目次
1.人間
2.神
3.光
4.夢
5.勇気
6.愛
1.人間
私たちは、この地球という星にあって、さまざまなる人生修行をしている者であります。そうして、この人生修行の最大の目的とは何かというと、結局のところ、人間とは何かということを知るということであります。人間とは何かということを人間が知ることが、これが人間の果たすべき役割であり、人間に課せられた義務でもある。このように考えることが可能であろう。
では、私たちは、この人間とは一体何であるかということを、どのように考えてゆけばよいのであろうか。人間を人間ならしめておるものは、一体何であろうか。この点について、深く深く考えてゆかねばならないのであります。私は、人間が人間であることの前提の条件として、二つの点があると思うのです。
人間の存在理由の第一点は、これは幸せをもたらす存在であるということです。人間が人間として地上の生命を有し、これを把持(はじ)しながら日々生きている理由は、人間が存在しているということがすなわち、幸せを持ちきたらすものであるからであります。これが、人間の存在の理由の第一点であります。
人間の存在理由の第二点は、人間とは無限に生長し、発展していくものだという考え方であります。第一点で申し述べた通り、その存在自体が、他の存在への幸せの福音となるからこそ、またその生長、発展ということが許されてよいこととなるのです。
もし、人間の存在が他を不幸にするものであるならば、その、他を不幸にする人間にとっての生長や発展があっては、ますます害を及ぼすようになってくるであろう。したがって、幸せをもたらす存在であるからこそ、また、自らも生長し、発展していくことが許されているのだ。これをもって、人間の根本的なるあり方と思わねばならない。
したがって、われらがこの地上で生きてゆくためには、常に自らをふり返り、自らが幸せをふりまく存在であるのかどうか、これを常日頃から点検してゆかねばならない。
そうして、第二点として、自らが日々生長、発展しているかどうか、これを確認してゆかねばならないのである。私は、この二点をやはり探究し、そして研究し、追究してゆくことこそが、人間としての本当のあり方というものを理解させ、そして実感させる結果になるのではないかと思う。したがって、地上にありて魂の修行をする人間は、この二点を肝(きも)に銘(めい)じて日々修行に励んでゆかねばならない。
2.神
前節において、人間の本質が「幸福」と「発展」にあることを述べました。さてそれでは、神とは一体いかなるものでありましょうか。人間は人間であることを追及し、探究するのがその仕事ではあるけれども、人間が人間であることを追及して、それを通して知ることは、知る姿は、神とは何かということなのであります。
人間は、直接的には神というものをつかみ、それを見、それを感ずることは難しいのでありますが、自分自身の本質を知ることによって、神を見、読み取っていく、神を推定していくということは可能なわけであります。これが人間が神の分け御魂(みたま)であり、神の分身といわれている理由なのであります。
したがって、人間の探究はすなわち、神の探究へとつながっていくわけであります。では、神とはいかなるものでありましょうか。何をもって神と称すればよいのでしょうか。神の本質はいかなるものなのでありましょうか。こうしたことに関して、私たちはさらに学習を進めてゆかねばならないのであります。
神の特徴の第一点は、これは「世を照らすもの」であるということです。世を照らすものとは一体何であるか。照らすということの意味は何であるか。このことを探究しなくてはならぬでありましょう。照らすということは、本来の姿を知らしめるということであります。本来のあり方を気づかせるということであります。本来のすばらしさを教えるということであります。これが照らすということの意味であります。
