目次
2.心と肉体の休養
6.感謝と愛他
7.希望は最大の薬
(1989年8月27日の霊示)
1.肉体の病気と霊作用
エドガー・ケイシーです。このたび、特別の書物の編纂(へんさん)の一翼をになって、私も悪霊(あくれい)対策について話をしなければならないこととなりました。
悪霊と言っても、私の専門分野から言うならば、主として、病気および死の原因となる悪霊憑依(ひょうい)について語らねばならないと思います。生前アメリカにおいて私は、さまざまなリーディ
ングをくり返し、そのなかで病気リーディングについても大きな業績をあげたつもりです。
ングをくり返し、そのなかで病気リーディングについても大きな業績をあげたつもりです。
ただ、病気リーディングのやり方は、ほとんどが薬物、あるいは物質、あるいは転地療法に関するものであったと思います。かなり唯物的な側面からの病気療法であったと思います。もちろん、これは現在でも有効なものであるというふうに考えてはおりますが、これとは別な観点から、霊的な憑依現象による病気も数多いことを、こちらに還って十分に学びました。
それゆえ、悪霊撃退の一つとしての病気治し、病気回復というものがあると考えられるのです。
まず、もちろん急速に病気になる場合、なんらかの霊的な原因があるということは、これは観察上は七割ないし八割ぐらいはそのようであると思えます。ただ、この霊的な憑依現象が、原因であるのか、それとも結果であるのか、これについては議論が多少分かれるところです。原因であるというものの考え方は、もちろん宗教的な人に多いわけで、このために悪霊を除霊するとか、そういうことによって病気平癒(へいゆ)を願うというのは、古来よりある方法であり、未開地の人々のなかでも現在行なわれている方法でありましょう。
ただ、今、心の教えというものを学んでいる者としては、そういうものだけではないという感じがしていることでしょう。まず、そうした憑依を受けるような現象があるとしても、その原因はどこにあるかというと、ほとんどの場合、心と肉体のバランス、これが崩れるところにあるというふうに思います。もちろん、心と肉体のバランスが悪くとも、肉体が健康で、そして゛悪い者ほどよく眠る゛ということわざどおりに心が悪いなりにもたくましく一生を送る者もあるので、心だけの原因にできるかどうかは難しいところがあります。
逆に、心はひじょうに優しい人であるのに、つねに病気がちの人というものも、一見あるかに聞いています。このように両極端の例があります。しかし、大部分の人間は、この中間に所在していると考えられるのです。
そこで、私なりの考えを述べたいと思いますが、まず肉体的な力と、霊作用とのかかわりについて述べてみたいと思います。肉体的に疲労する場合に、悪霊の作用を受けやすいかということですが、これは百パーセント近い確率でイエスといってよいかもしれません。肉体的に疲労困憊(こんぱい)している状態というのは、ちょうど体から出ている波動がきわめて荒く、まあ言ってみれば粗雑な波動が出ており、この波動は地獄の波動によく似ています。
疲れは地上の人間だけのものではありません。地獄の霊たちも疲れています。彼らは休むということがありません。彼らは眠るということがありません。つねに、さまざまな恐怖感、あるいは圧迫感、また攻撃や、強迫をされたり、そうしたことで忙しく生きており、ちょうどみなさんがたがスリラー映画を見たり、あるいはアクション映画を見たりするときに、息もつかせぬ場面が続々と登場しますが、あのような場面が地獄では展開していると考えてよいでしょう。
もちろん、地獄にもいろいろあって、孤独で独りぽつねんと座っているような霊もおりますから、このような霊はまた違った考え方を持っているでしょうが、いずれにしろ地獄には疲れというものがあることは事実です。疲れがあり、孤独があり、寂しさがあり、悲しさがあり、苦しさがあり、恐怖があり、不安があり、およそ人間が考えつく限りのマイナス要因そのものが、この地獄に大きく巣くっていると考えてよいと思います。
それゆえに、肉体的な状態、肉体の疲れが霊的な悪原因となるかということは、イエスと言わざるをえません。どのような光の天使であっても、肉体がきわめて弱った状態では、なかなかその光が十分に発揮されません。また、光の天使であっても、その肉体に機能の故障があったり、あるいは事故があったり、体の具合が悪かったりするときに、高級霊たちが通信しにくい状態になるということは自然です。
