目次
2.弥陀の誓願の意味
6.罪と罰について
12.悪人が救われな理由
16.「他力本願」の本当の意味
15.仏法者の肉食妻帯(にくじきさいたい)是非論について
―― 非常に深遠なるお教えを、現代の世相、世情にまで敷衍(ふえん)してお説きいただきまして、ありがとうございました。現代の信仰者、あるいは、宗教者としても、また、真宗の僧侶学者の方たちであっても、今日の親鸞聖人がこのような人間の「善悪」論にもとづく信仰の真髄をお説きくださるとは、おそらく夢にも思っていなかったことだろうと思います。大いなる啓発であったとぞんじます。
ほかにおたずねしたいことも一、二ございます。これは、今では法の根幹に触れる問題ではありませんが……、当時においては、僧侶の肉食妻帯(にくじきさいたい)ということは、異形(いぎょう)なことであっただろうと思われますが、聖人様以来、真宗はもとより、他宗の憎まで、この"肉食妻帯"を否定はしなくなり、現今にいたっております。しかし、この肉食妻帯を「是」となさった当時の聖人様のお心のうちは、如何なるものがあったのでしょうか。その辺のご事情について、おうかがいいたします。
親鸞 この「肉食妻帯」に関しては、さまざまな議論がありました。こちらの世界、あの世においてもまた、議論が多かったのであります。
私もこちらに還って来てから、さまざまな宗教家たちから、ずいぶんとつめよられました。「親鸞よ、お前がために日本の仏法は滅びた」と。私は、ずいぶんたくさんの方から、このように言われました。私の時代以降、人間はほしいままにしても、仏のみうちに仕えることができるのだという、そういう考えを持つ人が、宗派を越えて増えてきました。肉食妻帯しているのは、決して真宗だけではございません。親鸞以降、他の宗派の方がたも、そうなったのです。そういうことにおいて、他宗を興した方がたからは、私は、ずいぶん批判を受けました。「お前の教えを信ずる者だけが肉食妻帯するのは、けっこうである。けれども、われらが教えを信ずる者までが、お前の真似をし、肉食妻帯をしておるではないか。そのおかげで、われらの教えが、だんだんと衰えてきたではないか」と。こうしたことを、私はずいぶんこちらで言われました。確かに、当たっていることもたくさんございますでしょう。
親鸞は、自らが重病人であり、重罪人でありましたから、自らがどうすれば救われるのかを、一生懸命考えており、また自らの罪のなかを生きておりました。世においては、要するに私は失敗者であったわけです。大失敗者であった。ですから、私は大失敗者の道を説いたのであります。大失敗者においても、逆転をする道、逆境を跳ね返す道があるということを説いたのが、私の教えでありました。それを間違えて、世に成功すべき人たちが失敗者の真似をし始めたら、これは世の中、困ってしまいます。こういうことを、ずいぶん言われました。
私は失敗者です。私は成功者だとは思っていません。失敗者である私が、神仏に近づく道を説いたのです。それを、成功しようとしている人が間違えてしまっているわけです。私は肉食をしました。妻帯をしました。ですから、私は人一倍罪深い人間だと思って、神仏への、「阿弥陀」への信仰をいっそう深めたのであります。これは、私にとって、一つの契機でありました。
しかし、単に肉食をし、妻帯をしただけで終わっていたならば、私はどっちへ行っているかわかりません。私はそれを契機として、神仏の信仰を深めたのです。世の中に、現われたさまざまなこと、さまざまな現象、さまざまな事件があります。ただ、それをどう咀嚼(そしゃく)し、どう自分の血肉にして、よき方向へ伸ばしていくかであります。修行者が単に肉欲に耽(ふけ)り、食道楽に耽っていくだけであれば、これらのものが行くのは地獄そのものであります。
親鸞は、堕落せよと言っているのではないのです。たとえ堕落した自分であっても、神仏を信じて立ち直りなさいと教えているのです。堕落せよとは言っていません。堕落を奨(すす)めているのではありません。そういう方がたは、自ら救いにくい急流に身を投じて、「では、救ってみろ」と言っている人と同じであります。これは何かと言うと、結局は、神仏を試しているのと同じです。悪魔の声と同じです。
悪魔がイエス・キリストの前に現われて、「汝、もし神の子ならば、命じてこれらの石をパンとならしめよ」「汝もし神の子であるならば、聖書にあるように、この丘の頂より飛び下りるとも死すことあるまじき」――このようなことを、悪魔はイエスに囁(ささや)きました。イエスはこのときに言いました。「汝の主なる神を試すなかれと、また聖書には書いてある」とイエスはそう答えたはずです。