目の前にダイヤモンドの山があるとしても、それを照らす光がなければ、人間はそのダイヤモンドの輝きを見ることもできねば、味わうこともできないのです。したがって、本来のものの姿を明らかにする、世界の姿を明らかにするということが神の本質でもあるということです。
これはそのとおりであって、たとえば地上にいる人間であっても、もし神の働きというものがないのであるならば、唯物論的なものの考えの奴隷となり、そうして、本来の神の子としての姿を忘れていくことになるであろう。したがって、本来のすばらしさを気づかせるために、照らすということが、これが神の仕事なのである、このことを知らねばならない。
神の特徴の第二点は、これ「生命力」という意味であります。生命力とは何であるか、それは生かし育む力であるのです。すべてのものを生かしめ、すべてのものを育み、すべてのものを繁栄させる力、その生命のエネルギーこそ、神の本質であるということであります。
神の本質が生かす力でなければ、地上の人間はことごとく衰退への道を歩んで行くでありましょう。活気凛凛(かっきりんりん)として、地上の人間が種族から種族へ、親から子へ、子から孫へと、その生命を伝えておる力の源泉は一体どこにあるか。それは、偶然に食べ物が消化吸収されて、エネルギーを出しているというところに意味があるのではないのです。その根源のエネルギーは、神から与えられておる生かすエネルギーであるということであります。この生命エネルギーが本質としてあるからこそ、人間は活動をすることができるのであります。
また動物もそうです。動物が動くものである理由は、この生命エネルギーを宿しておるからであります。また植物が伸びていける理由も、この生命エネルギーが宿っておるからであります。偶然の物事の成り立ちからいうならば、逆の流れもありえたはずであります。
最初から完成したものが現れて、やがてそれが衰退していくというものであってもいいはずです。しかし、大いなる生命エネルギーの流れは、そうした選択をしてはいないのです。まず、始まりがあり生長がある。そして発展していくという、こうした偉大なる繁栄のエネルギーとなっておるのです。人間はこの事実に気がつかねばなりません。
神の特徴の第三点は、これは「希望」ということであります。第一点で世を照らす機能、第二点で生かしめる力、これを語りましたが、第三点は希望ということであります。無限に善きものがやってくるという希望、これを神というものは本質的にもっているのであります。神の本質は、決して衰退や枯死(こし)ではないのであります。希望がその目的にあって、その希望に到達するために、いかなる筋道をたどるかということが、人間の努力となっておるわけであります。希望ということは、独り人間が心に想うだけではない。それは神の本質そのものであるということを、人びとは知らねばならないのです。
3.光
神の本質の説明の中で、世を照らすものという説明をいたしましたが、世を照らすものというのは、結局のところ光であります。遍く照らす光という意味であります。神が光であることは、常づね語られておることであります。
光なくば地上は闇の中に沈むのであります。人間は、そうしたことを直接的には理解ができないとしても、あの太陽の光を見てこれを神と感じ、そして自ら掲げる松明(たいまつ)を持って光と感じた。
神の本質は決して闇にはないということ。闇は偶然の所産であり、光は意図的なる積極的なる所産であるということ。これを忘れてはならない。闇は闇として創られたのが最初ではないということだ。闇は偶然の所産であり、闇はただ偶然にそのように単に現れているにすぎない。
しかし、光は偶然の所産ではない。光はあるべくしてあるのである。光は光るべくして光るのである。光は照らすべくして照らすのである。遍く照らすのである。これを光明遍照という。光の明るさは遍く照らすという意味だ。これを忘れてはならん。
人びとよ、光は積極性の所産であり、闇は消極性の所産であるということをゆめゆめ忘れるな。光は意図して創られたものであるが、闇は偶然の産物であるということを忘れるな。善は積極的存在であるが、悪は消極的存在であるということを忘れるな。
