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目次












 12.特殊相対性理論

 13.自己実現の法則






1.宗教の根幹には、悟りがある


それでは今日は第三日目ということで、「悟りについて」という演題でお話をさせて頂きます。

悟りというのはこれは、宗教の根本であります。これが分ればもう全部分ったようなもんですね。宗教っていうのは何かというと、結局のところ、つきつめていくとこの悟り、悟りというものなんですね。悟りのないものは宗教じゃないんです。

例えば中国で今から三千年近くも前に、孔子様という人が生まれて、そして教えられた教えが儒教といわれていますね。儒教はある意味では宗教じゃないかも知れない。何故なら儒教の中には悟りというものの方法論が欠けているからです。儒教というものの中には人間がこの地上に生まれて、どうすれば世の中でうまく伍(ご)していけるか、立派な人間になっていけるか、そういう人間完成の道が説かれているんです。けれどもそれは本来の意味においての悟りとは違っているんです。ですから儒教というような教えは宗教というより、ある意味においては道学じゃないか、道の教えじゃないか、と言われるのはそういうところにあるんです。ところが宗教の方では例えば釈迦の仏教が一番典型ですけれど、やはり悟りというのが要るんですね。釈迦の仏教以来、様々のお弟子さんたちが出てきましたけれど、どのお弟子さんたちも皆、本当の悟りというものを求めていたんです。

例えば、ゴータマ仏陀釈迦牟尼は今から二千五百有余年前、インドの地において六年間修行されたわけです。六年間の修行をし、洞窟の中である時は結迦趺坐(けっかふざ)をし瞑想をし、ある時山の中で動物たちに囲まれながら、野獣たちの中で座って禅定したりそういうことして色々やってたわけです。そして彼自身の求めていた本当の悟りとは何か、ということを知った。またお弟子さんたちもね、まあ釈迦の仏教の流れの中で例えば禅宗というのが出てきました。禅宗も禅という、坐禅という方法によって何か悟ろうという、そういう動きでありました。禅宗以外にもね、悟りを求めた道というのは一杯あります。これも古く言えば仏教以前のヨガの中にも、悟りというものについての考え方というのはあったんです。


2.個の悟りと全体の悟り


悟りとは何か、これについてこれから話していきたいと思います。

ま、悟りというのはね、まず「個の悟り」と「全体の悟り」というのがあるんです。個の悟りというのは個人の個ですね。個の悟り。つまり肉体舟をもって人間として生まれた人間の悟りです。これが個の悟りです。

それと全体としての悟り、これは宇宙、神の創られた大宇宙、大宇宙のこの仕組み、或いは構造、あるいは大宇宙の使命、こうしたものが全体の悟りです。悟りというのは何時の時代でも個の悟りと全体の悟りとから成り立っているんです。


3.個の悟りとは何か


まずでは個の悟りについてお話したいと思います。

人間はこの三次元的な自分というもので生きてるわけですけれども個の悟りとは、少なくともこの三次元的な自分から何らかの形において遊離し、神近き高級霊に近づいて行くということですね。これが悟りなんです。悟りというのはその根本において自らを高めていく、こういうところがあるわけです。そして皆、本当に悟りたい、他人の悟りより自分の悟りを高くしたいという気持ちがあるわけですけれど、何故かというと悟りというものはあくまでも、神に近づいて行く方法論だからです。方法論であり、結果だからです。これが個の悟りであります。

では、何故そのようなことが必要なのでしょうか、それはもともと人間というものは神仏のエネルギーが分れてきたものなんです。あなた方は一人一人がバラバラに、たまたま偶然に生まれて来て偶然に人間として修行しているような気持ちでいるけれども、もともとはそうじゃありません。あなた方の生命体自体はそんな唯物的にできたものじゃないんです。永遠の神のエネルギー体、こっから分れてきたものがあなた方なんです。

