目次
1.一念三千
2.地獄論
3.地獄霊と修行
4.悟りの意味
5.天国論
6.天使団の活躍
4.悟りの意味
さあ、そうしてみると、地獄霊と修行の話をしてきましたが、ここで悟りの意味というのをもう一度考えないかんね。悟りというのはね、昔から修行僧、仏教の中でね、悟りを得たとか、悟ったとか、いろんなこと言うけれども、悟りというのも一概なものではないんだ。もちろん段階があるんだ。それぞれの霊的な段階に応じた悟りというのが、やっぱりあるんだね。そうすると、この地獄の悟りというのは、まあいちばん下の悟りだね。この中でも悟りがあるんだな、彼らなりにね。それは、下段界の人は、地獄の中段界に上がる悟りがあるし、地獄の中段界の人は地獄の上段界に上がる悟りがあるんだね。
いちばん地獄の下段界ってなにかと言えば、この辺がまあ、だいたいサタンの世界だねえ。サタンの世界でも、まあそりゃあ五百年、千年やっとるのもおるけれど、嫌気(いやけ)がさすというのがあるんだな。暴力団でも、抜けたいというのがあるだろう、ねえ。昔の忍者で、抜け忍なんていうのがあって、抜け忍が出ようとすると、みんなでもう追いかけて、殺そうとするんだね。「抜けさせない」なんてやって。
暴力団でも、抜けるの大変だね。指詰めさすとかね、大変なんだ。それでも嫌になるときがあるんだね。どうしても抜けたい。この世界から足洗いたい。散々(さんざん)悪のかぎり尽くしてね、「やっぱりもう、人間としてこれ以上は、耐えられない」というときがあるね。こういうときは、もう、命を失おうがどうしようが、抜けたいという気持ちが起きるときがありますね。暴力団でもやめる人がいるんだから。脱サラじゃないけれど、脱暴力団をやる人がいる。足を洗うというやつだな。
これ、足を洗うというのを感じたときにね、地獄の下段界から中段界へ上がってくるんですよ。堅気(かたぎ)の地獄霊になるんです。まあいわば、堅気にね、堅気さんになるんだ。そんな、暴力団結成してね、人を使ってまで相手を責め苛(さいな)んだりするようなことに嫌気がさして、堅気になる。
だから、この段階は、まあ、嫌気がさすというぐらいしかないんだな、悟りが。嫌気がさすという悟りがあるんだ、まず。嫌気がさして、抜けたくなるという気持ちね。このとき抜けさせないように、もう、みんなで引きすリ回したり、叩いたり、いっぱいするんだよ。こういうことがあります。
どっかの某宗数団体にもあるんじゃないか。気を付けねばいかんよ。抜けようとしたら、みんなで引きずり回したり、取り囲んだりしてね。抜けようとしたり、あるいは元役員やっとって辞めた人なんか呼び出して、取り囲んでね、「おまえは考え違っとる」「抜けさせない」ってね、「うちの本買わないと、帰さん」とかね。それでよその本読んだら、そんなの全部捨てさせるとかね。脅迫したりしてるのね。こういう団体はいろんなところにありますが、宗教も最悪の段階へいくと、こういう脅迫、脅(おど)し、もう「抜けると地獄堕ちるぞ」とかね、こういう段階がありますが、取り囲んだり脅(おど)したりするのね。この段階というのは、このいちばん下なんですね、地獄の。
でも、それでもね、それだけ脅迫されても、「もう地獄堕ちてもいいから、とにかく抜けたい」っていう人出てくるね。これはまあ、地獄の下段界から中段界へ行く、悟りの段階なんだね。
それで、地獄の中段界へ行って、これでちょっと堅気の地獄霊になってくるんだね。まあ堅気で、ようするに人をそんなに、集団的にね、殺(あや)めようとか、狂わそうとかいう気持ちは、積極的な気持ちはないが、心の中にはまだ、悪の想念はあるんだな。それで、自分なりの清算をつけさせられるね。情欲のままに生きた人は、情欲の清算しなきゃいかんし、人に悪口ばっかり言ってきた人はそういった世界でね、しばらく、まあ程度はちょっと堕ちるけど、一対一の世界の中で、そういう修行するんだな。
