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目次































4."性"の倫理をどう考えるべきか


蓮如  では、宗教改革の第二歩は何かについて話しましょう。私たちの時代には、妻帯をしても成仏できる、往生できるという話をいたしました。これが一つの宗教改革だったわけですが、では、現代ではどうでしょう。まあ、妻帯するのは当然です。通常、だれもが結婚をします。なかには、道を求めるために、昔の訓えに還って、独身を通して道の探究をしている人もおります。学問をやる人で、仏法をやる人には、そういう人もいるということです。

そういう人たちはさておき、一般大衆を見てみると、だいたいは結婚をしています。結婚するだけならまだいいのですが、結婚以上のことをしている。つまり、性風俗がいかに乱れているかということです。私が見ているかぎりでは、今の男性、女性の多くが、結婚前に異性を体験している。これがふつうになっております。女性でも、結婚をして初めて男性を知ったという人は、非常に少ないといえます。男性においては、もっと少ない。そこで、神理の伝道者は、このことについて、もう一度徹底的に疑問追究をしなければいけません。

どうもこの方面についての、正しい教えがないように思います。哲学でも、これについては、語っていません。過去の宗教も語っていません。では、現代にでたあなた方はこれをどうするか。ここがむずかしいところです。問題は、これをどうするかです。いや、それでも救われるのだという教えもあります。真宗をもっと進めたようにしてね、たとえどんな乱れた生き方をしていても救われるのだという生き方もあります。しかし、いずれにしても、これをどうするかです。

そこで、私の考えを申しましょう。結婚というのは、言うまでもなく、長い間、何万年、何十万年にわたって続いてきています。あるいは、もっと前から続いているものです。すなわち、これは人類の一つの知恵だと、私は思っております。人間は性情のままに、そのときそのときを生きてしまいます。単に子孫を産むだけであるならば、猫や犬などの動物がそうであるように、一年のうちのある時期だけに発情して子孫を残すようにすれば、それですむはずです。ところが、人間というのは、そうじゃない。年がら年中発情しております。

そこで、これをどうするかということなのです。発情するから、異性というものの存在が必要になってきます。しかし、発情のままにまかせていたのでは、手当たり次第ということになる。眼の前にいる男性、女性に、だれでもいいから眼をつければいいということになります。とくに現代では、避妊法が進んでいるために、男女の交際イコール、結婚・出産とはならない。そういう時代です。しかし、避妊というような考えについても、宗教家の立場でどう考えるか、これも必要です。昔は、性的な行為をすれば、即座に子供ができるとされていました。ですから、結婚即出産ということになっていた。つまり、性行為即結婚、結婚即出産という図式があったのです。ところが、現代ではそうはならない。性行為即結婚ではありません。結婚即出産でもありません。結局、避妊という方法が発達してきたためです。

しかし、これははたして神仏の意に適(かな)ったことなのか。あるいは、それはそれと認めて、そのなかでの正しい生き方を考えていくべきなのか。この点について、考えていかなくてはなりません。昔は、子供というのは神仏からの授かりものだとされていたので、子供ができたらありがたいと思うのが当然でした。ですから、現在よりも、もっともっと貧しかった時代にも、八人も十人もの子だくさんというのは、さほどめずらしくはなかった。しかし、時代は豊かになったにもかかわらず、現在では、各家庭に一人か二人しか子供がおりません。ですから、一人っ子もずいぶん多い。これもおかしな現象です。何かが違っているのかもしれませんね。

