目次
1.希望
2.努力
3.忍耐
4.実現
5.自信
6.飛躍
(1987年11月2日の神示)
1.希望
まず、希望ということに関して話をしていきたい。
希望は、希(まれ)なる望みとあるけれども、やはり、これは人間として得がたい望みであると、こういうふうに言うことができようか。ただ、得がたい望みが希望である理由は、それが、手に入れることによって、この上ない幸福感というものをもたらすからである。これが希望の根拠である。このように思ってよいと思う。
さて、人生にはいくつかの原理というのがある。ある原理は、人間を向上させることがあるし、また別の原理は人間を下落させることがある。そうした両方の原理があると思う。
ただ、私たちが考えねばならんことは、下落することのみを恐れてはならんということだと思う。下落しないことを考えるのではなくて、いかにすれば向上していけるのか、こうしたことを中心に考えておけば問題がない。私はこういうふうに考えます。
したがって、希望ということは、向上の原理にとっていちばん大切な第一条にもあたるということです。これが希望の原理です。
では、希望を持って生きてゆくには、一体どうすればよいのか。このことについて、話を進めたいと思う。
希望を持って生きてゆくためにいちばん大切なことは、心に理想を描くということだと思う。人間にとっていちばん大切なことは、この理想ということだ。
動物と人間との違いのいちばん大きなものは、結局人間には理想を描く力があるけれども、動物にはそれがない。動物は、来る日も来る日も同じ生活をしておるし、親の代も、子の代も、孫の代も、いっこうに進歩がない。
ところが人間の違いは、親の代と子の代、子の代から孫の代へと、確実に何かが変わっておるということだ。それは、自己内部の蓄積における変化でもあるが、単にそれにとどまらず、外部環境における変化でもあるであろう。こうした、内部と外部と両方の変化というものがあると言うことができると思う。
さて、そうした内部変化と外部変化の、この両者の変化の原動力は一体何であるかというと、結局のところより大いなるビジョン、より大いなる理想、こうしたものが心に描けているからだと思う。
考えてもみたまえ。大都市に今、地下鉄が走っておるけれども、この地下鉄を走らせたのは一体何の力であろうか。それは神仏の力ではない。やはり人間の力だと思う。人間の労働力と、人間の企画によってできたものであると思う。
しかし、地下鉄は、ある時ある人の心のなかに、そのイメージ、夢というものがあって、それが実現したのではないだろうか。すなわち、当然の発想であれば、地上を走るというふうに考えるものが、地下を走ったほうがすべてのものの邪魔にならずに、よりいっそう人類のための奉仕になるのではないか。こうしたことを考えれば、まさしくそのとおりであるといえるであろう。
また、これは、宇宙船でもそうだと思う。なぜ人類は、月に飛び、金星に飛び、他の惑星に向かって飛んでいく必要があるであろうか。それは、必ずしも必要ではないと思う。必要あって飛ぶわけではない。それはやはり、夢があって飛んでおるのではないだろうか。夢というのがあってそれを実現したいと思っておるからなのではないだろうか。
人類は、何千年何万年と、あの天にかかった月というものを眺めてきた。しかし、あの月の土をだれも踏みしめたことがなかった。そして永年にわたって、一度は月の世界に行ってみたいという気持ちは持っていたであろう。その、一代にわたらない、何世代、何十世代、何百世代の夢を宇宙飛行船によってかなえたのではないだろうか。
こうしてみると、人間の偉大性の根拠というは、自己内部理想の拡大、それと、それをこの世的な世界へ実現する力があるからだ。こういうふうに言うことができると思う。
特に、現代人に対して私が言っておきたいことは、この希望ということ、これは言葉を換えれば、理想ということでもあるけれども、これをいくら持っても持っても、持ちすぎるということはないということだ。
そして、理想が理想であるところの理由は、それが他人を害したり、世の中のためにならないような理想であってはいけないということだ。それは、より多くの人のためになり、より多くの人びとの向上となり、より多くの社会の進歩になるようなもの、こうした希望である必要がある。こうした理想である必要があると思う。
