目次
1.繁栄
2.新生
3.美
4.霊
5.肉体
6.健康
1.繁栄
神の本質、神の働きというものを考える時、私たちは、どうしても繁栄ということを考えざるをえないのです。なぜなら、神とは、本来的に善きものを意味しているからです。本来的に善きものであるからこそ、善きものへと向かって行くという方向性があるのです。
したがって、繁栄は、神の属性というよりは、神の本質そのものであります。神は、すなわち、繁栄であり、繁栄はすなわち、神である。そのように考えてもいいと思う。
もちろん、地上に起きるさまざまな出来事、人の運命、時代の運命、国家の運命、あるいは国の運命、地域の運命、村の運命、さまざまなものを見る時に、繁栄もあれば、衰退もあるようにも見えることがある。
ただ、大きな目で見た時に、大宇宙の中の地球というものの中のその栄枯盛衰の歴史を見た時に、それは単なる停滞ではない。それは単なる衰退ではない。一時期、幕が引かれたかのように見えても、それは、次なる幕が開かれんがための繁栄の序曲にすぎない。
この世に衰退などないのである。退化はないのだ。進化しかない。よくなるしかないのである。これが神の御心である。われわれは堕落とか、後退とか、そうした言葉を一蹴せねばならない。神は大いに育む気持ちでもって、人類を生かしめ、動植物を生かしめているということを、これを知らねばならない。これを忘れたときに、人間の不幸が始まるのである。
すなわちこれ、人間が神の子であり、神の子であるならば発展、繁栄ということを、その本質において持っているということを忘れた時に、不幸の原因は、端を発するのである。
人間は繁栄する義務があると考えたとき、この世の中のつまらない悪事、この世の中のつまらないいさかい、不和、不幸、こうしたものは、朝日のもとの露のごとく消え去ってゆくしかないのである。
人びとよ、わが声を聞け。汝らは繁栄の義務がある。この義務を神より負っておるのだ。ならばこの義務を果たせよ。ならばこの義務を遂行せよ。汝ら繁栄のためにこの地上に遣わされし戦士である。生めよ、殖(ふ)やせよ。幸せを放てよ。幸せを育てよ。幸せを育め。繁栄のためには協調があるのだ。繁栄のためには協力があるのだ。繁栄のためには共に手を携えてゆかねばならん。そこには悪はない。そこには不和はない。そこには人間関係の不調和はないのだ。これを知れ。
こうした悪を除こうとか、不和を除こうとか、不調和を消し去ろうとか思わずに、まず、自らの心に問え。自らが神の子としての繁栄を刻んでおるかどうかを。繁栄の自己実現としての自分の生き方であるかどうかを。これを心に問え。そして実現せよ。そこに大いなる時代が開けてゆくのだ。
よいか、汝らは大いなる義務を持っておるのだ。汝らがこの地上にて吸う酸素は、この地上にて恩恵を浴する太陽の光は、動植物の生命も、汝らに奉仕しておるではないか。これらはすべて、汝らが負った義務である。この義務を遂行せよ。それは繁栄という形を通して、大調和、大進歩という姿を通して、汝らはこの義務を果たせよ。
すなわち、心に先ず刻め。今日よりのち、繁栄以外にはないということを。繁栄のみがわが仕事である。生い茂るがごとく栄えることが、わが一生の大事業なりと思え。
これは人間だけではない。あの木を見よ。亭々(ていてい)としてそびゆる木を見よ。あの大木を見よ。大木はただ、高く高くまっすぐに伸びてゆき、枝葉を繁らしてゆくところに、そこに真なる自己実現があるのではないか。
あの花を見よ。野菊一本たりとて、繁栄の姿を宿らしておるではないか。菊の花だとてそのとおり。ダリヤの花だとてそのとおり。ひまわりの花だとてそのとおりではないか。大いに背丈を伸ばし、自らの美を誇っておるではないか。動物、植物でさえ、そのように繁栄ということを求めていくのだ。
さらば、いと高き者、いと貴き人間よ。汝らはなぜ繁栄をめざさぬか。繁栄とは生い茂ることなり。生い茂って栄えることなり。この気持ちを大切にせよ。そしてまっしぐらに伸びてゆけ。天に向かって伸びてゆけ。神もまたそれを望んでおる。
汝らはひまわりの背丈が高いからといって、それで何の後悔をすることがあるであろうか。ないのだ。汝ら人間が、繁栄することを見て、神は何も不思議に思われない。それを喜ばれるのみである。どうか、そうしたことを出発点としなさい。