さあ、この辺の問題についてあなた方は、どう考えるか……。あなたはどう考えていますか。あなたのお考えをちょっと聴かせてください。

――  まあ、これはですね、"性"の問題ですね。結婚というのはまた別として、結局は、性の問題ですね。

蓮如  そうです。性の問題です。

――  性の問題、これについては、解放すべきか、あるいは、制御すべきか、と二つの考えがあると思います。現在、日本の国に入ってきている性の問題意識の多くは、アメリカの思想が流れ込んできたものでしょう。これによって、若い男女が性の問題について解放されたというふうに受け取っている人もありますが、また反面、これは非常な堕落であると考えている人もいると思うのです。そこで、私どもは、先般、女性霊の方がたに、この問題についてのご意見を拝聴いたしました(注「卑弥呼の霊言」のなかで)。しかし、それはそれとして、一応道を説く者が、どのような解釈を下すかという点が問題だと思います。まあ、私どもでは、こう考えております。性だけを持ってするならば、これは犬猫、その他の動物も変わらない。ただ、人間は、霊長類の頭であって、しかも、人間は、「神」というものの存在を知っており、神の道というものがどんなものであるかということを認識できる存在である。そこで、その"性"の問題についても、自ずから秩序というものを弁(わきま)えている。ひらたく言えば「良心」を持っている。つまりは、この良心というものが優先するのではないかと思っております。

しかし、だからといって、この性の問題を軽視するなり、旧仏教のように罪悪視することは間違いだと思います。性は、ほどほどに、中庸(ちゅうよう)の心を持って処していけばよいと思っております。一夫一婦制を前提として、結婚するのは当然であります。では、結婚しない独身者の性の問題はどう扱えばよいか。これについては、男女の間に"愛"というものが芽生え、形成された場合には、結ばれてよいのではないかと思っております。しかし、ひとくちに愛といってもむずかしい問題で、ただ単に好いた惚(ほ)れたといっても、その基準となるものが顔や肉体的な外形上のものではなくして、思想、趣味といった精神的なものが"愛"の基準となったものであることが肝心なのではないかと思います。したがって、現代のアメリカ的な放恣(ほうし)なフリーセックスというようなことは排さねばならぬ、と私は考えます。


5.「招婿婚(しょうせいこん)」の一夫多婦でも地獄に堕(お)ちなかった


蓮如  あなたのお考えは、だいたいわかりました。ただ言っておきますとね、性の解放というのは、今のアメリカだけが進んでいるのではなくて、もっと昔の時代にもあったということです。ギリシャでも、たとえば、昔のゼウスなどのギリシャ神話の頃、神々は非常に開放的でありました。神々というよりは、むしろ、あの時代に生きていた人びとという意味ですね。その頃の男女の交わりというのは、非常に開放的でありました。非常におおらかな気持ちでやっておりました。それからまた、ルネッサンスの頃も同様です。おおらかな性ということで、"性"がずいぶん解放されそのなかの幾人かの男性を夫らしく扱ったことはあります。しかし、彼女が地獄におるかといえば、地獄にはおりません。けっこう悟った世界におります。ここら辺がね、どういうことかということを、もっと考えていかねばならないのです。


6.許される男女の交際は、お互いの人格向上が基準


蓮如  結局はこういうことなのです。性というものが宗教から遠ざけられている理由は、どうしてもこの世的なもののほうへ考えが走ってしまうからです。ここがいけないということなのですね。どうしても精神的になりにくいんです。この世的なものの方向へいって、あの世のことを忘れる。本来の世界のことを忘れる。霊的な世界のことを忘れてしまう。ということは、こちらの方向へいってしまうという意味での危険性があるのです。

"性"というのはね。そういう意味では、精神的な世界に浸るためには、なるべくそちらにいかないほうがいい。「いってはいけない」のではなくてね、「いかないほうが望ましい」ということです。つまり、精神を開発するには、根本に、こういう考え方があります。ですから、物質的に、あるいは、肉体的に、男女の接合といいますかね、その接触自体が地獄へ堕ちるような行為かといえば、そうではないのです。これは、昔の威しすかしの教えの一つであります。しかし、そういうものではありません。

ただ、男女の交際のなかにおいて、如何に精神的であるかということは、これは一つの基準であります。如何に精神的であるかということですね。そのなかに、要するに、男女の交際のなかにおいて、如何にお互いを高めるものがあるかどうかです。結局、許される男女の交際、及び許される男女の交際の結果としてですね、それによってお互いの人格が高まっていくかどうか、お互いが素晴らしいものとして認め合う存在となっていくかどうか。その点が、許される行為というものの基準になるわけです。