したがって、ここにおいて大事な考え方というのは、まず、希望を実現してゆくための目標設定ということです。目標の視覚化、ビジョン化ということ、これが何にまして大切です。これが結局、人間を向上させる原理となるからです。
さすれば諸君は、心に夢を持つことはいいが、単に漠然とした夢として持つのではなくて、積極的なるイメージ、明確なイメージ、具体的なイメージ、こうしたものとして持つ必要がある。このように考えるものです。
そして、そのイメージが具体的であればあるほど、目標に近づいてゆき、その実現が近いということが言えると思う。
これは、結局はこういうことなのだと思う。海図が正確であればあるほど、船は進路をまちがいにくい。まちがいなく進んでゆくことができるということ。目標物がはっきりすればするほど、近づいてゆくのは簡単だということ。山であれば、目標、征服すべき頂上がわかっておればおるほど、ファイトが湧いてくるということ。こうしたことであろうと思う。
人生は有限である。六十年、七十年、あるいは八十年の人生である。この有限の人生を生き抜いてゆくためには、その有限の時間の中で、到達しうるべき目標というのが大事だと思う。
人間の目標は、いかに偉大であっても、それで偉大すぎるということはないけれども、人間の心のなかに思いが浮かぶようなことは、すでに実現が予定されていることでもあるのだということを知りなさい。
たとえば蟻(あり)は、コンクリートの建物を建てようとは思わないであろう。それは、全世界の蟻に聴いても、そういうことは心に思いも浮かばないに違いない。したがって蟻は、コンクリートの建物を建てることはできないし、エレベーターを造ることもできないであろう。
想うことが可能であるということは、すなわち、それが実現可能であるということだ。その生物にとって、あるいは、その人間にとって実現不可能なようなことは、心には想い浮かばないということなのだ。海の底を潜ってみたいとか、地の果てを探ってみたいとか、宇宙の果てに行ってみたいと想うということは、すでにそれに可能性があるということだということを知らねばならぬ。
蟻がいくらがんばっても、服、洋服を作ったりすることはできない。そうしたものであって、それぞれの生物が、生物であるゆえに、その限界というものがある。
したがって諸君らは、まず想わねばならぬ。心のなかに描けるということは、すでにそれは得たりと信ぜよということだ。想えるということは、それが可能圏内にあるということだ。
そして、現在実現しているものの多くも、百年前、二百年前、三百年前においては、不可能だと言われていたことであったということ、これを知らねばならん。
そうであるならば、諸君は、不可能という言葉を鵜呑(うの)みにしてはならない。不可能ということを語ってはならん。「自分の進むところ、自分の信ずるところ、可ならざるはなし」という考え、これが何にもまして大切である。こういうふうに考えるものです。
2.努力
さて、希望について述べてきたけれども、本節においては、その努力ということについて話をしたい。
向上のためには、まず明確な目標、明確な理想ということを掲げる必要があるけれども、理想を掲げた以上、この理想に近づいていくということが、次の課題となる。また、次の問題となる。
これが、一言に努力と言われていることであろう。この努力という言葉の内容は、仏教的にいうならぱ精進をするということ、こういうことに値すると思う。
この努力、あるいは精進とは一体何であろうか。この言葉は、易(やさ)しくて難しい。小学生にしてもわかるけれども、死を前にした人でもわからない者もいる。そうした困難さを秘めているといえよう。
この努力ということは、「努める力」と書いてある。「努める」とは何か。これはやはり平凡に流れない、平素に流れない、つまり平平凡凡と、かくあればよいという生き方ではないということだ。
人間は、あるがままでよいという考えもある。確かにそれもまた、一面の真理であろう。努力、努力ということにとらわれることによって、そのとらわれの糸によって、自らを縛り、自分を狭くする人間もいるであろう。その意味において、努力にいつもいつもとらわれてもいけないかもしれない。
