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目次














(1987年6月30日の霊示)

1.宗数的常識の欠如


それでは、第3章に入りまして、いよいよ私の語りたいこと、その本質、核心へと入ってゆきたいと思います。題して、「人類無罪宣言」と、こういうことで話をしてゆきたいと思います。

まあ、この人類無罪宣言ということに関しては、ひとつの思い出があります。

昔、あるラジオ局で私が真理の話をしておったときのことでありますが、そのとき、もちろん生番組ではなくて、録音をして放送をしたわけでありますが、そのラジオ局の責任者が、私の講演のテープを聞いて、こういうことを言ったわけであります。

谷口雅春は間違っておる。なぜなら、この講演のなかで、彼は人類には罪がないと言うている。こんなはずがない。人類に罪がないなら、何のために宗教があるのか。何のために救いがあるのか。そういうことの意味がないではないか。もう救われておるものなら、救う必要がないし、罪がないなら、その罪を許すための宗教もいらんではないか。にもかかわらず、谷口は人類に罪がないなどと言っておるが、とんでもない間違いだ。こういう間違ったものを電波に乗せるわけにはいかん。

と、まあ、その放送局といいますかね、ラジオ局の責任者は、そういうことを言ったわけであります。そして、人類無罪という部分について、私は修正を求められたわけであります。

このことに関しては、私は、深く心に傷と言っては大袈裟(おおげさ)ではありますが、やはり残念な気持ちというものが残ったわけであります。

宗教家は、現在、日本ではずいぶん警戒されておって、なかなか宗教家に自由に書かせてくれるところもなく、自由にしゃべらせてくれるところもないんです。言論出版の自由とか言いながら、実際問題、宗教家に言論出版の自由があるかと言えば、そうではない。現にごフジオ放送のなかで、そういったことを言っただけでも修正を迫られる。まあ、こういうことがあるわけです。

思想、信条は自由ではないか。良心の自由があるではないか。そういうことを言っても、許されんわけであります。電波という公共性を通じてやる以上は、そんなのでは困る、と。で、困ると言っておるその宗教の常識論が、実は、根本から間違っておる。まあ、こういう世界であります。

私は、非常に不思議に思うのでありますが、なぜ宗教の世界だけが、こんな百鬼夜行のごとき景観を呈しておるのか。非常に不思議に思うとともに、残念でなりません。

学問の世界においても、もちろん新説に関してはいろいろと議論が戦わされるでありましょうが、少なくともそれが大筋において正しいか、正しくないかということは、客観的にそれを論証する道があり、通説というのがあって、大部分の人がそれを認めるという方法があるように思います。ですから、現実問題として、そういう通説的な学問に、大きな間違いというものがあるとは言えない。

けれども、こと霊の世界、魂の世界、宗教の世界になると、百鬼夜行の世界です。出版社でも、現在、いろんな霊的なものが、出されておったりしているけれども、残念ながら、その出版社の知名度とか、大きさとか、そうしたものは、まったくその中味とかかわっていないというのが、現状であります。

つまり、出版社の編集者や責任者たちも、宗教のなかにおいて、何が真実で、何が間違っておるのか、そうしたことについての共通の認識が得られないのです。あまりにも違いすぎるということです。

神道は、日本の神様を拝み、仏教は仏様を拝み、また、キリスト教は天なる父を拝んでおる。まあ、こういうことで、別々のものを信仰しておって、それぞれ我れのところのみが正しい、と。まあ、こういうことを言っておるわけであります。

こういう宗教の世界における混乱と共通認識のなさが、いわゆる宗数的常識というものの確立を大変遅らせておるものであります。


2.狂信、盲信への恐怖心


それと、もうひとつ、宗教的常識の確立を妨げておる理由は、やはり信ずるということを通しての人間の狂信、盲信による極度の変化、これに対する恐怖心というものがやはりあると思われるのです。

現在の日本を見渡して見ても、結局、宗教に対して悪いイメージを抱かしておるいくつかの団体があると思う。私は、これらの団体は、非常に反省、いや、反省というよりも、猛省をしなければいかんと思う。

自分のところの団体がおかしいのはともかくも、そうした活動をすることによって、宗教全体を毒しておる、誤解させておるという責任は、非常に重いものがあるのではなかろうか。私は、そう思います。

