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目次






 6.神霊界入門





7.魂の進歩に資するものは何か(1986年4月6日の霊訓)


私がこれからお話しようとする内容は、「魂の進歩に資するものは何か」という内容についてです。

神様が、人間に転生輪廻を許しておられる理由は、異なった環境下、異なった時代に生まれて、さまざまな人生経験を踏まえて、人間の魂をいっそう向上させようとしておられる点にあります。

けれども肉体を持った人間は、この神様のご慈悲を忘れて、自分の人生はこの世限りだと思い込んで、できるだけぜいたく三昧、快楽三昧で生きたいと願っております。

結局のところ、人間が利己主義で、自分の利益しか考えず、他の人のために尽くさない理由は、人生はこの世限りだと思っているからなのです。でも、ほんとうはそうではありません。人生は一回きりではありません。人生が一回きりで、それだけで人間というものが、魂というものが、雲散霧消してしまうものであるならば、私たちは何のために苦労し、何のために努力してきたのでしょうか。人生は一回きりのものではありません。そして、個人の魂は、死後もその個性を保っているのです。そうでなくて、個人の魂が、群魂のようなものにのみ込まれてしまうなら、何のために個々人が苦労して人生経験を得るのか、そのわけがわからなくなってしまいます。

動物とか植物とかの魂は、群魂に帰属してしまうこともあります。彼らは人間のような知性的、理性的な魂の経験というものがないので、よく似かよった魂どうしで経験を共有することもあるのです。

ですから私たちは、人間の魂として、神様が創ってくださったこと自体を喜ばなくてはなりません。私たちは個性ある人間の魂として生まれたからこそ、その個人個人の努力や経験や知識が、すべて自分のものになるのです。その意味で、人間として生まれたこと自体が幸福であるということです。

ともすれば、私たちは、他人とひき比べて自分に足りない面ばかりを考えて劣等感を持ち、あるいは不遇感や不幸感を持ちますが、人間として生まれたこと自体が、奇跡とも呼びうる幸福であることに感謝せねばなりません。そうではありませんか。善いことをすれば、すべて自分の心の宝物となる。悪いことをしても、それもすべて自分の責任となる。こんな明快な原理があるからこそ、人間は永遠の転生輪廻に生きがい、やりがいを見出すことができるのではないでしょうか。

神様がなぜ、さまざまな動物や植物や、人間の魂をお創りになったのか、その根本の理由は、小桜にはわかりかねます。けれどもおそらく、これだけは確かでしょう。神様は、宇宙を進化・発展させることを是(よ)しと思われ、そのなかに、創造の美を見出しておられるということです。

人間の役割というものは定かではありませんが、神様の宇宙創造の芸術の一端を担っていることだけは確かで、だから私たちも、しっかりとやらねばならないのだと思います。

さて今回は、少々難しい題を選んでみました。「魂の進歩に資するものは何か」なんて、小桜には、あまりにも大上段すぎるように思われるのですが、浅野さんの言われるには、この程度の内容の通信は最低限度送らなければだめだとのことなので、非力ながら頑張ってみます。

私はすでに、人間は神様の宇宙創造の芸術の構成員だと述べました。ですから魂の進化とは、神様が是(よ)しと思われている方向に、私たちが努力していくことだと思うのです。

私は次のような場合に人間の魂は進化すると思うのです。


〈反省〉


第一番目は、自分の現在の心境が、いかに神様から離れているかを実感した時です。

私たちは、毎日が順調にいっていると、ともすれば、自分自身というものをふり返る機会がなくなってしまいます。宗教や道徳というものは、「反省」というものを大切にしていますが、これは、神様と自分との距離を考えてみるということなのです。向上のためには反省がなければなりません。自分がいかに迷っており、いかに低迷しているかがわからなければ、また向上への道をたどることもできません。みずからを省み、みずからの足らざるところを補おうとした時、はじめて人間は魂の進歩という第一歩を精神史に記すのではないでしょうか。月並みではありますが、魂が進歩する時は、みずからの心境を反省した時だといえると思います。


〈感謝〉


魂が進化する第二番目の時は、感謝というものを実感した時だと思います。よほど立派な方で、多くの人びとから尊敬を受けているような人でさえ、この感謝ということがなかなかできないものです。優れた宗教家でありながら、道を踏み誤る人びとの大部分は、この感謝ということが足りないのだと思うのです。人間が自分一人でできることは限られたことなのです。それは、とてもとても限られたことなのです。ですから、あなた方一人一人を助けてくださる他の人びとの好意や、暖かいまなざしを常づね投げかけている天上界の高級霊や、あなたを生かしめる神様の力というものに対して感謝する気持ちを持たねばなりません。