神は善であり、善としてエネルギーを出しておるものである。この善のエネルギーが、一時期、偶然の所産によって、あるいは何らかの支障によって滞っておるように見える姿が悪と見えるだけであって、本来悪はないのである。本来迷いもないのである。本来悲しみもないのである。本来苦しみもないのである。
光はその性質の中に、すべてを秘めておるものであります。すべてを秘め、すべてを包み、すべてを有しておるものであります。これが、光の光たるゆえんであります。光はその中に、すべてを含んでおるのであります。光そのものが生命のエネルギーでもあるし、光そのものが世を照らし見せるものであるし、光そのものが希望でもあり、光そのものが発展でもあり、光そのものが善であり、光そのものが道しるべであり、光そのものが生きてゆく勇気でもあるのです。
よって人間よ、人間は光の子であるのだから、この光の本質を究めよ。光の本質を探究せよ。光とは何であるかを知れ。光とは何であるかを知ることが、汝の本質を知ることである。光とは何であるかを知ることが、他人の本質を知ることである。光とは何であるかを知ることが、自らを知り、他を知り、そして世界を知ることである。そして光とは何であるかを知ることが、自他、世界、そして神を知ることとなる。
光が何であるかを知った時、諸君は諸君の使命を果たしているのだ。このことを忘れてはならない。光の本質の中に、すべてが含まれている。すべてがこの光の中にある。
汝、光の子であるならば、汝、光とともに歩め。汝、光の中を歩め。汝、光の内に歩め。汝、光ある時を生きよ。汝、光とともに生きよ。汝、光とともに行動せよ。汝、光を自らの内なる炎とせよ。汝、光を心の糧とせよ。汝、光をもって人生の目的とせよ。汝、光をもって神の生命(いのち)とせよ。神の息吹とせよ。汝、光をもって人生最大の偉業とせよ。
4.夢
夢というものについて、語ってみたいと思う。夢は偉大なるかな。夢には何らの限界がない。夢には何らの滞りがない。夢には何らの障害がない。夢は自由である。夢の中では想像は自由にはばたいてゆく。
夢の中で諸君は風になることもできる。太陽になることもできる。月になることもできる。野に咲く美しい草花になることもできる。大海を陽気に泳ぐイルカになることもできる。海の底を歩くこともできる。土の中を潜ることも、空を飛ぶことも自由自在である。
夢の中には老若男女はない。年老いし者も若くなり、若き者も年老いて見える。男は男としての力を発揮し、女は女としての力を発揮し、そして、おたがいにおたがいを美しき者として見ることができる。
夢は幸いである。幸いであるから、夢よ、夢の中にはすべてがある。夢にはその限界がない。夢にはその果てがない。夢とは何と神に似たものであろうか。
神に限界があるであろうか。神に果てがあるであろうか。神に行動の制限があるであろうか。神の想いには果てがない。人間よ、夢の持つ本当の意味を知れ。夢は、汝が夢をみることができるということは、汝に神と同じく創造の自由が与えられているということなのだ。こうした貴重なる体験が夢であることを知れ。
夢の中で飛翔せよ。夢の中で自己を拡大せよ。夢の中で大いに生きよ。夢の中で自らを限定するなかれ。夢の中で自らをとらわれの中に置くことなかれ。自らを解放せよ。自らを伸び伸びと生きよ。大いなる大河として、大いなる大気として、大いなる大地として、大いなる慈悲の中に、大いなる夢を抱け。夢は果てることがない。
人間よ、必ず、心の中に夢を持て。夢なき時、汝は死したのである。夢なき時、汝は老いたのである。人間よ、老いこんではならない。永遠の若さを保て。永遠の若さとは、すなわち、夢を抱く力である。夢を想う力である。夢の中に限界が現れた時に、汝の限界もまた画されるのだ。
人々よ、現実だけに悩むな。夢の世界において現実を脱せよ。大いなる夢の中に生きてゆけ。汝、自らの夢を想え。日々、自らを点検し、自らの夢の卑小なることを嘆け。自らの夢のあまりにも現実的なることを嘆け。自らのその力を限定するなかれ。
