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目次

















(1987年2月24日の霊示)

1.人の悟りは、新聞にだけは載るなの向上心


まあ、いよいよ第7章、大仏への道という章に入っていくことになります。まあ、もうひとつで終わりだから、わしも、もうちょっとというところじゃのう。ずいぶん長くかかった気がする。大仏への道は遠いのう。遠いのう、ほんとうにそう思う。今日は、多少はもっともらしいことも言おうと思うとるんじゃ。もっともらしいことって何かと思うんじゃろうが、まあ、他の人たちがのう、悟りの話をあれだけいっぱいしとるのに、わしがやらんわけにはいかんじゃろう。じゃから、王仁三郎も悟りよるんじゃ。

それが大仏への道じゃ。これを言わんでは、やはりせっかく出て来て話しをした甲斐(かい)がないのう。まあ、これを言わんといかんじゃろう。そこでじゃ、むずかしい悟りについていっぱい、これから話をしていくぞー。これを乗り越えることができたならば、もう、皆んな大仏さんじゃ。鎌倉でも、奈良でも行って坐っとりゃいい。大仏さんになれる。生き仏さんじゃ。まあ、そんなもんじゃのう。

さてさて、それではいよいよ、私のむずかしい、むずかしい悟りを述べようと思うんじゃ。古来から、日本神道に悟りがあったかどうかは、わしはちょっと知らんが。

仏教などでは、悟りというのは、まあ、中心じゃ。メインテーマというのかのう。中心ちゅうの中心。キリスト教では悟りということもあまり聞かぬが、まあとにかく、インド、中国、それから日本、この辺は、悟りというのがずいぶんはやっとるのう。まあ、蔓延(まんえん)しとると言ってもいいくらいじゃ。じゃ、なぜ宗教で悟りというのがいるんか、これについて話をしよう。これで悟れたら、まあ、わしと同じくらいのところまでだいたい来られるちゅうことじゃのう。耳の穴をかっぽじいて、よーく聞いてくれ。

まあ、悟りというと、非常に聞こえがよい。昔から、何と言うかのう、人間の、本性と言うか、これをどうとらえるかという考え方は、いくつもあったと思うんじゃ。じゃけども、まあ、人間の本性のなかには、やっぱりあれじゃ、向上したいという気持ちが、ないわけじゃない。向上して、どんどん伸びていきたい。まあ、こういう気持ちがあるわけじゃのう。何でまた、そういうふうに、向上したいのかということじゃのう。

まあ、女の子が向上したいのは、ハイヒールでもはきゃあ、そのほうがスラッとしてのう、大根足もきれいに見えよう。日本の女性は、とくに足が短いからのう、やはりハイヒールでちょっと底上げして、向上せにゃあいかん。

こういうふうに、まあ、向上というのも、見た目がええちゅうこともあるわのう、ひとつには。あーあ、向上すると見た目がいい。見た目がいいということは、どういうことじゃろうか。見た目がええということは、まあ、自分も満足がいくちゅうことじゃのう。他人からよく思われるちゅうことは、悪いことじゃない。まあ、昔からよう言うのう、新聞に載るようなことだけはするな、と。

出ロ王仁三郎の霊言の広告が新聞に載れば、よくないかどうか、それは、わしはよう知らん。じゃがまあ、そういうことはともかく、昔から、よう親がのう、口をすっぽうして、新聞に載るようなことだけはするな、と。あるいは、手が後ろに回ることだけはするな。あるいは、人から後指指(うしろゆびさ)されるようなことだけはするな、と。まあ、昔からよう言われたもんじゃ。これは、人間の永遠の真理でもあろう。結局、人間ちゅうのは、人から後指を指されとうないんじゃ。

しかしなかには、まあ、気丈な人間がおってのう、どんなに人に悪口を言われようが、わしはけっこうと、わしはわしの思うとおりやるんじゃ、と。まあ、女性でもおるよ。周りの人が何を言おうが、「何よ、ね、男の人に何を言われようが何よ、私は、一部の男性以外から何を言われようが、屁とも思わんわよ」と、まあ、こんなのも、なかにはおるな。ポンポンとして、ツーンとしてのう、何かハイヒールとんがらして、カタカタカタカタ職場のなかを歩いて、外歩いて、ツーンとしてのー。鼻にもかけん、歯牙(しが)にもかけんちゅうのは、まあ、こういうのがいる。一部の人、出口王仁三郎先生みたいな立派な一部の人以外には、何を言われようが関係ない。馬耳東風というか、参考にも値せん。ツーンって感じで、やっとるのがおろう。

