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目次








1.ユートピア建設の原点としての教育


〇〇〇〇〇という団体も発展の速度があがってまいりまして、次第しだいに拡大路線に切り替わりつつありますが、ともすれば原点を忘れがちなのが私たちであります。

原点とは何であるかといいますと、一人ひとりの学びを大切にするということであったと思うのです。この一人ひとりの学びを大切にするという原点は、私たち、すなわち私たちというのは、「〇〇〇〇〇」を運営する側としては、みなさんにそれだけ学びの機会を提供してゆかなければいけないということだと思います。

それは言葉を変えていうならば、口はばったい言い方かもしれませんが、それだけの教育の場をつくらなければならないということになると思います。それでは、どのようなところにその教育というものはありえるのだろうか。教育とは、教えて育てるというように文字で書き表わしますが、その意味はいったい何であるか考えてみましょう。各人一人ひとりの特性というものはすいぶん違っています。その違った特性のみなさんに、まったく同じような接し方をしてもおそらく各人の求めているものを与えることはできないと思うのです。そうではなくて、教育の原点には、一人ひとりの持っている最良のものを引き出すという考え方があると思います。これが、教え育てるということの真の意味であろうと思います。

そして、教え育てた結果はどのようになっていくのかといいますと、そうした教育を受けた方が、次には指導者になっていくということが大切だと思います。指導者になってどうするのか。それは、自分たちが受けたと同じ教育を、他の人びとにその機会を提供し、その学びを与えるというプロセスになってくるわけです。こうしてみると、教育というものは無限に拡大していくという過程があるのだということに気がつかれると思います。けっして手を抜かず、質を落とさずに、それを続けていくためには、絶えず指導者というものを養成していくプロセスがだいじなのです。

まず、本章はこのように教育という話から入ってまいりましたが、これはユートピアとユートピア価値、これにきわめて密接な関係があるのです。その密接な関係とはいったい何であるか、それがみなさんにはおわかりでしょうか。ユートピアという考え方はいくつかの角度から考えていくことが可能です。それを、空間的に考えることもできるでしょう。すなわち、理想郷・エデンというような空間的な広がりがあって、そのなかに人びとの楽しい集いがある。このような考え方も可能でしょう。

また、これとは違った考え方として、もっと人間を中心に見ていく考え方もありましょう。さらに、この人間を中心に見ていく考え方にも、二通りあります。一つには人間の対象を分析することなく、すべて善き人、あるいは幸福をつくり出すことをもって仕事としている人たちの集まり、こういう意味でのユートピアという考えがあるでしょう。それが一般的な考えであるというように私は思います。


2.ユートピアをつくりだす三つのグループ


私はこの「人」という問題、対象としての人という問題をもう少し分けて考えてみたいと思うのです。それは、より一般性のある分類をするならば、年齢で分けてもよいかもしれません。人生を三段階に分けることができると思います。すなわち、人の集まりと呼ばれているものを、若者の集まりと、それと中堅の人びとの集まりと、また壮年・高年層の集まりというように考えることも可能であろうと思うのです。

そうしますと、この三つのグループというものを考えながら、ユートピアというものをどのようにとらえていくか、それが問題となります。


①若年層のユートピア

このように考えますと、若年層、おもに二十歳から二十五歳ぐらいまで、もちろん幼少年期、小学生、中学生、このあたりの年代も入れて、二十歳から二十五歳ぐらいまでの範囲に入る方がた、彼らにとってのユートピアとはいったい何であろうか。それを考えたときに、最初に述べたように、どうしても教育という側面、これを抜きにしてはどうしても語れないと思うわけです。教育としての側面というものを抜きにして語れないとすると、その中身が問題とならざるをえないのです。彼らの日常生活は現在、学校というものを中心に回転しています。そうしますと、この学校を基点とする学習活動に光を当てていかざるをえないと思うわけです。

では、そこで要求されているものはいったい何であるか。それは学習の対象ではないのか。彼らに何を求めよと教えるべきであるか。それがだいじではないのか。そう思われるのです。