しかし、長い目で見てきたならば、人間の精神の豊かさと、この地上にできた諸々(もろもろ)のものは、すべて努力の成果であって、そのままで得られたものはない。人間がその身そのまま、その身そのままで得られたものは、何ひとつないということ。これは、確かなことであろうと思います。
結局のところ、人間が地上に肉体を持つ理由は、他者への理解と幸せ、また、現代社会および後代社会への遺産を遺すということ、こうしたことに尽きていると思うのです。
さすれば、努力の縛(しば)りというおそれは、なきにしもあらずであるけれども、やはり、向上、限りなく向上をめざして進歩してゆくことが大事なのではないだろうか。そのように思うものであります。
さて、この努力という言葉に関して、大切な心構えということを、いくつかあげておきたいと思う。
まず第一は、努力は苦役(くえき)ではないということを知れ、ということです。努力は、決して苦しみではないということを知りなさい。
これはどういうことかというと、努力即楽しみという境地です。これが、何にもまして大事ということです。日々努力しているということが、これがすなわち楽しみであり、悦びであるという気持ちです。これが重要です。楽しみであり、悦びであり、幸福である。こういう気持ちが大事です。
すなわち、努力即幸福、努力即悦び、こうした境地です。ここに幸福を求めた人にとっては、人生において、思わぬ宝が手に入るということです。
努力をひとつの、何か決まったものを手に入れるだけと思ったのでは、まだ不十分です。
もちろん、明確な理想に向かって前進してゆくことだけれども、理想は手に入れた瞬間に、また蜃気楼(しんきろう)となり、新たな目標が見えてきます。そうしたものであって、人生航路というのは、永遠に果てることがないものなのです。
さすれば、この段階を一歩一歩登っておる過程において、幸福感を味わってゆくという気持ちが大事だろうと思います。
こうした幸福感を味わうことが許されている人間、あるいは、こうした幸福を味わうことを善(よ)しと思っている人間は、結局のところ、日々是(こ)れ幸福、日々是れ幸せ、日々是れ悦びという気持ちであるということだと思います。
これが、幸せの基(もとい)ではないでしょうか。
幸福感というのは、決して山の頂上に登って、一休みした時だけが幸福感ではないであろう。もちろん、それは最大の幸福かもしれないけれども、上(のぼ)ってゆく途中のなかにおいても、幸福感はあるのではないのか。
さすれば、努力は苦難とか苦労ではなくて、努力はすなわち幸福であるという気持ち、これをまず大切にしていただきたい。このように思います。
努力に関して大切な、二番目の心構えは、自分の努力の結果を客観的に見つめる、そういう姿勢があるかどうかということだと思います。
主観的な努力だけに、人間は陥ってはいけないのです。客観的な努力、すなわち、これだけの成果を成し遂げたという気持ちですね、これが大事だと思うのです。階段を一歩一歩登っていくにしても、このひとつひとつを踏みしめているという感覚、これが何にもまして大切であります。
すなわち、努力においては、その成果の客観性ということを、心掛けなければいけないと思います。主観的に、「自分はやっておるんだ、やっておるんだ」と言いながら、これが第三者の目から見て、それほどの仕事をしていない、あるいは自分をごまかしている、こういう考えであるならば、この努力は不十分であります。
ですから一番目の努力即幸福の次に、二番目は、努力に客観的成果への認識が必要であるということです。
努力に関する第三番目の心構えは、他者を決して害さない生き方であるということの確認ということです。
その努力が実を結舎程において、他者を害していないかどうか、こうした確認が必要である。こういうふうに思います。
他者を害さない気持ち、あるいは、より積極的に言うならば、その努力の過程においても、他者に恵みを与えてゆこうとする気持ちです。