まあ、こういう人が、後指を指されても、全然怖くないんじゃろうか。けど、よう考えてみるとのう、それだけツーンとせねばいかんのは何かと言うと、そのツーンが、自分を守ろうとしとるんじゃ、結局のところのう。ツーンとして、「私はこうなのよ」と。「ツーン、あんたなんか全然知らないわよ」とやっとるけど、まあ、こういうのに限って、自信過剰でのー、人にどう思われるちゅうのを非常に気にしとるんじゃ。人にどう思われるかをのう、非常に、非常に、気にしとるわけじゃ。


2.人はほめられれば、幸福感を感じる、犬も同じ


じゃから、通常の人間は、人に悪口言われるのが嫌(きら)いじゃ。ね、おどおどしてしまう。けど、おどおどしとらん人間も、また実は、一番嫌(いや)なんじゃのう、人に言われるのが。そうすると、人間というのは、生まれつき、どうやら、人にほめられるようなことは好きじゃけれども、悪口言われるのは嫌いじゃ。そういうことになろう。

まあ、悪口言われても好きじゃっちゅう人は、負けおしみもあろうけども、まあ、あんまり長生きはできんしのう、楽しくはない。人に悪ロ言われて楽しいってことはない。まあ、そういうふうに人間はできておるんじゃのう。じゃから、どっちか言うたら、評判がええほうがええに違いない、まあ、そういうこっちゃ。まあ、そういうことで、何で人が向上ということを言い出すかと言うとじゃな、結局、そこじゃ。問題は。

やっぱり、人からええように思われたい。何で、人からええように思われたいか。まあ、これが、自分の幸福感につながっとるわけじゃのう。人からほめられたら、その日一日、嬉しいわけじゃ。女の子は、口紅の色をほめられたら、その口紅ばっかりしてくる。あるいは、水玉模様のブラウスかなんかを人にほめられたら、もうそればっかり着て来る。三日に一回は着て来る。まあ、そんなもんじゃ。そうじゃのう、男でもそうじゃ。散髪屋にでも行って、散髪屋にお客さんの頭は大変にいい頭です、刈りやすい頭です、と言われて、二枚目ですなあと言われると、そこにばかり行きよる。まあ、だいたい、皆んな似たようなもんじゃ。そういうことで、人間、ほめてくれる人のほうへはなついていくんじゃのう。まあ、これは、じゃから、悪いとは言わん。

犬じゃって、そうじゃのう。やっぱり、可愛がってくれる人になついていく。石を投げられたり、蹴っとばされる人のところは、遠ざかる。これは本能じゃ。まあ、何でもそうじゃのう。犬だって、要するに、ほめられたいと思っとるんじゃ。飼い主からのう。犬だって、怒られたら嫌なんじゃ。シュンとしておるわ。ほめられたら、嬉しい。目を細めて、それはそれは、嬉しそうな顔をしとるわ。そんなもんでのう、これは、結局のところ、この辺のところにじゃな、人間の、生きていく原動力があるんじゃのう。原動力が。


3.幸福感は生きる原動力、向上心の燃焼


人からほめられる。見た目がええということがある。それは、向上心につながっとるとさっき言うたけれども、じゃ、その向上心は何かと言うと、要するに、えー、幸福の元、まあ、幸せの感覚じゃのう、これにつながってくる。じゃあ、幸せの感覚ちゅうのは、一体何に寄与(きよ)するのか、何のために一体役に立つのか。これを考えてみると、結局のところ、これじゃ。生きる原動力じゃ。こういうことじゃ、生きる原動力がついてくるわけじゃ。まあ、言うてみれば、燃料があっても、酸素がなければ燃えんようなものじゃ。だから、酸素じゃのう、酸素じゃ。

ご飯食べとったって、要するに、自分が幸せじゃないと思っとれば、妙に毎日がおもしろうないわけじゃ、生きていく気力がない。すなわち、まあ、飯(めし)ちゅうのは、ガソリンじゃ、薪(まき)じゃ、石油であるわけじゃ。じゃけれども、こういう燃料があっても、酸素がなければ、燃えんわけじゃのう。煙ばかり出て、くすぶるわけじゃ、こういうことがある。結局、毎日、毎日生きていく原動力が、人間、ほしいんじゃのう。この原動力がなくなると、まあ、自殺してみたり、悲観して山に篭(こも)ってみたり、対人恐怖になったり、まあ、自己嫌悪におちいったり、こういうふうになるわけじゃのう。

そうして、存在自体が許せん、自分が生きておること自体がよくないことじゃ、悪いことじゃ、と思うわけじゃ。まあ、こうなってくるんじゃのう。こういうふうな、連関(れんかん)が、ちゅうか、連鎖(れんさ)があるわけじゃのう。したがって、人間も生きものである以上、やはり、生きる気力というのが大事なんじゃのう。生きてて、やっぱりバリバリやれる、生き甲斐があると思うと、それが生き甲斐になるわけじゃ。まあ、そんなもんじゃのう。