こうしてみますと、ユートピアの建設というものは、単に空間の問題ではなく、人というものを、その集まりを対象とすると考えるならば、この若年層に対しては、この教育の問題、特に学校のあり方、学習内容のあり方、あるいは学校を離れたところでの学習のあり方、この部分を外すわけにはいきません。なぜならば、私は今の学校制度のなかにおいては、人間にとっていちばん大切なものが教えられていない、と感じるからです。

人間にとっていちばん大切なもの、それは何でしょうか。人間にとっていちばん大切なもの、大切な学びとは何か。この人間にとっていちばん大切な学びは、まだ樹が若いうちに、まだ鉄が熱いうちに、教えてゆかなければなかなかわからないのです。もう固まってしまって年輪を重ねた樹になっては、あるいは固まってしまった鉄となっては、時機を逸したといえるのです。

まだ、どのように伸びていくか、どのようなかたちとなっていくか、それがわからない段階において、彼らに見えないその道を、道なき道の歩み方を、教えてあげる必要があるのです。そのためにはどういう内容を教えればいいのでしょうか。みなさんが父親なら、あるいは母親なら、何を彼らに教えようとされますか。人間として、これから世に出ていく前に、どうしてもこれだけは学んでおかなければならないということを、いったい何に求めるでしょうか。


愛なき人生は不毛である

私は、基本の柱は数多くあると思いますが、まず三点に求めたいと思います。

第一点は、「愛なき人生は不毛である」ということを徹底的に教えておくということです。この「愛なき人生は不毛である」という考え方、この特に愛という考え方は、残念ながら、後天的に気がつかないとわからない部分があるのです。小さな子供、赤ん坊であるならば、もちろん自分の必要に応じたものを他の人からもらおうとするでしょう。そして、満足が得られたときに喜びを表わすことはあるでしょう。しかしながら、積極的に他に愛を施すということが、いかなる意味をもっているかということは、やはり彼らはだれかに教えてもらう必要があるのです。

それは、本来の世界においては、当然知っていたことであり、魂が魂である以上、そしてその魂が人間の魂である以上、愛とは他の人への限りなき関心であり、他の人を限りなくよくしていこうとする思いであるということは知っていたわけなのですが、地上に生まれ落ち、そして子供として生きていくうちに忘れてしまっている考えであるのです。この忘れてしまった考えを、もう一度教えてあげる、気づかせてあげる必要があるのです。本来的に、そのような素質はあります。才能はあります。それゆえに、この導きを与えてあげれば、彼らは本来の世界に気がつき、やがてスクスクと伸びていくことになるわけです。まず、「愛なき人生は不毛である」ということ、これを教えなければなりません。


人間は永遠の生命を生きている

二番目に教えなければならないことは、何であるかと申しますと、それは、やはり「人間は永遠の生命を生きている」ということです。これはどうしても教えなければならないと思うのです。

このことに関して、話をするならば、私自身は幼少時から、神の存在、あるいは人間が霊的存在であること、転生輪廻する存在であるということを確信していました。そして、小学生のころに友達どうしでそうしたことを話したこともあります。それを聞きつけた隣のクラスの担任の女の先生が、昼休みに私を呼び出しました。小学校五年のことだったと思います。そうして、私に詰問するわけです。「あなたはおかしなことを言っているらしい。人間は死んでも命があるとか、また生まれ変わるとか……。そんなことを言っているらしいが、その証明はできるのか。」ということをその女の先生は私におっしゃいました。私は先生というものは、偉大な存在であるから、まさかこのような詰問のしかたをされるとは思いませんでした。

それは、やがて来るべき時代への、その時代とは私自身に向かってくる時代でありますが、それへの予感を感じさせる一つの出来事であったと思います。私は、三十分以上にわたって、なぜ人間は霊的存在であるのか、なぜ生まれ変わるのか、ということについて、その先生に話をいたしました。しかし、納得を得ることはできませんでした。その理由は、結局において、「私は霊というものを見たことがない。」という一点に集約されていたように思います。

