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目次

 1.物質

 2.幽体

 3.霊体

 4.光子体

 5.光神体

 6.神体




(1987年10月27日の神示)

1.物質


この三次元世界に生きておる人間は、生まれ落ちてよりこのかた、数十年の人生を生きる過程において、物質そのものが世界を創っており、物質が人体を創っており、物質がすべてである、という考えをとりがちであります。確かに、経験的なる感覚からいえば、目に見えず、手に触れ得ないものの存在というものは、ひじょうに肯定しがたい。こうしたことがあるであろう。

しかしながら、物質というものは、その言葉でもって人びとはこの世的なる存在を有りと見ておるが、物質そのものを究明していくならば、物質の中にも物質ならざるものがある。そのようなことを言いうると思う。すなわち、この世界と人間とが物質によって成り立っておるという考えは、物質そのものの不確かさに原因があるといえよう。

今物理学の領域においても、素粒子の研究というのが進んでいるはずである。そのなかにおいて、まさしく物理的でない素粒子の存在というものが、注目され始めている。それは一体何かというと、突然現われたかに見えて突然消えてゆく、そうした謎の運動粒子というものがあるということだ。これが発見されている。物理学者たちの多くにとっては、この粒子の存在の意味がわからない。突如現われ突如消えるといった存在は、彼らの理解を超えているからである。それは、素粒子という世界の中において、宇宙創造、天地創造と同じものが、小さな規模において起こっているということである。

地上にある人間の目で見た尺度というものは、何を基準とするかというと、自分の体の大きさというものを基準にしているのである。したがって、宇宙大の人間がいるとするならば、宇宙において惑星が発生し、消滅していく姿というのは、まさしく物理学者が実験装置の中で追っておるような、素粒子の世界の粒子の誕生と消滅、これとも比肩(ひけん)しうるであろう。こうしたように、大きさというものには一定のものがないのである。その素粒子も、またそれよりいっそう微細なるものから見たら、巨大なる惑星の誕生と消滅にも匹敵されるであろう。そうしたものである。

したがって結局は、そのものの大小は問わない。何によってものが生じ、何によって消え去るか、ここにその問題があると言えるのである。

では、ものの本質とは一体何であるのか。我らはこれを明らかにせねばならないと思う。たとえば、水というものがある。水は水としての状態であれば、これは液体であろう。しかし、この水を一瞬にして冷却すれば、これは氷となる。水が氷となる瞬間がある。それは、今まで流れ流れて融通無碍(ゆうずうむげ)であったもの、すくえば指の間からこぼれてしまった液体が、固形体のように変わることがあるということだ。そしてこの氷となりたるものも熱を加えればまた水となり、さらに熱を加えれば水蒸気となる。目に見えぬ姿となる。こういう循環を行なっているということは、すでに諸君のご存じのとおりである。

物質の発生というのは実にまたこのようなものなのである。水という融通無碍なものが、冷却ということによって突如、固体と化してゆくように、物質の発生もまた、同じ融通無碍にて、とらわれなきエネルギー体が凍りついたとき、すなわち凝固したる時に物質として現われるのである。

それは、宇宙に遍満するエネルギーが、一定の目的意識を待って固定化した時に、それが物質として現われるのである。それがあまりにも芸術的であるからして、我らは神の芸術があまりにも偉大であるからして、その凍りゆく瞬間というもの、エネルギーが凍ってゆく瞬間というものを見ることがほとんどできないけれども、実際はそのようになるのである。

すなわち、極微の世界において、突如誕生し現われてくる素粒子というものは、こうした目に見えない世界における熱、エネルギーの粒子が急速の冷却にあって、凍った氷のごとく、水のごとく、水が凍ったがごとく、姿を現わすということである。そうしたことがやはりありうるということだ。

まあこれ以外の説明をすれば、たとえば化学反応というのがあるであろう。透明の薬品と透明の薬品を混ぜ合わせた時に、突如色が現われるということを諸君らも数多く知っておるであろう。これは色彩が現われるという現象であった。透明のものと透明のものを合わせて、ピンク色が出たり、紫色が出たりする。こういうことがある。これは色という現象の現われ方であるけれども、また、同じような理由が、あの世の実在界にはあるのである。