それは、人間の肉体をスッポリ覆って霊体というものが入っています。肉体に巨大な、あるいはそこそこの疾患があるときには、霊体自身にも傷が入っているのです。たとえば、肉体の内臓であるところの胃がきわめて痛い、胃潰瘍(いかいよう)、胃癌(いがん)、こういう症状になりますと霊体のなかでの胃にあたる部分も病んでいます。それゆえに、霊体自体がやはり病の状態になっていると言ってよいでしょう。霊体のなかに、病の状態があるということは、その統一の理念、統一の波動が乱れているのであって、そうした状況においては、なかなか天使たちの通信を受けることも難しいと言ってよいでしょう。
それは、たとえて言えば、空を飛んでいる鳥、渡り鳥の一羽が鉄砲によって羽を撃たれて急降下している姿にも似ているでしょうか。他の渡り鳥たちの群れに帰りたいと思っても、羽を撃たれ傷ついているために、どんどん高度が下がってくる。そうして、他の渡り鳥と話し合うことができない、通信をすることができないで、体が地に落ちてゆく、といった感じによく似ています。霊体に深い傷ができて、そして天上界の諸霊の喜びの波動と合わなくなってくるわけです。
地上の人間は不思議に思うことがあるのですが、人間の肉体とまったく同じ構造の霊体が体のなかには入っています。すなわち、肉体としての心臓があるように、霊体としての心臓があります。また、肉体としての胃があるように、霊体としての胃があります。また、その他の諸器官もまったく同じように備わっています。色心不二(しきしんふじ)という言葉で言われていますが、霊体と肉体とはたがいに相関し合っています。
それというのも、あなたがたは随意筋、不随意筋という言葉を聞いたことがあるでしょう。たとえば、腕の筋肉、足の筋肉などは随意筋と言われます。脳で指令を送ると筋肉を収縮させ、関節を曲げることができます。それで、物を持ったり、道を歩いたり、ボールを蹴ったりという動作が出るわけです。ところが心臓は自分で動かそうとして動かすものではありません。また、胃も同じです。腸も同じです。このように内臓諸器官は、自分で動かそうとして動かせるものではありません。
これは、どういうことかというと、このそれぞれの臓器特有の霊体がやはり入っているのです。そして、それがその生命を司っていて、その臓器を動かしているのです。ゆえに、たまには人間の魂が死を迎えても、すなわち肉体的に死を迎えても、内臓だけが生きているということがあったりします。しかし、これなどもやはり大きな霊体とつながっているために、大きな幹のほうが死を迎えると、臓器の霊体としても死を迎えることになってくることが多いと言えましょう。
2.心と肉体の休養
このように、人間の肉体と霊体の関係はきわめて密接である。すなわち、相互にエネルギーを増強し合うこともできれば、減少させることもできるという関係にあるわけなのです。肉体の疲れを癒(いや)すために、すなわち霊的なエネルギーを供給することもできれば、霊的エネルギーを増強するために肉体のエネルギーを増やすという方法もあります。この両者とも可能である、ということになりましょう。
前者であるならば、疲れたとき、病のとき、そうしたときに祈りによって神の光を浴びる、神の力を引く、そういうことが可能でありましょう。後者の例であるならば、逆によいものを食べ、適度な運動と適度な睡眠をとること、また保養をし、転地をすることによって、霊的なエネルギーを充電するということもありえます。
後者についてさらに述べておきたいと思います。
夏になれば、夏休みというものがあります。そして、たいていの人たちはどこかに旅行に行くなり、自宅で休むなりします。あるいは帰省というものがあります。また、冬には正月休みというものもあるでしょう。そのようにして休養をとることになりますが、これはまことに大きな効果があることは、あなたがたが経験したとおりです。夏と冬に休暇をとるということは、これはひじょうにいい傾向にあります。夏は、どうしても肉体が疲れやすく、体はつねにエネルギーを欲しています。したがって、疲労も極に達し、精神的にもマイナスの状態が続くことがよくあります。それゆえに夏に休暇をとってエネルギーの充電をするということは、きわめて合理的なことなのです。