であるからこそ、あなた方は、青少年が不純異性行為というのをするのを避けているのでしょう。もの心、理性が十分ついていないから、また、堕落へつながっていくことが多いから、その警告の意味でも、不純異性行為を取り締まっているのでしょう。まさにそのとおりです。中学生や高校生では、まだ分からないです。本当の"愛"というのが分からないから、興味本位で行なっているにすぎません。ですから、それをある程度取り締まっているということは正しいのです。

ただ、たとえば、しっかりした人生観を持った男性なり、女性なりが、異性を想うこと自体が悪である、触れること自体が悪である、あるいは、性的行為は悪であるとして、これから遠ざかること自体は、問題があると言えます。神は、悪をこの世につくっておられないのです。本来、人間に備わっているものが悪であるはずはないのです。ですから、結局、この問題に関しても中庸ということが、一番大事なんですね。中庸、すなわち、どちらへ極端に走ってもいけないのです。

そして中庸で、中庸のなかにおいて、お互いに高め合えるものがあるかどうか、これが基準の一つです。お互いに高め合うものがあるかどうかです。堕落の方向へ行くのか、高め合うのかどうか。これが基準の一つで、高め合う愛であるなら、許されることも多いということです。ですから、異性との交際を、すぐ罪や罰と結びつけて考えるのは間違っています。おおらかな時代がありましたし、そうした時代において、罪の意識を持たずして、人間はけっこう幸せに暮したときもあったわけです。そこで、この性の問題についても、時代背景を考慮した問題があります。


7.現代の"性"の乱れは、生活難という社会的制約が元凶(げんきょう)


蓮如  それと、もう一つ言っておきます。この宗教と男女の愛については、社会的な制約、背景があるということです。そこで、あなた方も、そのことについても考えなくてはいけません。今、若い男女がなぜ乱れているのか。そこを考えねばいけないのです。それは、彼らの道徳が低くなったからでしょうか。性情が粗悪になったからでしょうか。私は、必ずしもそうだとは思いません。戦前においては、子供が八人、十人といて、大家族であるのが普通でした。それでも、生活ができた。ところが、現在では、子供は一人か二人しかいない。それ以上、つくらないようにしているからです。しかし、何がそうさせているのか、この点について、考えてみる必要があるのです。

また、男女の結婚の年齢が高まっています。男性の性的な成熟は、ほぼ十八歳から二十一、二歳までの間に完成します。女性の場合はもう少し早く、だいたい十六歳から十八歳で、性的に成熟します。ところが、実際の結婚年齢を見てみると、男性の平均年齢は二十七、八歳、女性の場合であっても、どうでしょうか、二十五歳から二十六歳ぐらいへと近づいてきているのではないでしょうか。これは、生物学的な条件と比較しても、非常にへだたった差があります。男性に関しては十年間です。つまり、もし二十代後半から三十歳ぐらいで男性として完成しておれば、別に何の問題もないのです。ところが、生物学的にはもう十八、九歳で大人になっておりながら、社会的に大人になるためには、三十歳ぐらいまでかかる。女性に関しても同じです。生物的には十六、七歳でもう完成しているにもかかわらず、女性として社会的に結婚できるのは二十五、六歳です。約十年の差が、男女ともにあります。ここに問題があるわけです。この点を考えていかねばならないのです。

結局のところ、若い二人は、なかなか結婚できないのです。なぜ結婚ができないのか。物価の問題があります。家の問題があります。収入の問題、子供の問題、転勤の問題。こうしたいろいろな問題があるのです。ただし、農耕社会だったらできるんです。たとえば、夫、二十歳で、妻十六歳というケースでも、結婚できるんです。農業ということに関しては、別に年齢は関係ない。むしろ、若い人ほど頼もしい大黒柱となります。ところが、今の高度管理社会では、そうはいかないのです。若いとは、すなわち、収入が少ないということを意味しています。収入が少ないのです。そして、若いとは、空間を確保できないということです。空間とは、家を持てないということ、土地を持てないということ、部屋を持てないということです。こういうもろもろのことを意味しているんですね。ですから、結婚するとは、こういう社会制度とも非常に関連があるんです。