ひとつのエネルギー体のみならば、霊的実在として動いておるものが、複数の意思によって一定の形式をとることがあるのである。すなわち、霊的エネルギー体として運動しておるものを、他の、より巨大なるエネルギー体の作用によって、それを固形化し、固定化した時に物質が現われるということがあるということである。

このようにたいていの場合、地上においても、霊的世界からの物質化現象というのが起きることがあるけれども、その場合に、複数のエネルギーが同時に働いていることが多い。そして、透明の薬品どうしが化合して、有色の液体が出来上がるように、こうした目に見えないエネルギー体どうしが作用し合って突如、そこに目に見える物質が存在するのである。まあこうしたものだと考えてよい。

さすれば、物質があるかどうかという議論は、氷というものが実在するかどうかという議論とほぼ同じだといえようか。氷というものは手に取って見ることができ、目に見ることも可能ではあるけれども、それ自体が本質的な存在ではないといえよう。確かに南極なり北極なりに行けば、氷は実在に近いかもしれぬ。万年雪に覆(おお)われた山、海の上は氷が覆っておる。したがってそうした世界に住んでおれば、氷こそコンクリートかブロックの塀のように感ずるかもしれぬ。ただ、これが実在の世界でないことは、諸君らがすでに認識せるとおりである。

すなわち、この三次元世界というものは、あるいはこの世界に送り出されたる人間の目というものは、ちょうど南極にいるペンギンと同じである。彼らにとっては、氷の実在というのはもう動かしがたい事実であり、彼らは、氷をもってコンクリートであるとか、あるいはブロックであるとか、レンガであるとか、そうしたもののように感じておるであろう。そうした強い強い、硬い、そして、冷たい存在だと思っておるであろう。ただその認識自体が本当はすべてではないということだ。氷はしかるべきところに持ちきたれば、溶け、水となり、さらに熱せば、これは水蒸気となってゆく。しかし、これをペンギンたちは、認識することができない。まあこうしたものであると考えればよい。

したがって、氷をないとまで言いきることができるかどうかという問題は、依然問題としてあるけれども、その存在そのものが本質的なるものでないことは、事実である。それは、過渡的な形態であるということを、私は言うことができると思う。

本来、その氷、あるいは水、水蒸気となっておるものは、化学分子式でいう、元素記号を持った結合であって、それが本当の姿であって、目に見える形で現われておるものは、本当の姿ではない。実在とは言いかねる。まあ、こうしたことを言うことができるであろう。

したがって、物質はないとも言え、あるとも言える。物質がないと言えるか。これはないと言うことも可能である。それは、氷はないと言いうる。その言い方でもってすればないと言いうる。しかし氷があるという言い方をすれば、それをあると言うことも可能である。すなわち、認識の形態の相違にしかすぎないということであろうと思う。

かつて我は、「生長の家」という団体を指導したことがあった。その時に「本来物質なし」という教えを説いてきた。まあこれも一つの真理であり、勇気の原理であり、発展の原理であろう。氷というものにとらわれては、人間は決して幸せになることはできぬ。したがって、それを「本米物質なし」ということで、我は割り切ったものであるが、ただ、それはその時どきの方便というものである。あなた方にあっては、また違った教えもあるであろう。

したがって、「物質なし」と現われる場合あり。これは、しかしまた別の観点から見れば、物質にとらわれるなかれ、という教えでもあるということ、これを知らねばならん。ただ、南氷洋のペンギンにとっては、氷があるように見えることもある。これは、視座、見る視点、これをどう考えるかという問題だ。こうしたことをしっかりと頭に置いておくならば、結論はどちらをとってもよい。それは、おまえたちの自由であろう。

ただ、自分たちがどの方向に向かって行くのか、というその考え方だけは、決して失ってはならない。忘れてはならない。そのように思う。


2.幽体


このように、三次元の世界というのは物質世界である。そして、本来物質というものも、これは実在界のエネルギーの凝結したものであるという話をした。したがって、従来から言うような物質と霊、霊と肉体、こういう二元的把握というのは、本来の姿ではない。これを私は言うことができると思う。本来、霊と肉は対立するものでもなく、霊と物質が対立するものでもない。