同じであります。悪人だからといって悪を犯す人、堕落しても救われる道があるからといって、自ら堕落の道を選ぶ人、こうした人びとは、「石をパンに変えよ」と言った悪魔と同じであります。また、「神を試すなかれ」という訓(おし)えも忘れてはなりません。
ですから、今、宗教家のなかで堕落している者がいたならば、親鸞が教えを間違って理解して、堕落の奨めのように思っているかどうかを反省していただきたい。堕落、すなわち成仏と、私は言っているのではないのです。それはまた、神仏を試しているということになってしまいます。そのような騙(だま)しにのってはいけない。神仏は石をパンに変える力を持っているか――持っております。それだけの力は持っております。ならば、神仏はすべての石をパンにするか――これはしません。神仏は、必要のないことはしないからです。また、人間心で試してはいけないのです。それもまた、"バベルの塔"であります。神を侵さんとする考えであります。
一般的なことを申しましょう。肉食を断てば、地獄に堕ちるわけではありません。妻帯をしたとて、地獄に堕ちるわけではありません。それは確かなことです。ただ、欲をどうとらえるかということです。釈迦の時代にも、肉食はなるべく避けました。また、妻帯が、やはり妨げになるということは、釈迦も知っておりました。しかし、釈迦がやったことをそのまま真似てはいけないのです。そこには、やむを得ずしたことと、好んでしたこととの違いがあるのです。
釈尊たちが肉食をしなかった理由は、肉食をしていると煩悩(ぼんのう)がつのるからであります。肉食をすると、煩悩の働きが強くなる。しかし、なるべくこれを遠避けて、菜食にしたならば、体の活動がそう活発にならずに、瞑想に適した生活が送れる。このような一つの知恵として、肉食を断ったのです。ですから、肉食をすれば地獄に堕ちるとか、肉食をすれば悟れないとかいうことではないのです。それは一つの方法論であったわけです。肉食をしても、悟れる人はいくらでもいるのです。肉食をしても、けっこうです。それだけ厳しい修行をすればよろしいのです。
また、妻帯にしても同じです。夫婦相和して、信仰心があって、同じ神の道を求めるならば、妻帯することはいっそう信仰を強めることになります。今の世の中を見ていても、夫婦ともに同じ信仰を持って道に励んでいる人たちは、私たちの眼から見ていても、これは微笑(ほほえ)ましいものです。夫婦相和して神社で掌を合わしている姿、夫婦相和して一つの宗教を信じて一緒に努力している姿、夫婦相和して土曜日、日曜日にさまざまな人を導いている姿。こういう姿を見ていると、私たちは、非常に微笑ましく思います。雄の鳩と、雌の鳩が一緒に空を翔んだほうが美しく見えます。神様、仏様というのは、決してそういうことを否定はしていないのです。
ただ、これは一般的な手段であり、警告でもあったのです。肉を食べると煩悩がつのるので、なるべく避けたほうがいい、避けたほうがよいであろうということなのです。あるいは、妻を持つとなかなか修行がしにくいから、なるべく持たないほうがいいだろうということです。修行のなかには、"瞑想"があります。あるいは一人だけで、"坐禅"に耽ることもありましょう。神と対話するということは、やはり一人になるという必要があります。ところが、家庭を持つと、どうしても世俗のなかに紛れるという機会がある。しかも、理解のない人を妻とすると、それはまた、その道の非常な妨げとなります。しかし、理解をする人が妻であるならば、それはけっこうです。
妻帯のもう一つの問題点は、経済的な問題であります。男はいつの時代でも、やはり経済的な柱になるように期待をされております。そのときに、経済的な柱になる人が、神仏の道に走ると、神仏の道にはなかなか金銭的余裕というものがありませんから、その部分がむずかしくなる。結局、家庭不和になり、両方ともがどっちつかずになることが多いということもあるからです。
神仏の道を求めても、金銭的、経済的に苦労されない方は、恵まれた方でありますが、実際上は、むずかしい。このように、一般的に理解のない人が多く、理解のない妻が多いであろうということです。あるいは、夫がそれに走ると経済生活がうまくいかないであろうということです。こうぃうことを考えて、まあ、妻帯をしないほうが悟りはしやすいし、修行はしやすい。自由に働ける、と。こういうことがあったわけです。ただこれも、協力をしあっていけば、さらに素晴らしいものができることは当然です。肉食と同様です。