とくに、良い宗教が会員集め、信徒集めをするのはいいけれど、悪い者ほど熱心にやっておるから、これが非常に困るわけです。悪いものほど熱心にやっておる。

なぜそういうふうに熱心にやっておるかと言うと、これは、ひとつは、私は、生前あまり説かなかったけれども、地獄の亡者たちの活動というものがあるわけであります。地獄の亡者というよりも、地上を去ってまだ地上への執着がなくならぬ霊たちが、すなわち、本来の実相の世界に還っておらぬ霊たちが、いろんな人に憑いてそれを狂わしとるわけです。

とくに宗教団体というのは、そうした霊的な磁場ができやすいところでありますから、そこの教祖に入って、その教祖を狂わしてしまえば、その下に続く信者たちを狂わすのはわけないことであります。

そういうことによって、本来の実相の世界を知らぬ霊たちが、地上に執着を持って生きている人間に取り憑いて、つまらぬ自己実現をやっておるというのが、現代の新興宗教者たちの本当の姿だと言えるでありましょう。

結局のところは、こうした霊たちは、自分が苦しくて仕様がないから、救われたくて仕様がないのです。本当は救われたくて、救われたくて仕様がない人間が、そういう宗教団体に大量に取り憑いて、その後は、人を救うというようなことをやたらやりたがるわけですね。

まあ、人を救うということによって、何か自分が偉いような気になって、自分が結局救われるというような、気持ちだけ救われるというような、こういう気分を味わっておるのです。


3.万教帰一理論と間違った新興宗教


まあ、そういうことで、この新興宗教の大変な乱れというものを目の前にして、実在界に還った私も、またひとつ、意見を述べねばならぬと思います。

では、生前から谷口雅春が言っておるところの人類無罪というこの宣言は、そうした新興宗教家たちの活動をどう見るのか。彼らにも罪がないのか。そういうことについて、私は私なりの結論を出さねばならぬと思うのであります。

結局のところ、間違った宗教というのがあるのかどうか、そういうことについての話になるかと思います。

そして、これが万教帰一理論とのかかわりにおいて、大切になるわけですね。万教が帰一であり、唯一の神に帰一し、唯一の神より流れ出たものであるという定義は、現在活躍しておる、あるいは、活動しておる諸教、諸団体、こうしたものすべてが、神の意にかなったものであるかどうかといった議論とはまた違ったものがあるわけであります。

すべてが唯一の神から分かれたとして、世を迷わしているこうした間違った宗教をも神から出ておるのだと考えるのは、これは早計であります。

すなわち、神は、迷いというものを創ってはおらんからであります。迷いというものを実相と見れば、間違った宗教家たちも、もちろん、実相の神のためにつくしておるかもしらんけれども、実際、神は迷いを創らず、神は無明を創っておらんのです。そうであるならば、人間を狂わすような宗教を説かすのが神の本意ではないはずであります。

では、にもかかわらず、何故(なにゆえ)、間違った宗教家たちが何十万、何百万の団体を組織して、その教勢を広げんとしていることを、神は手をこまねいて見ておるのか。この問題、このむずかしい問題について考えていかねばならぬと思うのであります。

どの宗教団体の教祖にしても、自分の教えが間違っておるとはなかなか思わんであろう。したがって、自分の教えと矛盾する教えが出た場合に、それを異説、邪説として一蹴し、片づけたがるということが非常に多いと思うのですね。

また、現実におかしな団体が多いことも事実であるので、それを正しいものとそうそうは認めることができないということも、真実でありましょう。

裁判の世界だけでなく、宗教の世界においても、疑うべきは罰せずであればいいんだけれども、残念ながら宗教の世界においては、疑うべきは罰するというのがどうやら原則になっておって、信じられるのは自分だけであって、自分以外は、すべて信じられない。つまり、敵であり、悪魔であると考えがちであります。

こうした混乱のなかにおいて、共通のひとつの常識、宗数的常識というものもつくってゆかねばならぬと私は思うのです。

私が、生前、「生長の家」において、九十年間余りの生涯で説いてきた教えというものも、結局、この宗数的常識の確立ということがその大きな使命であったろうと思うのであります。


4.宗数的常識の確立と「生長の家」の教え


私は、人類の基底に流れておる思想というものが、単に仏教のみならず、キリスト教にも、日本神道のなかにも、また、アメリカの光明思想団体、ニューソートの流れのなかにも、あるいは、それ以前のドイツ観念論派のなかにも、真実のものが流れているということを説明してきたつもりであります。