毎日、一日二十四時間あって、まあ、三度、三度、ご飯を食べて、晩になると寝とるけれども、つまらん一日で、ガッカリして、意気消沈してしまうと、夜寝るのも、寝れん。天井の節(ふし)の穴ばかり眺めておるうちに、夜が白々(しらじら)と明けてしまう。でまあ、一睡もできんままに、朝になる。で、朝起きて、会社に行こうとしても、睡眠不足で、フラフラじゃ。昼間じゅう、嫌なことばかりを考える。こうして、生きていく気力がなくなる。まあ、こういうのを見てみると、結局は、生きていく気力というのが、一番大事じゃ。生きていく気力があると、人間というのは、意味があるわけじゃのう。気力があるところに、意味がある。気力がなければ、意味がない。毎日、生きていく気力がなければ、ほんとうに生きていく意味がなくなってくる。

まあ、死刑囚などもそうじゃろうのう。つながれとるだけで、いつ絞首台(こうしゅだい)に登るかというのを待っとるだけだったら、まあ、飯もうまくなかろう。何のために食うとるやら、わからん。生きていく気力がない。生きていく気力がないから、要するに、生きている意味がないわけじゃ。まあ、こういうこっちゃのう。こういうふうにして、ひとつの連鎖を見てくるとじゃなあ、まあ、悟りたいということは、向上心じゃとわしは言うたけれども、結局、生きていく意味を、やっぱり求めておるんじや、人間は。


4.人間は、生きていく意味さえわかれば幸せ、すなわち「悟り」


生きていく意味さえわかれば、すべてがよくなってくる。この生きていく意味を求める旅が、まあ、悟りへの道じゃ。こう言うたら、皆んな、わかりやすいじゃろう。悟りとは、だから、生きていく意味じゃのう。生きていく意味の発見じゃ。生きていく意味を発見して、そして、毎日気力を持って、バリバリと生きれたら、それでええわけじゃ、そういうこっちゃ。

それでは、いよいよむずかしいぞー、生きていく意味って、何じゃ。これが答えられるかどうかじゃのう。まあ、今の大学で、教授か何かやってのう、哲学の教授でもやって、飯を食うとる連中に聞いてみたいもんじゃ。これで答えられんかったら、クビじゃ。月給皆返せ、税金のムダ使いじゃ。どこそこの大学の教授つかまえて、こらっ、そこのくそ坊主、あっ、くそ坊主じゃないのう、くそ教授か、生きていく意味とは何じゃ、生きていく意味とは何じゃ、さあ答えろ。答えんかったら、今日食べた昼ご飯吐き出せ、税金返せ。給料返せ、月給泥棒じゃ。さあ、言うてみい、生きていく意味とは何じゃ。さあ、すぐ答えろ、と。まあ、禅問答じゃのう。これは、やっぱり、即答せねばいかん。

まあ、大学教授じゃったら、何と言うじゃろうのう。生きていく意味、それは存在、存在と無、無は無だから、空であって、空は空(むな)しいから、お腹が滅って、パンが食べたいから生きていく意味がある、なんて、わけのわからんことを言うやらわからん。まあ、何を言うとるやら、わからんのう。

あるいは、生きるために食べるんか、食べるために生きるんか、何ていうようなことも、あるかもわからん。まあ、いろんなことを言うじゃろう。しかし、ほんとうに生きている意味というのを、人びとに示せる人というのは、ある意味で悟った人とも言うてもええわけじゃ。これが即答できれば、たいしたもんじゃのう。

宗教家にも全部、聞いてみたいもんじゃ。どうじゃ、谷口雅春君、生きていく意味は何じゃ、言うてみい。「生きていく意味は、本来、肉体なし、病なしです」。そうか、肉体はないのか、それじゃ飯もいらんのう。「いや、本来であって、肉体はあるわけですから、胃袋はあるんであって、飯はいるんです」。何と言うやら、わからん。まあ、彼が何言うか、わしは知らん。

まあ、生きている意味と言われて、何と言うかのう、それはわからん。あるいは、そうじゃのう、ソクラテスなんかに、生きている意味とは何じゃと問い合わせたら、何と答えるかのう。ソクラテスだったら、生きていく意味は、そうじゃのう。「無知の知じゃー、自分が無知なことを知ることじゃ」なんて言うかもわからん。あ、そうか。無知なことを知ることか。おー、それでどうした、それで楽しみがあるんか。「いや、楽しゅうは、ならんじゃろう」。ソクラテスは、そう言うじゃろうのう。じゃ、何のために生きておるんじゃ。うん、ようわからん。で、毒飲んで、また死んじゃったりしてのう、そういうことをするかもわがらん。