逆に、今の時代に菜食ばかりしていたら、全国各地を、巡錫(じゅんしゃく)して廻るのはむずかしいぐらいです。エネルギーがいるのです。豆腐と胡麻の油ばっかりを食べていたのでは、人間は活力がでてきません。それはあくまでも現象なのですから、それにとらわれてはいけないのです。そのほうが、ときには、悟りやすかったということにすぎません。現実にも、僧侶で悪妻を貰って、堕落した人はいます。あるいは、食べたいものをいっぱい食べて、全然努力をしない人もいます。
けれどもね、そういうことは、別に仏教の世界でなくても、仏の世界でなくても、普通のところにもあるはずです。普通の事務所でも、事業家でも、他の道を行く人でもそうです。結婚したために苦しいというのはね、音楽家だってそうです。音楽家とか画家とか、こういう道を求めている人たちは、結婚することによって、さまざまな問題がでてきます。しかし、それは何でも同じです。学問をする人もそうです。学者でもそうですね。独身時代には、貧乏であっても、本だけ買っていればよかった。ところが、結婚したばっかりに、さまざまな費用がいるようになって、そのため、本が十分に買えなくなる。だから、独身でいたほうがいい、と。こう考える学者もいます。まあ、そうしたものです。
ただ、これは、あまり一般的なことではありません。ですから、現代の人びとに言うならば、まあ、こういう時代ですから、結婚したほうがいいと私は思います。しかし、そうしなくてもいける方であるならば、神仏の道一筋でいったほうがいい。とはいえ、現実には誘惑も多い。実際、男と女が三十にも四十にもなって、いつまでも独身でいれば、誘惑も多いし、逆に、それが堕落の契機になるでしょう。また、世間のいろんな声が聞こえてきて、修行の妨げになることもあるでしょう。ですから、好ましい方法は、同じ道を求める者同士が結婚して、一緒に生活するということです。
そのためには、あなた方がしっかり努力することが大切です。「信仰を持つということは、普通の人間がすることなんですよ」「まっとうな人間が神や仏を信じていいのですよ」――ということを、あなた方がしっかり言うべきなのです。神仏の道を信ずるのは特殊な人間ばかりのような印象を与えているから、苦しいのです。これは普通の人、だれでもあたりまえのことなのです。そういうことを、あなた方が、しっかりと説いていただきたい。そうすれば、同じ道に入っていく人びとが多くなるでしょう。こういう宗教というものを、神や仏のことを悟るのが常識だとするような、そうぃう世の中を、頑張って早くつくってあげてください。馬鹿な科学主義ばかりが蔓延(まんえん)して、人びとを狂わしておるのです。そのような狂った人が多いから、本当の道を行く人が、間違った方向へ行ってしまうのです。
16.「他力本願(たりきほんがん)」の本当の意味
―― 現代でも、「真宗」の方たちは、親鸞聖人のお教えの根幹にあるものは、"他力本願"の教えであるとしております。この"他力本願"ということについては、如何でしょうか。私は、この他力とは、自力に対する相対的な認識であるのか、それとも、この「他力」とは、自力、他力を超えた根源なるものの「絶対力」に帰依(きえ)するということを「本願」とみたてまつることが本来ではなかろうかと思うのでありますが……。
親鸞 これはね、時代によるものです。たとえば、私たちの鎌倉時代には、この世的には、あなた方が、今計画しているような「仏国土」をつくれるような状態ではなかった。ですから、この世に生きている人びとにあの世があるのだということをまず悟らして、そのことを悟った上で生きていく心がまえを説いたのです。この世に仏国土をつくるのはもうむずかしい、そういう末法の時代だった。したがって、せめてあの世で成仏してもらえるようにと、その心がまえを説いたわけです。
そこで、この世的なことを否定して、あの世的なものへと、他力へとなったわけです。ところが、現代のような時代では、あなた方の使命は、この地上に仏国土をつくることです。そうであるならば、この世を一途に否定して、あの世のことばかり言っているだけではいけません。この世も、あの世も、両方ともによくなっていかなければならないのです。ですから、この世をよくしていくためには、もちろん、各人の努力もいるでありましょう。
―― つまり、時代背景、環境というものを考えなければいけないということですね。
親鸞 他力といっても、自力を排斥するものではありません。さきほども、私は言ったはずです。自ら泳いで岸まで渡っていける人は、それはそれで素晴らしい方です。それを批判するつもりはございません。自ら泳いでいける人と、救ってもらう人とがいて、みな岸辺に上がってくることができるのです。