というのは、本当のものというものに対して、その基盤、基礎をあきらかにしなければ、人びとが考え、判断する基準というものが、なくなってしまうからであります。

そういう意味において、人類の共通項、共通の基盤というものをあきらかにするために、私は努力邁進(まいしん)してきたのであります。そこで、こうした共通項、共通の思想、あるいは、教科書としてでも確立できるようなしっかりとした信仰の岩盤の部分、これを今固めていく必要があると思う。私は、強く、そのように思うわけであります。

そして、この共通の基盤のなかにおいて、いちばん大切な教えとは一体何であるかと言うと、結局、人間が神の子であるということを明確に謳うか謳わないかということ、これが非常に大事なのではないか、と。私は、このように思うのであります。

人間の性悪説、性善説というふうに、いろいろと古来から話をされておるけれども、やはり、性善説、つまり、本来善き者と考えて、所説を立てていくのが筋ではないか。そういうふうに、私は考えるわけであります。

そうでなければ、人間が本当にくだらない者であるならば、生きておること自体が罪であります。存在自体が罪であります。

本当に善きものだからこそ、真実永遠の生命というものを保ちつつ、人間は生きておるのではないでしょうか。私は、そう信ずる者であります。


5.人類に罪ありやなしやの問題


さてでは、人類に罪ありやなしや、この問題について考えていきたいと思います。まあ、これは、罪ということの概念、これにかかわってくるわけであります。

人類全員が、たとえば、天照大御神様のように光り輝いておるかと言えば、現実問題としてはそうは言い切れんのが事実であるし、また、宗教家たち、つまり、本人は神近きと思っておる宗教家たちの現実の姿とて、そうではないことは、常識のある日本人であるならば、先刻知っておるとおりであります。

そうしてみると、では、何をもって罪とするか。あるいは、罪はないとするか。この辺を徹底的に考えてみなければならんと思います。

私は、生前からよく説いてまいりました。罪とは、「包(つつ)み」のことであります、と。すなわち、罪とは、覆(おお)い隠すものであると、こういうことを言ってまいりました。

たとえば、百ワットの白熱電球がそこにあるとしても、それに風呂敷をかけてしまえば、光は出てこないわけであります。そして、曇ったような形になる。ただ風呂敷がかかっておるということは現実ではあるけれども、かといって、光そのものが曇っておるということでないことも、事実であります。

この白熱電球の部分は、無限に光を放ち続けているということが、人間が神の子であり、生命の実相において神と本質をひとつにするものであるという意味なわけであります。つまり、人間に罪はないけれども、包みというものがあるように見えるということです。その本来の光り輝く神性を包み隠しているように、覆っているように見えるものがあると言えることです。

そして、それが、あるときは白熱電球にかかった風呂敷であったり、あるときは白熱電灯にかかった、いわゆる塵芥(ごみ)や埃(ほこり)であることもあるわけですね。しかし、本来、そうしたものはあるべきはない。そこにあるべきでないものが、無精(ぶしょう)人間が怠慢をしているうちに、そうしたものに蜘蛛(くも)の巣がかかったり、塵芥(ごみ)が落ちたりしてきておるわけであります。ですから、本来の輝きを取り戻すためには、この包みの部分を取り除かねばならない。

これは、ある意味では、宗教の共通した思想であろうと思います。私の光一元、善一元論にしても、本来光一元、本来善一元ということであって、本来白熱電球というのは、何の曇りもなく輝いておるということを言っておるのです。

輝いておることを前面に押し出しておるわけであって、もちろんそういう曇りや汚れがないと言っているわけではないのです。だから、この曇りや汚れを本来のものと考えてはならぬ、と。そういうことを言っておるのですね。

すなわち、たとえば、窓ガラスの外には美しい景色が広がっておっても、窓ガラスが曇っておったのではよく見えんということですね。あるいは、水蒸気で曇ったり、塵芥で汚れたりしておっても、窓の外の景色は見えんでしょう。こういう場合には、雑巾で拭けば窓ガラスはピカピカになります。そうすると、人間は、外の美しい景色というものを見ることが可能なわけであります。