2.新生
さて、人間は繁栄の義務があるということを、みなの者は学んだことと思う。しかしこの観点に立って、自らの現在と過去とをふり返って見る時に、そこに、繁栄の自己実現の過程としての自分の姿がないことに気がつくことが多いであろう。
ある時には停滞をしておるようにも見え、ある時には後退をしておるようにも見えたのであろう。しかし、それは、汝の心の迷いであり、汝の目の錯覚であるということを知れ。そうしたものに惑わされてはならん。
停滞は実在ではないのである。衰退も、退歩も、実在ではないのである。そんなものは蜃気楼のごとき姿にしかすぎない。目の錯覚にしかすぎん。心の迷いにしかすぎん。そうしたものに惑わされるなかれ。この大宇宙の姿は、下り下りて止まぬ川の流れのように、大いなる生命の奔流を流し流して、そして止むことのない力なのである。
したがって汝ら、その心の迷妄を断て。その心の誤りを断て。そして、その瞬間に、新生ということが始まるのだ。新しく生まれ変わるということが始まるのだ。
汝ら正しく生まれ変わらずして、神の心にかなうこと能(あた)わず。神の心にかなうためには、まず、新生せよ。まず、新しく生まれ変われ。新しき命を得よ。まちがった考えを捨て、まちがった生き方を捨て、そして、新生の局面に入れ。一躍跳入正しき生活に入れ。そのための勇気があるではないか。そのための愛があるではないか。そのための力が、心の底からふつふつと湧き上がってくるではないか。どうか、新生ということを心に抱け。そして自らの心の奥の奥から、ふつふつと湧き上がってくる泉のごとき力の確かさを知れ。
汝らは想像してみたことがあるか。その泉の底よりふつふつと湧いてくる水の力を、どうやって閉じ込めることができるであろうか。泉の上にふたをしたところで、その地下水は、また、そのまわりに伏流水となって流れて来るのだ。この伏流水のごとき水の力を知れ。
川の流域の中には、乾いた川のようになっておるところもある。砂地となって水がないように見えるところもある。しかして水は、その砂の下深く深く、数メートル、数十メートルの下を流れ、また伏流水となって、やがて地上に顔を出し、滔滔(とうとう)たる流れをつくっていくのである。
泉のその吹き出す水を押し止めることができないように、汝らの心の内の内なる生命力は、汝らの心の内の内なるエネルギーは、これを押さえんとして押さえること能わず。噴き出し噴き出し、ほとばしり出て止まない力があるのである。これを知れ。この噴き出してくる力こそ、汝らの新生の力とせよ。
汝らはもともとそうした力を持っておるのだ。これは与えられるのではない。すでにあるのだ。すでに与えられておるのだ。この噴き出してくる力を自由にせよ。その噴き出してくる泉の力を、こんこんと湧いてくる泉の力を自由のままにせよ。それを遮るものをなくせ。それを押し止めようとするな。それを押し止めようとするような心は卑怯な心だ。それを押し止めようとするような心は、臆病な心だ。それを押し止めようとする心は暗い心だ。それを押し止めようとする心は、劣等感のとりことなった心だ。
こうしたものを一蹴せよ。さすれば、こんこんと湧いてくる泉は、澄んだ清らかなものとなるであろう。この澄んだ清らかな泉のことをだれが汚れていると言おうか。だれもそうしたことを言わない。汝ら誤解してはならん。水は土に混じればすぐ濁ると思ってはならん。泉の水というものは、土の中より噴出して清きものである。土の中より噴出して濁ってはおらん。水は澄んでおる。そうしたものが、汝らの力の本源であることを知れ。
汝ら人生の中において、さまざまな事件に遭い、さまざまな人に会い、さまざまに心乱れ、さまざまに人生が傷つくように見えることもあるであろう。
ただ知れ。汝らはこの泉の水のごときのものだ。土の中よりほとばしり出て、土をその中に含まぬものである。そうした清い清い力が、汝らの心の本流を流れておる力だということを知れ。そうしたものとして自分を信ずることが、これが新しく生きる力となっていくのだ。
この新生の原理を知れ。それは先ず、自分の本質なる内なる力を、このすばらしさを信ずるということだ。新生のエネルギーというものは、決して決して他人にもらったり、あるいは外部によって、与えられるものではないということだ。