そうじゃのう、他に生きていく意味か、何をお答えになるじゃろうのう。まあ、不敬罪にならんように言うとすれば、イエス様に生きていく意味を聞いたろう、何と答えられるじゃろうのう。あんまり変なことを言うと、不敬罪にあたって、わしは打ち首じゃから、滅多なことは言えんが。まあ、イエス様なら、生きていく意味は何じゃったら、「ああ、それは愛です」と答えられるかも知らんのう。何でイエス様、「愛」が生きていく意味ですか。「ああ、それは、神が愛だからじゃ」。そうですか、神が愛だからですか。ようわかったような、わがらんような、答えであった。まあ、こういうことになろう。

じゃ、王仁三郎よ、お前、人のこともええけれども、お前、一体生きていく意味とは何じゃと考えるか。うーん、そうじゃのう、女子(おなご)じゃったら、子供の二、三匹産んでみたいが、女子ではないから、そういうのは産めん、肉体がありゃ、飯の二、三杯でも食べてみたいが、肉体がないから、食べられん。そうすると、生きていく意味って何じゃろうか。生きるというのはのう、やはり、この世で飯を食って生きるというように思う人もおるであろう。まあ、それも間違いとは言えん。三度のご飯が美味(おい)しいと言うだけでも、生き甲斐とも言えるじゃろう。

生きていく意味って、何か。まあ、三度のご飯が美味(おい)しいこと、そして、三度のご飯にこと欠かぬこと。まあ、これでもええかもわがらんのう。戦争中なら、それでもええじゃろう。皆んな、食べることしか考えとらんかったからのう、食べてたら、それで幸せじゃったんじゃ。ああ、今日のすいとんはいつもより濃いのう、と言ってのー、すいとんはいつも、いつも薄く薄くされて困っとるのに、今日のすいとんは、いつもより汁がちょっと濃いぞう、嬉しいのう、と言ってのう。今日は、さつまいもが一本取れたとかのう。さつまいもの蔓(つる)が食えたとか、まあ、そういうことになるわけじゃ。


5.出口王仁三郎の生きる意味は、神様の世界を地上に現わすことだった


わしなんかは、戦争中大弾圧を受けて、まあ、大本も壊滅になったわけじゃけれどものう、綾部の地が壊滅状態になって、わしがつくった大神殿、全部、ダメになった。あー、全国各地から大きな石を集めてのう、大神殿をつくったんじゃ。全国各地の信者から、お前らが見つけた生き石のう、生きてる石と思うものを持って来い、ちゅうんで、鉄道で運んでのう、駅からゴロゴロゴロゴロと夜中に石を運んで、それを、大本の本部に持ち込んで、それで、大庭園をつくったんじゃ。

そして、その庭園のなかで、その石をいろいろ配置して、まあ、宮殿と言ってはあれじゃけれども、御本殿みたいなのを、それこそ、前に言うた七曲がりの丘の、五重の塔みたいのを、わしはつくった。そういうなかにも住んでおった。あの世の世界を、この世に現わすのが、わしの仕事やと思うたからのう。わしがあの世へ行って見て来た相(すがた)。七曲がりの丘の、その、何ちゅうかのう、そういう五重の塔みたいなのを、つくってみた、大本で。あるいは、いろんな池もつくってみた。まあ、神様の世界をこの世に出してみたいというのが、わしの理想じゃったのう。

それじゃから、本部のなかでは、そういう形もつくってみたし、本部以外でも、まあ、この世のなかを、今流に聞こえよく言えば、仏国土じゃのう、神様の国にしたいと、わしも思うたんじゃ。皆んなが、破滅や、破滅やと言うとるから、破壊したらいかん、と。お前たち、破壊へ行っちゃあいかん。この世の中を、神様の国にするのがお前らの仕事じゃろう。それを破滅じゃ、破滅じゃと言うのはおかしい、と。まあ、こういうふうに思うじゃろう。

そこでのう、わしは、そのときの戦争中までと言うかのう、大正、昭和の頃の理想というものは、結局、天国ちゅうか、神様の世界を、この世に具現すると言うかのう、現わすことが、わしの目的じゃったし、これが、わしにとっては、生きる意味じゃった。

王仁三郎の生きる意味は、要するに、神様の世界を地上に現わすことじゃったわけじゃ。じゃが、その大本も、警察に大弾圧を受けて、警官にやられてしもうた。崩壊じゃ、ダイナマイトでのう。何百本、何千本のダイナマイトで、ふっ飛ばされたわけじゃ、大本の本部がのう。何百人、何千人の警官隊に取り囲まれてのう。危険思想じゃ、危険犯じゃということで、戦争反対をするような大本は、国賊であると言うてのう、ずいぶんやられた。