ですから悟りというのは本来の自己に立ち返ろうとする姿であるわけです。

ところが、本来の自己はそのような神仏のエネルギー体から分れたものであるにも拘わらず、長い間、転生輪廻を重ねていくうちに、個性として、個体としての意識が非常に強くなり、或いは三次元的なものの考え方に執われて、だんだん魂というものが孤立してきたんです。個性を持ってきたんです。これは本来は個性化ということ自体、悪いことじゃないんです。経験を積むことによって個性化ということを、だんだん発見してくるんですが、個性化することによってある意味で魂が三次元的になってきているんです。非常に三次元的になってきてる。この現象界に住みやすい魂となってきている。そして本来の自分が何処から来たものか、ということを忘れている。人間が一人一人切り離されたものだとして生きて行く、なんて言ってるんです。

ところが悟りというのは結局そういうことじゃないんですね。人間は切り離された存在じゃないということなんです。永遠のエネルギー体である神から分れて来たものであって、全てのものが平等に神から分れて来たものだと、そういうことなんですね。

ところが、私たちは悟りに至るための方法論として、八正道を説いたり、或いはいろんな道徳論を説いたりしますけれど、何故、人を愛さなければいけないのか、何故、怒ってはいけないのか、何故、愚痴ってはいけないのか、こうしたことを方法論として教わっているわけですけれども、結局のところその根底にあるのは何か、という結局自他は一体だということなんですね。もともと同一の神から分れて来ていると、これを悟るために、いいですか、方法論として八正道を編み出したり様々な善悪の二元論が出てきているんです。結局、我々は元なる神から分れた個性なんだということを悟るということですね。これが大事なことなんですよ。これが個としての悟りですね。


4.個の悟りの方法論


個の悟りの方法論は様々にあります。

例えば禅というものがあります。あなた方、他に専門の方々から聴かれることもあると思いますけれども、禅をして、悟った人が居るかどうかです、果たして。まあ道元というような人は、悟りというものを、何かフィーリングで捉えているんですね。何かこういうふうにやってるとそのうち悟れるんじゃないか。まあ「只管打坐(しかんたざ)」なんて言って、只(ただ)しきりに坐ってればね一生懸命、一心に坐っておれば悟りが得られるんだ、で「只管打坐」なんて言いました。「ま、考えてもわからん、悟りなんて何かわからない。兎に角何でもいいから考えより実行が先です。」と。「とにかく坐りなさいあなた方」こういうことを言ってるわけです。

これはある意味においては確かなんです。この世の人々というのは、どうしても屁理屈を言うんですね、そして「そんなことやって本当に悟れるんですか、そんなことやって本当に神様と話ができるんですか」こう屁理屈を言う人が居ます。「そんなこと言う暇があったら、取りあえず坐りなさい。」と「坐って一人ずつね禅定してみなさい。」と「心を落ちつけて、神の方へ心を向けてみなさい。」そういうことをまず道元は言ったんですね。

だから只管打坐ということを単に坐ればいいと取れば、これは誤りであります。こんなもので悟れません。ただ、四の五の言う前にまず実践行為せよ、という意味においてはこれは正しいことであります。また、悟りということにおいてはね、人間というのはね、どうしても心があくせくしていると神仏と交流することはできないんです。そういう意味において、悟りというのはどうしても一人っきりになるという瞬間が必要なんです。一人っきり、まあ静寂ですね。心の中の静寂、静かなる自分というものを発見していく必要があります。

本当の自分を知るためには、やはり一人にならねばいけないんです、人間はね。ところが同じ悟りについてもキリスト教系の方では、あまり悟りということは言わないかも知れませんけれども、父と子と聖霊と一体になる祈りがありますね。これもまあ、ある意味においては悟りに近いものだとは思うんですが、神と自分とが同一エネルギー体であるということを知るということですね。このために父と子と聖霊と、こうした三位一体の考え方があります。

これもある意味においては、自分自身の意識を高めて聖霊と一体となり、父なる神と一体となるという教えであります。

これも悟りは悟りです。まあ悟りはこれも、祈るということでイエス様も聖書の中で、「汝ら祈る場合に、人前にて祈るな」と「妄(みだ)りに神の名をロにするな」ということをイエス様言いました。これは、まあ何と言うかね、やっぱり人間、自分を良く見せたいという気持ちが人間あるんですね。これについてイエス様は、戒めておられるんです。

ともすれば、神の名を呼べばね、神に近き人だという誤解を自分でして喜んでる人がいるとか、或いは大勢で神に祈りゃあね、それでいいような気持ちになってる人がいる。そんなもんじゃないんです。