物質というものは、霊の凝固したもの、凍結したものであり、その運動エネルギーの停止したものが物質である。肉体もまた同じ霊的エネルギーであることは同じであるけれども、それが三次元的に現われた姿、これが肉体である。したがって、肉体が滅びてゆくという話は、ちょうど氷が溶けてゆくという話と同じである。全く同じ現象である。

地上にある人間の肉体というものは、死んだあと焼場で焼かれたらそれで煙となってしまうが、その肉体と同じく波長を合わしておったものがある。これを俗に幽体という。すなわち、これがまあ、地上の人間たちが、俗に幽霊とかいう場合の幽体である。こうした霊的な体があるのである。

この幽体の特徴は、およそ地上の人間の人体とまったく同じような機能を持っておるということができるであろう。肉体を去った人間も、ちょうど自分に目があり、鼻があり、ロがあるように、心臓があるように、その感触をそのまま持っておるのである。

したがって、肉体の心臓は停止しても、この幽体の心臓は停止していないのである。霊となってしばらくは、まだ自分に心臓があることを知る。また、自分の耳に鼓膜(こまく)があり、自分の目に眼球があるということを知る。すなわち、まったく同じ形をしておるということだ。つまり、肉体というものは、ちょうどこの幽体を複写した、そうした存在である。このようにいうことができるであろう。ちょうど鏡に映った姿といってもよい。本来の自分が鏡に映った姿、これを肉体と呼んでおる。こういうふうに考えてもよいかと思う。

したがって、人びとは焼場にて焼かれた時に自分のすべてがなくなるというような発想をもってしては、よしとしてはいけない。地上を去ってもまったく同じサイズのまったく同じ体が存在するのである。そしてその体にて、しばし霊的生活を送るのである。地獄界といい、幽界といい、すべてこの幽体を用いて生活しておる。

しかし、この幽体というものも、やがて機能を失ってゆく時があるのである。ちょうど、人間の霊的な体というものは、蝉(せみ)が殼を脱ぐようなものであって、この霊と肉の中間にある幽体というものもやがて、これを脱ぎ捨てるべき時が来ることがある。その脱ぎ捨てた幽体というものが、しばし地上にさまようこともある。これが、俗に幽霊であるとか、そうした地縛霊であるとか、まあこうしたもので称されることもある。

しばらく幽体は幽体としての意識を持っておって、地上近くにさまようことがある。ただ、これは霊の本質ではないが、こうしたふうに目撃をされることがある。地上に、いろいろな霊的な現象を起こしやすいのは、この幽体の部分がたいていの場合、起こすのである。まあこう考えてよい。地獄霊などは、この幽体の部分をもって、自分の肉体と思ってあの世でも生活をしておる。こういうふうに考えてもいい。

より高次な世界に住んでおる霊にとっては、この幽体というのは、肉体同様、ひじょうに不自由な姿であるのだけれども、それを着てよしとしておる者にとっては、そうではないということができる。これはちょうどオーバーコート、肉体をオーバーコートだとすると、オーバーコートを着て、会社で仕事をしているとひじょうに不自由であろう。しかし、それを当然だと思っておる者は、オーバーコートをいつも着ていないと仕事ができないようになる。これが肉体だ。

しかし、会社の中が暖かいと、オーバーコートを取り去ることとなる。これが肉体を脱ぎ捨てる時だと思う。そして背広姿となる。しかし、この背広で仕事をしているうちに、だんだん不自由を感じることがあるであろう。そして背広を取り去って、ワイシャツ姿で仕事をすることがあるであろう。こうしたものだ。

まあ会社の中には暖房も入っておるであろうがあの世の次元も、譬(たと)えていえばこのようなものであって、高度な次元に進めば進むほど、その中において霊的エネルギー磁場が高いために、また暖かい世界が展開しているというふうに考えてもよい。したがって、霊は進化していくにつれて、一枚一枚とその外皮、外套(がいとう)を脱いでいくのである。このように考えてよい。

脱ぎ去った霊的外套はどうなるかというと、やがてこれは蝉(せみ)の抜け殼のようになってゆく。すなわち蝉が抜け殼を脱いだしばらくの間は、その抜け殼というのは実在のように見えるけれども、やがて雨風の中に崩れてゆき、そして土の中に吸収されていくであろう。霊的な世界も同じであって、こうした脱ぎ捨てられた幽体というものは、しばらく四次元空間において、さまざまに漂っておるが、これもやがてさまざまな形で分解されていって、単なる霊的エネルギー体として消えていくことが多いのである。