今の人びとでも、もし二十、二十一歳くらいの若いときに結婚できるようになっていれば、別に問題はないのです。おそらくは、幸せな結婚をするでしょう。ところが、生物学的に、それが十年遅れる。この部分が問題なんですが、はたしてそれまで禁欲を強(し)いれるかどうかです。僧侶になる人なら、十年ぐらいは修行するでしょう。しかし、一般の人は、そうはいかない。結局、経済的な問題が多いわけですね。そこで、結婚するかわりに、男女でいろいろな楽しみを見つけだしているわけです。まあ、これも一つの知恵ではあるのでしょう。ところが、それがまた、世の中の混乱を起こしているのも確かです。

ですから、なぜ、そういういろいろの問題があるのかというと、一つには、都会に人びとが集まりすぎているということです。これが問題です。そのために犇(ひし)めき合って、なかなか生活空間ができない。もう一つの問題は、"核家族"です。両親と一緒に暮らさなくなったということですね。両親と一緒に住まないから、子供ができたときに、困るんです。若い二人が結婚しても、夫の収入だけでは生きていけないので、妻が働く。しかも、両親とは別々に住んでいる。そこで、子供ができると困る。こういう問題があるのです。


8."性"の善悪を問う前に社会制度の政治改革が必要


蓮如  ですから、あなた方は、「神理」を説くと同時に、制度改革、社会改革にも眼を向けるべきだと思うのです。つまり、もう一度ね、もう一度、一つの社会的な革命を行なうことが、私は必要だと思います。もっと人間の本性に即した制度をつくらないと、社会制度の仕組みがますますおかしくなってしまうでしょう。実際問題として、現在の経済世界も、すでにおかしいと思います。

そこで、一つには、若くして結婚ができて、生活ができるような、そういう方法を考えていく必要があります。たとえば、学生たちにしても、そうですね、現在の高度学歴社会で、女性が四年制大学をでて、それから会社に勤めると結婚が遅れます。こうしたことも、"性の自由化"に結びついているのでしょう。しかし、この辺もね、もう少し柔軟性を持って考えられるようにしたいと思うのです。ですから、あなた方は、知恵を集めて、どうしたらもう少し若いときにね、自由に結婚ができるようになるか、考えてみてあげてください。

そして、私が思うに、もう一つには、両親と住むような生活形態、これをやはりもう一度見直す必要があるのではないか、と。すなわち、若い人が両親と住まないのは、たとえば、都会でないと、仕事が見つけにくいということがあるからだと思います。職業がないから、両親のもとを離れて、都会にでてくる。これは偽政者の責任でもあります。

昔からも、都というのはもちろんあったわけですが、地方には地方の生活があったはずです。ですから、やはり地方にもっといろいろと仕事をつくって、若い人がおれるようにして、そして、早く結婚できるような社会的な保護制度をつくってもいいと思うのです。つまり、若い人びとに、「空間」と「収入」とを保証する道ですね、これを考えてみてあげる必要があります。年寄ったときのためには、いろいろな保証があります。しかし、若い人のためには何も保証がありません。これは、逆であってよいと思うのです。住宅を建てるためだけにローンがあるのはおかしいのです。若い人が結婚するためには、お金がかかります。そういうときに、非常に安くてすむ補助を受けられるような、そういう方向であってもいいと思います。あるいは、結婚にかぎらず、若い人が住宅を借りたり、購入する際に国庫補助をだすことを考えても、おかしくはないのです。

ともあれ、もっと早い時期に結婚を奨励するような策をつくる必要があると、私は思います。そうすると、その善悪を問わずに、人びとは普通に暮らしていけるはずなのです。ですから、制度ですね。そういった制度自体を、もう少し見直す必要があると思います。さきほども申しましたように、生物学的に見れば、十年遅れているのです。これでは、よほど禁欲精神の強い人でないと、性のモラルは、ちょっとむずかしくなっていくばかりです。医学的に考えて、逆に、男女の生理をもう少し遅らせる方法でも考えないとむずかしくなります。こういうことに関しても、もっと多くの人びとが知恵を集めて、社会風俗の改良のために考えていくべきなのです。そのよし悪しだけをいたずらに言うだけではなく、真に考えねばいけません。

