生きていく。これが大事だと、僕は思うんだね。

だから、透明感溢れる毎日を生きていると、神の光が燦さんと射してくるのです。そしてそれが、ひとつの幸福の原動力になる。そして、ユートピア建設の力にもなっていく。そうに違いない。僕はそういうふうに思います。だから、ユートピアの原動力は結局、透明感溢(あふ)れる生活、そして、神の光がいつも射してくる、飾らないで、そして誰から見られても恥ずかしくないような、そうした天真爛漫(てんしんらんまん)な、天使のような生き方をすることです。それが大事ですよ。いいかな。