それに関して私は、「たしかにあなたは見たことがないかもしれないし、またそれを見たいとされるあなたに、現在ただいま、そうした世界をお見せすることもできないかもしれません。しかし、霊的体験を積んでいる方は、世の中には数多くいらっしゃいます。そうした方を、すべて私は嘘をいう人たちだとは思いません。また、クラスの友達のなかにも、霊的な体験をした方はいます。彼らが全員、嘘をついているとは私は思いません。」このようなことをお答えいたしましたが、そうしますと今度は、嫌疑が私以外の人にかかっていくことに結局はなるわけです。"いったいどの子がそういうことをいっているのか言いなさい。" こういうことで、次にそちらに詰問がいくということが予想されましたので、私はロをつぐんだことを覚えています。その女の先生は、先生が聖職であるということを捨てるために活動しているような団体に所属している名うての女性活動家であったわけなのですが、そのときにやはり大きな疑問を私自身は感じました。


悲劇の歴史

そして、そのまちがいがいったいどこから始まっているのか、それは成長するまでわかりませんでしたが、やがていろいろな角度からだんだんわかってまいりました。

もちろん、流れとしては、二通りあったと思います。一つは、科学主義というような考え方が人の心をとらえて、それもひじょうに上面(うわっつら)といいますか、皮相な科学的真理であると思いますが、そうしたものが人の心をとらえていたということです。そして、実験科学によって、得られた真理以外は真理ではないというような考え方をすることをもって、知性人、知識人というように考える向きがあったということ、これが一般的な心の現象としていえるでしょう。

もう一つは、これは子供の心にはとうていわからないことでありましたが、それは日本という国特有の過去の歴史的事実として、大きな問題が私たちの前に投げかけられていたということであります。

なにゆえに、学校教育において神や霊などという、こうしたものを教えてはならなかったのか、その理由を子供心ではわからなかったわけですが、その原点が、四十年あまり前の日本の敗戦にあったということが、やがて明らかになってきたわけです。なぜ、その敗戦をもって、このようなものが否定されるにいたったのか、それは、二通りの意志がそこに働いていたと感じられるわけです。

一つは国民の、戦争はもういやだというアレルギー、このアレルギーの原因としての軍隊、軍事と、あるいは報国思想、天皇思想、こうした日本神道系の思想に対するものがあったと思います。

それが、一つの理由ですが、もう一つは、占領政策をとっていた諸外国の考えとして、いま私は霊的な感覚でそれをとらえることができますが、私たちが無前提で受け入れたもののなかに、彼らがどのような気持ちでそうしたものをつくっていたか、その姿が私にはわかるのです。それは、彼らがどうすれば、日本を弱体化できるか、骨抜きにできるかということを徹底的に考えていたという事実であったということです。日本が強かった理由、あるいは諸外国に対して脅威であったという理由はこの精神性のところにあるということを、占領軍たちはわかっていたのです。この精神性というのを骨抜きにしないかぎり、日本国民というのは、いつまでたっても脅威として、我々に挑みつづけるであろう、そういうことを彼らは真剣に話し合っていました。

それゆえに、日本という国の統治において、この部分をどう取り去るかということに腐心したのです。その結果が、一つは国の行事、国家的行事として、宗教活動をしてはならないという憲法になり、あるいはあらゆる宗教施設等の使用、これも公共施設は特定の宗教のために使わせてはいけないという考えになりました。そして、これは本来、宗教の自由を保障するためにある考え方、つまり、持定の宗教を支持することが他の宗教への圧迫原囚になるから、国家はどこにも干渉しないので自由にやりなさい、という考えとも読めたわけです。しかし、現実として見たならば、どのような時代がその後、現われたかといいますと、けっきょく国家が支持しないということは、それは悪しきものであるという考え方が生じてきたのです。

すなわち、それは国が認知しないものであるから、どうか隠れてこそこそとやっていただきたい種類のものである、ということになったわけです。その考え方は、一般的な企業の世界にも広がっていったと思います。日本の国では国家のすることは「右へならえ」でみなしたがいますから、大企業においてもそれは「右へならえ」です。宗教活動等をやるような社員に対する徹底的なマークというのがもちろんありますし、新聞社等でも、特定の宗教の宣伝になることはしないという暗黙のルールができあがっています。