そして、この段階でね、地獄の中段界あたりで、どうやら自分はね、あんまり、こうなんと言うか、幸せじゃなかったということをね、痛感するような時期があるんだな。多少は、「もうちょっと安らぎと幸せのある生き方をしても良かったな」っていう、まあちょっと軽い反省だな。これが出てくるときがあるんだな。「もうちょっと、幸せというのを考えてよかったんじゃないか、おれは。何か考え方の軸がずれとったんじゃないか」、こういうふうに思うことがあります。
これが、地獄の中段界から上段界へ上がってくるときなんですね。いいですか。こういうふうな、自分を振り返り始めたら、抜けたいというだけじゃなくて、振り返りはじめたら、地獄の上段界ぐらいまで上がってくるんです。スウーッとね、上がってくる。まあここでもまだ、もうちょっと暗いとこでね。いろいろ、まだあんまり幸せしゃありませんが、地獄の上段界、上段界というか、うわべのほうへ上がってくるとどうかっていうとね、天国へ行きたいっていう気持ちはもうあるんですね。この辺いくとね、天国行きたい気持ちがある。ただまだそれが、どうやったら行けるかはわからない、ね。
地獄の上の方では、天国行きたい人いっぱいいるんだな。ただ、どうしたらいいかわからない。それで、時どき来る光の天使の声に耳を傾けたり、いろいろするんだけど、まあ、この上段界あたりで反省ということが始まっているんだな。「どうやら、自分は肉体中心の生き方をしてきたらしい」。あるいは、「どうやら自分は、霊というものについて全然理解がなかった。どうやら自分は、愛ということを全然やらなかったな。自分はどうやら、人の幸せなんか、考えたこともなかったな」。自分中心であったということの反省が始まるのが、地獄の上段界ですよね。
これもちょっと時間かかりますが、これで自分の、この自己中心的な生き方、これを反省して、「人間の本当の生き方はそうじゃないんだ」、また、「人間は霊的な生き方するのが本当だったんだな」っていうのがわかってきたときがね、これが地獄から抜け出す最後の段階なんです。
ただここから抜けるのまだ、容易じゃないよ。やっぱり勇気がいるんだ、逆にね。それで天使が来てね、「わかった、それじゃあおまえも天国行くか」って、引っ張っていくんだけど、まだ仲間がいてね、日本人は嫉妬(しっと)の社会でございましてね、抜けようとするのが出てくると、足引っぱるんだな。「おいおい、危ないぞ、あれ天使の格好しているが、本当は違うかもしらん、危ないぞ。あれ悪魔かもわかんないぞ。もっと深いとこ行くかもわかんないぞ」ってね、足引っ張るおせっかいがおるんだな、上段界でも。そうすると気弱になってね、「そりゃそうだな、もっといい世界も行きたいが、やっぱりここの世界も悪くないし、まあ、仲間がせっかくいるんだから、一諸にいようかな」と思ったりね、こういうのがある。
まあ、宗教団体でもあるけど、浅い地獄にいる宗教団体なんかでね、やっぱり仲間でいるのがいいんで、抜けるとなんか、改宗したりするとやられそうな気がしてね、脅(おど)されたりするとやっぱり気になるね。こういう弱い、気の弱い地獄霊たちがおるんだな。
まあ、こういう世界というのがあって、そこで勇気がいるんですね。だから地獄から抜け出すための、悟りっていうのはね、一つには勇気です。単に知るだけではちょっと難しいですね。霊的な自覚はいるし、自己保存がいけなかったことも知る必要があるけれども、もう一段勇気がいるんですね。勇気を持ってね、「自分が立ち直ろう」と、「こんな世界はやっぱり脱しなきゃいかん、しゃばに帰ろう、天国に還ろう」っていうね、そういう勇気です。この勇気の原理がないと、天国には上がれないんですね。ここが難しいとこですね。だからこうした勇気が出てくることが、本当の悟りといえる一歩でしょうねえ。