たくさんの地獄霊・悪霊たちと対話されたでしょうが、彼らの大部分の特徴は、自分の利益ばかり考えて、他人に対する愛がない、言葉を換えると、他の人びとや偉大なものに対する感謝の念がないということです。感謝の気持を持って日々生きている人は、地獄には一人もいないのです。ですから、心の底から感謝の気持ちが湧いて来た時、ああ、今、自分の魂は進歩しているのだと思っていただきたいのです。感謝は感謝を生み、喜びは喜びを生むものです。


〈謙虚な気持〉


魂が進歩する第三の時は、謙虚な気持ちになった時です。自分が不平不満でいっぱいの時、自分が劣等感でいっぱいの時、他人に対する反発や、反抗心でいっぱいの時、他人の悪口、陰口を言いたくてしかたのない時、人間は決して謙虚な気持ちにはなれないものです。謙虚になれる時というのは、かなり心に余裕ができた時であり、自分のなかの良い面が悪い面に勝っている時なのです。

では謙虚さはなぜ美徳なのでしょうか。それは、謙虚さ自体がひじょうに霊的なものだからです。三次元的なものの考え方というものは結局、他人より優れたい、他を凌駕(りょうが)したい、他を見下したいという思いなのです。自分の国がこの世しかないと思うからこそ、「オラガ天下」にしたくなるのです。ですから広大無辺な神の世界に気づいたならば、自分が築いた地位や名誉や権力というものが、いかに無力でいかに空しいのかが、はっきりとわかるのです。

そうです、偉大な神様の前には、人間は謙虚でなければいられないのです。大霊界の存在に気づいた人間は身を低くして、頭(こうべ)を垂れるしかなくなるのです。また、この神霊世界には、数知れず偉大な方々がいらっしゃるのです。たとえばこの世で、会社の社長だとか総理大臣とかいう人が、天照大神の前でいばれるでしょうか。天之御中主之神の御前で、何を自慢できるでしょうか。霊的に目覚めれば目覚めるほど、偉大なる神霊の力に気づけば気づくほど、人間は謙虚にならざるをえないのです。自分が謙虚になったなと思ったとき、人間は、自分の魂が大いに進歩している事実に気づくのです。


〈優しさ〉


次に魂が進歩する第四の場合について述べたいと思います。それはひと言でいえば「優しさ」です。他人に対する優しさ、思いやりです。優しさは、神の国とこの世の国に架けられた黄金の橋です。人間として生きる以上、神様の子供として生きる以上、一日に一回は、他人に対する優しさを持ちたいものです。

この優しさは神様のお気持ちそのものなのです。あなた方人間は、日常生活でさまざまな嫌な人に会うことでしょう。憎らしいと思う人にも会うでしょう。金輪際(こんりんざい)、顔を見たくないと思う人にも会うでしょう。けれども、一度立ち止まって考えてみていただきたいのです。完全無欠な神様の眼から見たら、人間はいかに低劣で不完全であるかを。そんな低劣で、不完全で、宇宙のゴミにしかすぎない人間をも、神様は限りなく優しいまなざしで、見てくださっているのではないでしょうか。限りない思いやりのなかに人間を育んでくださっているのではないでしょうか。

そうであるのなら、お互いに不完全である人間どうしが、お互いの欠点を責めあったり、嫌ったりするのはやめようではありませんか。神様に見ならって、限りなく優しい眼で他の人びとを見守ろうではありませんか。

その優しさこそが、神様のお心そのものであり、つまりは私たちの魂が、神様に向かって進歩しているときではないでしょうか。


〈向上心〉


私は魂の向上進歩する五番目の時として、向上心をあげたいと思います。人生にはさまざまの出来事、さまざまの試練や災難があります。時折、あまりの試練に耐えかねて、波間に揺れる小舟のように、人間はみずからの自信をなくす時が来ます。けれどもその時こそ、神様が本当に救いの手を差し伸べている時なのです。神様はもう救いの手を差し伸べておられるのです。ただあなた方人間が手を差し伸べて、神様の救いの手を握りしめるかどうかなのです。このように人間の側からも、手を伸ばすことがたいせつです。

この手こそが向上心というものです。親はわが子の成長を喜びます。神様も同じです。わが子の成長を限りなく喜んでおられるのです。この成長の原動力こそが、向上心ではないでしょうか。向上心のある人間は、いつかは山の頂上を窮(きわ)めるのです。その歩みは遅々としたものでもよいのです。一日一日を神様のほうへ向いて、着実に歩んでゆくことです。