また、冬においても同じで、冬になりますと生体エネルギーがかなり低下していきます。植物は枯れ、動物は冬眠する時期です。すべてのものの活動のエネルギーが低下してきます。これは、太陽エネルギーの減少が原因であると言ってもよいでしょう。すべてのもののエネルギーの根源は、大陽エネルギーから来ている、と考えてもいいわけで、冬になると大陽エネルギーの供給が減少してきますから、それの循環によって生きているところの植物、動物とも活動エネルギーが低下するのです。それゆえに、その部分を補う必要があります。それを、食物等によって補ったりするようになるわけです。
以上のように、夏と冬に大きな休暇をとりますが、霊的にみれば、これはかなり大きな意味があるというふうに言ってよいでしょう。また、これ以外においても、平常の月においても、休暇の効用というものは、きわめて大きいものがあると私は思います。
3.ストレスの原因と解消法
ストレス系統の気の病であるならば、いちばん効くのはやはり海岸地帯で過ごすことです。とくに、暖かい地方の海辺で過ごすことは、ストレス病からの回復がひじょうによくなります。とくに、海風、潮風でしょうか、潮風、それから海の波の音、砂浜、暑い太陽、このようなものが都会でのストレスを癒(いや)すのに大きな力を持っています。
あなたがたは、物質的にのみ物事を見るかもしれませんが、そうした海岸地方の自然というものは、またそれなりの自然の霊気が十分に供給されている所であって、人間はそこでエネルギーを補充することも可能となるのです。
とくに、砂浜の効果というものも大きいと言えましょう。砂浜のなかに含まれている成分のなかにも、人間のストレスを解消させるものがあります。また、あの砂浜の熱も、そのストレスを解消させるものがある。そういうふうに、私には思えます。また、プールサイドで体を陽に焼いたり、とくに水につかったりということも、人間の心を子供時代に戻す効果があり、またある意味では、古い原始の時代に戻す効果があります。この意味で、きわめてストレスの解消に役立っていると言えましょう。
ストレスというものは、やはり都市型生活によって生み出されていることが多いと言えましょう。すなわち、魂がその経験において多く持っていない作業をさせられている、仕事をさせられているということが、その原因の一つですし、もう一つは人口過密というものもストレスの原因になっています。
あなたがたは、物理学のボイル・シャルルの法則というものを学んだことがあるかもしれません。気体というものであっても、一定の粒子の集まりです。したがって、圧力をかけて、その容積を二分の一にしたならば、そのなかで動いている気体のその粒は、おたがいにぶつかる回数が多くなってきます。きわめて速い速度で、おたがいにぶっかり合うことになって、気圧を、圧力を二倍にした結果、その反発する力も強烈なものになってきます。
このように、粒子と粒子が当たり合う面積が、あるいは回数が増えれば増えるほど、それ相応の反作用というものが生じてまいります。すなわち、一日に会う人間の数が増えれば増えるほど、それだけのストレスというものがあります。それは、肉体的にぶつかるということのみを言っているわけではありませんが、すべての人間が、なんらかの念作用をもって活動しているわけですから、その念を受けて疲れるということがあります。また、自分も他の人を疲れさせているということは事実であります。
したがって、保養の効果を上げるためには、人間の集団を離れて、大自然のなかに遊ぶということがきわめて大きい効果を呼ぶということも言えましょう。
もう一つストレスの原因として考えてみますと、人間にはたがいに相性(あいしょう)というものがあるように、私は思います。それは、魂がそれぞれ一つの電波の発信装置のようなもので、たがいに似通った波長を出している者どうしであれば、親和性がありますが、ひじょうに違った波長を出す者どうしであると、それがおたがいに雑音に聞こえて疲れるという関係があります。ですから、極度にストレスが多い場合には、おそらく自分の職場、身のまわりに波長の合わない者がいるのだろう、と推定されるわけです。
これは、個人の努力で解決がつく場合と、つかない場合あると思います。個人の努力で解決がつく場合は、それは自由な仕事をしている人の場合でしょう。自由な仕事をしている人の場合であれば、いやな仕事はしないで、好きな仕事をするということでよいでしょう。しかし、管理社会に生きているたいていの人たちは、それがそうそう自由ではありません。上下関係、同僚の横の関係等で、そうした波長の合わない者どうしが隣り合わせることによって疲れるということはよくあります。