こうして、四次元地獄界から、まあ、四次元の幽界の方に上がってくるんですね。まだこの中では、それほど悪じゃないけれども、まだ善悪がごっちゃ混ぜになったような世界が展開してるんだね。まあ地上でもいるはな、あの人は良いとこもあるけれど悪いとこもあるというような人、いるでしょう。ここは良いけど、あれがちょっと我慢ならないというような人、いっぱいいるでしょう。こういう人、だいたい幽界におるんだ。特に地獄まで行かんような人はね。
ここは良いけど、ここは気に食わないっていう人いるね。よく仕事はできるんだけど、うるせえ、とかね、ロがうるさくってもう我慢ならないとか、そういう人もいるだろうし、まあ、いろいろあるでしょう。こういう人がだいたい、幽界行ったりするんです。
5.天国論
そうすると、天国の条件というのは一体何かというのが問題になってくるね。天国とは一体何ぞや。まあ少なくとも、天国が天国である条件はね、他人を害する気持ちというのが積極的にある人は、天国にいられないということですね。これは言えると思うんです。まだ他人に不愉快な気持ちを起こさせたり、いやな気持ちを起こさせたりする人はいるけど、けれどもそれは自分が十分にまだ理解できてなくてね、自分の行動や言動が客観的に判断できなくて、人を不愉快にすることはあるけれども、積極的に他人を害することが良いことだとかね、積極的に他人を害している自分を肯定しているような人は、天国にはいないってことです。これを知らねばいかんね。
だから積極的に妬(ねた)みは良いことだとか、積極的に嫉妬心(しっとしん)は良いことだなんて言っている人は、こら天国入れませんよ。これはだめですよ。「押さえても押さえても嫉妬心が出てくる、私どうしよう」っていうのが、天国入るスレスレだね、この辺がスレスレのとこなんですよ、いいですか。よく考えねばいかんですよ。
だから天国に入る条件は、まず第一として、積極的に他人を害する気持ちがないことね。これは第一段階です。第二段階というか第二の条件はね、少なくとも、何らかの意味で霊的な目覚めがあること。何らかの霊性に目覚めておること。自分が肉体だけではないということに、ほぼ気付いているっていうことね。これが大事ですね。あとは、神様、仏様への信仰心の目覚めだね、三番目が。神仏への信仰心の目覚め。これは、段階がいっぱいあるけどね、これも段階があるけど、そういう目覚めだな。これが大事。だから天国にいる条件は、主としてこの三つだねえ。
消極条件としては、積極的に他人を害する気持ちがないことね。それから二番目に、多少霊性に目覚めておること。三番目に、神仏への、何というかね、自覚。あるいは高級霊に対するね、尊敬とか、何と言うかねえ、服従の気持ち、従う気持ちね。こうして何らかの畏敬(いけい)の念というかね、より上位のものへの目覚めね、これが大事ですね。こういうのが必要だと思いますよ。まあ、この辺がだいたい、幽界から霊界へ上がるか上がらんかぐらいの境涯だと思いますね。
まあ、霊界っていうとこ、五次元にありますがね、ここへ行くとある程度、その肉体的な部分の清算は終わってるんですねえ。霊的には、かなり目覚めた人がおります。で、彼らは自分の霊的な性質というのをね、いろいろと学んだりしてますね。念(おも)いによってものを造ったりね、念いによって行動したり、そういう念いの性質、念の性質っていうのを、いろいろと実際、実地に体験したり、肉体生活、三次元生活と霊的生活の違いというのを、日々学習体験させられとるんですね。そういう学習の段階っていうのがあります。