本当の悟りというのは、一人になって神と相対座しなければ得られるもんじゃないんだ。そういうことをイエス様がね、ああいう形でお教えになっているんです。

「汝ら妄りに神の名をロにするなかれ」と「汝ら人前にて祈るな」と「静かに戸を閉めて祈れ」ということを言いました。キリスト教的だから、祈れということになっていますけれど、これは真実と対話せよという意味であります。


5.悟りは相対の世界にではなく、絶対の世界にある


坐禅にしてもそうですね。今お寺の雲水さんだか何だか知らないけれどね、大勢がね袈裟衣着ちゃって、壁、面壁してですね、え、五十センチか一メートルおきに並んでですね、壁に向かって、何か知らんけど目を瞑ってですね、座っておると。そのうち眠くなってくるからね、眠くなってくるとパチッと叩かれて精神棒入れられて、「馬鹿者」なあんて言われてやっているわけですが、あんなんで悟れるわけないんです。他人というものを意識していて悟ることはできないんです。何故他人を意識していて悟ることができないか。それは悟りというものが絶対の世界ですから、そういうことなんです。いいですか、他人というものが入って来るというのは、これは相対の世界なんです。比較級の世界なんです。比較級の世界においては悟りはないんです。悟りというのは絶対の世界です。もう全てそれ自身が価値があるという世界なんです。これと比べて価値があるという世界じゃないんです。悟りというのは絶対の世界です。決して他の人と比較して自分の方がより知識があるとか、自分の方がより心性が高いとか、こんなことによって悟るもんではないのです。悟りというのは絶対の世界に参入するということです。

じゃ、絶対の世界って何だろうか。神と一体の世界、これはある意味において恍惚(こうこつ)の世界なんですね。あなた方恍惚の世界って言うと、恍惚の人かなんかでね、まあ年とってね、おもらしをしたりね、自分が何をしてるかわかんないような人のこと考えちゃうだろうけど、そういうことを恍惚の世界と言ってるんじゃないんです。エクスタシーの世界です。

エクスタシーの世界と言うと、また女性はまた変なこと考えちゃってね。まあ性的歓喜の世界なんて考えちゃうから、これも困るんだけど、ま、そういう意味でエクスタシーって私は言ってるんじゃないんですよ。私は真面目な人だからそんなエクスタシーなんか私、知らないんだから。そうじゃなくてエクスタシーの世界というのは神と自分とがね、もう一体になる。神の懐の中に自分が抱かれる感じね。ある意味では自分自身が非常に高く大きくなって神と自分とが宇宙即我、一体となる気持ち、これがエクスタシーなんですね。

だから悟りということは、ある意味においてこれは喜びでもあるわけです。だから今迄ね、あの仏教家たちが、よく悟りというものは厳しいもんだと、非常に厳しいもんで大変な修行がいるんだ、ということを言ってたと思いますけど、これは一面であります。悟りは厳しい局面、努力して努力してやっと辿り着けるような高い頂だということは一面でありますが、悟りのもう一面というのはエクスタシーの世界、恍惚の世界です。


6.悟りの世界は桃源郷


これは別の言葉で言うと理想の世界、桃源郷ですね。そういう世界なんです。人間の心の中には何処か、遥か遠くの所に夢のような世界、理想の世界、本当の恍惚の世界があるというのを思い描くんですね。その世界にね、何とかして人間は行きたいと思うんです。ところがその恍惚の世界、理想の世界っていうのは本当は実在界にあるんですね。

実在界にある、如来界であり、菩薩界こういう天国というのが本当はその桃源郷であり、理想郷なんです。

ところが生きてる人間というのは、こういう塵芥(ちりあくた)の如き地上の中で生きてるわけですから、なかなかその桃原郷に至ることができないんです。ですから悟りの世界というのはある意味において、その実在界をこの現世に、この地上に持ち来たらす方法なんです。