ところが、人間罪の子の思想、あるいは、人間の存在を性悪説ととらえる人というのは、どういう人であろうかと言うと、窓ガラス自体がそんな透明なガラスではなくて、まあ、ステンドグラスか何かのように濃い色が入っておって、外が自由に見えないと、こういうふうに考えるわけであります。このように色ガラスであって、磨いても磨いても透明にならないと言うならば、外の景色が素通しで見えるわけはないのであります。


6.「罪」と「包み」


ですから、私が本来罪なしと言っておることと、つまり、包みのみがあると言っていることと、罪があると言っておることは、似ておるように聞こえるかもしれないけれども、この部分が、重要な差となっておるのです。

私は、本来の姿は、外の美しい景色が自由自在に見えると言っておるのです。ところが、罪が実在すると思っておる人たちは、すなわち、ステンドグラスのように色濃いガラスか何かが入っておって、磨けど、磨けど、外が見えんと言っておるのです。あるいは、赤いステンドグラスが入っておれば、世界が血のような赤さに見えて、本当にやりきれないと言っておるのです。

ところが、私はそうではないと言っておるのですね。本来は透きとおって見えると言っておるのです。この意味が、わかるでしょうか。まあ、そういうことなんですよ。

ある人は、透きとおったガラスであるのにもかかわらず、勘違いをして、実は窓に鉄格子が入っていると思っておる者もおるのですね。まるで人間を囚人か何かのようにとらえておる者がおる。この三次元世界というのを、刑務所か何かのようにとらえて、人間が刑務所のなかにブチ込まれるために出てきておるように、処罰のためにこの三次元世界へ出てきておるように思っておる者もおります。

こうした者は、窓に鉄格子が入っていると思っておるのですね。まあ、これも大変な誤解であります。本来そうしたものではないということです。

私の考えがあきらかになってきたと思うのでありますが、窓の外の美しい景色、これが、結局天上界の景色であり、天国の姿であり、地上を去った実相世界にあるユートピアの姿であるわけであります。

このユートピアの世界を、私たちは、地上の人間にも見せてやらねばならんのです。そして、このユートピア世界を地上の人間に見せてやるためには、人間が罪の子であるという意識を拭い去らねばならぬということなのですね。これが大事なわけであります。

人間が罪の子で永遠に罰せられておるという考えは、まあ、これはひとつの強迫心理であって、本来は、そんなものではないわけですね。人間罪の子の思想が真実であるとすると、まるで地上に生きておる人間は、すべて指名手配中の殺人犯人か何かのような存在になってしまいます。私たちは、殺人犯人相手に法を説いとるわけではないのであります。

本来、みんなおとなしい羊であるのです。おとなしい羊であるけれども、ときどき、羊は迷い出て、百匹のうちの一匹、二匹が迷い出て、谷のなかに降りてみたり、岩の間を飛び越そうとして足を折ってみたり、いろんなことをしておるのです。

だからこそ、私たちが正しい生き方というものを教えて、そうした者たちを導かねばならんようになっておるわけです。


7.人間罪の子の思想と人間神の子の思想の効果の違い


こう考えてみると、たとえば、効果という面で考えてみても、人間に罪ありと考える思想と、人間に罪なしと考える思想と、どちらのほうが効果が大きいかということも理解がいくと思うのです。

人間に罪があると言われて、そして、生きておるという思想は、どういうことでしょうか。たとえて言えば、オギャアと泣いて、赤ちゃんとして生まれて、もの心がついたときに、実は、その両親というのはもう死んでいて、その子は孤児であって、「お前の両親というのは大変な大泥棒であったんだ。お前は泥棒の子供であったんだ。だから、泥棒の子供として生きていかねばならんのだ」と、まあ、こうぃうことを言われるのと同じでありましょう。

あるいは、いち早く地上を去った両親は、大変な借金、何億円もの借金をつくって死んだのだ。だから、お前は、義務教育の間は許されるけれども、義務教育が終ったら社会に出て働いて、両親の借金というのを生まれながらにして払う義務があるのだ。まあ、こういうふうに考える考え方でありましょう。

一方、もうひとつの人間に罪なしという考え方とは、どういうのか。あなたは神の子であって、光り輝くような姿で生まれた。無限の可能性が与えられておる。どんな人も、赤ちゃんとして生まれて、オギャーと泣いて以来、平等のスタートを切るのである。そして、本来の神の姿に戻るために、永遠の向上を目標として努力していくのである。行く手には希望と勇気が輝いている。つまり、こういうことですね。

