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目次




















(1986年8月9日の霊示)

1.「他力門」の認識不足について


道元  ――道元です。

――  過般お出まし願った節は、私のいたらぬ思いから、禅師のご本意に添(そ)わぬことなどをおうかがいし、大変失礼をいたしました。

本日はそのことを反省し、禅師には、「禅の本義」についてお教えを願い、これを現代及び、後代の人びとにお伝えいたしたいと存じておりますので、よろしくお願いいたします。

道元  わかりました。どうやらここ数日、「他力門」の霊人たちの話ばかりをお聴きになっていたようですが、あなた方の考え方が間違った方向へいってしまうといけませんので、私たち「自力聖道門(しょうどうもん)」の正しい教えを、この際、しっかりと理解し、身につけていただく必要があると思います。

まあ、いくつかの考える柱というものを今日は立てて参りましたが、他力門の後にやるということですから、「他力」と「自力」ということについて、まず最初にお話しないわけにはまいりません。

そこで、現在、私が考えているところで、他力、自力についての話をいたしたいと思います。「他力門」の方がたの説の根拠というのは、どこにあるか。要するに、人間というものは非常に小さなものである。非常にとるに足りない小さなものである。神仏の偉大なる大きさ、その巨大な慈悲、愛、そうした力に比べて、人間というのは、実に小さなものである。この全宇宙のなかにおいて、非常にとるに足りない存在である、と。こういう考えが基礎にあるわけですね。

そういう小さな自分であるからこそ、そうした小さい自分で悟ろうとか、小さい自分で自分を向上させようとか、そういうことを思う前に、その比較(くらべ)ようもない偉大な神仏の力の前に平伏(ひれふ)して、ただその光を全身に浴びて、そして、救われようとする。まあ、こういう考えであろうと思います。

確かに、事実認識としてはそのとおりでありまして、神仏の偉大なる力、偉大なる光、偉大なる光明、偉大なる愛と慈悲、こうしたものの前に、私ども人間の存在というものは、実にちっぽけなものであります。大宇宙に比べたら、ほんとうに小さな一匹の蟻(あり)であり、大海原にたらした一滴の雫(しずく)のような、そうした存在でありましょう。

この認識は、ひとつの認識として正しいのでありますが、ただ私は、これをそのまま受け入れるつもりはありません。なぜなら、宇宙というものは、開けば無限となり、握れば一点となるものであります。握一点、開無限。開無限、握一点。これが宇宙の神秘であります。

あなた方は、宇宙というものを空間的に広がった莫大な大きさ、巨大な大きさだと思っていますが、そうではなくて、ほんの小さなもののなかにも、宇宙というものは隠されているものであります。たとえば、一匹の蟻。そのなかにも、大宇宙があるのです。そして、あなた方の体のなかにも、大宇宙はあるのです。これは心の世界だけでなくて、あなた方の体というものを見ても、大宇宙というものはあるのです。それは極微(きょくび)と極大(きょくだい)の問題であります。あなた方が人間という尺度、つまり、身長一メートル六十センチの尺度で比べたら、大宇宙というのは、無限に大きい遠大な空間であります。

ところが、この尺度自体が、はたして客観的なものであるかは、どうして分かり得ましょうか。あなた方の体というものを、小さな蟻、あるいは蚤(のみ)、虱(しらみ)、あるいは、もっと小さなバクテリヤ、こうしたものを基準として見たならば、あなた方も、たとえようもなく広い大宇宙でありましょう。ですから、あなた方の心臓のなかを駆け巡っている血液、こうしたものとて、太平洋にも比せらるような大変な巨大な海でありましょう。

このように、この宇宙においては、客観的な尺度となるべき存在はないのであります。どんな小さなもののなかにも大宇宙は存在し、どんなに大きいと思うものも、それよりさらに大きな存在から見たならば、ほんの一点にしかすぎないのです。

