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目次

 1.開眼

 2.自覚

 3.決意

 4.不退転

 5.断行

 6.成果



6.成果


さて、開眼、自覚、決意、不退転、断行という話をしてきた。そして、その結果として表われるものは、成果であろう。

人間の一生には、必ずそれなりの成果というものがあるのである。諸君が、大いなる実りを持って実在界に還ってくるか、それとも失敗の汚名だけを被(かぶ)って還ってくるのか、それは今の時点ではわからない。

ただ、どのような人間であっても、何らかの成果というものを残すものである。

結局、一生において自分が刈り取ったものが、これが良質の小麦であるのか、良質の米であるのか、それとも毒麦であったり烏(からす)麦であったりするのか。それを問われるべき時が来るのである。これは、確実に来るのである。この時期は、万人にとって、確実に来るのである。決して逃れることができないのである。

この成果ということに関して、ひとつの考えを述べておきたいと思う。

諸君は、この世では、霊的に目が見えないままに手探りで一生を生き、そしてあの世に還ってくる。そして、その一生の間になした、この成果、この刈り入れた穀物が何であったかということを、あの世の世界に来て必ず見せられることになるのだ。

その時に、毒麦ばかりを刈っておった自分を発見して、あきれ返ってしまう人もいる。毒麦を刈っておったと思って、その実、良質な麦のほうを刈っておったということもあるであろう。いろいろなことがある。

ただ、ひとつだけいえることは、人びとのためになしたことは、決して決してマイナスにはならんということだ。

諸君らが地上にあるときに他の人びとのために、善いと思ってやったことが、誤解を受けたり、侮辱を受けたり、そういうことはあるであろう。人びとのためにと思ってやったことが理解されず、曲解されて、苦しい思いをしたこともあるであろう。

しかし、諸君らの心のなかに、本当に愛の思いがあったならば、それはこの世的には実を結ばなくとも、必ず実在界においては蔵の中に、諸君らは良質の麦の穂を刈り込んだということを忘れてはならぬ。諸君らは、決して結果主義になってはならんと思う。

ある人を愛さんとしてなしたことが、結果的に実を結ばなかったとしても、それでもって、諸君らが失敗したということにはならんということだ。愛の行為と愛の思いは、決して決して無駄にはならんということを、諸君らは知らねばならん。

自分がよしと思って、人びとのために人類のために尽くしたとしても、結果人びとの誤解だけを受けて、そして傷ついた人生で、幕を閉じることもあるであろう。

しかし、そうした人が、あの世で大いなる成果を手に入れていることが数多く、この世の成功者があの世で、没落しておることも数多くあるのだ。
たとえば、大事業家として成功して、大金持ちになって還ったとしても、その人があの世で本当に成功を収めたかどうかはわからない。

けれども、リンカーンとかガンジーのように、最後は凶弾に倒れたとしても、暗殺という憂き目に遭ったとしても、その人生が誠実であり、その人生が清潔であり、その人生が人びとへの人類愛に燃えておった人の生涯というものは、最後に実を結ばなかったように見えたとしても、あの世では、素晴らしい王冠を被り、人びとの愛に囲まれて、幸せな生活をしているということを忘れてはならん。

さすれば諸君は決して決して結果主義になってはならん。結果よければ全てよしというような、考え方に毒されてはならん。

諸君らは、ただ神が最後には見てくださっているのだからという心、こうした観点を忘れてはならん。この世の人に認められようとするな。この世の友人や知人、親、兄弟こうしたものに認められようとするな。人生の途上に会う人に、必ず認められようとは思うな。最後には、神が見ていてくださるのである。

神が自分を見ていてくださって、認めてくださるならば、たとえ人に何を言われようとも、たとえどのような仕打ちを受けようとも、決して我は後悔せぬという気防ちを持たねばいけない。これが本当の成果である。

この世にて人びとに喜ばれるようなこと、この世にて無知な人びと、霊的に無知な人びとに喜ばれるようなことばかりをして、これでもって本当によいと思うな。

神に悦ばれることこそが、本当の成果なのである。

常に心に問え。自分のこの思いと、自分のこの行ないが、本当に神に悦ばれるようなものかどうかを。本当に神の子としての自己実現かどうかを。

そして、神の心にかなうことであるならば、恥ずかしがらず、臆病にならず、決して怯(ひる)まずに進んでゆけ。

世の人びとの声に惑わされてはならぬ。彼らはあなた方が前進していくときに、苦笑したり嘲笑したり、悲しんでみせたり怒ってみせたりすることもあるかもしれない。

しかし、そうした世の、本当のことを知らない人びとの機嫌(きげん)をとることをもって、成果としてはならんということだ。
すべては神におまかせし、そして、どのような汚名を受けようとも、どのようなそしりを受けようとも、真実は真実として歩んでゆく。こうした勇気ある人生こそが、本当は最後に神に愛される人生となるのだ。

さすれば諸君は、世の嘲笑を恐れるな。世の批評を恐れるな。批評家で大成した人などいないということを知れ。人の批評をするのは簡単である。人の批評をしたり、人を非難したりすることは簡単である。

しかしながら、神に悦ばれ、神の称賛を受けるような事業は、簡単ではないということを知れ。

決して人間に誉(ほ)められようと思うな。神にのみ誉められればよいのだ。

そしその成果成果は、この世で手に入れられなくともよいのだ。このよにおいて、無名のままに人生を終わってもよいのだ。

そうしたこと、そうした神の目から見た、偉大なる成果を得るという考え方、この考え方をあくまでも大切にしていきなさい。人間の評価は、得られるに越したことはないけれども、あくまでも二の次である。

そうした、決して結果主義にならない人生を、選ばなくてはいけない。そうした意味において、本当に神と自分とが、一本につながる大いなる生き方、こういう一筋につらなる生き方というものを、大事にしてゆきなさい。


この世での実績や、給料や地位や名誉や、こうしたものではないということ。そんなものではない。お金の量や、名刺の肩書きでもって、成果とかいうものではないということ。これを知らねばならん。

この世的には無名でもよい。肩書きがなくともよい。

しかし、常に人びとの心を忘れず、人びとの心を豊かにすることのみを目標にすることだ。

この世において事業を成功させる秘訣は、人びとが真に欲しているものを与えるということだ。人びとが真に必要とするものを与えるということだ。

それは、この地上にない神の心を、この地上において、あなた方が代わりに実践するということだ。

人びとが何を欲しているか、本当に人びとを導くために必要なことは一体何だろうか。こうした観点を忘れずに、そして神の代わりとなって世を美しくしてゆき、世を潤(うるお)してゆく。こうした偉大な事業こそが、真に人間に許された最後の仕事だということができるであろう。

運命の開拓の究極にあるものは、そうした神の心を心とし、神の悦びを悦びとした大いなる事業であるということ。これを忘れてはならん。

これだけを話して、今日の話は終わるとしよう。