6.大本とともに旧日本国は滅びた


わしは、そのときに言うた。「大本が滅びるときは、国が滅びるときじゃ」と、わしは言うた。予言者としてのう、大本が滅びるようでは、日本の国は滅びる、と。わしは、言うた。ああ、そのとおり、滅びた。大本が滅びて、まもなく、日本が滅びてしもうた。まあ、そういうふうに、何と言うかのう、国自体が、急旋回して、自分たちに都合(つごう)の悪いものは何も許されない情況であった。ほんとうの、正しい行為であっても、それを弾圧するような時代であったのう。そして、自分たちの都合の悪い部分を全部封じ込めて、そして、やった結果が何じゃ、結局、自業自得じゃのう。自分たちだけが、お縄にかかったわけじゃ。最期には。

まあ、そうして戦後、わしは、一躍英雄扱いじゃった。大本でのー、あれだけわしらを痛めつけた人たちが、今度は逆じゃ。マスコミとかいうたらのう、わしはもう救世主扱いじゃ。日本の国が滅びたのを正しく予言した人じゃと言うたって、何も、嬉しゅうないわのう。その前に、大本が潰(つぶ)されといて、日本の国が滅びたのを予言した人じゃ言うたって。あたり前じゃ。間違うたことをして、滅びるのは、当然のことじゃ。わしは。だいぶ前から、間違うとると思うとった。すでに大正の時代からのう、日本はおかしい、まあ、ファシズムというのか、こっちのほうへ急旋回して行きつつあることは知っとった。このままでは、もう軍国主義になって、また戦争をおっ始める。そして、今度は負けるぞよ、とわしは思うとった。日清、日露で勝って、第一次大戦で勝って、神国日本じゃの言うて、神国日本は、別に、外国と戦って勝つのが神国日本じゃないぞ。


7.昔の神国日本とは、海賊の論理


それにもかかわらず、神国日本というのは、要するに、負けんのじゃと、不敗じゃということで、やっとった。まあ、こんなのは、海賊の論理じゃ。勝てばええと言うのじゃ、海賊と同じじゃ。そんなことじゃないはすじゃ。まあ、いつの間に、日本国が、こんなさもしい心になったかなあと思うて、わしは悲しゅう思うたぞ。あっちこっち領土を取りに行って、攻めてのう、悲しゅう思うた。

まあ、神国日本の思想は、それが、拡大して、海外に広がるのは悪いことではない。ただ、そういうのではなくて、まあ、経済的に何と言うかのう、領土の侵略などするのは、それはいいことじゃと、わしは思えんかった。そういうことじゃ。けどものう、わしひとりの力では、そうした大きなエネルギーというか、破壊のエネルギーというのは、押し止どめることは、できんかった。


8.破壊のエネルギーが、また溜まってきとる


まあ、そうした破壊のエネルギーが出つくして、逆に、平和な時代がきたのかも知らん。こうした破壊のエネルギーというのは、やはり、止めることができんかも知らん。まあ、第8章のお立て直しで、また言うつもりじゃけれども、そういう時代が、またもう一回来つつあるようじゃのう。戦争が終わって四十年、人びとは、どうやらまた、平和に酔い痴(し)れてきたようじゃ。そうして、だんだん破壊の、何と言うか、エネルギーが溜ってきたようじゃのう。

地上を見とれば、何じゃ、また軍事力を増やそうとしとるようじゃのう。防衛力増強じゃと言うて、またやり始めたのうと思うて、軍国主義の怪物がそろそろ出始めたのうと思うて、見とるんじゃ。気をつけにゃあいかんぞ、亡霊じゃ、亡霊じゃ。あんなのは。この日本の国にも、戦争中に死んだ軍人たちが、まだいっぱい、うようよおってのう。この地上にさ迷うておるのじゃ。三十年、四十年、仕事もなく、さ迷うておるのじゃ。

戦争になると、彼奴(きやつ)らの活躍の場面があるのじゃ。地上で浮遊しとるからのう。戦争が始まったら、また軍人に憑(つ)いたり、政治家に憑いたりして、仕事ができるんじゃ。それがやりとうてやりとうて、ウジャウジャしとるんじゃ。靖国神社とかいうのがあって、まあ、高級戦犯か何か知らんが、それを祭ってあってのう、それが、皆、神様になっておろう。

それで、首相がそれを参拝してええのか悪いのかと、ああでもないこうでもないと、憲法論議をしとるようじゃ。しかし、靖国神社に祭っとる英霊たちと言うとるけども、その英霊の行き先は知っとるかのう。まあ、天国に行っとるのも、そりゃおるけれども、天国へ行っとらんのが多いぞ。むしろ、地獄までまだ行っとらんのが多いぞ、地獄まで行かずに、地上をフラフラしとるのが、いっぱいおる。そんなとこへ、政治家が参拝に行って、まあ、その地獄霊に憑かれて、軍備増強を言うぐらいが関の山じゃ。