しかし、こうした漂える幽体エネルギーを使って、また別なものができていくこともある。これが俗に諸君らが知っておる妖怪とかいうようなものだ。妖怪というようなものは本来神が創られたものではない。けれども、実在界においてそれらしきものが存在することも事実である。これらは、妖怪とかいうようなものは本来ないものであって、地上の人間の悪想念が作ったものである。

すなわち、地上の人間のなかで一定の波動を持った悪想念、これが集中してくると、この悪想念のエネルギーが地上から立ち昇ってくる。そして、四次元に漂えるこの幽体に強く働きかけて、この漂える幽体をつかまえると、この幽体がその悪想念のエネルギーを受けて、その念の形に変化してゆく。そして、一定のエネルギー量を吸収すると、彼らもまた、生物のごとく活躍し始めることになる。すなわち、そうした独自な活動を展開することができるようになる。こうして新たな生命が発生するということがありうるということだ。

また、地獄というところの中においても、植物であって動物のような、こういういわゆる妖怪のような存在もある。これらも植物の霊、漂える植物の生命霊と、こうした幽体を脱ぎ捨てたこの人間の幽体エネルギー、これらが地上の人間の悪想念と結合して、そして急速に膨れ上がって、そうした新たな生物を作ることがある。

地上にもいろんな生物が生まれるように、あの世においてもいろんな生物が生まれておる。そしてその根源はすべて念である。念の具象化ということだ。その多くの供給源は、地上の人間にあるということを知らねばならない。


3.霊体


この幽体でしばらく生活したあと、たいていの人間はこの幽体を脱ぎ捨てて、さらに霊体という姿で生活をしていくようになる。これがいわゆる五次元霊界の生活である。この霊体というのは、譬(たと)えていえば、長袖(ながそで)のワイシャツを着ているような生活だと言えようか。あるいは長袖のワイシャツにカーデガンをかけたぐらいの生活と言えようか。通常の室内の生活にちょうどよいぐらいの、そうした着心地といってもよいであろう。これが霊の標準的な生活スタイルだということができるであろう。またこれも変わっていく姿であるということで、究極の存在ではないことも事実である。ただこの霊体という存在も、この外皮をまとって、エネルギー体が生活しておるのである。

なぜこのような物質である肉体をまとったり、霊体をまとったりするか。結局こういうことなのです。エネルギー体というものは、エネルギーである以上、常に発散し、放射しようとする傾向を持っておるのです。したがって、これに一定の枠、枠組みというものを付与しておかねば、ひとつの統一ある形式をとることが不可能となるのです。それゆえにこそ、外皮というものが存在するのです。そのエネルギー体にふさわしい外皮、外套というものをこれを肉体とか、幽体とか、霊体とかいっておるのです。どのようなものであっても、薄膜(うすまく)一枚であってもいいけれども、こうしたエネルギー体を包むものがなければ、その人としての統一ある個性というものを保てなくなるからです。結局はこういうことであって、唯一の神から岐れてきたエネルギーを、それぞれの薄膜で包んでいったという歴史であるわけであります。これが高度に進化するにつれて、その薄膜をまた一枚一枚とはがしてゆく、こういう形となるわけですね。そして本来の光に近づいてゆく。こういうふうに言うことができると思います。

五次元霊界人たちは、主としてこの霊体で生活しております。その霊体の姿は、おおむね光を放ち始めている姿であって、ひじょうに体は輝いています。肉体が光を放っていないように、幽体はまだ鈍(にぶ)い光しか放っていません。しかし霊体になってくると、ややあかぬけをしたという形になってきて、体の各部分からいろんな光が出てきています。その光は、おおむね白っぽい光であることが多いのですけれども、光、本来の光に近づいてゆく過程として、輝きというものを見ることがあります。

これは、あなた方でも時どきそうした方に地上でも出会うことがあります。ひじょうにニコニコとしておって、その人のまわりがなんとなく明るい。また、顔がテカテカと光っておる。こうした人と会うことがあると思いますが、ああした感じであるわけですね。