そういう前提があります。ですから、「正法」にしても、何が善であり、何が悪であるかというのは、すべて時代背景によって変わってくるのです。すべてが豊かになっていると考えているのです。しかし、人間の意識は、豊かになっていると思いながら、本当は貧しくなっているのです。この点がわからないのです。人間の本当の幸せのために生きようと思ったら、生きられないのです。偽政者たちのインフレ路線に惑わされているのです。だから、毎年、年収が増えれば、それだけ豊かになっていると思い込んでいるのです。ところが、物価がそれ以上に騰(あ)がっているのですから、実際は、少しも楽にはなっていない。こうした問題ですね。


9.簡素ななかの"美"価値基準の転換こそ唱道(しょうどう)すべきである


蓮如  それともう一つはね、簡素な生活というもの、この素晴らしさを唱道する人がでてこなければいけません。今様に表現するならば、シンプル・イズ・ベストというのでしょうね。簡素。武士の時代には、実に簡素でした。簡素さというのが、もっとも素晴らしいものだと思われていました。お茶の世界にしても、そうです。簡素さ、簡素であるということは、決して悪ではないのです。むしろ素晴らしいことなのです。ところが、現代では、"もの"があふれていることが素晴らしいと思われているのです。この価値基準の転換が大事です。

簡素に生きることの素晴らしさ、美しさ、これを唱道する人が、もっとでてこなければなりません。シンプルに生きるということですね、現代流にいうならば。ものが、一杯にあふれても、ちっとも幸せにならないではないですか。たとえば、東京の高級地に、何億円もだしてマンションを購入する。そして、それが贅沢(ぜいたく)だと思っている。しかし、人間が生活するための家に、そんなに何億円もかけることが本当に素晴らしいことなのかどうか、そこを考えていただきたいと思います。

ですから、政治の立場でいうならば、職業のもう少し分化、細分、地方への分散、こういう問題を考える必要があるでしょう。また、個人の生活スタイルを考えるならば、簡素であるということが美しいという考え、こうしたことをもっと流行(はや)らせなければいけない。たとえば、ものをたくさん持っている人を見て、蔑(さげす)むぐらいのそうした風潮がでてきても、おかしくはないのです。お茶の部屋みたいな、ああいう茶の湯のような生き方、こういうものがどんどん入ってきても、ちっともおかしくはないのです。このように考えていくならば、きっとまた、違った生活観がでてくるはずです。


10.なぜラブホテルを林立させ、ボケが流行(はや)るのか、経済政策の貧困を正せ


蓮如  経済の問題を解決しないで、現時点において、現時代において、「正法」というのはあり得ません。つまり、社会政策はもちろんのこと、経済、これも入ってくるということです。この社会政策と経済政策が現代の善、悪をつくりだしていることが多いと言えます。むしろ、かなり悪い世の中になっているのです。発展していると同時に、かなり悪い世の中になっているのです。ですから、あなた方は、その辺について、もう少し具体的に提言していく必要があります。

私は、まず一番目として、僧侶が法を説かねばならんという話をしましたが、二番目として必要なのは、社会倫理の改革のためには社会制度、政策を改革することです。さらに言えば、人びとの生活意識、これを改革していかなくてはならない。私は、こう思っております。男女の交際自体が善か悪かというのではありません。ラブホテルの存在自体が善か悪かというのでもありません。問題は、なぜラブホテルが林立しなければいけないような状態になっているのかということです。この点について、考える必要があります。若くして結婚できれば、そんなことをする必要は、何もないのです。つまり、ラブホテルを儲けさせる必要はないのです。ですから、こうした問題についても、考えていかなくてはなりません。そして若い人でね、勉強のためにどうしても時聞かほしいという人には、それを何か支えるような制度をつくってやる必要があります。結婚制度には金がいりますからね。

それと、家族制度をもう一回考えて、両親と一緒に生活するという方向をもっと考えてみるべきです。一緒に暮らすというのは、やはり便利です。子供の面倒を見てもらえるし、留守をあずかってもらうこともできる。問題は、少ないです。非常に少ない。そもそも、昔は大家族で生活できたのです。その点をもう一度考える。便利です。年寄りにとっても、新たな生きがいがでてきますし、何といっても、若い人は便利なのです。それにもかかわらず、なぜ"核家族"にしていくのか。そこを考えていくべきです。