自分一人でいて、ここにいて個人にて悟りの世界を創りあげるということは、その中においてエクスタシーの世界、恍惚の世界を創って行くということなんですね。ですから悟りという意味は別の面で言うと、先程まあ私は厳しい努力ということを、まあ強調しましたが、そういう精神の世界、要するに人間完成の道であると回時に、もう一つはそうした永遠の幸福、永遠の幸福の世界を得ることであるという定義もできます。何故なら私たちが居る如来界、あるいは菩薩界という世界は永遠の幸福の世界です。未だエデンの世界が続いているんです。

あなた方はエデンの園ということを、昔習ったことがあると思います。クリスチャンたちがよく言いますね、神様はこの地上を創られた時に、初め平和な、本当の幸福に溢れるエデンの園がそこにありました。ところがその中でアダムとイブが、平和に暮しとったんだけど、イブが知恵の木の実を食べちゃって、まあリンゴの実とか色々言われてるけれど、サタンに対応する蛇にそそのかされて、その知恵の木の実を食べたもんだから知恵がついちゃって、お互いに意識しちゃって、恥ずかしいとこ隠し合ったりしてそんなことして自我が、自意識が生まれたもんだから神様怒っちゃって、「お前らみたいな自意識生まれた奴は、出て行け」と。でエデンの園をまあ追放されたということを言ってますね。これはまさしく、この私が今言っている理想郷といった悟りの世界との関連を言っているんですよ。


7.アダムとイブがエデンの園から追われた理由


何故ね、じゃあ神様は知恵の木の実を食べたアダムとイブを、迫放したのか。これを考えて頂きたいんです。まあ、その実がイチジクの実だかリンゴの実だか、私はよく知らないけれど、まあ蛇がニョロニョロ出て来てですね、「イブさんイブさん」と「この知恵の木の実を神様が食べちゃいけないと言ってるでしょう。」そしたらイブが「確かにそうですわ、神様が決してその木の実を食べちゃいけないと言います。」と「じゃイブーさん、どうして食べちゃいけないかあなた知ってますか。」そしたらイブがわかんない。「何かわかんないけど神様これ食べちゃいげないと仰るもんですから、神様が仰ることですから私はそのまま信じます。」とまああなたみたいな人ですよ、素直に信じてたんです。ところがね蛇がね、蛇に化けたサタンが言うわけです「じゃいいこと教えてあげましょうか。この知恵の木の実をね、神様が食べちゃいけないという理由はこれを食べると神様と同じような知恵がつくからなんですよ。そして全智全能になっちゃって、神様自分の対抗者が出て来るから、これで困るって言ってるんですよ。だから、黙って食べちゃえばいいんですよ。そしたら全能の神様みたいな、高橋信次みたいな知恵がつくんですよ。」とまあこう仰ったわけですね、それでイブがそそのかされてしまったんです。誘惑に弱いんです女性っていうのはね。あなた、女性は何故悟れないかと悩んでるでしょうけど、女性は誘惑に弱いから悟れないんです。結局はアダムとイブでもイブの方がまず参っちゃったんです、サタンの方にね。物質的誘惑に弱いのは女性です。この知恵の木の実も物質的誘惑です。それを象徴しているんです。


その知恵の木の実をすすめられてそのリソゴの実を食べちゃったんです、イブがね。「あら美味しいわ。こんなに美味しいものかしら。こんな美味しい物を食べてしかも全智全能になれるなんてまあ素敵。」まあ女性らしいですね。単純な発想です。「美味しいし、その上に賢くなるなんてこんなことは、こんないいことはありはしない。ねぇアダム、私今、知恵の木の実食べたの。これ美味しいし、あなた全智全能になるのよ。神様といっしょなのよ。あなたも食べてみなさいよ。」大抵男を堕落させるのは女なんです。これでアダムがころっと参っちゃうんですね。イブに言われて、「そんなにお前がいいって言うもんなら、まあ亭主である俺もちょっと食べてみなきゃあね、夫婦の会話ってものができないから、仕様がないからまあ俺もひとかじり食べようか。ああ食べたらなかなか美味しいな。確かに知恵の木の実だ。賢くなってきたわ。今まで僕たち裸で歩いてて何とも思わなかったけど知恵がついてきたら、確かにこんなんじゃ不自由だね。確かにおかしいわ。」なんてお互い恥ずかしいの見ちゃったりして、モジモジして赤くなったりして。「じゃ、やっぱりこれ恥ずかしいからイチジクの葉っぱで隠そうか。」なんてね、あの隠しどころが出てくるんですね。これが秘密の部分です。