霊界人というのは、ひじょうに体全体がキラキラと光っておって、あかぬけをしたような形になっておるわけです。まあこれを限度として、また生まれ変わってくる人も平均的な数としてかなりいるということも事実であります。この五次元霊界を限度として生まれ変わるという人が、魂においては大部分である。このように言うことが可能であるかと思います。

幽体が地上の肉体とほぼ同じような存在形式をとっているに対して、この霊体というものは少し存在の形式が変わってくるのです。どのように変わってくるかというと、その融通無碍な姿というものが、まず現われ始めるということですね。霊界人は、まだ手足を持った自分の姿というものをイメージとして描きながら、生活をしておりますが、彼らも時おりそうしたものでない自分というものを感じることがあります。そうした瞬間があるわけであります。

その理由のひとつとして、まあいわば地上でいうテレポーテイションという能力があると思いますが、念った瞬間に空間を移動する。こうした現象がありますが、この霊界人というのは、霊体を持ってそうしたことを数多くやっております。これは決して肉体とか幽体とかではできなかったことであります。霊体をもってすれば、こうしたことができるということを感じるようになります。

それは霊体というこの新たな体が、ひじょうに念というものの支配を受けやすくなくっておるわけであります。念というものの支配を受けやすくなっておるがために、念が、その人の念(おも)いが、どこそこに移動したいと念うと、その体がすぐについてくるわけです。こうしたことがあります。

地上においては、あなた方がたとえば陸上を走るにしても、この肉体の重みというものを感じることがあるでしょう。重い体を一歩一歩動かしておるという感じがあるでしょうが、これが霊体となると、まるでアイススケートのように、スケートリンクの上を滑(すべ)るがごとく移動することができるようになるし、また地上のみならず天空、空をも飛びうるような能力を自分が持っておるということを自覚することができるようになります。

この能力は、一部四次元の中においてももちろん発揮されておりますが、この能力が本格的になるのは、この五次元霊界からであります。彼らは念ったところに移動したり、また空高く上がったり、こうした新たな経験を得るためのことをしています。そして人間的な存在形態以外での存在ということも可能であるということを、少しながら学んでゆくようになってきます。これが霊体の不思議であります。

まあ霊体の不思議をもうひとつ話すとすれば、この単に空間を移動するとかいう能力だけではなく、自分を変えうるという能力を彼らは知るようになってきます。たとえば、これは自分が着ておる衣装などもそうであって、これをたとえば、自分がこういう衣装を着たいと思えば、それが身のまわりに現われてくるというような、そうした現象というものを意図的に起こすことができます。

したがって女性であるならば、女性霊であるならば、和服を出してみたり、洋服を出してみたり、そうしたことが可能となりますし、また多くの人たちはそれを望みはしませんが、人間が人間以外のものの形に、変化しようとすればすることが可能となってきます。それをたいていの人は好まないがためにそういうことはありませんが、人間以外の姿になろうとすればなることもあります。


4.光子体


しかし、この五次元霊界の霊体よりも、さらに精妙な体という霊的な体というのがあります。これが主として六次元での生活に使われておる光子体という体であります。この六次元という体、あるいは人体というものは、さらにキラキラと輝いています。それは、もはや人間の目にとっては目で見れば、この世ならざる輝きというものを持っております。この世ならざる輝きであります。

この光子体というのは、いわばどうでしょうか、まあ水晶の山をみなさんが見た時のようなこうした気持ちでありましょうか。あるいは、大理石でできた部屋を見たようなそうした感慨でありましょうか。あるいは、宝石の山の中に分け入ったようなそうした気持ちでありましょうか。もはやこの世的なる存在ではないということは、一目瞭然(いちもくりょうぜん)であります。

そして、その霊人たちも、まだ地上的なる姿をとっておることは多いのでありますが、その霊的な体の中からは、えも言われぬ光、そういうえも言われぬ光というのを放っています。それが発散されておるのです。ちょうどそこの六次元神界における光子体の人間を見ると、ダイヤモンドを散りばめた人が出てくるような、こうした感じを受けます。