9.戦死者を成仏させるには軍拡心を止めよ


まあ、そんなもんでのう。死んだ人間というのは、祭ってもろうて神様になったからというて、それで楽(らく)になるわけじゃないんじゃ。神様と一緒にしてもろうたところで、決して、偉くはならん。それは、奴らへの、やはり安らぎを与えにゃあいかんのじゃ。安らぎをのう。戦争で死んだ人たちは、どうやって安らぎを与えられるか、知っとるかどうかじゃのう。まあ、それはやはり、彼奴(きやつ)ら、個人個人の問題もあったけれども、国家というのが大きな犯罪を犯して、そういう、大変な時代に突入したわけじゃ。

国家の犯罪じゃのう。まあ、彼らの個人個人の意志は全然働いとらん。戦車に来れば、砲弾、撃たねばいかん。飛行機に来れば、敵機を撃墜せねばいかん。戦争中の論理ちゅうのは、何機撃墜したかってことが英雄じゃ。撃墜した数が多けりゃあ、英雄じゃ。ところが、戦争が終わってみりゃ、人を殺せば犯罪人じゃ。そうじゃのう。まあ、こういうように、価値基準が逆転してしまう。

じゃから、戦争というのは、ひとつの、何と言うかのう、まあ、異常心理じゃのう。異常心理の時代じゃ。そうした戦争で、多くの、何百万の人たちを殺したということの責任、これは、だれがとれるものでもないけれども、ただ、彼らが迷わずに成仏できるためには、やはり生きている人間が、戦争ということの間違いというものを、しっかりと認識しにゃあいかん。そして、彼らの死によって、平和がきたことを感謝せにゃあ、いかん。そういう、彼らの死をムダにしないという気持ちじゃのう。これが大事じゃ。

ところが、また軍国主義をやりおると、また亡霊が甦(よみがえ)ってくるんじゃ。せっかく、成仏しかかっとったのが、また出て来て、「そうじゃ、そうじゃ、もう一度、大砲を増やせ、もうちょっと潜水艦を増やせ、もうちょっと飛行機がほしい」と。これは戦中、ようやったこっちゃ、海軍、陸軍がのう、もうちょっと飛行機がほしい。もうちょっと艦船がほしい、もうちょっと重油がほしい、とやっとった。彼奴(きやつ)は、死んで、まだあの世でやっとるんじゃ。あの世で、まだ戦争やっとるんじゃ。もうちょっと砲弾がほしい、砲弾がないか、敵の弾が命中するぞ、と言って、皆んなやっとるんじゃ。こういうのが、また、始まるんじゃ。

じゃから、自衛隊などが演習しとると、そこにはもう、旧陸軍の亡霊など、出とる。自衛隊の演習場にはのう。迫撃砲などを撃っているところには、そういった亡霊がいっぱいおってのう、一緒に撃っとるんじゃ。そして、戦争やっとるんじゃ、そこでのう。そういうのがおる。また、沖縄じゃの、硫黄島(いおうとう)じゃの、サイパン島じゃのいうところには、もう、亡霊がウジャウジャおるわ。まあ、こういうところに新婚旅行で行く人もおるじゃろうけれども、あの世の霊の姿が見えたら、まあ、カップルで、とても島を歩いたりはしておれんわ。とてものう。きれいな島じゃなんて言うとるけれども、とんでもない。もう亡霊がウジャウジャしておる、そんなもんじゃのう。


10.戦争で、個人の責任でない亡者を出すな


まあ、普通に生きて、地獄に行く人が、自分の苦しみを自分で解決せにゃあいかんのは当然としても、まあ、戦争みたいなことを契機にして、一挙に何十万、何百万が死んでいかにゃあいかんという状態、そして、成仏できんというような状態というのは、非常に悲しいことであることは、確かじゃ。個人が悪いことしてやったということよりは、そうした圧力でもって、やらざるを得ないような状況で、不本意に命を奪われたということじゃのう。そういうことで、戦争というのは、世界から見ても、決していいことじゃない。してはならんこっちゃ。

それをすることによって、多くの迷う霊が出る、大量にのう。そしてその後、霊界が、皆、混乱するんじゃ。そういう地獄霊が出て来るから、混乱するんじゃのう、普通。そしてまた、地上の混乱の元をつくっていく。したがって、そうしたまあ、不成仏霊を出さんこっちゃ、なるべく。出さんようにせんといかんのじゃ、人間は。