自らの内なる泉を掘れ。自らの内からほとばしり出る水に敬意を表せ。さすれば汝ら心が水のように青くなるであろう。心はまっすぐとなり、そして流れて行くであろう。人新たに生まれ変わらずんば、神の世界へ入ること能わず。このことを知れ。そのことを強く心に念え。その時に、汝らには、新たな新世界が、人生が展開してくることとなろう。このことを強く強く知りなさい。
3.美
神の栄光というものを考えるとき、私達は「美」というものを考えざるを得ない。なぜこの世に美というものがあるのか。なぜ美しさというものがあるのか。何をもって美しいとしておるのか。私達は、これらのことを深く深く知らねばならんのである。
美しいと感ずる感情は、決してこの世的に教えられたるものだけではないということだ。我らは、その美しいという感情を根本において知っておるのです。なぜ知っておるか。すなわち神は美であるからです。神が美である。神から分かれてきた私達であるからこそ、私達は本質的に美とは何かということを知っているということなのです。本来美しいものが美しいものを感じておるのです。自らの心の中にあるものと共感して、外部にあるものが美しく感じられるのです。
花を見て美しいと感じるのは、その同じ美しさを心の中に持っているからなのです。心の中に持っておるその美しさが、外部に現れたる花の美しさと共感し合い、共鳴し合っておるのです。
しかるに人間の男女よ、汝らはなぜ醜く見えることがあるのか。それは、醜く見せておる心と、醜いものと見ておる心があるということだ。神が人間に与えられた一つの大きな力は、この心の創造作用ということだ。心がものを創り出しているのだ。概念を創りだしてゆく、念いを創りだしてゆくという力、こうした創造力を持っておるのだ。
ところがこうした自由な創造力を与えられているがために、人間はこの創造力を駆使してある時は美しく、ある時は醜くなろうとするのである。なぜ醜くなってしまうのか。それは、心の中において、その純粋な神の心の実現を妨げんとする思いがあるからなのだ。
どのような悪人であっても、子どもと戯れておって笑顔でいる姿は美しいとは思わぬか。その悪人がなぜ゜凶悪な顔をして、犯罪を犯すのか。彼らも子ども達と戯れる時の姿は実に天真爛漫で美しい。それがひとたび、罪を犯さんとしたときに、その顔が凶悪な顔と変わってくるのではないのか。すべてそうしたものだ。
すべてが心の現れであることを知れ。人間には大いなる心の自由を与えられたということを知れ。大いなる自由を与えられたることにより、善きことも悪しきことも実現ができるようになったのだ。本質において善であるのだけれども、こうした迷いが悪を生むに至ったということである。
まず、本源に立ち返れ。まず、ほんとうの姿に立ち返れ。美を妨げるものは心の悪である。その心の悪というものが本当はないということを知れ。
美というものはそのままで美しくなっていくのだ。そのままが美しいのだ。素直に「はい」と受ける心が美しいのだ。人間として生まれて、神から命を与えられて生きている、この使命を素直に「はい」とそのまま受けて、素直に生きていくところに人間の美しさがあるのだ。
どうか、ただそのもので美しいという心境をわすれてはならない。それは努力によって取り戻すものではない。いらぬ努力をせぬことによって本来の美しさが取り戻せるのである。すなわち、本来あるべき美の姿を人間が取り戻すために、素直な心となれ。まずこのことが、何にも増して大切であるということを知れ。
素直になるということは、ありのままに見、ありのままに感じ、ありのままに思い、ありのままに喜ぶということだ。こうした幼子のような素直な心にならねば、本当の美というものを実感することはできない。こうしたことを人間は深く深く、思い至さねばならない。
4.霊
神の栄光を語る時、霊の本質ということを考えないわけにはいかないのである。
まるで、自分の衣装が自分自身であるかのように、鏡に映った自分の姿を誤解する者がいる。しかし、衣装は衣装であって、人間そのものではないということを知れ。霊というものの本質を知って生きていくことが、本当の神の心のありかを教えてくれるのである。