なぜ、何ゆえに自らの力を限るのであるか。何ゆえに。 人々よ、夢には法則があるということを知れ。心に描いたそのビジョンは、たちまちにして成就しないからといって嘆いてはならない。あきらめてはならない。中断してはならない。
夢は自らの水先案内人であるということを忘れるな。水先案内人の姿を見失ったとき、汝の船もまた舳先を失ってしまうのだ。水先案内人は、常に、船の舳先に立っているということを知れ。水先案内人は、水先案内人であるということにおいて、汝より先に進むこととなっておるのだ。
心の中に描いた夢を、その想いを持続せよ。把持せよ。断じて投げ捨てるな。そうして、夢がすぐさま実現しないからといって、それをあれこれと気にやむな。汝が心の中に描いたる夢は、地上を去りたる霊天上界において、数多くの高級諸霊たちによって確かに見届けられているのだということを知れ。
夢を実現する力は、汝らだけの小さな力ではないということを知れ。夢を描いた時、その夢の実現を助けるべく、高級諸神霊が日々働いているということを知れ。
さすれば、夢を抱くことに努力せよ。抱いた夢を次には持続せよ。その夢を実現するのは、汝らだけの力ではない。汝らが心にて描いたる夢は、そうした大いなる高級神霊たちの力によって、やがて適当なる時に、適当なる方法によって実現されていくであろう。このことを疑ってはならない。
あなたがたの努力は、その夢を替えてしまわないことだ。一日や二日、その夢が実現しなかったからといって、それがどうしたことがあるのか。
世の失敗者たちの嘆きの多くは、自らの夢を捨てた時に始まっておるのだ。しかし、彼ら人生の失敗者の多くは、自らが自らの夢を捨て去ったということに気付いていないのである。汝ら現実主義者となることなかれ。汝ら結果主義者となることなかれ。結果を恐れるなかれ。むしろ夢を持続し得ぬ自分を嘆け。結果を求めてはならない。結果は与えられるであろう。与えられる時に黙って受け取ればよい。
汝らが祈りはすでに聞き届けられているということを知れ。そうした祈りと願いが出るということ自体が、すでにそうしたものが必要であるということの意味であったのだ。さすれば、それを受けよ。受ける時に、ひっかかりのない自分であれ。とらわれのない自分であれ。
夢を持続せよ。その夢の実現にはしかしこだわるな。その時期を限るな。その方法を限るな。やがてあたえられるであろう。与えられるものを大いなる感謝の気持ちでもって受け取ってゆけ。それが人生の秘訣である。
5.勇気
諸君よ、しかし、夢を夢として実現していく過程において、諸君は怠惰な人間であってはならん。決して、夢を抱きなさいということが、怠惰であってよいということではないということだ。これは、一日中、毎日を布団(ふとん)の中で過ごして夢ばかりを描いておるということではない。そうではないだろうか。あの樫の木の大木であっても、毎日毎日、木の根から水と、そして養分を吸い取るという、こうした作業を忘れてはいないのではないのだろうか。土の中にしっかりと張った根が、土の中にある水分と養分とを休みなく吸収しているのではないであろうか。一本の木でさえ、そうした日々の努力を怠ってはいないのだ。一本の木でさえそうなのだ。
さすれば諸君よ、日々怠ることなき自分であれ。そうして、自らが伸びてゆき、自らが向上してゆくということに対して、勇気を持ってゆきなさい。勇気は、これは草薙の剣(くさなぎのつるぎ)でもあるということを知れ。
かつて日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国征伐に出た時に、今の静岡県といわれるところで、地方の豪族に取り囲まれ、そして草むらの中で火を放たれた。そして彼ら日本武(やまとたける)の軍勢が、火の中にてまさに焼け死なんとした時、日本武尊がその鞘(さや)より抜き放った草薙の剣でもって、一面の草を薙(な)いで薙いで薙いで薙ぎ倒して、切り倒した時に、一陣の風が吹いて、火は敵の方へと燃え広がり、敵を蹴散らしたことがあった。