今、年寄りの"惚(ぼけ)"が流行っています。ボケ老人が非常に多くなっている。なぜボケ老人が多いのか。すなわち、一人で暮らしているからです。孤独に暮らしているからです。年寄りには、年寄りなりの刺激が必要なのです。年寄りには年寄りなりの日々の情報が必要なのです。ですから、空間ですね、家族が住む空間、そして、職業、これらについて考えなくてはならないのです。まあ、交通網の発達によって、やがては、ある程度解決されていく問題でしょう。

つまり、今の時代においては、過渡期的な問題かもしれません。いずれにせよ、これが第二点です。あと、今のところで補足することは経済についてですね。「神理」のなかにおいても、経済が必要問題となることが、まだ、あなた方の視点に十分には入っていないようです。しかし、経済ということで、金銭的な解決という点も無視してはいけないのです。経済の問題とひとくちに言っても、土地とか、空間とか、お金とか、収入を始めとして、いろいろあります。税金の問題にしてもそうです。ともあれ、経済の問題、これが非常に必要問題となるということを、決して忘れないでください。


11.宗教的理想、幸福の自己実現の方法とは


蓮如  第三番目について、申し上げます。もう一つ私が言いたいことは、宗教における日常生活化ということです。宗教の日常生活です。現在においては、宗教ということ、それだけで、すでに特殊な世界になっています。特殊なというと、たとえば、あの世に興味のある人が入り込む世界です。ですから、新興宗教に入っているというと、眉をひそめたりします。宗教自体が、そういう世界になっていると思うのです。ですから、会社とか、官庁とか、そういったオフィス内にあっては、宗教の「宗」すらだすのもおかしい、ということになっていますね。

とくに日本の憲法においては、政教分離と言いまして、政治と宗教は分離すべきだとされております。また、教育からも宗教は分離されてしまっている。宗教は、まったく孤立なのです。まるで淫祠邪教(いんしじゃきょう)であるかのように言われています。ですから、宗教改革家がでたとしても、その淫祠邪教の宗教改革に終わることが多いと思います。しかし、これではいけないのです。すなわち、本来、宗教というのは、もう一つ、日常生活のなかに入り込んでくるべきものなのです。そこで、現代の宗教改革家は、この点について、徹底的に考えなくてはなりません。どうやったら、宗教が日常生活のなかに入ってくるか。これを徹底的に考えるべきなのです。

日常生活に宗教が入ってくるためには、少なくともさまざまな段階的な教えがいるということを伝える。これが第一段階です。あまりむずかしいことだけを言っていたのでは、ダメなのです。やさしい教えもいるということです。平易な教え、だれもが理解できるような教え、こういうのが必要だというのが一つです。

第二段は、その宗教を日常生活に取り入れることによって、人びとが幸福になっていくための何かの原動力がないといけないということです。あの世に興味のある人たちだけの趣味の対象が宗教であってはおかしいのです。その宗教を信じ、実践していくことによって、日々の生活が幸福になっていくようなものでなければいけないということです。その意味においては、宗教が幸福の具体化であるということを教えていかなければならないのです。幸福の具体化です。

ですから、現代の宗教では、あの世の世界のことについて説くだけでは不十分です。会社生活なら会社生活のなかで、如何にして幸福になるかという方法を徹底的に研究しなければいけないのです。ところが、そうしたことを説いている宗教家は、残念ながら、あまりいない。会社生活のなかで、如何にして幸福に生きるかという方法。あるいは、商売の世界で生きている人は、商売の世界で如何に幸福に生きていくかという方法。またあるいは、農業や漁業に生きている人が、そうした第一次産業的な業種において、如何に幸福に生きるかという方法。このように、それぞれの日常生活のなかでの密接な生き方の方法、これを教えていく必要があるのです。これが、すなわち、幸福の具体化ということであって、これが大事なのです。非常に大事です。