神仏というものが、どのあたりの位置にあるものかは客観的に話すことはできませんが、おそらく、その神仏の位置から見たならば、この三次元宇宙というものも、非常に小さなごみのような、塵(ちり)のような、芥(あくた)のような、ただ一点にしかすぎない存在であろうと思われるのです。そのような不確かな、相対的に不確かな世界であるならば、相対的に不確かでありながら、絶対的に見れば、極微のものが極大となり、極大のものが極微となる。このような世界でありますから、私たちは、そうしたものの大小というものを考えないのであります。

今、私は、物理的に、物体として極微と極大の話をいたしましたが、これが心の話になると、もっと神秘的なこととなるのです。先程、私は、こういうことを説きました。すなわち、他力門の方がたは、要するに、神仏の慈悲というのは、非常に巨大なものであって、人間というのは非常にちっぽけなものである。そのちっぽけな人間が、心の修行をして悟るなどというのは不遜(ふそん)である。神仏の前に謙虚になりなさい。そして、神仏の前には皆平等である、と。こういうことを説きました。

他力門のよいところは、この平等の思想にあります。これは、実にいいと思います。私は、非常にいいものだと考えています。巨大な神仏というものを考えた場合に、すべての人間は平等であって、巨大なものの前の蟻としての、蟻のような小さなものという意味での平等であるということ。これは、大事な考えとも言えるし、鎌倉期のようなああいう時代には、非常に必要な主張だったと思います。しかし、それはそれとして評価するにしても、人間は小さなものだとして見るのが、私にはいささか不満であります。

人間の心のなかを見たときには、この心の宇宙というのは、また広いものであります。人間の心の広さを知らない人というのは、結局、悟った経験のない人間であります。人間は悟りということによって、どれだけ大きな存在になれるか。これを知らない人は、他力門に行って、そういう教えを受けるのであります。


2.宇宙即"我"を生きる「聖道門(しょうどうもん)」


道元  ところが、いったん、悟りというものを経験してしまうと、人間というのは、とてつもなく巨大な存在だということがわかるのです。心というのは、無限に広がっていくんです。あなた方を包んでいるこの大気も、そして、この大気に覆(おお)われて回転している地球も、月も、太陽も、星も、あるいは、宇宙空間すらも、あなた方の心によってとらえられることができるような存在なのであります。あなた方の心は、このように巨大になることもできるし、小さな一点にとらわれることもできます。

また、悟りというものを通すと、仏教のほうでは、"宇宙即我"という考え方がありますけれども、偉大なる悟りを体験すると、心というのは無限に広がって宇宙大になって、仝宇宙をすっぽりと包み込むような、そうした経験、神秘的な経験というものがあります。

これを宇宙即我の経験、悟りと言いますけれども、こうした経験を経たことのない人間は、非常につまらないものだと思います。しかし、いったん、こうした境地を経験した者にとっては、この人間の心、これは非常に愛すべきものであって、捨てがたいものであります。こんな便利なものはありません。折りたたみ自由であります。伸縮自在、まあ、たとえて言うならば、孫悟空の如意棒のように無限に伸びていくような、そうした力強いものが人間の心であります。この神秘力を知っているのと、知っていないのとでは大違いです。人間の心というのは、そのなかに、実は、そのなかに全宇宙を含んでいるのです。

あなた方は、三次元的な肉体があって、この肉体という殼のなかに、ちっちゃな心というものが収まっていると考えがちでありますが、実は、そうではないのです。それは、視点が違うのであります。あなた方の心そのものは、逆に、肉体をくるんでいるのであります。肉体が心をくるんでいるのではなくて、心が肉体をくるんでいるのであります。

そして、心というのがどういうふうな構造になっているかというと、心というのは、非常に多次元構造になっております。心というのは、何重もの構造になっているのであります。つまり、心のなかには、四次元世界、五次元世界、六次元世界、七次元、八次元、九次元、さらに十次元以降の世界と、このように多重の構造になっておるのです。