こうした二つの人生観があるわけですが、どちらを持って生きていくのが、本当に人類を幸福にすることになるかどうか。このことについて、よくよく考えていただきたいのであります。

皆さんは、小学校でもいい、中学校でもいいのですが、たとえば、高校になったときに、まあ、普通の人間として育っておったのだけれども、友だちから、こう言われたとしましょう。

「君は、自分の両親を本物の両親だと思っておるが、実は違うんだ。君は、生まれ落ちてすぐ、孤児院の前に捨てられておったのだが、拾われて、今の両親が引き取って、育ててくれたんだよ。君の本当の出生の秘密を調べてみたら、実は、君は大変な悪人の子供であったのだ」

まあ、こういうふうに言われたとしたら、その十八歳なら十八歳の男の子でも女の子でもいいが、その人の人生は、どのようなものになるでしょうか。本人にまったく責任がないところでもって、本人は自己処罰の観念に苦しみ、暗い人生を生きていくのではないでしょうか。

そして、その結果、どうなるか。ああ、自分は大変罪深い両親の縁のもとに生まれた人間で、本来地上に出て来るべきではなかったのに、本来出て来るべきでなかった自分が出て来たんだから、何とか人様に迷惑をかけないだけの生き方をしていかなければならぬ、と。まあ、こういう消極的な人生観になっていくわけです。

ところが、たとえ同じように拾われた子としても、逆の言い方もあるでしょう。

あなたは一歳のときに拾われたのだけれども、実は、あなたは天皇家の子孫なんだ。本当は、天皇家の子供さんなのだ、と。あるいは、有名な大富豪の、あるいはまた、ノーベル賞作家の、ノーベル賞学者の実はお子さんなんだ、ということを言われたらどうなるか。これは大違いですね。

まあ、どちらが真実かということですが、ただ私は、善し悪しを判断するだけではなくてね、その行為の善悪だけではなくて、単にこの世的に効果というものだけを考えても、やはり自分は素晴らしい両親のもとに生まれたんだ、素晴らしい星のもとに生まれたんだと考えるほうが、人生としては明るい人生が開けていくのではないかと思う。それでいいじゃないかと思うんですね。

暗い人生の思想をいっぱいつくってしまって、どうして世の中が明るくなるでしょうか。どうして世界が平和になるでしょうか。どうして世界が幸福になっていくのでしょうか。やはり、ひとりひとりの人生が光り輝くものになっていかなければならないのではないでしょうか。私は、強く、そのように考えるわけであります。


8.クーエの成功心理学


有名な心理学者として、クーエという人がおりましたが、この人は、大変面白い方法を考え出しました。つまり、「あらゆることにおいて、自分は毎日よくなる。一層よくなる。あらゆることにおいて、毎日よくなる」と。これを一日ね、十回、二十回、いろんな機会に口に出して唱えておると、本当にその人がよくなってくる。こういうことを、クーエという人は、実験によって確かめました。

まあ、薬局でも、同じですね。薬を売るときに、「この薬は非常によく効きます」と言って渡しておるのと、「この薬は全然効きません」と言って渡しておるのとでは、ずいぶん遠う。たとえ科学的にみれば、薬の成分がもう効能を発しないような、有効期間をすぎておる薬であったとしても、それを効くと思って飲めば、実際にアッという間に病気が治ってしまう。そういう例も、実際、あるわけであります。

こういうふうなのをみると、その人の考え方、心の持ちようということが、どれほど大切なものであるか、こういうことがわかると思うのですね。

ですから、「自分は罪の子だ。罪の子である。自分は永遠に罰せられておるのだ。自分は泥棒の両親のもとに生まれたのだ。自分は不幸の星のもとに生まれたんだ」と、毎日毎日言い聞かしている人と、「自分は一層よくなるんだ。もともと神の子であるし、もともと王様の子であって、そして、ますますよくなっていくんだ」と思っている人とでは、一体どちらが本当にバラ色の人生を生きておるか。どちらが天国を生きておって、どちらが地獄を生きておるか。その答えはあきらかであります。私は、そう思います。

人間という者は、「もの」ではないのです。物質ではないのです。だからこそ、その思いによって、人生が変わってくるのです。自分が思い、希望した方向へと人生を開いてきておるのです。そういう生き方をしてきておるのです。

そうであるならば、やはり光明の方向へと心を向けていかねばならぬのです。あらゆることで、自分はよくなっていくんだ。一層よくなっていくんだ、と。クーエのように、一日十回、二十回でも、そういうことを繰り返すべきです。