こうした場合は、そういう時期はそう長くは続かないと思って、しばらく時間を耐えることも大事ではありましょう。現に大勢の者はそういう方法を使っているようです。こうした時期が、鬱(うつ)の時期にあたりますし、またおそらくは雌伏(しふく)の時明にあたるのだと、私は考えます。そのようなときには、あまり一つのことを長く考え続けないということが重要であると思います。
それゆえに、気分転換を十分に図ることだと思います。考えなくてもよい時間をつくる。それを、考えることです。楽しいことを作り出して、そうしたストレスを避ける。異質な人と交わり、また自分と同質な人と交わる。他の人間関係を持つようにして、そしてできるだけ波長の違いによるストレスを解消する方向にいくのがよいと思います。人間関係において、解消ができない場合には、他の趣味の分野なり、なんなりを開拓して、そのなかに入っていくのがよい、というふうに私は思います。
いずれにせよ、厳しい世の中になってきていることは事実で、なぜそうしたストレスあふれる世の中になっているかというと、それは現代というのが、きわめて利益を重視する時代であり、利益を生み出すためには、ハードな仕事をこなさればならない。ハードな仕事の内容には、きわめて過酷な競争というものがあると言うことができるでしょう。そして、この競争がストレスを生むという状況になっているのです。
競争主義そのものは、全体で見るならば、社会全体の進歩・発展に必ず貢献していますし、個人としても魂が大きく飛躍するチャンスとはなっていますが、いかんせん摩擦は摩擦であり、摩擦する過程において、おたがいに疲れるということは事実です。それゆえに、そのストレスから来る心身の疲れは相当なものになるというふうに言ってよいでしょう。
ゆえに、また時おり、そうした競争社会から逃れた世界において、心の平和を求めるということが大事なことであるかと思います。それは、神の世界であったり、あるいは文学の世界であったり、芸術の世界であったりすることでありましょう。
4.霊的原因のみに頼りすぎないこと
さて、以上で一般的な話、肉体と精神の話について、多々述べてきました。
さて、これから具体的に、悪霊に憑依(ひょうい)されていて、そうして病気がちである人の対策について、述べてみたいと思います。
まず、言っておくことは、あまりにも霊的な原因の除去法のみに頼りすぎないことも大事だということです。確かに除霊であるとか、お祓(はら)いであるとか、祈りであるとか、こうしたものによって悪霊を取り払うことも可能ではありましょうが、その効果はきわめて不確かであります。また、そうした能力を持っている人の実力にも左右され、その結果の確認がきわめてむずかしいというのが現状であります。
さすれば、私は、まず申し上げておきたいのですが、霊的なるものを信ずるからといって、けっして現代医学そのものの否定に走る必要はないと考えます。現代医学によって治せるものは治してしまう。それは、ひじょうに早いです。早く治りますので、現代医学で治せるものは治すという方針をまずとっていただきたい。
医学の光線自体は、けっして宗教を否定するものではなく、これも天上界の霊指導があっての発展であります。ゆえに、これを無視してはいけないのです。けっして唯物論だと決めつけてはいけない、そのように考えてください。もちろん、医学の基礎には、唯物論的な思考がありますが、その奥には霊的な考え方、あるいは天使たちの指導がその奥に必ずあります。
だから、現代医学で治るものは早く治すという、合理主義精神を持つことは勧めたいと思います。
5.不養生をつつしみ、明るく元気な人とつきあう
第二番目に言いたいことは、悪霊を呼び込むような、そうした病気の状態になっている原因が、いったいどこにあったのかを考えてみていただきたい。病気になる場合には、たいてい自分自身の不養生から来ていることが多いです。仕事のしすぎ、また逆に、遊びのしすぎ、睡眠不足、アルコール過多、その他いろいろと体を悪くするような原因を自分でっくってきて、その結果が、今そのとおりになっているのではないでしょうか。
ですから、まあどの程度の病気になっているかにもよるでしょうが、もし軽度の病気であって、そしてまだまだ改善の余地があるようなものであるならば、体力をいかにしてつけるか、ということに執念を燃やすことが大事であると思います。体は、思いによって強くしていくことが可能であります。ぜひとも体の回復を図るべく努力をすることです。