そして、どの人もどの人も顔に高貴さ、高貴な雰囲気、これを漂(ただよ)わしている。こういうことが言えると思います。いわゆる六次元においては、もう神近き人間が数多く住んでおるということです。そして、いわゆる高級霊といわれる方がたも、この六次元ですね、六次元神界から存在をし始めている。こういうふうに言うことが可能である。まあこのように考えます。

この六次元神界における光子体の体験というものは、さらにさらに高度なものとなっていきます。ここにおいては、この念とその霊的な体との関連性というものがより緊密になってきて、念(おも)い即行動というものが地についてきます。板についてくるわけです。念い即行動ですね、こういうのが板についてきます。そして、自分の能力というのが、単にその六次元空間だけのものでないということを彼らは実地に知っていきます。

四次元の人はまだ四次元という完結した世界の中に住んでおって、五次元の霊界の人も、たいていの場合は五次元という完結した世界の中に住んでおって、自分の霊的な村、あるいは町に住んでおる。これから外に出るということはほとんどありません。

六次元神界に入ってくると、そうした経験だけでもっては、彼らの学習にとっては不充分となります。したがって、必要に応じて五次元霊界に降りてゆく。あるいは、四次元霊界に降りてゆくという、そういう体験というものをくり返してゆきます。こうして、そうした体験でもって、大いなる世界観というものを、獲得してゆくのです。

五次元霊界に行くというような時には、たいていの場合、何人かと相談しながら行くことが多いです。六次元神界人何人かが相談して、五次元霊界へ行って、彼らを指導する。彼らの霊的認識をさらに高めるために、教える。そして教えるということを通して、自らもまた霊的な進化をはかる。こういうことをしておるわけであります。

また時おり、この神界の人間が四次元の幽界に行って、地上から昇ってきた者、地上を去ってきた者たちを諭(さと)したりしているのがよく見られます。まだ四次元や五次元に住んでおるものであっては、こうした地上から来たばかりの者を十分に諭すだけの力がないことが多いため、六次元神界という一段すぐれたところにいる光子体を持った霊たちがこの四次元に行って、新しい霊たちを導くというそういう指導役をしていることが数多くあります。

また彼らのなかには、地獄界に行って、地獄に迷っておる霊たちの救済という仕事をなすこともあります。こうした時には、自分一人の力では不十分であるので、さらに力の強い天使たちの力、光を仰ぐことがあります。

六次元神界の中でも上段階にいる諸天善神の応援を仰ぐこともあるし、これ以上の菩薩、七次元の菩薩であるとか、八次元の如来であるとか、こうした偉大な光の指導霊たちの力をもって、地獄霊たちの救済ということをやっておる。そうした兵隊の役割ですね。

彼ら光の天使を、たとえば将官、大将であるとか、中将であるとか、小将であるとかいうようなそうした将官だとすれば、この六次元神界の高級霊たちがいわゆる兵隊、兵卒となって地獄の人たちを助け上げたり、また地獄の悪魔といわれる者どもを諭したり、こういうことをしておる。こんな仕事をレておる場合もあります。

また、六次元の光子体を持つ霊人たちの主たる仕事のひとつとして、地上の人たちの指導ということがあります。俗に指導霊として地上の人たちの職業を指導しておるのは、ほとんどこの六次元の人たちであるわけであります。地上において、自分のひとつの専門において、頭角を現わしうるような人というのは魂の境涯において、まず六次元レベル以上であることが多いわけであります。

ですから、地上に降りて赤ん坊として生まれた魂が、長ずるにしたがって、二十代、三十代、四十代になるにしたがって、本来の魂の傾向にめざめて、そして専門、自分の専門を深めていって、さらに高次な判断、さらに高次なインスピレーションが必要とされる時に、その心の状態に応じたこの六次元神界の人間たちが、インスピレーションを降ろしていくのです。そして彼らの地上での生活、あるいは職業というものを助けていきます。こうしたことをします。

したがって、この光子体のときの霊人は、主として地上の人間を指導することによって、七次元以降にある菩薩の世界の前段階としての菩薩行の練習をまずやっておるわけです。

ただ、彼らの菩薩行がまだ神界であるという理由は、自分の特定の専門にとらわれておるということがその原因となります。六次元神界に住んでおる人間は専門家であって、何かひとつ自分の専門というものを必ず持っております。ある人は政治家であったり、ある人は芸術家であったり、ある人は学者であったり、さまざまな専門家であります。ですから、専門家としてのインスピレーションを与えることはできるけれども、彼らはまだ自分たちの専門以外のことを教えようとはしません。教えようとはしないというよりは、教えることができないということであります。