人間は過去、何百回、何千回となくこの地上に生まれてきて、あの世とこの世の間を転生輪廻してきておる存在なのである。それが、この神が創られた世界の秘密であるのだ。そしてそれは当然の原理であり、原則であり、誰もが否定できない真実である。しかし、その真実を忘れ、霊ということを見落としておるのがほとんどの人間ではないであろうか。
人間は迷子になってはならぬ。あくまでも本当の姿、自分の本名というものを忘れてはならない。
それでは、霊とは一体何であろうか。霊とはすべてのすべてである。まずこれを知れ。ただ、この霊の中に、さまざまな霊があり、霊姿がある。
ある時には病める霊あり。ある時には病もないのに病を見て苦しめる霊、傷もないのに傷を痛がる霊、心臓もないのに心臓を病む霊、胃もないのに胃が痛いと訴える霊がある。これらは、霊の本質を知らぬ者だ。
霊というものは、本然自在のものである。自由自在の存在である。念えばすなわちそこに行動が現ずるのが霊の本質なのである。すなわち、自らが神近き者と念えば、神近き存在へと赴き、自らを地上的なるものと念えば、地上的なる存在として現れるのが霊である。
霊は自由自在である。霊は融通無碍なり。霊はすべてのすべてなり。念えば地球をも見下ろすような巨大さとなる。念えば蟻をも見上げる微細な存在ともなる。これ霊の本質なり。
どうか、霊を形、姿あるものと思うな。これは思考せるエネルギー体である。知性を有するエネルギーなり。しかして個性を有するエネルギーでもある。これが、霊がすべてのすべてであるという理由である。しかして、霊の本当の本質は、霊の実相たるや、これはすなわち、神そのものであるということを知れ。
神は人体のごときものではない。神は大宇宙を創り、育んで、休むところのない偉大なエネルギーであり、偉大な、偉大な想念であり、偉大な智慧であるということを知れ。さすれば、霊に姿、形があるがごとく見えるのは、それはまた目の錯覚である。意識の錯覚である。思いの錯覚であるということを知れ。
5.肉体
人間よ、肉体とはこれ霊の影なることを知れ。肉体というのは喩えて言えば、映写機において投ぜられたる壁の絵にしか過ぎない。スクリーンの絵にしか過ぎないということを知れ。
したがって、映像が歪んでおったり、映像が曇っておるのは、これは映像の責任でもないし、映像の作用によるものでもない。映像の映りが悪いのは、これは根元なるところにそれを妨げるものがあるからである。映写機のレンズが曇っておるか、壊れておるかフィルムに傷がいっておるかということなのである。
すなわち、肉体はこれ霊の影であるならば、肉体に現れたる変調は、これすなわち、魂の影であるということを知れ。肉体に現ずる不調和の前に、魂に現ずる不調和、その魂は肉体的に宿れる霊の姿なり。
地上に現れたる肉体人間の姿というものも、これは放映されておる映画と同じであるから、この本源なるものの近くに何らかの曇りが出来ておるということである。あるいは本源なるものにかぶさったレンズに傷みが生じておるか、歪みが生じておるということだ。
すなわちこれ霊の本体の表層に悩みあり。こうしたことである。さすれば人間よ、霊の本質のそば近くに、人間の心といわれている領域があることを知れ。その心の領域の浄化こそが、汝らに課せられた使命であるということを知れ。
したがって、その心を良くするためには、霊の実相そのものを汝の心とせよ。実相こそ、原点とせよ。実相こそ、本来の姿とせよ。すなわち、汝の心を神の心と同じくせよ。さすれば、肉体の不調和は消えていくしかないのである。
本来実相において完全なるものであるから、その完全なる実相をこの地上に投映した時に、この地上の投映もまた、完全とならざるを得ないのである。
肉体を実在だと思えばこそ、人の心は千々に乱れるのである。しかし、肉体は実在ではない。それは霊の影だということを知れ。
6.健康
肉体は霊の影である。さすれば、病ということに関しても、我らはここに一つの結論を出すことができると思う。肉体が霊の影であるならば、肉体の病というものは、本来存在しないということである。これは実相の世界において、レンズが単に曇っておるということと同じであるということを知れ。レンズそのものに曇りがあり、レンズそのものに歪みがあったことを知れ。