この世離れしたあの世の教えだけを説いていたのではいけないのです。もっと密接な教えがいるのです。では、現代人にとっての密接な教えとは何か。それを、一言で表現するならば、"自己実現"だと私は思うのです。それぞれの持ち場、それぞれの職場で、だれもが希(ねが)っていることは、"幸福"です。幸福とは何か。つまりは、彼らの理想がうまく開花すること、それが幸福だと思うのですよ。それぞれの人は、それぞれの理想を持っています。その理想は、開花していく必要がある、開花するべきだと思うのです。彼らが本当にほしがっているのは、善悪の道とか、天国へ行く、あるいは、地獄へ行くという話ではなくて、どうしたら自分の理想を実現できるかというようなことであろうと思うのです。

ですから、宗教の世界で理想を実現していくためには、「自己実現」ということを、これを宗教のなかに採り入れていかねばいかんということです。古い言葉で言えば"御利益(ごりやく)"になるのかもしれないけれども、このご利益は、ある意味においては、自分の努力に応じたそのお返しというか、その反映でありますから、ちょっと異なったものであります。"自己実現"とは、もっと現代的なことなのです。あなた方が、罪とか、赦しについて考えるのもけっこうですが、現代的に「自己実現」ということをもっとしっかり考えておく必要があります。それぞれの人が自己実現するためには、どうしたらよいのか。この点が大切なのです。


12.昔の「他力信仰」に代わる現代の「光明思想」


蓮如  まあ、私が言いたいのは、今から七、八百年前に現われた他力思想、あるいは、室町の時代に生まれた他力思想が、現代において、どのように現われているかです。他力行者たち、他力の信仰を持った人たちが、現代の世の中にもいろいろでているのです。日本はもちろんのこと、アメリカやヨーロッパにもでております。他力信仰の方がたと、他力行者たちが、今何をやっているか。すなわち、こういう方がたがやっているのが、「自己実現」なのです。

昔の他力信仰は、現代においては、科学的な自己実現の方法、こうした方向へいっているのです。つまり、「精神科学」の方向へいっているのです。他力の信仰が、如何にして自己実現するか。自己実現の方法というものがあります。これは、"精神科学"の法則のように言われています。あるいは、クリスチャン・サイエンスとも言われていますが、こういう方向があるのです。これが、昔のいわゆる"他力信仰"なのです。ですから、現代風にアレンジされてでてきたと言えます。

現代においては、願いごとを如何にして叶(かな)えるかということを、私たちは、「心の法則」を用いて説明しております。もちろん、そのためには、かなり心理学も関係しています。心理学では、「願望実現の方法」というのがあります。つまり、まず最初に、心にイメージを描く。ある像を心に描くのです。自分の理想の像をイメージし、その像を心に描いて、日々、それについて思念を送るということです。そして次には、やはり神仏ですね。「神仏」に祈るという言葉が、今では、「潜在意識」という言葉になってきました。潜在意識に対して祈るということになっています。これも、ある一定のイメージを抱いて、それを潜在意識に植えつけるわけです。たとえば、寝ている間に、願望を実現してくるとか、あるいは、日常生活のなかに実現してくれるということを言っています。しかし、潜在意識という言葉で呼んでいるものは、結局のところ、宗数的にいえば、本当は守護、指導霊や神仏の力なのです。それを、心理学でいうと、"潜在意識"となる。現代風には、そのような説き方をされているわけです。

自己実現の方法としては、まず、イメージを描く。そして、自分の潜在意識にそれを植え込み、さらには、肯定的観念を持つということになります。まず、しっかりした明確なイメージを持ち、潜在意識を信頼し、そして、肯定的な観念を持ち続ける。そうすると、必ず自己実現する。こういう具合に説かれています。

自己実現の方法として教えていることは、否定的観念を駆逐するということです。そして、潜在意識のなかに、完全によいことばかりを植え込む。肯定的な観念を植え込まなくては、意味がないのです。こうした方法は現在、西洋で流行っております。日本でも、流行ってきています。その"走り"が日本でいうと、「光明思想」であったと思います。アメリカでも、光明思想です。日本では、一部神道系の宗教のなかで、この光明思想がずいぶん流行ったと思います。光明思想とは、つまりは、他力信仰なのです。かつての他力信仰が、現在、光明思想となってでてきているわけです。そして、それが、現在、大きな一つの流れとなって、「自己実現」ということを言っているのです。