すなわち、いわゆるタマネギ型の構造ですね。こういう構造になっていまして、いいですか、まあ、今の図式で言うと、心の一番外側の表面ですが、この表皮の部分が、あなた方の肉体と言われているものなのです。そして、この三次元に現われた肉体というものは、これは何か。心から遊離したものかと言うと、そうじゃないんです。これは、心の表面粘膜(ねんまく)なんです。心というものがすべてであって、この周囲(まわり)に出ている表面的な粘膜的な存在、つまり、あなた方の心を包んでいるもの、これが単なる肉体なんです。ですから、肉体と心というのは別々のものではないんです。

あの世の世界を知り、霊魂の世界を知った人間であっても、ともすれば、肉体と心、肉体と霊というのは違うものだと考えがちでありますが、これは違うものではないのです。不即不離(ふそくふり)であって、四次元以降の世界の三次元的投影が肉体なのです。

ですから、あなた方の肉体というのは、あなた方の心の反映であり、その物質化にすぎないんです。それぞれの肉体、とくに顔がですね、その人の"人となり"を表わすと言いますが、まさしくそのとおりでありまして、心の世界の反映が、三次元的反映が、あなた方の肉体であります。これを、逆に考えてはいけないし、肉体と心というのを対立的に考えてもいけない。それも間違っています。そのようなものなのです。

そうしてみると、あなた方の心というのは、三次元から十次元まで通じているものであります。ですから、それを物体的に小さなタマネギと考えれば簡単ではありますが、そのタマネギの皮のなかの四次元的部分、五次元的部分、六次元的部分、あるいは、九次元的部分というのは、単にタマネギの内部に収まらないのです。この九次元的部分は、すべての九次元的部分に通じており、四次元的部分は、すべての四次元的部分に通じているものなのです。すなわち、あなた方のなかには、無限の宇宙空間が、多次元空間が入っているということなのです。そういうふうなものなのです。肉体に収まっているものじゃなくて、ほんとうは無限に大きく、心のなかのひとつの投影として肉体があるのです。

たとえば、あなた方は、スポット・ライトというものを知っているでしょう。地上に出ている肉体というのは、ちょうどこのスポット・ライトが当たって、舞台に丸い光の輪が映る、この形なんです。これが地上であって、ほんとうは、このスポット・ライトの出ている光源の部分があるのです。これが実は、あなた方の心の世界なのです。スポット・ライトというのは、舞台に映った丸い照明そのものです。これが肉体部分です。ですから、光源がある。その光源というのは、心の世界である、と。こういうことであります。

ですから、神仏や高級霊たちと、地上に来ている人間たちの大小を問うものがあれば、それはある意味で間違っているということです。心のなかは、無限であります。そして、心の構造そのものを見ると、八次元、九次元も心の構造のなかに入っていると言いましたが、これはすべての人間にとって、そうなのです。すべての人間の心のなかには、心性のなかには、必ず如来や菩薩の境地があるのです。

神は、人間を平等につくっておられるのです。あなた方は、ともすれば、この人は六次元の人、この人は七次元菩薩界の人、この人は八次元如来界の人と、こういうふうにいいがちでありますが、そうではなくて、実際には、その人の心のなかには、すべての次元が入っているのです。たとえば、あなたを例にとれば、あなたの心のなかには、如来界の心も入っているんです。もちろん入っています。また、もちろん霊界や幽界の心もあるんです。心の構造のなかで、要するに、どの部分が一番活発に動いている部分かということなんですね。

ですから、九次元意識が一番動いている人は、九次元というところに存在しているわけですが、では、九次元にいる人には三次元的な意識は何もないのでしょうか。たとえば、衣食住ということにも無頓着(むとんちゃく)なのか、あるいは、四次元的な思いというのはないのかと言えば、あるのです。それはあります。一部分にあるんです。しかし、たとえばそれは、引き出しのなかに収まっているようなものなのです。要は、どの部分が一番活発になっているか。ですから、七次元菩薩界にいるという人は、八次元如来界から比べて、低い地位の人だというわけではないのです。