しかして実相の姿が完全なることを知れ。ではこのレンズを完全に戻すための作業とは、一体いかなる作業であるか。それは神の心を心とした生き方ではないか。
神の心を心とした生き方とは一体なんであるか。それはまず、繁栄を求める心であり、美を求める心であり、日々に新生を誓う心ではないのか。日々に善きものとなっていこうとする心ではないのか。
よいか。悪によって毒されてはならん。迷いによって毒されてはならん。脅かしによって怯んでもならん。本来の完全なる実相をこの地上に投映するために、このレンズのひずみと、レンズの汚れを取り除くしかないと思え。
そしてこのレンズを調整するための原理は、神の子としての本源に立ち戻るという作業であることを知れ。その作業とは、人間とは善きものであり、光の子であり、光そのものであり、発展であり、繁栄であり、美であるということを悟ることである。神の子としての自分を顕現しようとせよ。本来の自分を出そうとせよ。それがすなわちレンズの歪みを直すこととなるであろう。
まず神の子としての自覚を持て。神の子が病にかかるか。神の子が死ぬか。神の子が挫けるか。神の子が不運をかこつか。神の子が不遇を嘆くか。神の子が失敗をするか。そうしたことをよくよく自問自答せよ。
そして、神の子にそういう姿が本来ないということを知った時に、勇ましく立ち上がらざるをえないのだ。いざ、勇ましく立ち上がって、本来人間はそんな迷いに引っかかる存在ではないということを知ることだ。勇ましく両足で立て。神の子よ、立て。神の子が薬を要するか。神の子がベッドを要するか。神の子がなんで悩むのか。悩んで何の得があるか。
本来完全であるにもかかわらず、不完全な心を描いて、自分で自分の心にそうした像を描いて、そしてその映像におどらされて苦しんでおるのが自分の現在の姿ではないのか。
本来完全だということを知れ。本来病もないということを知れ。健康しかないということを知れ。なぜなら汝らは神の子であるからだ。病は本来ないということを知れ。こんなものに迷ってはならん。こうした病があるという、病が実在するという迷妄によって、世の人びとは暗示にかかっておるのだ。そして人間である以上病にかからねばならんという、こんな錯覚に陥っておる。完全なるまちがいである。
人間というものは、一生病にかからずに生きるのが本来の姿であって、だれもがそういうふうに生きることが可能なのである。そういうふうに創られておるのである。病にかかるようには創られてはおらんのである。
これは大自然を見るがいい。病気にかかる動物などほとんどいはしない。彼らは健康そのものである。彼らは健康そのもので、自分の天寿を全うしておるではないか。
なのになぜ人間だけが、ガンであるとか、潰瘍であるとか、あるいはノイローゼであるとか、心臓病であるとか、こんなものにかかるのか。諸君は心臓病にかかったライオンを見たことがあるか。諸君はリューマチにかかったキリンを見たことがあるか。諸君は冷え性にかかった魚を見たことがあるか。そんなことはないはずである。動物でさえそれだけ完全な姿として生きておるのだ。
ところがどうだ。人間が飼い犬、あるいは飼い猫、こうしたものを持つようになってから、犬や猫にまで病気をつくって入院させておるではないか。そして治療をやったり、薬を打ったりしておる。こんなばかなことをしてはならない。文明というものは人間を進化させるためにこそあるのだ。人間をこういうふうに退化させるためにあるのではない。ましてや、ありもしない病名を動物にまでつけて、病気があるように思って薬剤を投与しているというのは、大変なまちがいである。
彼らの病を治すのは、ただ大自然に放してやればよい。彼らの病は治るのである。彼らは、人間と共に生活する時のみ、病気にかかるのである。この真実を知れ。
さすれば人間よ。病気をつくっておるのは、ほかならぬ汝らの思いであるということを知れ。汝らの思いの自由性が病気をつくっておるのだ。ガンになって亡くなる方が今いちばん多いと聞く。ガンを作っておるのはガンのウイルスではないということを知れ。ガンを作っておるのは自分自身の心だということを知れ。