それは、風というものが、確かに、日本武尊に勇気を与えたのかも知れぬが、しかし、その事実の前に、鞘を払って敢然と剣でもって草を薙ぎ払ったという、そうした決然たる勇気がそこにあったということを忘れてはならん。自らの運命を切り拓かんとして、決然として草薙の剣を抜き放ったその意志が、決意が、天の助けを呼んだということを忘れてはならん。
諸君よ、諸君は人生の中において、敵に取り囲まれたかのごとく見えることもあるであろう。山のように積み重なった障害や困難によって、形勢は不利に思われ、諸君はもう座して死を待つしかないかのごとく思われることもあるであろう。しかし、そうした時に怯んではならん。決然として自らの鞘より草薙の剣を抜き放て。そして勇気をもって、一面の草を薙ぎ払え。その時に、諸君を助ける一陣の風が東方より吹き来たるであろう。そして、諸君に運命の血路を開いていくであろう。
諸君よ、夢を抱けということは勇気を持たなくてもよいということではないのだ。人間は、決然として立ち上がらねばならぬ時は、仁王(におう)のように立ちはだかって、自らの運命に立ち向かってゆかねばならん。自らの退路を断て。自らの退路を断って、決然と前に進んでゆけ。一本の剣を持って自らの道を拓いてゆけ。それだけの気概と努力がなければ、決して大いなる運命の開拓ということはできないのである。そうした一条の勇気が、やがて諸君を大いなる偉人への道に導いてゆくのである。
諸君よ、勇気がある人間となれ。これは独り男性だけに言っておるのではない。女性にしても然りである。女性にして勇気のある女性が現れた時に、困難から人びとは救われるのである。かのフランスの百年戦争のときに、フランス軍がまさしく壊滅せんとしておった時に、オルレアンの少女、十六歳の少女ジャンヌ・ダルクは、フランスの三色旗を持って敵陣に突撃をしていった。その時に、疲労困憊(ひろうこんぱい)しておったフランス軍兵士たちは、「負けてはならん。あとに続け」と、疲労の中から勇気をふり絞って立ち上がり、そしてフランスの国を守ったのではないか。フランスの国を守ったその力の源泉は、十六歳の少女の勇気ではなかったのか。女性であるからといって軽視してはならん。あなどってはならん。時に男性以上の力と勇気が女性に溢れることがある。その勇気が、世の男性をも奮い立たせることになるのだ。
女性であるということによって、後込みをするな。挫けるな。怯むな。女性だからといって、後備兵とならねばならんという理由はない。女性であるからといって、決して男性のお尻についていかねばならんわけでもない。オルレアンの少女のごとく、敵陣の包囲網を突破する女性が世に現れてもよいのだ。その時に、大いなる真理の嵐が湧き起こってゆくであろう。私は、男性のみならず、女性の中にも勇気をもって立ち上がる人が、数多く出ることを希望するのである。男性のみの勇気では足りない。女性にも勇気があってこそ、初めて大いなる試練というものを乗り切ってゆくことができるのである。力を二倍にも三倍にもしてゆくためには、勇気のある人が一人であるよりも二人であったほうがよいのだ。主人だけが勇気があるのではなくて、妻も勇気があったほうがよいのである。夫婦そろって勇気があってこそ、初めて大いなる仕事ができるというものだ。
日本の女性に告ぐ。ご主人のみが真理伝道の使者だと思うな。真理伝道の使徒だと思うな。その夫の仕事を妨げることが女性の役割だと思うな。遠慮することだけが女性の役割だと思うな。共に決然として立ち上がれ。真理の使徒は一人より二人のほうがよいのである。一丸となって道を拓いてゆけ。そうした勇気がなければ、本当の救世の偉業というものはできんのである。この事実を忘れるな。男子も女子も勇気ということを、その草薙の剣というものを抜き放て。そして、敢然と運命の障害に立ち向かってゆけ。これが非常に大事である。
6.愛