心のなかには、そうした多次元構造がすべて入っていて、菩薩行、つまり愛行ですね、愛行の世界に生きている人たちが菩薩界にいるのでありますが、それは、七次元的心が一番活性化している、そういう人たちの集まりだということなんですね。ですから、そういう上下の考え方をするのは間違っているのです。

すべての人間が、そういう構造としては非常に多重構造にできておって、まあ、たとえば、ランプが点(つ)いているようなものなのですね。ランプが一、二、三、四、五、六、七、八、九、十と点いていて、今どこに点いているか、そういうことなのです。あるいは、昔の人が、あなた方のところへ出られて、エレベーターの話をされたようでありますけれども、十階建の建物にエレベーターがあって、エレベーターは上ったり下ったりしている。たまたま、今何階におるかというだけであって、すべての人が、十階から下まで上り下りできるんです。こういうふうな心の構造になっておるわけであります。ただ、そのとき、そのときに、立場があって、何階に住んでいるかと、活動しているかと、そういうことが決まっているだけなんです。

ま、そういうふうに心の仕組みというものをくわしく見てみると、これは無限に広いものなんです。そうすると、心、自分の心を探究するということは、実は、宇宙を知ることであり、そしてまた、多次元世界、高級霊を知ることであり、さらにまた、それを通して神仏を知るということなのです。ですから、外(そと)にないんです。

神理は外になく、救いも外にないのです。神理も救いも、自分の内(うち)にあるんです。自分の内なる心、「真我」なる心を徹底的に探究していったならば、そこには、すべての秘密が隠されているんです。ですから、よく"極楽浄土"を求めると言いますが、極楽浄土というのは、西方にあるんじゃないんです。極楽浄土は、その人の心のなかにあるんです。西の方へ行けば偉い人がいて、救って下さるんじゃないんです。雲がたなびいて、天の軍勢が迎えに来てくれるんじゃないんです。

あなた方の心のなかに極楽浄土はあるんです。それを見い出すんですね。天国地獄もあの世の世界ではなく、この世の世界だと言った人がおります。あなた方の心のなかの部分です。あなた方の多重構造のなかの、心のどこの部分が、主としてあなたたらしめているか、あなたとしての特色を持っているか。これが四次元地獄界の人間であったり、八次元如来界の人間だったりする理由であります。

では、天使たちは、地獄を思ったことがないかというと、思ったことがないわけではありません。思うことはできるのです。ただ、そういうことに執(とら)われていないだけですね。自分たちの主として考えていることを、おもに持っているということですね。不自由なもんじゃないんです。


3.「自力」とは、"絶対的自分"に生きること


道元  こういうふうに、人間の心というのは非常に神秘的であり、奥深いものでありますから、「他力」というものは、自他を分離する考えがあるわけです。自と他を分離するのが他力の教えでありますが、「自力」というのは、要するに、他を無視して自力に頼るということじゃないんです。本来、「自他一体」なりというのが、自力の教えなんです。自分のなかにすべてがある、これが自力の教えであって、自分と他人を切り離さないんです。

"阿弥陀如来(あみだにょらい)"というのははるか遠いところにおるのではなくて、阿弥陀如来というのは、自分の心の奥底にひそんでいるものなんです。そういうことを見つめるのが、"自力"であります。自他を切り離さないんですね。自分のなかにすべてを見出していく、「絶対的自分」であります。相対的自分じゃないんです。

相対的自分というのもあります。肉体を持っているあなたと、あなた以外の人とは、相対的自分という面から見れば別なものであります。しかし、絶対的自分、絶対的人間という面から見れば、それは別のものではないのであります。すべての根っ子がつながっているのです。心の世界では、つながっている存在なんです。ですから、認識の基礎がね、「他力」と「自力」とでは違うということです。

まあ、他力も自力もともに、もちろん神仏というものに向かっていく教えなんでしょうが、他力というのは、どうしても自分というものを切り離して、小さなものに押し込めている。そういう傾向があります。これに対して、自力というのは、自分自身のなかに、絶対的自己というものを探究していく教えであります。この自力について、何かご質問があればお答えいたします。