本来人間というのは公明正大に生きていたんです。神様の目から見て恥ずかしくないような生き方していたんです。これが本来の人間なんです。


8.神様の目を意識しなくなった人間


ところがこの比喩の語ってるのは物質世界に人間が降りてから、いいですか、人間っていうのは神様の目を意識しなくなって神様が自分を見てるなんてこと分らなくなってくるんです。それ故にね、自分自身、お互いの目しか分らなくなる、神様の目から見りゃあね、何を隠したって、あなたがいい服着たって、洋服着たってみんな見えちゃうんですから無駄な抵抗なんですよ。ところが人間はこの世に生まれるともう神様のこと忘れもゃってお互いの目しか見えなくなる。有限の目ですからね。お化粧して口紅してそして綺麗な服着てりゃ、美人だと思われるんじゃないかと思うわけですよ。私たちの目から見りゃ、あなたの骸骨の方まで見えちゃうわけですね。それでも美人だと思って、人を騙せると思うからそういうことするんです。

男の方も男の方でね、お腹が出張ってて中年腹してても、スーツぴしっと決めてイブサンローランのネクタイかなんかしてると、まあ格好いい男性みたいに見えるわけですよ。熟年かなんかなっちゃってね、格好良く見えるわけですよ。これで騙しちゃう。お互い騙せると思う。だからイチジクの木の葉っぱで前隠すなんてまあこれ古典的な話ですが現代で言やあね、アイシャドウしてね、頭にパーマをかけて、綺麗な口紅を塗って、そしてシャネルの何番か知らないけど、そういう流行の香水をつけて今年は何色が流行か、私は知らないけど、そういう服を着てすればね、お互いに騙せる。こうして、偽我(ぎが)ができてくるんですね、お互いに壁ができてきます。お互いに心の中は覗けない。人間はお互いの心の中が覗けなくてうわべばっかり見るようになり、うわべを飾るようになり、このように、アダムとイブの話っていうのは現在まで続いてきてるんです。

私が何を今、言おうとしてるかって言うと、そういうことによって神の目を意識しなくなって神の目から見れば、もう人間っていうのは見通しだということが分らなくなってきている。本能的にものの考え方がなくて、お互いに恥すかしいところ隠すというのは、要するに黒いところは見せたくない、まっ黒なお腹を見せたくない、悪いこと考えてるの見せたくない、うわべだけ繕いたいとね、表面的にいい人、いい人だと思われたら自分はそれでいいんだと、それだけでね、外見だけ紳士づらしてたらそれで世間的には通ると、思っているんです。大宗教家の真似をして裏で詐欺まがいなことしてても、それでも分らないと、こういうことがまかり通ることもできた。

こういう何ていうか、こういう神の目を意識しなくなった人間、そしてだんだん個性っていうか、個我、個人の我ができてくる。偽我が出てくる。そして自分というものを塗り固めていく。こうして人間というのは本来の自分の姿を何千年、何万年、何十万年にわたって忘れてきたんです。だから悟りの方法、悟ろうということは、この逆の方向なんです。アダムとイブが何故イチジクの葉っぱで前を隠したか、これを考えるということです。お互いの自我です。自分を良く見せたいという気持ちです。自我我欲です。まっ黒な自分を見せたくない、イチジクの葉っぱなんかしたって神様の目にはまる見えなんだから。それを神様の目というのが分らなくなってしまって、お互いの目だけ意識して、人に良く見えたい、良く見せたい、こういうふうに思っています。