つまり、これはどういうことかというと、山の頂上に登ったら同僚の疲れを癒(いや)そうとか、労(ねぎら)おうとか思うのではなくて、その山道を登る途中においても、同僚をなぐさめたり、励ましたり、力づけたりする努力が必要だということです。こうしたことが必要なのです。
この三つの心構えというものを大事にしていただきたいと、このように考えます。
3.忍耐
忍耐とは、耐え忍ぶということであります。
なぜ、古来から仏教においても、耐え忍びの徳、忍耐の徳というようなことがいわれているのでしょうか。この点について検討してみたい。こういうふうに思います。
耐え忍びの徳というものが主張される理由は、本当に目覚(めざ)ましいこと、本当に人びとの経験になかったような画期的な仕事、事業をしてゆくときには、世の人びとの常識の壁を打ち破らねばならないことがあるということです。そのときにおいて、常識の壁を破るときの抵抗というものが、どうしてもあるということなのです。
壁を破る以上は、破られる壁も多少の損害を被(こうむ)るけれども、破るほうのものも、何らかの物理的抵抗を受けると考えねばいけません。こうしたことも、また事実であります。
自分たちは今、壁、あるいは膜でもよい、スクリーンでもよい、何でもよいが、そうしたものを突き抜けようとしておるのである。その時に、破られるほうのスクリーンも、もちろんこれは、ずいぶん抵抗するであろう。物理的に抵抗するであろう。しかし、その力に屈して、やがて破れてゆくのであろう。
同じように破るほうの側も、それを破るという過程において、それなりのそのスクリーンの抵抗を受けうるということだ。受けるけれども、その抵抗を受けて受けてしても、それでもなお突き進もうとするときに、その大いなる壁、大いなるスクリーン、大いなる膜が破れてゆくのである。
多少弾力があって、その膜に跳(は)ね返されたところで、この壁がビクともしないように思ったところで、それで諦(あきら)めて怯(ひる)んではいけないのです。ここに、耐え忍びの徳ということが大事なわけです。
耐え忍びが必要なときは、順風満帆の時ではないのです。何らかの困難、苦難が目に見えるような時こそが、この忍耐ということが試されておるのではないでしょうか。
これは、過去の歴史上の偉人たちを見ても、そのとおりであります。忍耐ということを経ていない偉人は、一人もいないのです。忍耐なくしての、その偉人は、決して世に存在しておらんということです。われわれは、このことを知らねばならんと思います。
なぜ、偉人が忍耐をしたか。それは、自分が心のなかに想っている希望と、その希望が成就する時期との間に、懸隔(けんかく)、すなわち、時間的な隔たりがあるということなのです。
この時間的な隔たりが、どうしてもあるのです。この間、成就しないということに関する焦(あせ)りや苛立(いらだ)ちがあります。
しかし、その時こそ、本当にその人の不動心というもの、これが試されている時なわけです。簡単に挫(くじ)けてしまうようなものなのか、それとも強い強い意志というものをもって、やっておるものなのかどうか。こうしたことが、試されているわけであります。
したがって、困難にぶちあたり忍耐力を試されている時こそ、その心の重さ、力強さ、勇気強さ、こうした尊さ、これが試されておるのだと思う。
下(くだ)り坂を降(お)りてゆくのは楽であろう。しかし、登り坂というものは苦しいものです。そうした感覚を持たねばいけないと思う。
共に道を歩いてゆく同僚の多くが、下り道を選んでゆくのです。その下り道は、ひじょうに楽で、さわやかで、気侍ちもいいかもしれない。けれども、本当の意味での人間の向上を意味するものではない。
登り道は苦しくて、時どき降(くだ)ってみたい誘惑にかられる。けれども、その誘惑に負けてしまってはいけないのです。負けてしまってはいけない。最後の勝利感、征服感があるためには、忍耐、その流す汗、玉のような汗に対する忍耐、これが大事です。
道ゆく途中において、悪魔のささやきと目されるものもあるであろう。「下り坂は楽だぞ」という声が、聞こえてくることもあるであろう。しかし、倦(う)まず弛(たゆ)まず歩んでゆくことです。
その途中において、思わぬ妨害を受けたり、思わぬ攻撃を受けたりすることもあると思う。これがまた、世の偉人たちが避けることができなかった困難であろう。