すなわち、自分が未だ知らざることを、教師として教えることは難しい。こういうことを言うことができると思います。したがって自分の専門の範囲において、教えるわけであります。これはいわば、地上の学校において英語を教える教師が存在したり、国語を教える教師が存在したり、社会科を教える教師が存在したりするのにひじょうによく似ているといえましょう。


5.光神体


さらに、七次元に入った場合の霊的実相について話をしたいと思います。この世界は、いわゆる菩薩界といわれている世界であります。六次元神界においては、光の天使もいるし、そうでない人もまだおりますが、この七次元の菩薩界は、すべてがこれが天使であります。したがって、彼らの持っておるボデイ、霊的肉体のことを光神体、光の神の体と書くことがあります。すなわち、もうその存在自体が神の一部となりかかっておるということができると思います。

したがってこの光神体のレベルにおいては、彼らは、神の一部としての活動というのを期待されている。このように言うことができると思います。神の一部としての活動が期待されている、神の手足としての活動が期待されている、神の自己実現としての役割の遂行が期待されている。これが七次元の光神体の姿であります。

彼らはそうした大きな役割を担っておりますが、それ相応のエネルギーを与えられ、それ相応の敬意というものを表(ひょう)されている。こういうふうに言うことができると思います。エネルギー源というものは、八次元以降の如来界から放射されるエネルギーを彼らは強烈に受けておるということがひとつであるし、また、六次元以下の世界からは尊敬の念を受けておる。こういう上と下の両方からエネルギーの供給を受けておるんです。そして、無私の奉仕活動というものを行なっています。

神界におる人間が、専門家としての菩薩行を行なうという話をしましたが、これに比べとの菩薩界のの光神体で存在する霊ちらかとえば、ややゼネラリスト的な存在となってきます。もちろん彼らも自分の長所、短所があり、得意、不得意の分野はありますが、単なる一分野だけを指導するというのみでは不十分となってきます。

すなわち、神の心、宗教心というもののもちろんプリズム化をやっておるわけでありますが、それがいろんな形で展開していく場合の具体的実践部隊となっておるわけであります。

したがって彼らの行動原理は、やはり対機説法という考え方に支配されてきます。すなわち、そうした根源的な法そのものを地上の人間に噛(か)み砕(くだ)いて、神の光を体現させた作用としていくか。こうしたことを主としてやっております。地上に出ておる菩薩の数はそう多くはありませんから、こうしたそう多くはない地上に出ておる菩薩たちを指導しておるのが、だいたいこの七次元の光神体存在としての菩薩であります。彼らも指導霊として活躍しておるわけであります。

またこの菩薩界の人間たちは、よく下の界の指導をしております。神界やあるいは霊界、幽界の人びとの指導ということをしております。ただあの世の原則は、一段上の者がその下の者を指導するというのが原則となっておりますから、菩薩は主として六次元神界の人間を指導していく。これが彼らの基本的なテーマとなっているわけであります。そして、菩薩の指導を受けて、六次元神界の人が今度は五次元霊界の人を指導する。こうした順序となっておるわけです。

これはあの世においてもいわゆる階層社会、秩序社会というものが存在するということの証拠であるといえましょう。神は一方においては人間に平等ということを要請しておりますが、一方においては秩序ということもまた要請しておるのです。やはり、すべてのものが野放しの状態、つまり羊の群(むれ)のような状態になっておっては、秩序ある世界の展開ということが不可能となってきます。

したがって羊の群を統率するためには、羊飼いというものを与えておるのです。これは、小学生にも中学生にもクラスというものがあれば学級委員というのがいるのと同じであります。秩序ある世界の展開のためには、そうしたより良きリーダーの存在は不可欠であります。そして、これを否定することはできないのであります。こうした世界観を神は善しとされておるからであります。

したがって秩序ある世界を出すためには、そうしたリーダーの存在ということが不可欠となります。そして、それは高次にある者がリーダーである根拠は、神そのものが最高のリーダーであるというところにその根拠を求めることができると思います。