――  私が考えますところでは、「自力」「他力」と申しましても、大きな観点から見ますならば、これは神仏の御心(みこころ)、神理に近づいていく上での人それぞれの立場、立場に関わる悟りへのきっかけ、その与えられている方便であろうと思います。

あなたも申されておられるとおり、本来神仏の教えには、「自力」「他力」という別なるものがあるのではなく、自他が一如となった「絶対的自力」そのものが、人の生きるほんとうの道であるということで、これはまったく同感であります。そのとおりだと思います。

ただ、ここに、「自力門」「他力門」という教えの道があるということ、認識の領野が現に二つあった、と。あえてあったと申しましょう。あったということは、それはそれだけの時代背景の影響下に置かれた人びとの知的、あるいは、経済的、環境格差というものが、公平に言って、大きな要因をなしていたというべきだと思います。従って、ある時代の武士、貴族階級には、「自力聖道門」の教えが受け入れられ、また、同時代にあっても、農漁民や工人、下層商人たちにとっては、「他力浄土門」の教えが素直に理解され、人びとの魂の救いとなったものと思われます。別の言葉で言いますならば、いずれの人に対しても、御仏(みほとけ)の対機説法がなされたということで、これも方便、それも方便ではなかったかと思います。


4.個性向上に努める「自力門」、没個性、脱価値の平等観に堕す「他力門」


道元  ただですね、そういう考えも、もちろん、確かにありますが、では、なぜね―、神仏は人間に個性をお与えになったのかということを考える必要があるんです。個性をお与えになったということは、相互に努力し、自分自身を伸ばしていくなかで、全体の宇宙の構成員すべてが向上する、そういう教えを考えたはずなんです。

つまり、なぜ個性があるか、これを考えていく必要があります。やはり個性があるということは、それぞれのなかにすべてを見出していく、それぞれの各人が、すべてをその自分自身のなかに見つめていく、その努力をする必要があるんじゃないか、と。

たとえば、この『道元禅師霊示集』という本が世に出されたとしても、これを読むのは、ひとりひとりの人間であります。そのひとりひとりの人間が、この『道元禅師霊示集』を読んで、どう感じるか。それをどう実際生活に応用していくか。どう心の世界に応用していくか。こういう問題だと思うんですね。

つまり、ひとりひとりの進歩が、実はすべての進歩につながっていく、こういう考えです。ですからまあ、自他がないということであってもね、自他がないということは、個性がないという意味ではありません。個性というものは、個性としてちゃんとして与えられているもんです。なぜこの地上に、個性ある存在として皆さんが許されているか。それはすなわち、それぞれの門は、それぞれの角度から探究していきなさい、と。こういう意味だと思うのです。ですから確かにね、"阿弥陀如来"に救われるという考えであるなら、もう無個性かもしれない。没個性でしょう。ある意味で、そうじゃないでしょうか。だれだから救う救わないということはないということでしょう。すべての人が救われるという考えです。

そういう意味では、平等ではありますが、平等という思想の背景には、没個性という裏の脱価値、価値剥脱(はくだつ)という概念があるわけです。平等ではあるが、脱個性であります。

ですから、私がいっている個性の追求のなかには、平等とは違った自由という価値がおそらくあるでしょう。昔からある自由と平等という問題が、実は、他力と自力の問題のなかに現われてきているんです。まあ、もちろん、自力の難点としては、ある意味では、そういう差別知を育(はぐく)むおそれがあるということですね。心のなかにはすべての世界があると言いながら、ある人は、七次元的悟りまでいける。こういう差は、厳然としてあるではないか。そうすると、それはひとつの差別知ではないか、と。こういう見方、問題があるわけです。

ところが、"阿弥陀如来"を信仰するような他力信仰には、すべてのものが平等であって、そういう差別知がない。ある人が努力したからといって、とくに救われるわけでもなければ、努力しなかったから救われないというわけでもない。こういう教えでありますし、平等知であります。