それは、新聞の書評を読めばよくわかります。宗教活動を促進するような書評はまったく出ません。暗黙のうちにそのようなことになっているのです。それは結局において、本来日本人のいちばん強かったものを抜き去られた、骨抜きにされた、という結果が残っているのだと思います。

こうしてみますと、この二つの流れ、私たちの心のなかに流れ込んできた実験科学による結果のみが真理であるというような考え方と、たまたま四十数年前に敗戦ということを経験したがために、受け入れなければならなくなった精神的打撃の部分、この両者が、国家単位の日本というものを一人の人間として見立てたときに、心身症の人間にしてしまったという面があると思います。

もっと、自分自身のほんとうの価値というものに、目覚めなければなりません。それが現代の日本の国に対して総合的にいえることであり、日本の国をつくっている構成員である日本人に対していわなければならないことであると思うのです。

人間として生まれて精神性なく生きているということは、これは恥なのです。その恥であることが恥であるとわからないということは悲しい事実です。少なくとも、その悲しい事実を、悲しい事実として認識できるだけの力が我々には必要です。いや、日本国民には必要であると私は思います。

こうした二種類の流れが結局において、さきほど述べましたように、まず子供に教えなければならないところの、「人間の生命は永遠である」ということを、「人間には転生輪廻がある」ということを、まるで笑い話のようにさせてしまう原因になっていると思います。

たしかに、人生においてさまざまな挫折体験を経て、心身症になることもあるでしょう。ただ、いつまでもそのままであってはいけない。そこから、立ち直ってほがらかに勇気を持って、また自分自身のほんとうの実力を知り、力を発揮していかなければいけない。そう私は思います。


学問の起源とは何であったか

ほんとうのことを、ほんとうにそうだといって何がいけないのか。人間の生命は永遠である、ということを教えてはいけないことになっているからというが、その考えはほんとうに真実であるのか。これを問い直していかなければいけないし、こうしたことが問われない風潮、問い直すことを許さないのが学問であるならば、そのようなものは学問とはいえないのです。学問とは未知なるものの探究であり、その探究を最初から制限するのであれば、学問とはいえないし、学問から発生した教育とはいえないと私は思うのです。

もちろん、人類の歴史は、はるかなる昔にさかのぼりますから、学問の起源をどうとらえるかは難しいのですが、現代人がとらえている学問の起源を、もしギリシャのソクラテスに置くとするならば、現代の学問のあり方はきわめてまちがっているということになるでしょう。

かつてのギリシャのソクラテスは、その当時の人びとや弁論家、雄弁家たちに次つぎと質問をして、そうした知識人であるとか、名うての人びとが、無知であるところを証明し論破していったのです。いったい何に対して無知であるのかということを彼が論破していったのか、それがみなさんおわかりでしょうか。今、私が語っているようなことをやっていたのです。

当時の雄弁家、詭弁家(きべんか)とも呼びますけれども、こうした人たちがやっていたのは、どのように弁論の術を磨けば訴訟に勝てるとかいうようなことばかりを教えていたのです。訴訟に勝つ弁論術あるいはレトリック、修辞ですが、どのような言葉のあや、これを身につけて話をするか、そうした技術論ばかりを対象としていたのです。

肝心のその中身はどうなのかということをなおざりにしている、そのような方法論ばかり教えているが、心はどこへ行った、これをソクラテスは問うたのです。そして、神を知っているのか、魂を知っているのか、人間の生命とは何であるかを知っているのか。そういうことを知らない人間に、人を教える資格があると思うのか。そうしたことを彼はギリシャの街を歩いて知識人という評判が立った人に対しては、かならず膝詰で話して歩いたのです。その結果、相手は返す言葉がなくなっていって、ソクラテスは多くの人の恨みを買うことになっていきます。結果は、ご存じのとおりです。

みなさんは、ギリシャ哲学というものを難しいものだと思っておられるかもしれません。いや、大学でそれを専攻している先生でさえ、ギリシャ哲学というのは、あの難解なギリシャ語を読んで、そしてああでもない、こうでもないと考え込むことだと思っているかもしれません。