それと、自分の心の中にある善なるものへの目覚めね。良いこと、良いことというのを積極的に肯定する気持ちが強くなってきますね、五次元霊界にはいってくると。善なるものへの目覚め、良いことをすることはいいことだ。「小さな親切運動」じゃございませんがね、「一日一善」じゃあございませんが、良いことをすることはいいこと、人が喜ぶことはいいこと、そういうふうな気持ちが非常に強くなってきますね。まあ、こういう気持ちが強くなると、だいたい霊界レベル。五次元霊界レベルの悟りだと申せましょうかね、こうした中でも、やっぱり、いろいろとまあ、切磋琢磨(せっさたくま)をお互いにしておってね、やっぱり指導役みたいのが出てきて、お互いにいろんな勉強を繰り返しています。
で、五次元霊界の中では、非常に天国的な雰囲気がもうすでにありますが、まだ地上で見られるような生活も結構ありますね。大工さんがいたり、農業やっている人がいたりね、床屋さんがいたりね、犬猫病院があるかどうかは知りませんが、地上にあるような生活、職業っていうのはかなりあります。はっきり言ってね、かなりありますし、まあ、教育者みたいな人もいるしね、先生もおれば、小売り店やってる人もいるし、大人も子供もいっぱいいるんですね。だいたい、地上におったときの姿でいることがまだ多いです。五次元霊界ではね。地上のときに、興味関心があった職業していることも多いですね。
ただ、全然違う、本質的に違う人がいますね。たとえば私は電気屋でしたけれども、本当は本来的には電気屋じゃなくって宗教家だから、まあ、電気屋を商売にはしないというようなことでね。電気屋で一生終わっていった人は、あの世でもやっぱり電気屋やっていることも多いし、左官やっている人は左官やっている人も多い。けれども、心の中では別なもの求めていた人は、また違った職業就いていることも多いですね。まあ、こういう五次元の世界がありますね。
この上の六次元の世界というのは、多少とも、ほんと悟ったという範囲に入れる段階ですね。この神界という段階ね。この世的な目でみても、優れた人がほんと多いです。やっぱり、一流ですね。一派を成した人が非常に多いし、人を教えるような立場に立つ人の集団ですね。やっぱりこういう優れた人は、優れた魂同士と磨きあわないと、さらなる向上がないんですね。
だから地上にいる人でね、「宗教はあんた、競争心があっちゃいけない」なんてね、「みんな平等でね、やらにゃいけない」なんて言っている人いるが、まあこのままでは、だいたい五次元霊界までの悟りです。
そうじゃないです、六次元神界の中ではね、やはり切磋琢磨(せっさたくま)の原則というのが働いてるんですね。優れた魂は、より輝きを増すためには、お互いに切磋琢磨しなきゃだめなんです。だから、六次元神界の中ではね、非常に法理論とかね、いろんな学問とか芸術とか、みんな研究してます。そして日夜ね、お互いにしのぎを削ってます。腕を競い合ってます。こういう世界なんです。
こういう世界いるんですよ。進歩の原理としてね。人間が進歩していくためにはね、こういう段階を絶射通らないかんのです。これはあるんですよ。お互いに、どれだけ人類に貢献するような業績を上げることができたかね、どれだけの理論を発見できたか、どれだけ信仰に目覚めたか、こういうのを競う段階があります。優れた人の中にもこういう段階があるんですよ。だからこれを一概にね、何というか、競争心とかね、そういうふうに考えちゃいけないんであって、切磋琢磨というんですね。言葉によるんです、ものは。切磋琢磨の原則働くのが、この六次元神界なんですね。
これは、まだ自分が伸びていかないかんから。神様もこういう原則使っておってね、お互いにやはり、魂と魂を磨き合ってるんですね。まあ、芋(いも)の皮の説明、僕したけど、大きな樽(たる)の中に芋いっぱい入れてね、すりこ木で回しているうちに、芋どうしが擦れて皮がむけるんだ、ね、芋をむく原則ね。こういう原則を、教育の原理として取り入れているんだ、神様はね。
個性があるっちゅうことはね、お互いに、そういうふうに刺激し合うことがあるってことですよ。この刺激を取り去ったところには、進歩はないんですよ。