ただ、言わしていただくならば、そういう他力信仰は、いつの時代でも同じになってしまいます。そうじゃありませんか。百万年前だって、同じです。そんなことを言っておるのであるならば、人間が時代と環境を変えて、魂修行をしている意味がないではないですか。いつの時代だって、それで教われるなら、他力でね、つまり、"阿弥陀如来"と言っておればいいのであれば、これは時代による差はないではないですか、まったく――。ところが、時代と環境を変えて人間が生まれて来る理由は、それぞれの環境のなかで、独自の個性的な悟りを得ていきなさいという意味ではないですか。

そういう意味では、やはり人間が転生輪廻(てんしょうりんね)をしていく理由を考えてみると、私は、自力というのがどうしても主眼になると思うのです。自分で選びとった環境、選びとった時代のなかにおいて、やはり自分たちは、それなりの最高の悟りを得ていけということなのではないでしょうかね――。これについて、何か質問がありますか。

――  そうですね、まあ、これは昔から言われているように、親鸞(しんらん)さんも、また唯円(ゆいえん)さんも申されておりますが、自力、これは大変けっこうである、と。「聖道門」はけっこうなことである。これは素晴らしい教えである。この教えが分かって生きていける人は恵まれた方であり、幸せな人である。しかしながら、この教えが分からず、その教えによって教われない人はどうなるか。その自力の教えが分からない者は、どうなるのか、と。

たとえば、戦国乱世という洪水の大河のなかで、浮きつ沈みつして救いを求めて流れている凡夫を見て、「お前は、学を身につけたら、自力で救われるんだ」と言って、泳ぎの達人は傍観しているかというと、そうではないのです。とりあえず、襟(えり)をつかんで岸へ引き上げねばならない。水を吐かすなり、何なりの処置は、その後で、十分なせばよい。とりあえずは、一命を取り留(と)めるのが先決ではないのか。このとりあえずの仏の救いを説くのが他力門であり、その上の研究、研讃(けんさん)を積み、高い悟りを得ようとするのが聖道門である、と。そう語っておられましたが――。

したがって、まあ時代背景というものもありまして、鎌倉期、戦国期におきましては庶民の知的水準も低く、そのために、そうした他力本願の教えが、当時の人びとの共感を多く呼んだものと思います。しかしながら、今日のごとき文明文化、教育の進んだ時代におきましては、それだけではもの足りないのではないかと思います。

道元  もちろん、私が言うのは、他力の教えで皆んなが救われているのであれば、それはそれでけっこうですよ、と。そして、大衆を救いたいというのが彼らの本願でありましょうから、「禅」でやった人は自分ひとりしか救えないけれども、他力は多くの大衆が救えたと言うかもしれない。ただ、ほんとうに彼らがね、数十万、数百万の人を救ったかどうかです。その後、どうなったかであります。その人たちが、その後どうなったかであります。

ほんとうに、彼らが救われていると思いますか。救われていると思いますか!"南無阿弥陀仏"と念仏をあげて、彼らの教えによればですよ、"南無阿弥陀仏"とあげなさい。いや、あげようと思っただけで救われているのだ、と。天国行きは決まっているのだ、と。弥陀はね、そういう念仏をいくら唱えたら、百万回唱えたから救ってくれるんじゃない。あげたからいいんじゃない。あげようと発心(ほっしん)しただけで、すでに極楽往生間違いなしなのだ、と。親鸞の思想は、そうであります。あなた、これを正しいと思いますか――。

――  まあ、これも対機説法でありまして、相手によって、そう説くのだろうと思いますが……。

道元  しかし、実際ね、生きている人たち、庶民たちは、"南無阿弥陀仏"という気持ちを起こしました。その後、何もしなくてですね、皆んな、天国へ行っていると思いますか。あなた、どう思いますか。常識人としてですよ。理性的な人間として、どう思いますか。あなたがですよ、どんな悪いことをしてきてもですよ、「いや、俺は心を改めようと、"南無阿弥陀仏"という気持ちを持った」と、阿弥陀さんを真に信仰したという気持ちを起こしたら、もうそれで、あなたの天国行きは決まっている、と。ほんとうですか。ほんとうだと思いますか、あなた、これ。