しかしこの困難も、きわめて三次元的なる困難であるということを、あなた方は知らねばならない。あの世においては、こうした困難はないのだ。
すなわち、菩薩の世界において、人助けをすることに困難はない。如来の世界において、法を説くことに、困難はないのである。
ところが、その如来が地上に出ることによって、法を説くということが困難となるのです。菩薩が地上に出るということによって、人を助けるという利他の行為が難しくなるのです。それが結局のところ、長い意味においてその人びとの魂をやはり鍛えているのです。
法を説くのが当然の人たちが住んでおる世界において法を説いたところで、それが一体何になりましょうか。法を説くのが当然でない世界において法を説くからこそ、すばらしく意義のある仕事なのではないでしょうか。
困難を避ける気持ちというものは、結局自分の仕事の価値を投げ捨てるものであります。価値なきものとなるわけであります。
菩薩にあっても、共に人を助け合うような世界に住んでいて菩薩行をやっておっても、それは大したことではありません。人を助けるということは当然だということがわからない世界において人を助けるということが、いかほど難しいか、これを体験する。これによって他人も助かるけれども、自分もまた魂の糧を得ておるのです。こうした事実を知らねばなりません。
結局のところ忍耐ということは、これは魂が光るための、たとえば熱い鉄を鍛える瞬間でもあるし、焼けた刀を水の中につける焼き入れの時期でもあるということです。こうしたことを通して、鋼鉄は鍛えられてゆくのです。
ですから諸君は、どのような困難に遭遇しようとも、自分が鋼(はがね)であるということ、鋼鉄であるということを片時(かたとき)も忘れてはならん。
「世間の苦難や困難は、鋼としての自分を今鍛えようとしているのだ。真赤に焼けた自分を、槌(つち)で叩(たた)こうとしているのだ。あるいは、それを水に入れて焼きを入れようとしておるのだ。こうして本当に、鋼鉄は鋼鉄としての強さが出てくるのだ。」
このように思わねばならん。
鋼鉄は、真赤に焼かれることを厭(いと)うてはならん。鋼鉄は水につけられることを厭うてはならん。鋼鉄はハンマーでもって叩き伸ばされることをも厭うてはならん。
そうしたことは、単なる自分に対する危害や困難ではないということだ。それはまさしく自分が鍛えられる過程にあるということだ。
さすれば、みなさんは自分がこのような攻撃を受けたとか、人の批判を受けたとか、人の悪口を受けたとか、中傷を受けたとかいう時に、「これは鋼鉄の自分を鍛えておるのだ。真赤に今、焼こうとしておるのだ。今、ハンマーを入れようとしておるのだ。今、水につけようとしているのだ。こうして自分はたくましくなるのだ。」ということを知らねばならん。
戦場においても人間がたくましくなるように、社会経験において、人間はひとまわりもふたまわりも大きくなってゆくのだ。苦難や困難が来たら、それを機会として、もう一段大きな人物になろうと思っておくこと。これによって損することはないし、これによって退歩ということはない。決してない。進歩あるのみである。
どんな苦難や困難が来ても、それはみなさんの人格を光らし、みなさんを一段とすばらしい人びとへと導いてゆくための試練であるということ。これを知らねばならん。
さすれば、困難とか敵とか見えるようなものであっても、それらに感謝する気持ちがなければいかん。彼らは、あなた方を鍛えるために現われた観世音菩薩なのである。観世音菩薩が現われて、あなた方を鍛えるために、あえてあなた方が嫌がるようなことをしてくださっているのである。感謝せねばならぬ。
困難と戯れなさい。それがひじょうに大事です。苦難や困難と戯れてでも、自由自在に生きてゆく気持ち、勇気のある気持ち、こうした砥石(といし)の部分ですね。魂に対する砥石の部分が、人生においては必要だということを知りなさい。
そうであるならば、自分の人生において砥石の役割をしている方に対して、心から感謝の気持ちというものを持たねばならない。そのように私は考えるものであります。
4.実現
さて、忍耐という話、耐え忍びの徳について話をしましたが、ここではいよいよ、実現ということに関して話をしてゆきたい。このように思います。