そうすれば、それが自己暗示となって、本当によい方向へといくのですね。言ってみれば、こういうことは、皆さんも、無意識のなかでは、ずいぶん経験しておるのです。

たとえば、会社に入って、とくに一流会社というところに入ると、新入社員でも、立派に見えてくる。はた目から見ても、いかにも一流会社に勤めているという雰囲気になってきます。

なぜそうなるかと言うと、やはり、そこに働いておる社員が、自分は、日本を代表する一流会社の社員なんだと、一日何回も何回も思っておるということなのです。その思いが、顔の表情となり、身のこなしとなって現われてくるということです。

また、東京大学などを出ておる人が、社会に出てから非常に活躍をしておりますが、これなども、結局、彼らがそのクーエの法則を知らないうちに使っておるということがあるのですね。社会に出て、いろんな困難にぶち当ったときでも、「自分は東京大学を出ておるんだ。自分の頭脳が優秀だということは、すでに国家機関によって認められておるのだ。自分は受験戦争を勝ち抜いてきたのだ。いつも先生にほめられてきたし、いつもよい成績を取ったし、いつも他の人から尊敬されてきたのだ」と。

こういう自信を持っておるから、艱難(かんなん)にぶち当っても、自分は優れた人間であって、この困難を必ず乗り越えていけるのだ、と。こういうふうに、自分に言い聞かせているがために、実際、その困難を打ち崩していくことができるのです。

ところが、自分の学歴に劣等感などを持っておる人というのは、社会に出てから困難にぶち当たると、「いや自分がダメなのも、やはり大学を卒業していないからなのだ。大学を中退したからなんだ」と。あるいは、「高校に進まなかったからだ」と。こうしたことを、いつもいつも愚痴るようになるわけですね。

そして、何かことがあるごとに、「結局、学歴がないから自分は不幸なんだ。学歴がないからいい嫁さんも来なかったし、学歴がないからいい就職もできなかったし、学歴がないから昇進もできなかったし、学歴がないから馬鹿にされたし、学歴がないから子供の教育もできないし、学歴がないから車も持てない。学歴がないから家も持てない。学歴がないから……」ということで、こうした言い訳ばかりをするようになります。

私は思うのですが、人間の基本的な能力というものは、そうそう大きな開きというのはないと思うのですね。ですから、成功体験を通して、自分というものに自信を持ってくると、いろんな困難や苦難に遭遇したときでも、それを打ち破っていける。その自信でもって、その困難や苦難を打ち破っていけるのです。

ところが、挫折しか経験しておらん人は、何か困難、苦難がくると、「また挫折をするのではないか」と、自分の悪い経験ばかりを反芻(はんすう)してしまう。そして、結局、挫折する。こういう悪循環を繰り返していくのです。

したがって、こうした悪循環を断ち切るためには、やはり、成功の心理学というものを十分心のなかに刻んでゆかねばならんのですね。この成功の心理学を刻んで、日々生きていくことが大事なのです。


9.光明思想の教育効果


私は、本来的にも人間は神の子であり、人間の性は善であり、人間の本質は素晴らしいものだと思っておりますが、また、それが事実だと思っておりますが、それが事実であるかどうかということの論証を抜きにしても、人間は本来素晴らしい存在なのだと考えて生きることが、結果的に、どれほどその人の人生をバラ色にするか。そういうことを考えねばならんのです。

ですから、宗教家で言えば、人間罪の子の思想を説く人が、もし教育者で出てくれば、結局は、子供たちをつかまえては、その子供たちの欠点ばかりを教えるようになる。つまり、「お前は算数ができないからダメだ。他の学科が全部できても、お前は算数ができないから、将来は理科系統に進めない。だから、医者になれない。科学者にもなれない。結局、ダメだ」と、こういうことを言うようになる。

また、算数はよくできるが、国語ができない子供にはどう言うかというと、「国語ができないということは、日本語ができないということだ。日本語ができないというような人間は、教養がない。そして、教養がない人間は、どこへ行っても、人の上に立てない。だから、お前は、ダメなんだ」と、こういうふうになってくるわけであります。

このように、欠点ばかりを見るものの見方は、大局的な見地から言っても、その人を生かすことにはならんし、その人を幸せにすることにもならん。私は、このように考えるのです。