しかし人びとよ。しかし諸君よ。人生には苦難や困難、戦争の時期ばかりがあると思うな。苦難や困難は、必ずしも人生の常なる姿ではないのである。いつもいつも刀を下げて、戦場であるかのように思うな。そのように思う人生は、また、これも不幸な人生ともなりかねないことを知れ。人生の多くは、いかんせんそうしたドラマの連続ではないのである。何年かに一回はドラマということもあるであろう。
しかしながら、人生の多くは平凡な平坦な道のりであることが多いのだ。しかし、人びとよ、その人生の平坦さというものを嘆いてはならん。その平坦さ、平凡さこそが、諸君の人生を大いなる成功へと導くための肥やしとなっておるのだ。
植物は、育つためには、大風の時、大雨の時、またギラギラとした日差しばかりが続くことが望ましいのではないのである。ごくありふれた、平凡な日々の積み重ねがあることが前提なのである。時には嵐もあるであろう。時には日照りもあるであろう。時には砂嵐が舞い上がることもあるであろう。
しかし、植物というものは、そうした異常な環境の中だけで育ってゆくものではないのである。それは、彼らの大部分は、やはり平凡なる一日を積み重ねて生きておるのである。平凡なる二十四時間を積み重ねて生きておるのである。平凡なる六十分を、平凡なる一分を、平凡なる一秒を積み重ねて、彼らは目に見えぬ生長をしてゆくのである。
したがって、諸君よ、諸君の一日が平凡で、取るに足らなくて、そして、日記につけるにも値しないようなものであったとしても、諸君はそのことを嘆いてはならない。そのことによって、諸君は自らの魂を腐らせてはならない。その平凡さを嘆くな。平凡さの中に、一つの生き甲斐を見出せ。平凡な日々における生き甲斐とは一体何であるか。それが「愛」であると私は思う。
愛の本質というものは、決して困難な時に人を救うことのみをもって愛とはいわぬ。相手が苦しい時だけに手を差し伸べるのを愛とはいわぬ。悲しい時だけ慰めるのを愛とはいわぬ。愛の本質は、日々変わりない毎日の中において、相手を想い続けるということである。愛の本質は、持続であり、忍耐である。
諸君よ、愛は単なる情熱ではないことを知れ。不幸な人を愛したとて、それが一体どれだけの困難を伴うであろうか。足の不自由な人を見て、憐憫(れんびん)の情を催すことは簡単なことである。経済的苦境にある人を見て、慰めるのはそれほど難しいことではないのだ。病気の人を見ていたわるのは、それほど困難なことではない。それは、ごくごく自然な感情として、そうしたものが現れてくるのである。
しかし諸君よ、諸君は、そうした特別な境遇にある人に優しくすることをもって愛と思ってはならん。毎日毎日職場で顔を合わす同僚たち、上司、部下、毎日顔をつき合わせておる妻、子供、こうした者へ変わらぬ愛を注げてこそ、本当に諸君は偉い人間だということができるのだ。そうではないだろうか。太陽というものは、変わらず毎日毎日平凡な仕事をしておるのではないのか。毎日毎日輝いておるのではないのか。太陽が、日光を供給する時としない時があったならば、人間の文明は大変なことになっていくだろう。毎日、毎日、平凡に温度を与えておるからよいのではないのか。ある日は極端に熱く、ある日は極端に寒かったら、人びとの生活はどうなるであろうか。平凡の積み重ねであるからこそ、大いなるものは育ってゆくのである。
人びとよ知れ、大いに草木が育ち、大いに人間が生長するのは、実は、平凡なる日々の積み重ねの中にあるということを。逆境には人間は鍛えられるであろう。しかしながら、逆境は、木でいえば木の節の部分であるのだ。節ばかりであっては木にはならない。そうではない、平凡にすんなりと伸びていく部分がいるのだ。
諸君よ、平凡な日々を愛せよ。苦難に陥った人のみを愛するをもって愛としてはならん。愛の中には、忍耐と持続があるということを知れ。倦(う)まずたゆまず人を育ててゆくエネルギーこそ、愛の本質であるということを知れ。そうしたことを学んで、日々に、勇気をもってたくましく、頼もしく歩んで行きなさい。