ガンの根本原因は、自分自身の心の悩みであるということを知れ。何らの悩みも持たずにガンにかかった人など未だ一人もいないのだ。ガンに冒(おか)されている人というのは、必ず心に悩みを持っているのだ。その悩みが、自己処罰の概念となって、そのガン細胞を膨らませ、そして、やがて自分自身を殺そうとしておるのだ。ガンというものは、これ自己処罰の概念である。ガンというものは、これ自己破壊の願望であるということを知れ。
世の人間は、片手では幸福を願いながら、片手では、不幸の手綱(たずな)をしっかりと握りしめておるのである。その不幸の手綱とは、この人生を悪しきものと思い、自分自身を悪しきものと思い、なんとかこの悪しき自己像を破壊したいという思いである。この悪しき自己像を破壊したいという思いが、ガンを作り出し、心臓病を作り出し、胃潰瘍を作り出し、さまざまな病気をつくっておるのである。
諸君よ知れ。諸々(もろもろ)の病気はすべてこれ自己処罰の現れであることを。そうした思いの現れであるということを。まず、諸君らの子供に教えよ。病気というものは本来ないのだということを教えよ。本来人間は病気をするようにはできていないのだということを知れ。病気ひとつなく一生を送ることが本来の姿であるにもかかわらず、すべての者が、病にかからねばならんと思っておる。これは大変な錯覚であり、大変なまちがいであるということを知れ。
たとえば、今の日本人の姿を見てみろ。これは宇宙人の目から見れば、その八〇パーセントが眼鏡をかけておる姿がどれほどおかしく見えるかを知れ。なぜ八割の人が眼鏡をかけねばならぬか。そんなものが必要なら生まれてきた時に、眼鏡をかけて人間は出てくるはずである。しかし、人間は眼鏡をかけて出てこない。両目を持って出てくる。この両目は、目は、その人の一生使えるものとして出来ておるのである。ところがこの目を機械の故障かなんかのように思って、すぐだめになり壊れてしまう、パンクしたタイヤのように取り替えねばならぬなどと思っておるから、これを眼鏡でもって補わねばならぬようになるのである。
本来、目というものは、一生役に立つようにできておるのである。それを多少見えにくくなったり、多少ぼんやりと見え始めると、すぐ故障したと思っては眼鏡をかける。眼鏡をかけてやっておるから目がますます病気になる。したがってもっと悪くなる。そしてもっと度のきつい眼鏡をかける。もっと悪くなる。またかける。こうした悪循環をくり返しておるのだ。
本来、目は悪くならない。本来、人間の目は、眼鏡を必要としてはおらんのです。それが、女性であってもコンタクトレンズを入れて、男性であれば八割近い人が眼鏡をかけておる。こんなものは知性の証明でもなんでもないということを知れ。それは、八割の人が心が病んでおるということの証明であるということを知れ。八割の人が自己処罰の概念、自己破壊の希望を持っておるということだと知れ。
たいていの人は取り越し苦労をし、目が悪くなるのでは、目が見えなくなるのではないか、そうした悪しきことを心に描いて、その結果目が悪くなっているのである。眼鏡など放してしまえ。取りはずしてしまえ。必ずこの目はよくなると思え。この目がよくならなければ神の子としての自己実現ができないと思え。動物たちで眼鏡をかけておる動物は一匹もいないということを知れ。それでも彼らは不自由をしておらんではないか。眼鏡があるなどと思うからそういうことをする。眼鏡をかけておる鳥がおるか。鷹がおるか。鷲がおるか。神は動物でさえ完全に創っておる。鳥でさえ眼鏡はいらぬようにつくっておる。
ましてなぜ人間にだけ眼鏡がいるように創るか。そんなことはありえない。それは心の思いの創造作用にしかすぎんということを知れ。眼鏡を取りはずせ。ガンを捨てよ。ガンの思いを捨てよ。人間はガンにかかって死ぬことは本当はないのだ。それは医者がそういう観念を植え付けておるのだ。こういう観念に惑わされてはならん。人間は絶対ガンにはかからんのである。本来かからん。そんなもの神は創ってはおらんのだ。ガンにかからねばならんと思うような心を持つというところに、原因はあるということを知れ。そうした病念を心に持つな。明るく、爽やかに、ほがらかに、屈託もなく、素直な心を持て。病気にはならない。決してならない。こうしたことを強く、強く、言っておきたいと思う。