みんなが平等でみんながいいってね、まあ、結果平等の世界ばっかり求めちゃいけないっていうことですね。みんなが平等で、みんなが同じ賃金もらってね、みんなが同じ社長になってね。たとえば、みんなが同じ賃金で、みんなが同じ社長で、みんなが同じだけ尊敬うけてね、みんなが同じぐらいの嫁さんもらってね、みんなが同じぐらいの子供つくって、子供のできがみんな同じ程度と。こういう世界っていうのはね、本当に存往の意義がない世界なんですよ。ある必要はないんだよ、同質な世界っていうのはね。
これが理想と思うかもしれないけれど、それは幻想というんですね。こんな世界は、本当は神様は良しとされてないんだ、ね。みんなが良くなっていく世界を、願ってるんですよ、だから、結果平等の世界をもってね、天国的だと思っちゃいけない。これは間違っていますよ。こんな、とんでもありませんよ。停滞の中には、神の心はないんですよ。それを知らなきゃいかんと思うよ。
だから、地上でね、平等心だけを強調してね、とにかくもう「みんなもう、いい子なんです。神の子だから、もうそれだけでいい」って言う人もいるけれども、これは一時的にはそういうこともありうるが、長い何百年何千年の時間の流れの中に捉(とら)えたときには、これは正しくないです。それは法則じゃないんです。
だから、教育なんかでもそうでしょう。学校群制度なんていってね、みんな平等で、くじ引きで学校決めるでしょう。そんなことして、どうなった、ね。都立高校なんか、みんな駄目になっちゃったでしょう、東京都内都立高校。こんな平等は、これは間違っとるんだな。結果平等もそうだ、能力平等論なんてなんか意識があって、能力も平等、結果も平等なんてね、こんなことじゃあ人間は進歩する必要はなくなるんだ。そうではないということね。進歩の原理はちゃんとあるということを、知らねばいかんよ。
ただ平等というのは、まあつねづね言ってるように、可能性において平等なんだね。人間は、努力すれば進歩するという可能性において平等だけども、この結果に関してはね、やっぱり公平に処遇されるんですよ。こうでなけりゃおかしいんだよ。可能性は平等だけど、努力した人としない人と一緒に処遇したら、こんなの悪平等じゃないか。そうだろう。
だから、地獄霊はよく言うんだよ。「人間は神の子で平等じゃないか」って、「何で僕が地獄にいてね、やつらが天国におるんか」、「如来や菩薩になっとるのがおかしい」って、「神様不公平だ」と言っている。彼らは、それがわからない。そうじゃないんだ。同じ神の子としての素質をもっておっても、それをどのように使ったかに関してはね、それは自分自身の責任があるんです。これは修行ということの意味です。根本自力だということの意味なんですね。個性が与えられているから、その個性をどう磨くかは、各人の自由に任されているが、この自由の結果は自分で刈り取らねばならん。こういう法則があるんですね。
だから、どうか今ね、結果平等ばっかり言っている地上の人たち、「人間平等だからみんな一緒にしなけりゃいけない」「おかしい、あいつだけ偉くなるのはおかしい」とか。
「あいつだけ給料が多いのはおかしい」とかね、「あいつだけいい嫁さん貰ったのはおかしい」とか、「あいつだけいい大学出だのはおかしい」とか言う人は、こういうのがだいたい地獄行って、「自分が地獄におって、あいつが天国行くのはおかしい」って言うんです、これはね、それを知らんということだな。
そらそうですよ。当然のことです。そら百里歩いた人とね、一里も歩かずに死んだ人と一緒だと、同じなはずないじゃないか。そうでしょう。これをもって悪と言ってはいかんぞ。
だから、結果平等、悪平等っていうのは、本当は神の心には反しているということを知らねばいかん。天国の中でも、健全な、そうした競争心はあるということを知らねばいかんよ、切磋琢磨(せっさたくま)、そして光って光った人が天使になっていくんですね。
6.天使団の活躍
