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目次

 1.物質

 2.幽体

 3.霊体

 4.光子体

 5.光神体

 6.神体




6.神体


さて、この七次元の菩薩界を去ってさらにこの光神体を脱ぎ捨てて、八次元の如来界に入った場合の存在形態について話をしていきたいと思います。

この八次元は、すでに神の世界といっても過言ではないでしょう。この如来界の世界というものは、ひじょうに優れた人びとの存在の集まりであるわけです。したがって、八次元の如来とは、もうこれは人間でないといってよいでありましょう。如来界の人間が地上に出るということは、神が地上に出ておるということとほとんど同じであります。なぜならば、如来の条件は、神の心を心として生きることができるということだからです。これが如来の条件であります。

したがって、その如来の体は、もちろん金剛身であるということも可能でありますが、統一ある呼び方をするとすれば、これを神体、すなわち神の体と称することも可能でありましょう。

つまり、如来の生命エネルギーは、すなわち神の生命エネルギーとほぼ同一だということであります。如来というものは、神の生命エネルギー、活動エネルギーを直接に受けておるというふうに言うことができると思います。

そして、彼らは神のエネルギーを受けておるそうした水道管、動脈であります。大きな動脈の一本一本が如来であります。

すなわち如来という人間的存在があるわけではなくて、如来というものは体を駆けめぐっておる動脈、これにすぎないということですね。神が創られた世界をいろんな血管が網羅(もうら)しておるわけでありますが、如来というのはこの神の血液を送り出すための動脈であります。右手に流れておる動脈、左手に流れておる動脈、胴体に流れておる動脈、あるいは、左足、右足、いろんなところを流れておる動脈があります。如来というのはこの動脈にあたる部分ですね。この動脈からさらに小さな血管へと分かれていくわけです。そして、神の世界すべてのところに栄養素、神の栄養、神の光が流されていくわけです。

したがって、この神体でもって生きておる人間の生き方というものは、神そのものであるということであって、彼らは名実ともにもはや神であります。ただ、地上に何度か転生輪廻をして、出て来た経験があるがために、地上の人間を指導する時には、人間的な感覚と人間的な思考でもって人びとを指導することはあります。ただ本質はそうしたものではないということです。

我もまた、今から三千年近い昔、かつて日本に降りたことがある者です。日本の九州に肉体を持って生まれたことがあります。ただ、そうした個性ある存在ではあるけれども、それは天之御中主の一部分というか、人間的なる部分であって、それは本来のわが実相ではない。私の本当の姿は、神の主たる動脈の一本であって、その個性ある血液を送り込んでおるその主たる動脈であります。これが私の姿であって、そうした人間のように、両手両足があるような姿が私の姿ではないということです。

すなわち、動脈であります。神のポンプであります。まあ水道管の中のいちばん太い水道管、こういうふうに言うことも可能かと思う。なぜならば、わが霊的エネルギーを受けておる者は、この日本だけでも一億二千万の人びとがおるわけであります。

またその霊的な小枝から、エネルギーを吸い取っておる者はさらに数多くいるわけであります。何億もの人びとに神の霊的血液としてのエネルギーを放射しておるわけであります。こうした神体としての役割があるわけであります。

さらに、この八次元の如来界の上には、九次元という世界があるとあなた方は知っておるはずであります。救世主の世界であるとか、あるいは宇宙界の世界であるとか、いろんなことが言われておりますが、彼らは、我らをたとえば大きな動脈だとするならば、この九次元神霊の存在というものは、言わば心臓のポンプそのものであります。神の血液を送り出しているところであります。こうした心臓の役割をしておるのが、九次元の神霊であるということであります。

したがって彼らは本来、人間的な姿をとってはいないのです。地上の人を指導する時にそれらしき個性を出すことはあっても、それは彼らの本当の姿ではないということを知らねばならない。目に見えるように言うとすれば、心臓であります。そうした特色ある心臓が何体かあるわけであります。そしていろいろな動脈に血液を送り込んでおる。これが彼らの九次元的存在の役割であります。

こうしたものであって、彼らはそれぞれ大いなる光の発電所であり、光の吸収所であります。神よりの光を吸収し、これを動脈に流していく。神のエネルギー、霊的エネルギーを、霊的血液を吸収してこれを動脈に流していく。そういう心臓ポンプの役割が、九次元神霊の役割とされております。

したがって、九次元神霊の姿というものを霊的に透視するとするならば、巨大な巨大な心臓があると思ってよい。その心臓からは、さまざまな管(くだ)が出ておる。そしてその管がいろんなところに流れていって、エネルギーを送り出しておる。こうした姿であるわけであります。まあこういうふうに言うことができると思う。

このように、我らが生活しておるその姿というものも、物質たる肉体から始まって、幽体、霊体、光子体、光神体、神体、このようにさまざまな形態、本質的なる形態へと進んでいくのである。

これは結局のところ、本来融通無碍(ゆうずうむげ)であり、固まらないそのエネルギー体、とらわれのないエネルギー体が、いろんな包みをかぷっておって、個性化が進んできたということにしかすぎない。

本来神のエネルギーそのものには個性はない。本来無個性、本来尽十方無碍光(じんじゅっぽうむげこう)如来の光であり、遍(あまね)く照らすエネルギーにしかすぎないのだけれども、このエネルギーをどのように包むかということにおいて、その個性の差が現われてくることとなる。その包み方によって現われ方が違ってくるのである。こういう包み方という個性を出すために、いろいろなこうした霊的な体というものが必要となってきたのである。

したがって、神の自己顕現の現われ方というのは、どういうものかというと、本来光そのものである神は、その光を遍く放射するのみでなく、その光を個性化するということを考えられたということだ。したがって、その光を個性化する方法として、神体、光神体、光子体、霊体、幽体、肉体というようなこうした段階別の包みを用意した。その包み方によって、さまざまな個性を出した。まあこういうふうに言うことができると思う。

これはたとえば、正月の餅(もち)で考えてもよい。本来のエネルギー体は形なきものであるけれども、これを三角餅としたり、四角い餅としたり、丸餅としたり、さまざまな形を作っていくであろう。そうしたものだ。本来はひとつのものであるけれども、それは形をとる過程において個性化してくるのである。

そしてその形のとり方を幾種類にするか、幾様にするかということで、高級霊たちが今まで苦心してきたのである。このように考えていけばよい。

まあ以上で、第三章の「生命の本質」という話を閉じるわけであるけれども、生命の本質というものは、本来そうしたとらわれのないものであり、そして、この地上に現われているものをもって、実相としてはならんということである。

実相という意味においては、霊体をも実相ではないということを知らねばならん。霊そのものも実相ではないということ、霊そのものも本来の実相に形を付けたものにしかすぎないということを知らねばならん。

本来無個性、しかし、それが形ある姿をとることによって、個性というものを得るのである。本来、つきたての餅というものに形はない。それを丸餅、角餅、いろんなものを作ることによってさまざまな味わいが現われ、楽しみが現われるのではないか。

それが世界が存在し、世界の中にさまざまなエネルギー体が霊として生活しておる喜びではないのか。そのように考えればよいと思う。そこに生命の本質があるということだ。以上でもって今日の話は終わりとする。