しかし、もし今ソクラテスがここにいれば何をするかというと、みなさん方一人ひとりのその人生観、信条を聞いて、そしてどこが違っているかということを対話をしながらつきつめていくのです。そうして科学者であるとか、医者であるとか、教育者であるとか、あるいは政治家であるとか、このような一端のことを説く人をつかまえて、あなたは教育者気取りで生きているが、ほんとうにわかっているのか、ということを問い質(ただ)して歩いてゆくのです。それだけのことです。それほど難しいことはやっていないのです。

それが、言葉があのような古典であるから、難しく感じるだけであって、現代の日本語でいえばそれだけのことです。それ以上のことは言っていないのです。ただ、それらのことが当時のギリシャのトップレベルにある人たちにはわかっていなかったということなのです。このような事実があります。

現在においても、こうした教育における不毛があるわけです。そして、その真っ向から対決せねばならない場として、永遠の生命というものを認めるかどうかという議論があります。これをまず教えて欲しいと思います。


他の人びとに奉仕する

そして、子供たちにぜひとも教えなければならない三番目のこと、それは「私たちが何のために今世に生命を受けているのか」ということなのです。いったい何のために生まれてきたのか。これは、第二番目に話をしました、「人間は永遠の生命を生きている」ということを教えることに関係しています。この前提が崩れれば、三番目は成り立たないのです。

私たちが一時期わずか数十年の人生をこの地上で送るだけとする、そうした前提であるならば、成り立たない議論です。ほんとうに数十年かぎりで、前もなく、後もない生命であるならば、またもし、そうしたことを本気で信じられるならば、この世界というものは、万人の万人に対する闘争の世界になってもおかしくないと思います。かつてそういうことをいった思想家もおりましたが、それがごく自然に見えたことでありましょう。わずか数十年の年月で人間の生命が終わってしまうならば、その間で自分はできるだけ自分に返ってくるところの喜びを享受したいと願うのは、ごく自然なことです。

しかし、その結果は、どのような行動になるのか。そうしますと人は労を厭(いと)って結果のみを求める方向に走らざるをえないのです。とどのつまり、働いてお金を稼ぐということは、きわめてまわりくどい方法になるわけです。お金は持っている人からもらえばいいのです。そういうことになります。持っている人からもらえばいい。自分が一万円稼ごうとする必要はない。一万円もっている人を見つけて、その財布をとりあげればいいと考える人が出てくるわけです。

このように、有限の人間というものは、どうしてもエゴイスト、エゴイズムを追求する方向にいかざるを得ないのです。こうしてみますと、三番目の考え方として、何がだいじかといいますと、このエゴイズムに対する考え方、その逆の考え方なのです。これは、ごく当然のそうした有限の発想からはけっして出てこないのです。それは何かと申しますと、地上において、直接は自分の便益にならないもののために、力を尽くすという考えなのです。直接は自分のためにならない、自分のものにならないもののために働くことができるということ、そして何らかの物を遺していくということは、これはきわめて大切な考えであるのだけれども、自然の状態ではそう簡単には出てこないことなのです。

すなわち、子供たちに対して教えなければならない三番目のこととは、それは世の中の進歩につながる仕事をせよということになるであろうと思います。一生を通しての仕事というものは、各人が持つことになるでしょう。その仕事のなかに、真心をこめて世の人びとのためになる生き方をせよ、ということが教えられると思います。自分への見返りの多いものを求める、そのようなエゴイズムに走った仕事であるならば、魂は込もらないでありましょう。そして、自分に必要なものだけを得ることができればそれでよいと思うでしょう。

しかし、世の中の進歩につながる仕事に魂を込めるということがどれほど大きな意味を持っているか。それは肉体人間でありながら、肉体人間を超えたところの永遠の人間になるための条件であるということに気づいてもらうための活動なのです。永遠の人間となり、永遠の世界に入り、永遠の生命を全(まっと)うしていくためには、どうしても他の人びとへの奉仕という観点が出てこなければならないのです。

一番目に「愛なき人生は不毛である」といいました。私はこれを心の側面から述べたつもりです。この三番目の話は心の側面だけではありません。具体的な行動において、仕事において、活動において、その成果を発揮せよ。他の人びとに奉仕をするような、そうした生涯にならなければならないということをいっているのです。