11.英雄扱いされても、わしは嬉しくなかった


じゃから、わしは生きる意味の話をしとるんじゃけれども、戦前は、あるいは、戦中は、そういう神様の世界を、地上にもたらすというのが、わしの生きる意味じゃった。だけれども、その生きる意味は、封じ込められてしもうた。そしてまあ、戦後、わしは、英雄扱いをされたけれども、そんなもんで、心は、何ちゅうかのう、全然穏(おだ)やかにはならんかった。わしの心はのう、決して穏やかにはならんかった。

死ぬ前まで、焼きものを焼いたりしとった。それも、生きる意味かも知らんがのう。もう大神殿は、壊されてしもうたから、わしは、焼きもののなかに、神様の世界を一生懸命追究しとったのじゃ。七色の世界をのう。そして、あとは、お迎えが未るのを待っとったんじゃ。まあ、王仁三郎が生涯を見ると、そうじゃのう、まあ、自由奔放、豪放磊落(ごうほうらいらく)、地上に大きな影響を、わしは与えたと思う。

じゃが、残念なところは何かと言えば、影響は与えたけれども、影響を与え切ることができんかったことじゃのう。これが残念じゃ、今だに。ああいうふうな、無謀な戦争を何とか止めさせたいと思うて、大本教の教勢をどんどん高めていったんじゃが、政府、軍部には、勝てんかった。ああいう政府とか、軍部の重要人物のすべてを大本にしてのう、そして、わしらの意見を聞かし、神様の意見を聞かしたかったんじゃけれどものう。無謀なところを、ほどほど抑えて、何とかしたかったんじゃが、そうは、いかんかった。


12.戦争がすぐまた始まるが、あの世があることを早く知らせよ


まあ、時代が悪かったんじゃろう、わしの。戦争がもうすぐ始まるけれども、あんたら、まだ今のところは、平和な時代を生きておる、じゃから、もうちょっと、わしの生きる意味とは、生きる意味が違うかも知らん。生きる意味の質がのう。若干、違いもするだろう。じゃがまあ、原則はいつも一緒じゃ。とくに宗教的なことを目指している人にとってはの、生きる意味の追究というのは、結局のところ、まあ、神の国の実現じゃ。本来ある世界を、この地上で見せてみることじゃのう。それがわがらんから、地上で、皆んな、混乱しとるわけじゃ。いろんなことをして。

金に溺(おぼ)れたり、情欲に溺れたり、あるいは、お互いに足の引っ張り合いばかりをしておる。こんなことばかりをして、地上が混乱をしておる。その原因は何かと言うと、まあ、地上がすべてじゃと思うて、あの世の世界などないと思うとるからじゃ。

まあ、そういうこともあって、わしらは今、こうしたあの世からの通信をしとるわけじゃけれども、わしらのほんとうの意図というかのう、これを皆んな、知ってほしいなあと、わしは思うとる。

わしらは、別に、何も要(い)るもんないんじゃ。出演料ももらえんのじゃ。出たからというて、偉いものにもならん。じゃが、出演料はくれんけれども出て、話しとるのはのう、あの世があるということを、知ってほしいからじゃ。そして、あの世の世界にも、いろいろな世界があって、調和された世界もあれば、乱れた世界もあるぞ、と。したがって、地上に生きとる生き方そのものが、あの世の世界に来たとき、お前がどうなるかを教えておるんじゃ。つまり、あの世というものがあるということを知った以上、地上の生き方というものを、もうちょっと正していかにゃあならんのじゃないかと、よく考えてみろ。ということじゃ。


13.馬鹿な自殺者は、皆、あの世で宙に迷うとる


お前たちは、地上の生命ばかり守ることを考えてはおらんか。戦争ひとつ取っても、そうじゃ。敵が攻めてくるから自分らを守らにゃあいかん、と言うとるけれども、守っとる生命は、肉体の生命だけだ、魂を守っとりゃあせん。そんなことをするだけで、魂が守れるかどうかを、よう考えてみい。人を殺すことによっては、魂は永遠に浮かばれんのじゃ。それを知っとるのか。他の国を潰(つぶ)したからと言うて、戦勝に沸(わ)いたからと言うて、それで魂が喜ぶかと言えば、喜びはせんのじゃ。

そういう魂は、またあの世で、裁きを受けるのじゃ。あるいは、あの世ということを、中途半端に知りよって、あの世にいけば幸せになると思うて、馬鹿な若い生命が、自殺などして、次々と死んだりしておる。飛び降りたり、いろんなことをして死んどるけれども、こんなの、愚(ぐ)の骨頂(こっちょう)じゃ。もっとあの世を知れというこっちゃのう。あの世というのは、この世の延長じゃ。この世をどういうふうに生きるかによって、あの世ちゅうのが決まってくるのじゃ。それを知らんと、あの世さえ行きゃあ、ようなるっちゅうのは、とんでもない間違いじゃ。