人生はある意味において、激流の川を小舟で漕(こ)ぎ上るのにも似ているでしょう。けれども神様は、その激流を漕ぎ切った時、大きな手を開いて、あなた方人間を抱きしめようと待っておられるのです。いかに流れが急であり、激しかろうとも、舟を漕ぐのをやめてはいけません。それが向上心ということではないでしょうか。それが人間の側の努力というものではないでしょうか。


〈忍耐〉


私は、魂の向上する六番目の時として、耐え忍ぶということを挙げたいと思います。この世の指導者のなかには、よく、とにかくやれ、とにかく行動せよ、と言われる方があります。勇ましく自分の途(みち)を切り拓くことはとても大切なことです。けれども私は、ここに忍耐の美徳をあげておきたいと思うのです。

神様はとても忍耐強い方です。あなたもそう思われませんか。人間は何千年、何万年も転生輪廻してきても、いっこうに神様のほうへ歩んでこようとせず、知識人の顔をして、堂々と無神論を説いている人もたくさんいます。こんなばかげた無神論者でさえ、優しく育んでおられ、その成長を待っておられる神様はとても辛抱強い方であり、耐え忍ぶことに慣れておられる方のようです。

ですから、あなた方人間も自分に対して短気を起こさず、また、他人に対しても短気を起こさず、どうか忍耐強くあってほしいと思うのです。耐えることを知った魂というものは、いぶし銀のような光を放つものです。じっと耐えている人の姿は、岩間に咲いたつつじの生命力を見た時のような感動を人びとに呼び起こします。どのような環境にあっても、どのような逆境にあっても挫(くじ)けず、美しい花を一輪咲かせ、その花を守り育てていこうではありませんか。そうした辛抱強さのなかにこそ、神の子としての、じっくりとよく練れた成長があるのではないでしょうか。

成功のみを追い求め、耐えることを忘れた人間は脆弱(ぜいじゃく)です。私たちは魂の足腰を鍛えましょう。どのような夏の暑さにも、どのような冬の厳しさにも耐えていけるような、たくましい魂というものを築いていこうではありませんか。


〈祈り〉


最後に第七番目として、魂の進歩する時、それは祈りの時であると私はいっておきたいと思います。人間はともすれば、平凡な日常生活に埋もれていってしまいます。ですから、その精神生活のどこかで、超俗的な場面を持つ必要があります。それが祈りの時であると私は思います。祈りとは、神様との一対一での対話です。人間は神様と一対一で対話する時初めて、澄んだ心になれるのです。

祈りについては、誤解されている面がずいぶんとあるように思われます。人びとは、健康だとか、合格だとか、結婚だとかを祈っているようです。それも確かに悪いことではありませんが、神様にアメ玉をおねだりしている子供のようで、いまひとつの成長が望まれるところです。祈りというのは神様との対話です。普通の人びとが、宇宙創造の神様と対話するのはとても無理ですが、しかし祈りは、その人の霊的波長に応じた高級神霊に必ず届くものなのです。ですから、答えのあるなしにかかわらず、祈りは必ずだれかには聴かれていると思ってください。

あとはその祈りの正当さ、妥当さが、高級霊によって判断され、またその祈りを聴き届けることによって、、その人にいかなる運命の修正がなされるのかが、守護・指導霊たちの間で検討されるのです。人間は自分一人だけで生きてゆくわけではありません。その人に関係するさまざまの守護・指導霊たちが見守っているのです。ですから祈りというのは、守護・指導霊の日頃の厚意に感謝するとともに、みずからを正す機会でもあるのです。守護・指導霊も祈りの時を待っています。

残念なのは、地獄にいる人たちです。彼らのうちの大半は、祈りということをまったく忘却してしまっているのです。彼らに祈りということがわかっていたなら、もっと早く救いの機会が訪れたであろうと、とても残念に思われます。祈りとはまた、帰依(きえ)の姿でもあるからです。偉大なる神霊への帰依でもあるからです。できれば一日に一度は、反省もかねて、祈りというものを実行していただきたいと思います。このときこそ、人間は偉大なる他力の光明によって、大いに魂が進歩しているのです。

以上、一番目から七番目まで、「魂の進歩に資するものは何か」というテーマで私は述べてきました。不十分な点、欠けている点については、今後ともつけ加えてゆきたいと思います。

次回は、「霊界における地獄霊の救済」というテーマで報告したいと思います。ではまた。