こうした三つの基軸を教育に持ち込んで欲しいと思います。私の今世の願いの一つとしては、やはり学校教育まで改めたいという気持ちが強くあります。そこまでやらなければ、今回活動している意味がない、今回の仕事の意味がないと思っています。

文部省には申し訳ありませんが、代わらせていただきたいというのが本心です。あのような教育をやるためにあるのなら、もうほどほどにしていただきたい。そういうことです。代わらせていただくか、それができないならば、文部省のコンペティターとなって競争させていただきたい。

どちらがほんとうに子供たちの学習と成長に役立つか、これを文部省の競合者として、競わせていただきたい。どちらかです。どちらかをやらせていただきたいと思っています。ここまでやらなければ、ユートピアは絶対にできないのです。この根本のところを押さえないかぎり、できないのです。

これが若年層に対する一般的な考えです。


②中堅層のユートピア

この次の中堅層、二十代半ばから三十代、四十代、場合によっては五十代も入るでしょうが、この三十代、四十代の中堅層にいわねばならないこと、それは、まずあなた方はいま実践の中心にあるということなのです。あなた方が日々やっていることが目に見える形となって、あなた方のまわりに現われ、そして、日本中で実現しているのだということを知っていただきたいのです。

若年層への教えはすぐには実を結びません。それはまだ投資の段階に終わっていると思います。しかし、この中堅層になって、自分が思ったこと、行動したことが、現実としてかならず現われてくるのです。

それは、いろいろな立場についている方がいらっしゃるでしょうが、現実に考えてみられればよいのです。小学生や中学生、高校生、大学生のときに、自分が思ったことが実現したかどうか。まだ教育という名の檻(おり)のなかに入っていて、そして餌を与えられて、成長していた段階ではなかったのか。まだ、その檻の外には出ていなかったでしょう。まだ、その籠(かご)の外には出ていなかっただろうと思えるわけです。今、その中堅層となって、檻の外へ出た。実社会のなかに出て、野原のなかに出てきたわけです。そして、自分が思ったこと、行なったことはかならずその足跡(そくせき)が大地にしるされているのです。現在の日本をつくり、世界を動かしているのはこの層であります。

さすれば、自分の思いと行ないというものが、どのような結果を招くか、招来するかということに対して、もっと責任を持つべきであると私はいいたいのです。社会がよかろうが、悪かろうがそれをつくり出しているのはあなた方である、ということをいいたいのです。あなた方の思いと、思いにつながるその行動によって、現在の結果が出ているのであるということです。その結果に対して、責任をとるべきであるのです。

そして、責任がとれないならば、その原因・結果のプロセスの原点をもう一度、よくよく考えるべきであるのです。どこかにまちがいがあったのではないか、思いにまちがいがあったか、その思いを実現するプロセスにおいてまちがいがあったか。どちらかではなかったのか。そして、結果に対して、どう責任をとるつもりかということを真剣に考える責任があるのです。

たとえば、私がいっていることを具体的に言うならば、日本の政治が悪いというが、そうさせているのはいったいだれかということです。政治家か、そうではないはずです。その政治家を出しているのはいったいだれであるのか。だれが選んでいるのか、だれがそうした人たちに政治をさせているのか。政治家がお金を使うというが、そのお金はだれに対して使われているのか。そうしたことを考えてみなさいといっているわけなのです。

社会が悪いというが、その悪い社会をつくっているのはいったいだれなのか。教育が悪いというが、悪い教育をつくっているのはいったいだれなのか。そういうことをよくよく考えることが大切であるということです。

現に、中堅の年代においては、行動すればそれなりの結果が出るのです。そのような立場にあるのです。さすれば、行動によって引き起こされた結果に対する責任と、行動を起こさなかったことに対する不作為責任の両方がこの中堅層には問われるのです。

非行少年が多いなどといいますが、本来そのような非行少年などはおりません。出来の悪い母親と、父親がいるだけのことです。そういうことなのです。あるいは出来の悪い先生かいるだけのことなのです。それだけのことです。