さあ、本章もいよいよ最後になって、最後の章の最後の節になってきましたね。まあ六次元まで話して来ましたが、これから、六次元の上段界から、まあいわゆる天使団ていうのが始まるんですね。
天使っていうのは非常に数が多いです。そして、いろんなところに長じておってね、自分の特徴をもっておったり、自分の、何と言うかね、得意な分野っていうのをもってる天使が多いですね。アラハンなんていって、六次元の上段界ってよく言ってますが、アラハンていうのは、ほんと霊格的にはまだ六次元の上段界で、菩薩、七次元の菩薩に入ってない人のことを言うんですが、六次元にいる人はアラハンばかりじゃありません。六次元にいる光の天使というのは、アラハンだけじゃないんですね。アラハンていうのは光の天使の予備軍ですけどね、まあ、候補生ですが、六次元の中にはもっと霊格の高い人もいるんですね。
諸天善神って言われている人の中には、菩薩や如来もおるんですね。菩薩や如来が、そういう教育という目的を帯びてね、六次元にいるということがあるんです。だから、諸天善神の悟りと、アラハンの悟りが一緒かと言えば、必すしも一緒じゃないんだ。居る場所は似たようなとこにおるけれども、アラハンていうのは、まだ学生だね。菩薩になるための学生やってるけれども、諸天善神というのは、役割与えられて来とんだね。まあそういうふうに、プロなんですよ。諸天善神のクラスは、まあ一応プロなんです。プロになってるんだ。
菩薩以上になること諦(あきら)めて、六次元で警備隊長も兼ねてね、そういう諸天善神やっているような人もいるし、六次元でスポンサーで、もう諦めて、諸天善神になった人もいるが、諸天善神の中にはもっと高い霊格の人もいるっていうことね。これを知らないかん。
だから、菩薩界の中にも、本当は如来の霊格持ってる人もいるんですね。こういうことが言えると思いますね。
だから、梵天(ぼんてん)と言われる境界もね、七次元と八次元の股(また)にかけたようなもんだと、よく言われてますが、七次元にある梵天界っていうのは、本来如来の霊格持っておるけれども、菩薩としての仕事をしている人たちが七次元の梵天界にいるんですね。で、八次元の下のはうにある梵天界っていうのは、菩薩から上がってきてね、如来に足を踏み入れた魂たちが、如来になるための勉強をしている。如来として目覚めるための勉強をしている。だから梵天界におっても、霊格的には高い人もいるっていうことですね。
それと面白いのが、まあ、このあたりからですね、如来に入ってくるあたりからね、だいたい、神の気持ちっていうのがわかるようになってくるね。こういうことがあるんですね。
だから、そうだね、地上に出た霊能者、あるいは光の指導霊で、アラーの神の啓示(けいじ)受けたとか、イエス・キリストの啓示受けたというけれども、八次元の如来ぐらいになってくるとね、自分よりちょっと上段界、九次元ぐらいの人の声も聞こえるようになってくるんですね。それは、九次元の人というのは、トータルの意味での、大きな救世主の使命を持っている人が九次元にいるだけで、八次元とそう大きな差があるわけではないんですね。
だから、八次元の人の一日の心の状態の中には、九次元霊と同通するような心もあり得る。だから、如来の場合には、九次元の救世主の声も聞こえる場合はある。ただそれが、ストレートなかたちでは、そうそう聞こえないことが多いですね。特殊な状況下、余程状態がいい時に聞こえると、こういうふうなかたちでしょうかね。また菩薩でね、上段界の菩薩ぐらいになると、地上に修行しておってね、心の状態が良いときは、如来の指導を受けることも可能である。
すなわちね、平均打率みたいなもんなんだ、如来や菩薩っていうのはね。如来っていうのは、すいぶん心、良い心でいる状況、平均率が高いんだな。菩薩というのは、まだそこまではいかない。ときどき、三振したり空振りしたりするけれども、あー、一緒か。三振したりファールを打ったりするけれどもね、ときどきヒットが打てるね。ヒットが打てるときは、如来に近い心持っているときもある。だから、こういうときは、精神統一すれば、如来の声を聞くことができる。