この世ちゅうのはのう、あの世に入るための、まあ、学校みたいなもんなんじゃ。小学校でようできんと、やっぱりええ中学校に行けんじゃろうが。中学校でできが悪いと、ええ高校に行けんじゃろうが。高校でできが悪いと、ええ大学へは行けんのじゃ。それと同じでのう、この世で勉強しとらんのに、あの世に行ってもいい学校には行けんのじゃ。決まっとるんじゃ、それはのう。したがって、この世で勉強しとらんかったら、あの世に行ったら、浪人じゃ。不合格じゃ。不合格ちゅうとどこかちゅうとのう、地獄じゃ。

ところが、地獄にはのう、まだ近代化が進んでおらんから、予備校がないんじゃ。残念ながらのう。予備校ができたら、もちょっと楽(らく)になるであろうが、地獄にはまだ天国へ行く予備校がないんじゃ。まあ、そういう天国へ行く予備校をつくってやろうと思っとるんじゃが、なかなかできんのじゃのう、それが。予備校さえできれば、落第しても、そこで勉強すればええんじゃが、まだ予備校ができんでのう、あの世でも。これさえできればええんじゃが、地上のときに、勉強しとらん連中は、やっぱりあの世へ行って、困るんじゃのう。

じゃからまあ、自殺なんていう人は、高校中退みたいなもんじゃ。高校中退して、大学、入れるかどうかじゃのう。まあ、なかには入れんこともない。大学の入試の検定とかいうのがあるじゃろう。検定ちゅうのか、これを受けて大学へ入ろうと、そりゃ、可能じゃ。じゃから、これは自殺者でも、一部は、そういう人もおらんことはない。じゃが、普通は高校を中退する人は、大学へ入れん。中学中退する人は、高校へは入れんのじゃ。普通は。同じようじゃ、自殺、いうのも。運命的に、自分の人生ちゅうのを、要するに、儚(はか)なんで、自分の運命を、まあ、自分で悪いほうへねじ曲げたわけじゃのう。途中で人生やめちゃったわけじゃから、こういうのは、中退じゃ。したがって、高校一年、二年で中退した人は、大学へ入れんのじゃ。


14.真の生きる意味は、与えられた時代環境に最善をつくして努力すること


天国の門は開かんのじゃ。こういうことを、地上の人間はよう考えとらにゃあいかん。これは、だれの責任でもないんじゃ。高校さえやめればいい世界があるなんて思っとるのが、間違ごうとるんじゃのう。やはり人間ちゅうのは、与えられた世界のなかで、やっぱり最善をつくさにゃあいかん。

最善をつくしとるなかで、道が開けてくるんじゃ。そうしたもんじゃ。環境は自分で選べんのじゃ。人間はそう簡単には、その時代環境というのは、選べんのじゃ。時代環境ちゅうのは、与えられるもんじゃ。どんな時代に生まれてものう。どんな時代に生きても、それは与えられたもんとして、人間は、そのなかで最善をつくさにゃあいかん。まあ、そのなかで、与えられた環境のなかで、最善をつくすというのが、生きる意味を見つけるということじゃ。

じゃから、まあ、一般にのう、わしの本の読者にも、言いたいんじゃけれども、お前さん方、生きる意味っていうのを、もう一回考えてみろ。生きる意味って何かと言うと、与えられた環境をグズグズ言わずに、そのなかで、やはり最善に生きるということじゃ。そのなかに、やる気が出てくるんじゃ。充実感が出てくるのじゃ。そこに喜びがわいてくるんじゃ。その喜びが、生きる意味じゃ。これを追究していかにゃあいかん。

そして、その生きる意味も、あの世を知った生きる意味にならにゃあいかん。この世だけの生きる意味じゃ、意味がない。あの世もあるということを知って、まあ、正しい人生観じゃのう、正しい人生観を知って、生きる意味の追究じゃ。わかりやすう言うたけれども、まあ、これがわし流の簡単な「悟りへの道」じゃ。

すべての人間は、やはり悟りへの道の途中にある。その悟りへの道とは、その生きる意味を、追究する生き方じゃ。そして、その生きる意味の、解答、各自の解答によって、その人がどこに行くかが決まるんじゃ。あるいは、如来、菩薩と言われるような人になるか、地獄霊となるか、それは、各人が追究した生きる意味の答えじゃ。採点結果じゃ。それが、死後、どこへ行くかということじゃのう。

じゃから、悟りとは、人間の生きる意味の追究、これ以外ではあり得ん。ま、長々話してきたけれども、今日はこの辺にしておこうかのう。いよいよ、この次は、わしの話もクライマックスじゃ。最後じゃぞー。読者もしっかり最後まで読まにゃあいかん。まあ、この辺で、今日はやめておこう。