苦難や困難を通り越して、ある希望を実現しようとするとき、そこに必要な要素は一体何であるかということ、これです。
理想を実現してゆくためのエネルギーは、これは三つに要約することができると思います。
第一は、その真剣さということです。理想を実現せんとする真剣さということです。どれだけ求めてくるか、真剣にそれを求めているか、切望しておるか、熱望しておるかということです。この理想実現のための強い気持ち、真剣さ、熱望、これが大事なわけです。
ですから、念(おも)いが、理想が、なかなか実現しないという人は、自分の願いが本当に真剣であるかどうか。強い強い念いであるか。理想であるか。こうしたことを考えねばならん。ぐらぐらするような理想ではないのか。一風(ひとかぜ)吹けば消えてしまうような理想ではないのか。こうしたことを考えねばならん。
これは宗教者であっても同じである。ひとたび世の人びとを救い、世の人びとを教化し、この地上をユートピアにせんとしたとしても、いろんな困難や苦難が出てくる過程において、やがてこの世的に妥協したいという気持ちになってくることがある。そんな性急に事を運ぼうとしても無理であるから、やはりそこそこでよいのではないのか。あるいは、こうしたことを今年のうちにするのは大変なことだから、来年でもよいのではないか。こういう先延ばしの気持ち、あるいは、現状と時代への妥協の気持ちというのもあるであろう。
しかしながらその時こそが、その人の念いが、理想が、希望が、本当に真剣なものであるかどうかをチェックされている時なのだ。それを試されている時なのだ。このように思わねばならない。
さすれば、この理想実現へのエネルギーとしての、力としての真剣さということを、自己確認していただきたい。このように考えるのです。
理想実現のための第二の目的は、目標は、あるいは第二のエネルギーは、結局これは持続ということです。願いは真剣でなければいけないけれども、また、持続するものでなければいけないということだ。
「神様、あしたこの願いをかなえてください。」というふうに、人間はともすれば、それを安易にたのむ傾向がある。あるいは、「年内いっぱいにこうしてください。」というふうに、神だのみしたりすることがある。
しかし、その時に知らねばならないことは、人間心で勝手に期限をつけておるということだ。神の心を推(お)しはかろうとせず、人間心で「何月何日までに、いついつまでにこういうふうにしたい」と思う。その気持ちが真剣であればあるほど、そういう時もあるであろうが、しかし、これは人間心だけでは判断がつきかねる場合もあるのである。
期限を決めることによって、神と取り引きをしてはならん。「何月何日までに実現したら、神を信ずる」とか、こうしたことをあまり考えてはいけないと思う。
そうではない。倦(う)まず弛(たゆ)まず持続してゆくという気持ち、その夢を持続する者、そしてそれに向けて努力しる者は、遂にはその理想を実現することができるものなのです。遂には理想を実現できるのです。必ずです。必ずそれはできるのです。
おおぜいの人間は、最初若い頃に理想を持っていても、やがてその理想を失い、あるいは、やがてその持続の意志を失ってゆくのです。そうすることによって、その希望が打ち砕かれてゆくのです。これが、大部分の場合であります。
したがって、あくまでも理想を捨てない。あくまでも持続する気持ちを忘れない。こうしたことが大事だと思います。
したがって、あくまでも理想を捨てない。あくまでも持続する気持ちを忘れない。こうしたことが大事だと思います。
理想実現のための第三のエネルギー、これは一体何であるかというと、信頼ということです。
これは何のための信頼か、何に対する信頼かというと、神に対する全幅(ぜんぷく)の信頼ということです。
船に乗っていて嵐に遭ったときに、人びとは「この世には神も仏もあるものか」と思うことがあります。
しかしながら、本当はそうではないのです。そうした嵐の夜にも、神はあなた方を見守っておるのです。晴れた日だけではない、嵐の日にも、曇りの日にも、風の日にも、神仏はあなた方を見守っておるのだということを知らねばならん。