だから、神界の上段界であれば、調子がいいと、菩薩の声を聞くことができるし、菩薩界の上段界であれば、調子良ければ如来の声を聞くことができるし、如来界の上段界であると、調子が良ければ九次元の大如来の声を聞くことが可能である。こういう霊的交流の可能性があります。
ただ、菩薩が九次元の如来の声を聞いたりすることは、ちょっと困難に近いです、これはね。あるいは神界の人が、イエス様の声を聞いたりすることは、これは不可能に近いです。こういう魂の境涯がありますね。
そういうふうに、天使っていうのは、さらに心が向上した段階で、慈悲と愛に心は満ちてきますね。そして、上段界になるほど、救済、人類救済、多くの人を救いたい、導きたいという気持ちが大きくなってきます。ふくれてきますね。
だから、心の可能性において平等であってもね、雪だるま式に、心っていうのはふくらんでいくものなんですよ。どんどんどんどん大きく。そうでしょう、地上で、一人の人間の力でも、ずいぶん違うでしょう。まあ、事業やった人は幾らでもいるけれども、たんなる事業家と、たとえば松下幸之助と比べたらね、一人で、同じ一人であっても、全然違うでしょう。一生の生き方が。その量といいね、質といい、それだけ差が、この世であっても、見てて差があるでしょう。だから、あの世だともっと差があるんだな。こういうことだ。
だから地上でも、大きな人っていうのは、もう、何万人、何十万人に匹敵するような仕事ができるし、一人に匹敵しないような仕事しかできん人もいるし、まあいろいろある。それがあの世では、もっと格差が拡がるっていうことだね。
で、多くの人のために生きれば生きるほど、その人の光の量が増してくる。こういうことが言えるんだね。だから、天使団ていうのは、情けは人のためならず、と。人のためにやったことが、自分自身の光となって増えてくるという、こういう世界を満喫(まんきつ)してるんだよね。人のために良いことすればするほど、自分自身が幸せになってくるんだよね。神の光が増えてきて、満たされてきて、自分の充実感、向上感、達成感、こうしたものがあるんだね。
だから、やめられないんですよ。光の天使もやめられない、一回やるとね。だって、やればやるほどあなた、自分が幸福になるんだもの、こんないいことってあるかい。パチンコも打てば打つほど玉が入れば、そら嬉しいだろう。打っても打っても入らないから、頭にくるんであってね、やればやるほどね、幸福感が増してくるなんて、こんないいことないんだね。これは、理想ですね。
だから、こういう天使団ていうのはね、努力即幸福、努力即幸福っていうような境地を、地で生きている人たちですね。やればやるほどいいんだから、こんないいことない。 こういう天使の活躍があるんですね。地上のみなさんはね、こういう大きな神の世界の仕組みを知ってね、そうした大きな法の輪郭(りんかく)の中にある自分というのを位置付けて、常にね、やはり神を目指していこう、ね。地獄の悪魔目指してやるほどのことはないでしょう、だから、どっちが得か、よーく考えたってね、天国目指した方がいいんだから。そして、人のためにやったらやるほど自分が楽しくなるような、幸福になるような、こうした世界を目指そうじゃないか。
これが、私の、第4章の「天国と地獄」のね、まあ、結論だね。地獄については、一度また決定論出さないかんと思いますが、今回はこの程度にしておきたいと、こういうように思います。
とにかく、人のために生きなさい、それがいちばんいいんです。あなたのためになる、人のためになる。人を害そうなんて思ったら、自分も害する。こういう法則を知らねばいかん。まあ、そういうことです。