病に陥っている人たちは、自分の肉体を軽視した方が多いと私は思います。生まれつき丈夫だから平気だというふうに、まったく野放図(のほうず)に、まったく手入れをしないで放っておいて、そしていざ病気になって大あわて、ということが多いのではないでしょうか。病気になる前には、その前にシグナルが必ず出ます。そのシグナルは、体調の不全であったり、あるいは不快感、だるい感じであったり、とにかく気力が起きてこない状態であったり、そういう形でなんらかのシグナルが出てきます。そのときに、よくその大自然の送るシグナルに注意をすることです。
そして、休養が必要ならば休養をとり、運動がたいせつだと思われるなら運動をする、ということに気を配ることです。必ずシグナルが出ます。それが二回も、三回も出ているのに、それを無視して突っ走った結果が、大きな病気になっているのではないでしょうか。ですから、予防医学的に言うならば、シグナルが出た段階で気をつけなければならない。また、病気に入ってもまだ浅い段階であるならば、いかにして体力回復を図るか、これを十分に考えていただきたい。
それと、病気の場合、そうした悪霊を呼び込んでいる場合であっても、自分の力だけで取れなくとも、他の人の力によって取ることも可能であります。そうした病気がちで霊的な影響があると思われる方は、できるだけ元気で威勢のいい人たちを呼んで父わるようにすることです。彼らの発散する生命エネルギー、活動エネルギーを浴びて、自分も少しずつ元気になってきます。暗い人をまわりに集めてはいけません。病人どうしで慰め合ったりしているうちに、だんだん心が暗くなって、足をひっぱり合うようになります。できるだけ元気のいい人、威勢のいい人と交わるように努力をしなければなりません。
その人を観察してみると、生命エネルギーがあふれ、活動エネルギーがあふれており、その人が部屋のなかに入ってくるとパッとまわりが明るくなる、そうしたタイプの人との交流の機会をできるだけ作っていくようにしなければなりません。それは、霊的に見ればプラスからマイナスに電流が流れるように、そうした活動エネルギーの電位の高い方がそばにいると、まわりの人に電流が流れてくるのです。それは、一人指導者のやる気が満々であると、部下たちも燃え立つようになるのとまったく同じです。
それと同じように、できるだけ元気のいい人をまわりに集めるということで、もしあなたが中年ないし高年になって、そうした減退期になっているのであるならば、どうか若い人とのつきあいということを忘れないことです。若い人と日ごろよくつきあっておくこと。また、病気になっても、若い人にできるだけ見舞いに来てもらうようにすること。それもできるだけ、大勢の人に見舞いに来てもらうほうがよいと思われます。そうすることによって、そのフレッシュなエネルギーが入ってくるようになります。
6.感謝と愛他
第三番目に、とくに言っておきたいこと。それは、やはり悪霊を呼び込むには、呼び込むだけの心の状態になっていることは事実です。病人の心というのは、いつも被害妄想(もうそう)です。そして、だれかが自分を害そうとしているのではないかと疑心暗鬼になり、不平や不満が出てきます。愚痴も出てきます。いろいろなことが、すべて悪く見えてきます。他人の粗(あら)が見え、欠点が見え、そしてみんなが自分を意地悪しているように見えてきます。しかし、この心はきわめて地獄的な心であります。
ゆえに、もし、ほんとうの意味でのエゴイズムを発揮して、自分の病気を一日も早く治したいと考えるのであれば、この逆のことをやらねばなりません。逆のことをやることです。
一口に一度でも二度でも、いや、できればそれ以上に、他の人びとを喜ばすように生きていくことです。他の人びとへの感謝の言葉を述べ、喜びの言葉を述べ、そして祝福の言葉を述べる。他人の粗(あら)は小さく見、よいことをしてくれたときには感謝をする。見舞いに来てくれたら感謝をし、食事を出してくれたら感謝をする。食事のまずいことをロにするのではなく、すべてが栄養になると思ってありがたくいただく。そして、過去を思い出しては、けっして暗く暗く考えるのではなくて、過去のなかの輝いた日々、すばらしい日々というものを思い起こして、それを感謝してみること。これなどは、きわめて大事なことでありましょう。
7.希望は最大の薬