岸辺に上がる、すなわち救われるとは、昔においては、あの世に成仏するということでした。浄土に入るということであったのですが、今の時代では、この世もまた、よくしていくという時代であるということです。
―― 川の深みの急流へ、だれでもかれでもが入っても、"弥陀(みだ)"が救ってくださるのだから大丈夫だというふうに他力の教えを誤解してはならないというお諭(さと)しであったと思います。
また、これは、"神"を試そうとすることになるのと同じだと、イエス様のお訓(おし)えを通してお説きになられました。このように、ただ単に言葉だけにとらわれてはならないのだということでございましたね。
親鸞 そうです。キリスト教でたとえれば、アーメンと言えば救われるというわけではありません。ただ、アーメンのなかには、深いものがあるということです。神に帰依(きえ)するという深い気持ちがあります。他力なしの宗教はないのです。
すなわち、宗教とは、結局、死後の世界のことを教える学問だからです。死後のことを言わない宗教がありますか。死後のことを言わないのだったら、それは宗教ではないはずです。
それは、宗教ではなくて、そういう"道学"ですね、道学になってしまいます。
"処生訓"です。私たちが言っているのは、処生訓ではないのです。「宗教」でないものとの違いは、あの世の話があるか、ないかです。
17.親鸞は前世でイエスの弟子パウロとして生まれ、信仰の大切さを説いた
―― いろいろのお教えをありがとうございました。これは、親鸞聖人のお教えの本義を、現代人が現代的に解釈できる貴重なお説であったと、このように思います。
現代において、浄土真宗の方がた、あるいはまた、親鸞聖人をお慕いしている方がたが、親鸞聖人の"真宗"の教えというものを本当に理解できるということをわからせていただいたということは、おそらく今回のご霊訓をもって最初となったであろうとぞんじます。
親鸞 ですから、私は、現代の人に『南無阿弥陀仏』を唱えなさいとは言いません。ただ神仏の大いなる慈悲、力というものを忘れるなということです。科学万能に陥ってはいけない。神仏の力、大いなる慈悲というものを忘れてはいけないよ。それほど自分を過信してはいけないよ、と。私は、そう言いたいのです。
親鸞より前に、過去世において、私は、イエスの弟子のパウロとして生まれたことがございます。そのときにも、私はそれを説きました。「人びとよ、増長慢(ぞうちょうまん)になるな。自分の力でこの世的なことをやっていけると思うな。神の力は偉大なものなのだ。もっと信仰しなさい」と。
私は、いつの時代に生まれても、信仰の大切さ、信じるということの大切さを教えているのです。信じるということなくしては、あの世のことはわからないのです。私は、「阿弥陀如来」がだれであるとか、そうしたことを言うつもりはありません。ただ、神仏はあり、神仏の側近き高級霊はあるのだということ、これを信じなさいと言いたいのです。
科学的に解明できるまでは、信じないとかいうのは、間違っています。これは証明できることではないのです。学問ではないのです。あの世のことは、手に取るようにはわかりません。だからこそ、信じること、信仰ということが大事なのです。私たちが言っていることを、どうか信じていただきたい。
パウロとして生まれたときに、私は、「贖罪説(しょくざいせつ)」を言いました。すなわち、イエスの死によって人びとの罪は贖(あがなわ)れたのだと、そう言いました。しかし、これも、私の「悪人正機説」と同じように、のちの世にいろいろと誤解をされておるようです。私がパウロとして生まれていたときに言った贖罪説もやはり同じです。つまり、イエスという偉大な方がでて、神の力というものをお示しになったのである。こういうお示しになったということを、信じることによって、人間は救われていくんだ。信仰が大事です、と。結局、親鸞は、同じことを言っておるわけです。
私の言ったのは、要するに釈尊の慈悲の意味を、また、当時の鎌倉的なるものを、現代的に説明したということなのです。今の時代でいうならばどうなるか。それを、あなた方は、今、担(にな)っているのです。
あなた方は、釈尊が説いた慈悲を、今説くとするならば、あの世の世界の神秘、その仕組みがあるために、この世がこのようになっているのだということを、しっかりと人びとに説く必要がありましょう。
―― 本日は長時間にわたり、ご高説を賜り、ありがとうございました。――合掌