いい天気の時だけ、神がほほえんでいて、嵐の夜には神がほほえんでいないかといえば、そうではないのだ。嵐の夜にこそ、汝らと共にあって、汝らを慈(いつく)しんでいるのが神なのである。
さすれば、それに対する信頼ということを忘れるな。晴れた日のみに神があり、嵐の日には神がいないとは思うな。「常に神は我と共に在(あ)り」という気持ちをわれてはならん。神は我と共に在り。嵐の日にも、熱さの日にも、風の日にも、雨の日にも、曇りの日も、神は我と共に在り。その日によって、自分に近づいたり遠ざかったりすることはないということを知りなさい。
言葉を換えていうならば、全幅の信頼ということです。嵐で船が難破するのではないかとか、船底に穴があくのではないかとか、舵がとられてしまうのではないかとか、マストが折れるのではないかとか、帆が吹き飛んでしまうのではないかとか、人間心でこうしたことを悩んではならない。
神があなた方と共にあるのだから、あなた方は神につかまっておりなさい。神の裾(すそ)をつかみ、神の腕を引っぱり、神の首にキスをしなさい。そうして、神と共に常にある心、これが大事です。
難破したり、遭難したり、方向を失ったり、帆が折れたり、マストが折れたりするのは、これは神と共にいない証拠であります。神と共にいる時、無限の勇気が湧き出て、そして、みなさん方の前途を守り、そして嵐のなかから船を救出してくれるのです。
一夜明ければ、嵐は通りすぎ、海は凪(な)ぎ、空には真赤な太陽が輝き、そして波間には鳥が飛び、魚が跳ねておる。こうした理想的な翌日、嵐のあとというのがあるのです。
こうした芸術的な嵐のあとの日には、みなさん方は昨夜の苦しみと、悲しみと、疲労とが、まるでうそのように思われるかもしれないけれども、現にそれはあるのです。現にそうした嵐の夜があるということです。しかし、その嵐の夜が明けるときもあるということ。その朝が来るということがあるということ。
嵐が明け、朝が来るまでは、神も嵐をそのままにさせておることもあるけれども、それは決して、嵐が永遠に終わらないということを意味しておるのではないということを知りなさい。
いまだかつて、地上で何年も何十年も何百年も、吹き続いた嵐などなかったということを知りなさい。どんな台風であるとも、一週間もすれば過ぎ去ってゆくではないか。
ましてや諸君らの人生の台風も、それはやがて吹きすぎてゆくのだ。単に吹きすぎてゆくだけではなくて、雨を降らし、風を吹かせて、そして諸君らの人生の四季に、彩(いろど)りと潤(うるお)いを与えんとしておるのだ。
人びとは、台風というものを恐れるかもしれないけれども、それがあることによって、多くの水が日本の上に落とされ、そして川や海が、また浄化されてゆくということもあるということを知らねばならん。そうした大いなる摂理ということを知らねばならん。
さすれば、嵐を恐れるなかれ。そして、神に全幅の信頼をしなさい。これが何よりも大事なことだと私は思う。
5.自信
前節において、神への全幅の信頼が大切であるということを話しました。
それもそのとおりであるが、同じく大切なものがある。それは、自己信頼ということである。
根本的に神を信じられるかどうかは、結局のところ、自分を信じられるかどうかということになると思うのだ。自分を信ずることができるかどうか、こうした気持ちです。これが、何にもまして大事である。こう思います。
なぜ自分を信ずることが大事であるか。
結局のところ、自分を信ずることができるということは、自分が神の子であることを信ずるということなのです。自分が神の子であとを信ずからそ無限の勇気が湧き出してくるのです。無限の生命が湧き出してくるのです。そうではないでしょうか。
自分が神の子であるということを知り、そこへの自己信頼を持つからこそ、無限の力が湧いてくるのではないか。無限の勇気が湧いてくるのではないか。無限の理想が湧いてくるのではないか。無限の希望が湧いてくるのではないか。
さすれば、自信の根元というものは、結局のところ、その人が自分は神の子であるということを、どこまで信ずることができたかということだろう。どこまでそれを信ずることができたか。どこまで信じきることができたか。