さらに、病気をよくしていくための方法として第四番目に言っておきたいことは、病気の状態のときには、すべてが暗くなってしまいます。この段階において、あまり悲観的な結論を自分で出してしまわないこと。それは、大事なことだと思います。そうではなくて、やはり元気になったときに、何をしようかという大きな構想を練っていく。そうした希望にあふれた考え方を持っていく、そういうことがひじょうに大事なことではないかと、私は考えるのであります。
すなわち、希望というのは最大の薬というふうに言ってもよいでしょう。人間は希望のあるかぎり生き続けることができます。しかし、希望がないときに、病が重くなり、死が訪れてまいります。どうか、希望というものをもう一度持つことが大事だということを考えていただきたいと思います。
そのためには、どうしても思想の力を借りるということも大事であると思います。つねに明るい思想を持つ。つねに景気のよい言葉を口に出す。つねに発展的なものの考え方をする。マイナスのことが起きたら、それを材料にしてさらによいことが起きないか、なんらかの教訓はないかというふうに、つねにつねにプラスの面、肯定的な面を見ていく訓練をしていくということは大事であります。さすれば、エネルギーが次から次へとあふれてくるものなのです。プラス型人間になっていくということです。そのときに、病気はなくなっていくでしょう。
そして、戒めねばならないことは、不幸の予言者のごとき言葉をけっして出さないことです。自分がもっと悪くなるというようなことは、けっして口に出さないということです。その言葉が記憶に残り、そして暗示となって、その言葉どおりになっていきます。不幸になっていく人を見ていると、常づねそういう言葉を□に出しています。やがてもっと悪くなるのではないかということを、口に出して言うようになっていきます。
8.力強く主体性のある人生を生きること
さて、病気について一般的な話をしてまいりました。それ以外で、悪霊そのもの、これらを撃退する方法は何かないのであろうか、ということですが、これは心に日々光を入れ続けるという努力が大事であることは間違いがありません。
その意味で、よく言われているように、神理の書籍を読んだり、神理のテープを聞き続けるということは、きわめて大きな力になっているというふうに私は思います。日々神理に触れる時間をとるということ、それが大事だと思います。健全な思想に触れるということ、健全なものの考え方に触れるということ、それが大事です。
それと、もう一つは、霊的なものにあまり過敏になりすぎないということだと思います。この三次元の世界は、やはり三次元に生きている者の世界なのです。三次元を去った者たちの世界ではないのです。彼らが、たとえ影響を与えることができるとしても、それは間接的なものでしかありません。彼らは直接的に、この地上の何物もつかむことさえできないのです。りんごをつかむこともできなければ、ステーキを食べることもできなければ、電車に乗ることもできないのです。河一つ触ることもできないのです。彼らができることは、間接的な影響力だけです。あくまでも、三次元世界は、三次元の人間の世界であるのだと思うことです。
したがって、主体的に生きているのは肉体を持っている自分であって、自分というものがあくまでも主なのだ。霊的な影響は従なのだ、という考えを忘れてはなりません。これは、自分のほうが霊よりもはるかに強いのだということを頭に植え込むということであります。自分自身のほうがはるかに強いのだ。神様が創り、この地上で魂修行を許されている自分であるならば、それを邪魔することはできないのだ。主体的に、自分の意志によって、幸福な人生を拓(ひら)いていくことが自分には可能なのだということを考えることです。
悪霊の影響による憑依(ひょうい)で自分が病気になった、と考える人の多くは、他人のせいにする傾向、そういう心の状態の人が多いと言えましょう。それゆえに、そういう思いを持っていても、けっしてよくなっていくことがないのです。ここで、もう一度思い返して、あくまでも主体性は自分にあるのだと考えていただきたいのです。幸・不幸を創り出す、その主体的な判断は自分にあるのだ、自分の行動にあるのだ、自分の日々の生き方にあるのだ、ということです。
したがって、自分の魂というものに、鞭(むち)くれて、目を覚まさせる必要があります。ちょうど、手綱(たづな)を引き締めて馬を走らせるように、馬の尻(しり)に鞭をあてて走らせるように、自分の魂に鞭をあてて、自分が自分の人生を創るのだと強く言い聞かせることです。そうした主体性を持つことによって、霊作用はやがて抜けていくことも多いのです。
以上が、今日の私の話です。