13.潜在意識(守護、指導霊)への肯定観念植えつけで「自己実現」する


蓮如  あなた方の考える思想には、自力の教えも多いでしょうが、自己実現に必要なのは、単なる他力ではなくて「自他力」だと言えます。まあ、これを、絶対力という言葉で表現する人もいるでしょうけれども、こういうものなのです。いずれにせよ、こういう心の世界の法則を教えていく必要があります。確かにこれは、嘘ではないのです。心に明確な"像"を持って、それを、常々潜在意識に植えつけて、否定的な念(おも)い、くよくよする懐(おも)い、消極的な想(おも)いを排除し、積極的に生きていると、必ず自己実現が適うのです。

たとえば、レベルの低い譬(たと)え話ですが、軽井沢に別荘を持つというようなイメージであっても、そうしたいという願望を本当に心のなかに持って、常々、その家の絵をありありと心に描く。そして、暗いことを考えずに、明朗な意識を持って、日々生きていると、必ず、そのチャンスがでてくるのです。あるとき、お金がころがり込んでくるとか、あるとき、軽井沢に別荘を持っている友人が、「俺は海外に行ってしまうから、家はいらないので、安く売りたい」とかね。こういうような形で、チャンスがでてくる。こうしたことは、潜在意識と言いながらも、実は、守護、指導霊があの世から手配をしているんです。あの世で、他人の守護、指導霊と話したりして、"自己実現"を助けているのです。

一方、否定的な念(おも)い、消極的な念いとは何か。それは何かというと、つまり、ある意味での想念の曇りだと言うことができます。たとえば、こういうことです。「いやあ、軽井沢に別荘を持とうと思っても、俺にはそういうことはできないだろう。なぜなら、俺の収入は限られているから」と。このように消極的な考えを持っている人は、結局、自分で否定しているわけです。自分で否定するとはどういうことかというと、心に曇りをつくっているのです。心に曇りをつくっているから、守護、指導霊がいるあの世の世界と否定的な考えをする人の表面意識との間に疎通ができない。明るい肯定的な観念を持つことです。そうすれば、あなた方が思ってることが、すぐあの世にまで伝わってきます。そして、あの世の方がたも協力してくださる。だから、自己実現ができていくのです。

自分の病気は、もう治らないだろうと思い込んでしまう。あるいは、ある医者にかかっていても、ここの医者はヤブなので、治らないだろう、と。もっといい病院へ行きたいけれども、お金がない。このように、いつも否定的なことばかり考えていたのでは、治る病気であっても、なかなかよくならない。そうではなくて、必ずこの病気は治るんだと、明るい気持ちで生きることです。すなわち、潜在意識を信頼する。そして、守護、指導霊にお願いして、任しておけば、病気は本当に治ってしまうものです。それが治らないというのは、自分の否定的感情、暗い感情で、それを覆っているからなのです。

病気は、簡単に治るんです。あの世の力を受けて、治っていくんです。そういう"自己実現"ですね。ところが、自分の像を描いても、自分でそれを勝手に打ち消す人がいるんです。いやあ、そんなことは無理だろう。別荘など自分には持てるはずがない。あるいは、自分は社長にはなれない、大成功はできないだろう、と。「富者が天国に入るのは、駱駝(らくだ)が針の孔を通るよりむずかしい」という意見がありますが、これを本当に信じている人は、決して大金持ちにはなれない。絶対になれないのです。そういうことを心に植え込んでいる人は、何のことはない、自分がそう希(ねが)っているからにすぎません。否定的方向での自己実現を、つまり、大金持ちにならないという意味での"自己実現"を願っているからです。本当の意味での自己実現とは、明確な像を描いて、明るく肯定的に生きていって、常々、潜在意識にそれを刻み込む。そして、夜、寝る前に、必ず、自分の願いが実現するようにと祈る。こういう積極的な方向ですね。これが、真の自己実現につながるのです。ここが大事なのです。昔の神仏は消えてしまいましたが、自分の潜在意識というものを使って、実現しようとします。こういう方法もあるのです。