そして現代人を見てみなさい。現代のサラリーマンたち、表面だけはいい子ぶって、イエスマンばっかりがまかり通ってますね。何処の会社に入っても新入社員は新人社員らしく仕つけられて、一年上だと神様みたいなもんで「はい、わかりました。」「ナントカ君これコピー取って来なさい。」「はいっわかりました、はいっわかりました先輩。」「今日は飲みに行くからね。」「はいっわかりました先輩。」「今日は俺のおごりだ、まあお前は飲め。」「はいっわかりました。ああ先輩いつも助かっております。」腹の中でね「この野郎仕事もろくにできないくせに、幅だけきかせちゃってね、まあ人前でいい格好だけしちゃって、金おごってくれてるからお前の言うこと聴いてるけど、本当はお前の言うことなんか聴きたくないんだぞ。お前は頭が悪いじゃないか、口は悪いし女にもてやしねえ。女の子には、俺の方がよっぽどもてる。」と腹ん中思ってるんですよ。思っていながらね、表面だけはとり繕う。これがイチジクの葉っぱですね。

また、女性は女性で一緒です。もうネコかぶるってんですが、学生時代はね、お互い我がまま一杯言ってね、まあ親の臑(すね)はかじるわ、海外旅行はするわ、何かが欲しいと言やあ、ねだるわね、ボーイフレンドが居たらボーイフレンドにデイトを強要してね、「私あのネックレスが欲しいなあ。」とか「こういう指輪が買えるといいなあ。」とか言ったりしています。まあ中には売春婦まがいのことやっちゃって、学生のくせに勉強もしないでもう、今週は彼、今週はAさんね。次の週はBさん。その次はCさん。こんなこと言ったりしてね。それから一番早く、女性の一番大事なものを捨てるのを競ったりしてね、「あら、あなたまだなの私なんかもうとっくよ。」なんて言って、こんなことを競っている、こんな馬鹿な女性が一杯出て来てるわけです。これもイチジクの葉っぱですね。そして表面だけ、お互いに人間は心が読めないと思ってるからこういうことができるんですね。うわべだけで飾れる、こういうことが横行してるわけです。


現代人たちの歪みを見てみなさい、ほとんどがそうです。結局は神の目から見た自分というのが分らなくなってる。或いは神の目からみた他人というのが分らなくなってる。お互い盲同士で見合って、サングラスかけてお互い色メガネかけて見てるから分らなくなっているんです。だからこそ、いいですか宗数的な悟りというのが今、必要なんです。


9.個としての悟りとはエデンに帰ること


何故、道元は只管打坐(しかんたざ)などと言ったのか。私はこれを評価することも言いました。先程、現代人たちはそういう、うわべばっかり作って、自分というものと対面してないんです。対坐してないんです。だから、そういう意味では一週間位禅寺に篭って、自分を見つめ直すってことだって、そういう意味じゃ悪いことではないんです。まあ、ある意味じゃ暇人(ひまじん)だけどね。まあ、忙しいって言ってろくなことじゃない忙しさでかまけているよりはまだましかという意味で大事なことなんです。そして禅寺へ行って自分自身を振り返ってみる。この時、初めて自分の外側っていうか、人の目を意識した自分っていうものをもう一回、内側から点検してみるんです。そして自分の表皮、外側の皮を一枚一枚取っていく。そしてああ、自分っていうのが気がつかないうち衣が一杯ついてたことに気づくのです。衣がついてていいのは天ぷら位のもんですよ。人間、衣がついても決していいことはないですね。神様から頂いた清い心に幾重も海老の天ぷらじゃあるまいし、幾重も衣がついたところでよくないと。もっとひどい人はトンカツみたいにゴツゴツした衣が一杯ついてるわけですよ。トンカツみたいに、ギザギザの衣が一杯ついてるわけですよ。こんなのソースでもかけて食べれば美味しいけれど、こんな衣がついたところで、人間決して綺麗にならないんです。

キツネ色に揚(あが)ったところで、本当、美味しいのはトンカツ位のものですよ。キツネ色になって、キツネみたいな性格になってるのが殆どの人間なんですよ。このように殼ぽっかり造ってる。まあこの殼を、自分と対面して取っていく、これが大事なことです。結局ね、個我、個人としての悟りとは何かというと、エデンに帰るということです。もとのエデンの気持ちに帰るということです。人間は天真爛漫に、いいですかその心を露(あらわ)にして何ひとつ恥ずかしくない生活をしてたんです。