頭では自分は神の子であると思っていても、それを信じきることができる人は、そう多くはない。まったく神の子として、百パーセント信じきることができる人は少ない。そういうことがいえると思う。
信じきるということ。自分を信じきり、自己信頼ができるということ。それは、嵐の夜においても、船が確実に神に守られているということを信ずるということとも同じであろう。
それは結局のところ、こうしたことなのだ。船という、人間の造った、いわば被造物が嵐のなかを進んでいると思うから、不安が生じ、取り越し苦労が生じ、恐怖感が生じるのである。
そうではなくて、神が今進んでおるということなのだ。それは船ではなくて、神の手です。神の手が海の上を、今航行しているのです。あるいは、神の分身が海の上を航行しているのです。
さすれば、自分が神であるならば、その神を一体だれが傷つけることができるであろうか。その神の航路を防ぐ人が、一体いるであろうか。無限の力が湧いてくるはずである。無限の勇気が湧いてくるはずである。
自分のなかにある神の子を信じきる。これは大事なことです。何の困難もない。何の苦難もない。困難や苦難のように見えるものは、これは蜃気楼(しんきろう)。目の錯覚。無限の力湧きいでて、「自分は神なんだ。神の子なんだ。神のエネルギーが今、ここで息をしておるのだ。神のエネルギーが仕事をしておるのだ。神のエネルギーであるなら、嵐など吹き飛ばしてしまう。断固として吹き飛ばしてしまう。」そうした強い強い強い信念が大事です。
そんな嵐などは、これは目の錯覚であります。断じて認めてはならん。断じてそんな不安など消しとばしてしまえ。
どれだけ信じることができるのか。どれだけ自分の内なる神を信ずることができるか。どれだけ自分を神聖なるものと信ずることができるか。どれだけ自分を善きものと信ずることができるか。どれだけ自分が成功の可能性のある人間と信ずることができるか。どれだけ自分が優秀であると信ずることができるか。どれだけ自分が無限の成果を上げることを信じることができるか。そうしたことです。そうしたことを倦(う)まず弛(たゆ)まず追究してゆくことです。探究してゆくことです。
人間神の子の思想は、その究極を知らずです。自分を解明し解明し、究明し究明し、究明しつくしたところでも、まだ奥なる自分があって、その奥なる自分こそが、神としての自分だということを知らねばいかんのです。それが大事です。神なる自分、これが大事です。これが本当の根本の自信です。
それともうひとつは、自分が神の子であり、神そのものであるということを信じることができたならば、他者もまた、神そのものであるということを知らねばならんということです。
それともうひとつは、自分が神の子であり、神そのものであるということを信じることができたならば、他者もまた、神そのものであるということを知らねばならんということです。
神の子と神の子同士であり、神と神である。根っこにおいて、唯一の神につながっておるもの同士である。そのもの同士が誤解をしたり、錯覚をしたりして、相手を敵だと思ったり、相手に攻撃を受けていると思ったりしておるのです。
これはまったくの錯覚であります。まったくの蜃気楼(しんきろう)であります。そうしたことは、絶対にないのであります。相手のなかにある神の子を見出し、自分のなかにある神の子を見出せば、そうしたことはありえない。そのように思えばよろしい。
決して決して、相手もまた、悪魔であったり悪霊であったりはしないのです。
神は悪霊を創らない。神は悪魔を創らない。それは、悪霊や悪魔があると信じている人間の想念が創り出したるゆがんだ像であり、幻にしかすぎないのです。悪霊とか悪魔をやっておると思っている人自身が、まちがった自己認識を持っており、自己錯覚に陥っているのです。そうした観点から、物事を観なければならない。そういうふうに言うことができると思います。
決して、決して、他が自分を害そうとしているとか思ってはならぬ。それは、かりそめにも思ってはならぬ。人は全部善人だ。
圧倒的な善意で、熱意でもって、悪想念を洗い流すという気持ち。善の奔流、愛の奔流、光の奔流でもって、圧倒的な、悪を押し流すという気持ち。これが大事であります。