そして、その社会の歪(ゆが)みをつくっているのは、ほかならぬ自分たちだということです。これに対して、作為の責任と不作為の責任の両方をとらなければならないのです。もっと使命の自覚をせねばならない。具体的ユートピア建設の段階において、それを実現していくのはこの中堅層であるということをもっともっと知らなければなりません。

そうしますと、この二十代の後半から三十代、四十代、五十代の前半ぐらいまでの間の人に求められているものは、何であるか。それは、「自己の生き方を客観視する」という習慣をもっとつけなさいということです。これは、八正道的な考えでもあるでしょう。みずからの思いと行ないを第三者の目で、いや神の目で見よ。そして、各人がその思いと行ないを神の目で見て正していくときに、世の中はよくなっていかざるをえないという考えです。自己規律をせよ。自分で自分を律してゆくのです。この段階においては、自分で自分を律しなければ、みなさんの自由という、その行動はだれもブレーキをかけることはできません、そういっているのです。そういう立場にあるのです。善いも悪いも実現するだけの立場にあるのです。

前述の「新時代の展望」という第1章でもお話しいたしましたが、私は、これからの未来社会を創っていく鍵は自由の解釈にあるというふうに語りました。そして、その自由には、選択の自由と創造の自由という二つの自由がだいじな眼目としてあるという話をいたしました。さらに選択の自由のなかでは、心のなかにおいて選び取っていく作業が大切だという話もいたしました。

悪い方向への思いというものを取り去り、行動を取り去り、よい方向へ、よい果実を産む方向へと選択を重ねていきなさいということをいいました。もう一つは創造の自由という話のなかで、人間が神に似せられて創られたその最大の理由は、この創造の自由にあるのだ、神と同じく思ったものを創り出していく力があるということ、これが人間の人間たるところの最大の特徴であるのだ、という話を私はいたしました。

まさしく、この中堅層の人たちは、選択の自由と創造の自由という、この二つの自由を現在、ただいまにおいて駆使できる立場にあるのです。過去二十数年の間、少年時代、青年時代に学んできたことは、何であったか。それはここの年代に入って、自己発揮するときのための肥やしであったのではないのか。そのための投資であったのではないのか。

何のための勉強であったのか。何のための学校生活であったのだろうか。これをふり返らなければならない、思い出さねばならない。まさしく、実はこの二つの自由を、そして真実の方向に向かった二つの自由の実現のために、そうした先行投資があったのです。それを知らなければならないのです。

それゆえに真実の教育とは、学校教育とは、あるいは家庭教育とは、まず選択の自由において、善なるものを、美なるものを、真実なるものを選び取っていくための基準を教えるということが大切であるわけです。そのためにこそ、ほんとうは学問というものがあるのです。真実のものを選び取っていくことを教えるために、これをまさしく、この年代の方にやっていただきたいのです。

また、創造の自由です。社会をどう創り変えていくかは、この年代にかかっているのです。現実にみなさんが、鑿(のみ)をふるい、鎚(つち)をふるわなければ、何も進まないのです。釘を打たねば、鋸(のこぎり)をひかねば、何も変わらないのです。今、自分たちがやっているのだという気持ちをもっていただきたいのです。これは、大きな責任です。

人間がどれだけの器であるか、いかなる人間であるか、いかなる器量の持ち主であるかは、その人がどれだけ責任をとれるかにかかっているのです。みなさんが、どれだけの人物であるかは、どれだけ責任をとれるかにかかっているのです。自分がどのような人物であるかがわからないならば、自問自答してください。自分はどの範囲まで責任がとれるか、自分の責任のとれる範囲はどこまでか。それを考えてみてください。この問いに答えていただきたいのです。

さすれば、みなさんがどのような人物であるか、明らかです。その責任をとれる範囲以上ではないのです。以下でもありません。責任をとれる範囲がみなさんの人物を表わしているのです。今、虚心坦懐(きょしんたんかい)に自分自身の行動に対し、思いに対し、とれる責任の範囲はどこまでか考えてください。それがみなさん自身の実力なのです。

そして、この責任範囲を超えて、まちがった行動をし、まちがった思いを出した人にそれだけの反作用がくるというルールがあるわけなのです。自分を客観的に見ることができなかった人たちの姿です。