――  それはね、それで地獄に堕ちる人もあるかもしれないけれども、それで救われる人があるということです。

道元  それで救われるような人は、何もしなくても救われるんです。"南無阿弥陀仏"と思う気持ちを起こして救われるような人は、何もしなくて、あの世へ行っても、きっと、救われているんです。心清い人ですから、きっとね。

――  まあしかし、末期(まつご)にあたりましてね、無知の人が、何をすればいいのか分からないような人でも、たったひとこと、"南無阿弥陀仏"と唱えれば、お浄土へ連れて行かれるんだということを信じている人は、それしか方法がないわけですわね。そして、"南無阿弥陀仏"と言って掌を合わして成仏する姿、これも、そこに方便が生かされておるのではないかという気もするのですがね――。

道元  ま、もちろんね、それでそのまま、やすらかに成仏していく人もあります。そして、それこそ、霞(かすみ)たなびく黄金の雲に乗ってですね、諸如来、諸菩薩が迎えに来て、その人をあの世に連れて行く、浄土に連れて行くということもなかったとは言いません。ただね、"南無阿弥陀仏"と死の間際(まぎわ)になって一生懸命に言っていて、そして、死にました、と。ストーンと真っ暗な地獄に堕ちて行ったときに、この人たちは、その後、何をしたらいいのですか。相変わらずぶ"南無阿弥陀仏"を言うんでしょうか。いや、それさえ言わなくていい、と。発心を起こせば、もう救って下さるのが決まっているというのに、じゃあ、どうしたらいいのでしょうか。

――  それは、その人は、やはり発心(ほっしん)したということによって、ときはかかれども、やがては、弥陀の救いにあずかると言っておられますが――。


5.地獄界に新たにできた"念仏地獄"


道元  しかしながら、私がですね、その他力信仰の信者たちのその後というものをあの世で見ていると、どうかと言うと、地獄界には、ひとつの新しい地獄界ができたのです。それを"念仏地獄"と言います。こういう他力門が出る前は、こういう地獄はなかったのです。

ところが、地獄のなかの一部分にそういう念仏地獄というのができました。まあ、それはもちろん、親鸞とか、蓮如の考えがすべて間違っているわけじゃありませんから、それを正しく理解して天上界へ行った方もいらっしゃるでしょうが、やはりね、ああいう教えは、つまり、大衆救済という教えは、一歩間違うと大衆に迎合(げいごう)してしまうんです。

なぜ、あんなにあの教えが流行(はや)ったか。ある意味で、迎合しているという側面があることは見逃せないのです。要するに、どんなことをしてでもね、何でも"南無阿弥陀仏"の気持ちを起こせば、救って下さるんです。これはありがたいですよ。彼らはそうは言わないかもしれないけど。これは私から言えば、ひとつの「免罪符」です。ね、ぶら下げるの簡単です。チャリンとお金を投げてですね、南無阿弥陀仏をあずければ、胸に掛けたら、あなた、救われるんです。そうは思いませんか。

もちろん、多くの素朴な人たちに信仰心を植えつけたという意味では、功績(こうせき)があると私は思う。ただ、ほんとうにその救いを得たかというと、必ずしもそうじゃない。そして、それ以降ですね、つまり、ああいう念仏宗が出て以後、地獄に堕ちてですね、堕ちて、そして、念仏行者ばかりが集まってですね、念仏地獄をつくっている。あの世でですね、「ナミアムダブ、ナミアムダブ」ばっかり言っているんです。そういう人ばっかりが集まっとるんです。確かに救ってくれるはずだ、と。ね、ナミアムダブ、ずっと唱えているんです。救われないです――。