だからアダムとイブが裸だったというのは、裸でも何でもいいんですよ、そういうふうに神様の前で裸だったということなんです。何も隠すことがない、隠すところかあるからこそ、そういう偽我が出て来ます。神様の前では何もかも大っぴらです。丁度あなた方今、エデンの園ですよ。神様から見られてね、あなた方もう何んにも隠すとこないんですよ。

あなたの朝から昼までしていたことを私は全部知ってるんですよ、もう、言わないけどね、これは紳士として恥ずべきことだから敢えて言わないけど、私なんかあなたが朝、何時に起きて何を食べて、誰と何を話して、何の手紙を書いて本を発送してたというようなことは、全部考えたら分るんですよ。そしてお昼に何を考えて、ああもうすぐ四時だから行かなきやいけないとか思って焦ってるとか、こんなこと全部分ってるんです、あなたが考えてるようなことは全部分ってる。

ただね、その神様の目を意識して、私は神様じゃないけど、まあ神近き高橋信次の目を意識してだね、行動できる人っていうのは数少いわけだ。ところが、あなた方の一日っていうのは私の目には全部見えてる。こういう意味ではいいですかエデンに今、帰ってるわけだ。

ところが現代人の大部分は誰も知らないと思っています。例えば道に財布が落ちていて、拾ったって、何も悪いことはない、と。これは人が見ると思えゃ拾えないんですね。見てないと思えるから、拾えるんです。ところが神様の目から見たらこの地上で葉っぱ一枚落ちるのでさえ全部、知ってるんですから。

その神様の前に謙虚に立つ人間から見りゃ、あなた何にも悪いことできないんですよ。悪いことは、道徳的にいけないからしちゃあいけないんじゃないんです。悪いことっていうのは、もうみんなばれてるからできないんです。誰も知らないと思うから悪いことができるんです。誰からも見られてないと思うからできるんです。まる見えだと思ったら、こりゃできないですよ。あなたそうでしょう、ね、他人の目、神様の目を意識してないからできるんです。だからあなた方これから神理の伝道していくのですけど、この方法の一つは人間たちをあなた方、浅知恵で立ち回ろうと思わずに、あなた方がやっていること、一日思ったこと、行ったこと全てもう神様から丸見えなんですよと、教えてあげることです。

あなた死んで来てですよ、死ぬ前の六十代、七十代なってね、ポックリ寺かなんか行っちゃって極楽往生なんて言ってやったところで、そんなんで許されないんです。あなたね死んで、こちらへ来たらですね、自分の一生っていうの鏡の前で全部見せられるんです。まあ霊界じゃもう時間っていうのがないから、あなた方六十年かかって一生送ったとしても霊界のスクリーンじゃほんの一時間ありゃあ、あなた方の一生全部写っちゃうんです。そして光り輝く天使の前でね、自分の一生、見せられたら恥ずかしい、と九分九厘の人が思うんです。「ああこんなことみんな分っちゃうんじゃするんじゃなかった、ああ自動販売機でコーヒー飲んで、あの時おつりが二十円残ってたから前の人のだと思ったけれど、まあもらっておこうと思って、ネコババしたのも全部分っちゃう。しまった、こんなことならもっと正直に生きりゃよかった。」大抵の人はこう思うんですよ、神様の目っていうの知らないからね。まあ私の話がちょっと脱線してるけれど。要するに悟りというのは、ある意味においてはエデンの昔に帰るということ、エデンの時代、つまり神様の目から見て全て露(あらわ)な自分に戻るということなんです。


10.エデンの昔に帰るとは心を裸にすることである


だから個人というものをケースにとってみると、要するに自分の作った衣を、これを取るということです。裸になるということです。神様の前で心を裸にするということです。全てお見通しのままであなたが恥ずかしくないかどうかです。

今のあなたは、今日の五時から高橋信次と話すことを知ってるからそんな恥ずかしいことは今日一日思っちゃいけないと、まあ自戒してたはずなんです、それはいいんですよ、今日は話してるけど、この本ができ上ったらそれを止めてしまうようじゃ、ダメなわけなんです。そういう日々の積み重ねも悟りなんです。ですから悟りというのは個人という面をとれば、一人孤独に神様と、相対座する時間を持って自分の心にいろんな着た衣を取っていく。そして裸になってもとのエデンに帰るということです。これが一つの悟りです。