いいところを見つけて、それをほめていく。そして、それを伸ばしていく。やはり、そういう教育こそが、真実であるのではないですかね。

算数ができる子がいたら、あなたは天才だ、と。数学の天才だとほめていく。国語ができる子がいたら、お前はその才能を生かして、作家になれるかもしれないよ、と。こういうふうに見ていくべきです。

また、たとえ勉強はできなくとも、しゃべるのがうまい子をみれば、お前は説法が非常にうまいから、将来は政治家か、あるいは、宗教家になるかもしれない、と。こういうふうにも、とらえていけます。

すなわち、現実は同じであっても、それをどうとらえるかによって、人生を幸福にできるかどうかということが変わってくるのですね。

ですから、私は何度も何度も繰り返して言っておるけれども、人間というものは、光明の方面に自分の考えを向けていかねばならんのです。そうしなければ、本当の意味においての幸せということはないのです。すなわち、もし過去において、自分に罪があったとしても、「罪よ、罪よ」ということをあんまり自分の心に刻んでしまってはならんのです。

人間が原罪の子であるという思想は、もちろん、カルマとか、あるいは、過去世の業ということでもあるんでしょうが、それは過去世だけのことではなく、今世のことにもあてはまるわけです。

今世で過去に失敗したからと言って、その失敗ばかりをいつまで言っておっても、決して幸福にはなれんのであって、その失敗に清算をつけて、新しい太陽に向かって、人間という者は生きてゆかねばならんのです。

したがって、自分が間違っていたことに対しては、もちろん、その点に関して、人に詫びるのは、正しいし、そうした間違ったことを二度としないと心に決めることも大切でありますが、肝要なことは、その間違いを引きずらないということです。その間違いを引きずって、自分の人生は間違ってしまった、間違いの人生だというような、そういう自己卑下的な考え方はせんことです。

人間は、間違うこともあるけれども、それ以上に素晴らしい人生を生きることができるんだ。これからいつも新しい出発をしていくんだ。神の子として、素晴らしい旅立ちをしていくんだ。こういう思想というものを持たなければ、人間は、本当に幸福になることはできないのです。

ですから、私は本章で言っておるように、本来罪なし、人間本来罪なし、すなわち、「人間無罪宣言」というのを大切にしたいと思うのです。それゆえ、本書の読者の皆さんも、もし自分に罪がありとしていろいろと虐(いじ)めておるならば、その罪から自分を解放してやりなさい。その鉄格子のなかから、自分を解放してやりなさい。と、言いたいのです。

そして、クーエのごとく、考える。毎日、自分はあらゆる面で一層よくなる。毎日、あらゆる面で一層よくなるんだ。なぜなら、自分は神の子だからだ。神の子だから、よくなるしかないんだ。自分は、ますます向上し、ますます立派になり、ますます社会のために奉仕できるんだ。そうして、多くの人びとに喜んでもらえるんだ。こういうふうに思っておくことです。それが、大事なことなのですね。


10.自己実現と全託の精神


「生長の家」の聖詩篇のなかにも私は書いておりますが、自己実現に関しては、その結果というものに関して、神にお任せすることです。自分は神の子で、神様が最大に愛しておる子供なんだから、あとはその念いを持続し、いい念いを持続して、いつその結果が現われるかということは、もう気にしないで見ておる。そういうことです。

一晩眠って、朝になればね、草の芽、あるいは、植物の芽というのは、一層伸びておるのです。夜眠っておる間に、そうしたものは、芽が伸びておるのですね。そうしたものなのです。

ですから、そういう心を、そういういいことだけを心の奥に刻んで、それが何センチ伸びたかということは計らずに、待っておることです。すると、ある時期になると、パッと花が咲く。必ず、花咲くのです。

たとえば、片栗粉でもそうですね。湯を注(さ)して、持っておると、ある瞬間に、パッと透明に変わる。そういうものなんです。片栗粉がなかなか透明にならないと言うんで、固まらないって言うんで、また水を注したり、いろいろとこね廻したりしておっても、ダメなんですね。あるとき、パッと変わるんです。そういう瞬間があるんです。それを信じて生きることですね。これが大事ですよ。

まあ、自己実現の方法については、また改めて話をしようと思うけれども、人間は本来無罪なんだ、素晴らしい存在なんだという思想を、どうか忘れずに生きていただきたい。私は、強く、そう願うのであります。