なぜ救われないか。救いたいと思っているのですよ。もちろんあの世の霊たち、高級霊たちは、救いたいと思っているんですよ。ただ、彼らは、なぜ自分が地獄に堕ちたかわかっていないから、救えないんです。
 あなた方にわかる言葉で言えば、いわゆる想念(そうねん)が黒いわけですね。あるいは、比重が重いから地獄の底に沈んでいるんです。想念が黒いんです。この想念の黒さに気がついてくれなければ、救えないんです。真っ黒けのままでは、あなた、ダイヤモンドのような世界へ引き上げて来るわけにはいかないんです。

そしてまた、その真っ黒けというのは、あの世の法則では、自分で払わなければいけないことになっているんです。そうしないと、どんな真っ黒けで堕ちても、あの世からですね、百万燭光の光でピカッと照らせばすべてなくなるんだったら、塵も垢もなくなるんだったら、こんな簡単なことはありません。それを慈悲や愛だと

そうじゃありませんか。自分がつくった心のひずみをどうして人が拭(ぬぐ)ってくれるのですか。自分がつくった曇(くも)りは自分で拭(ぬぐ)わなければ仕方ないじゃありませんか。まあそれがね、別にね、自力論者の考えじゃなくて、神様が考えておられる考えなんです。そうじゃないとね、もちろん南無阿弥陀仏唱えなくても、ほんとうにたとえばですよ、あなた方のなかで考え違いをする人かおるかもしれない。

どんな罪を犯したってね、神や仏は慈悲や、愛のかたまりだから、絶対救って下さるのだと、今言ったように言うのだったら、何したって救って下さるのに決まっているじゃないか、と。もし地獄に堕ちたとしても、「頼みますよ」と言えばですね、一瞬のうちに罪や穢(けがれ)は赦(ゆる)してくれるに違いない、と。そして、天国へ行けるよ、と。

こういう心得違いをしているものがおるのです。――地獄へ行きます。いくら人を呼んでもね、救われません。あの世の霊たちは、救おうとしています。でも、救われません。真っ黒けだからです。墨みたいに真っ黒になっているんです。上げようがないです。同じ世界でないと住めないのです。これはあくまでもね、その人が一生に犯してきた罪業というものは、自分自身で反省していただかないと、どうにもならないのです。

私たちは、たびたび地獄へ行って見て来ております。地獄へ行ってね、私も、地獄へ堕ちた他力門の人たちを救うために、自力門の私たちが、ずいぶん地獄へ行って、救いに行きました。念仏地獄へ行きました。そして私は、たとえば、ひとりひとりを呼んでね、「あなた方、自分自身の心の曇りを晴らさないで、だれが一体晴らしてくれるんですか、と。あなた方ひとりひとりがね、自分が過去行なった行為、念いのひとつひとつの悪いところを取り出して反省しなさい。禅定(ぜんじょう)してね、ひとつひとつの悪いところを反省して想い出していきなさい。そして、心清くなれば、救って下さるんですよ」とね、私は教えに行っています。そう説法しています。ただ、彼らは頑(がん)として受けつけないんです。

つまり、「そんなの間違っている」とね。そして、こう言い返す。「ただね、阿弥陀様にお願いすれば救って下さると、私たちは教わった。あなたは悪魔に違いない。光っているように見えるけど、きっと悪魔だ。そういう間違った教えを教えてね、私たちを地獄のもっと奥深いところへ引っ張って行こうとしているに違いない。自分で悟れるなんて。そんなのは、絶対間違いです。人間はそんな存在じゃない、そんなんじゃありません。自分で救われるような、そんな善人はおりません」と。そういうふうに、言い返すんですね。

しかし、私は、「そうじゃありません。反省しなさい」と。しかし、彼らは反省のモノサシというものを持っていないから、反省のしようがないですね。すべて帳消しにしてくれると思っていましたから。だから、そういう信仰というものをいったん持ってしまうと、信仰心というのは、なかなか強固なものなんですね。だから、私たち自力論者がいくら行って説明しても、わかってくれないのですね。それを解かってくれるまでには、五十年、百年かかるのです。この手間のかかり方は、大変です。