目次
2.弥陀の誓願の意味
6.罪と罰について
12.悪人が救われな理由
16.「他力本願」の本当の意味
6.罪と罰について
―― 当時の社会情勢は、察するに余りあるものであったと思います。したがいまして、今、お話いただきましたような、真の悟りには達しないというようなことをお説きになられた方たちもおられましたでしょう。
確かに、現在の時代から考えましても、聖道門(しょうどうもん)をくぐられた方たちは、それだけの教義を理解するだけの知力があり、また、その知力、学問を身につけるだけの家柄でもあり、さらには、財力にも恵まれた商人、あるいは、武士階級、貴族など、いわゆる上流社会の方たちであったと思います。
しかし、当時のあの世で、さきほど聖人様もおっしゃいましたように、社会の大半の人は、文盲の農奴のような貧民であって、にべもなしに飢え、ゆえもなく殺されていきました。この多くの無力な人びとが、どうしてあの高度な学問、聖道門の教学を理解し得たでしょうか。そして、それを自己の悟りとし、成仏できたであろうか。と考えるときに、親鸞聖人様のあの『南無阿弥陀仏』の念仏唱名によって救われるというお教えに、庶民はおそらく随喜(ずいき)の涙を流して死んでいったであろうと思うのです。
翻(ひるがえ)りまして、現世にこれを考えますと、まあ社会情勢もいろいろ変わってはおりますけれども、ここで一つ考えられることがあります。つまり、現在のいろんな社会悪のなかで、自らの意思に反し、その社会悪に染まらざるを得なくなって染まってしまう。極度な悪となっては、人殺しまでもしてしまわなければならないような苦境に堕ちて、ついには、罪を犯してしまう。したがいまして、こういう人は、司直の裁きに遇(あ)って、現在、牢獄に繋(つな)がれているのであります。こういう人のなかには、やがて死刑の宣告が下される人もおるでしょう。
しかし、救いというものについては、現在、仏教の僧侶、あるいは、キリスト教の牧師が受け持っている教誨師(きょうかいし)という方がおりますが、こういう方たちが、死刑の刑期を前にした人たちのために、神仏の助け、救いというものを説いておられるようでございます。
それによって、その死刑囚の人が、活然と悟りを拓いて、今までの自分の犯した罪に対する懺悔(ざんげ)と、これから先の救いというものを神仏の慈悲にすがり、あるいは、天国浄土への往生を信じ、しかるのち、従容(しょうよう)として絞首台へ登っていくことができたというような、いろいろな事例を聴いております。そこに、魂の救い、神仏のおおいなる慈悲というものを感じるわけでございます。こういう人たちにあっては、もはやこの世の法、つまり、法律的にはどうにも救いようのないものでありますけれども、それでも仏の救いの掌(て)というものが残されているということをありがたいと思うのであります。
とはいえ、これは臨終にあたっての、この時点での、この人たちへの救いの掌であろうと思います。ただ思われることは、この事態に至るまでに、つまり、日常においてこれまでに至る間の、いろんな悩み苦しみというものに対する訓え、救いというものはないものかということであります。
これが言うなれば、宗教者の課題であろうと思うのですが、この人間生活の複雑化した現代社会においては、親鸞様がご存世になられたときはまた違う、いわゆるいろんな現代病というのがここにあるわけですが、どのようにお考えでございましょうか。聖人様は現代の衆生の悩みに対する救いというものは、当時のお教えによることがもっとも適切なお教えだとお思いになりましょうか。
親鸞 まず、言っておかなければいけないことがあります。それはすなわち、あなた方生きている人間には、何が善であり、何が悪であるかは、わからないということなのです。もし親鸞が、何が善であり、何が悪であるかということを言い切れる人間であったなら、親鸞は、一人ひとりの人をつかまえて、「お前はここが悪いから、ここを正せよ」と言ったでありましょう。しかし、何が善で何が悪かは、人間ではわからないのでござる。これは、神仏のみが知っておられることなのです。
ですから、この世には、悪を犯したと言われて命を奪われる者、悪を犯したといって死刑を宣告される者がいる。そのような者は、悪を犯す前において、決して幸せであったはずがありません。人を殺そうと思うような心になるということは、その者が幸せではあり得ないのです。そこで、その者は、その事実そのものにおいて、すでに罰せられているのです。人を殺そうという気持ちを起こすということ自体が、すでに罪なのです。そういう気持ちが起きたということは、その者はどれだけ不幸で、どれだけ苦しんでいるかを証するものであります。
あなた方は、幸いにして、人を殺したいとまでは、思ったことがないでしょう。人を憎んだことはあるでしょう。怒ったことはあるでしょう。ただし、人を殺したいとまでは思わなかったはずです。すなわち、あなた方は、それだけ幸福な、幸せな存在なのです。
しかし、人を殺そうと思って殺してしまった人は、その事実、もう消しがたい事実によって、すでに罰せられているのです。その人がそこに至るまでにおいて、どれだけ多くの人が、その人に対して悪をなしたでありましょう。その人がそこまで至るまでに、一体どれだけの心の遍歴がありましたでしょうか。その人のご両親、その人の兄妹、その人の親類、その人の先生、その人の友だち、あるいは、道行く人びと、そうした人びとは、その者に対し、慈悲深い行為をしてきたでありましょうか。情深く接したでありましょうか。そうではなかったはずであります。
その者は、すでに罰せられておるのです。死刑にされる前に、すでにもう罰せられているのです。ですから、その者を、さらに刑務所に入れ、なお生きている命を奪う。これは悪を重ねているようなものであります。すでに結果です。人を殺すということは、これはもう、死刑と同じです。生きている人間としては、仏性(ぶっしょう)の最悪のところまできているのです。仏性が最悪のところまできているのです。仏性が最悪に曇っておるのです。これだけでも罪です。
殺したいとまでは思わない人は、恵まれた人たちであります。そう思うということだけでも、もう罰せられています。その人は、人を殺す前において、その罪は、もう贖(あがな)われているのです。それだけ苦しんだ魂です。よくぞそこまで、苦しんだ。それを赦(ゆる)さないで、責め続けるのは間違っています。魂が苦しんでいるのです。
あなた方は、同じ時代に生きていて、人を殺したいとまでは思わないでしょう。人を殺したいとまで思わないのは、あなた方が優れているからですか、そうではないはずです。つまり、あなた方が、それだけ不幸ではないからです。人を殺したいと思うところまで、不幸ではないのです。実際、人を殺してしまった者は、不幸な方なのです。むしろあなた方は、同情すべきであって、責めたてるのは間違っています。
また、人を裁く人がおります。善人だと思っておるのでしょうか。私は、職業が悪いとは言いません。ただ、警察官であるとか、検事であるとか、裁判官であるとか、その職業柄、人を裁かねばならぬ人がおります。この人たちのなかに、悪はないのでしょうか。彼らのなかに、悪はないのでしょうか。彼らは、少なくとも人を殺す、殺してしまうほど不幸な人ではないはずです。しかし、情心(なさけごころ)をもって接したでありましょうか。
人を裁き、人を追いつめる立場にある人は、自分自身の心、自分自身の行ないを振り返ってみるべきです。それを問いつめるだけの優れた自分であるかどうかを、よくよくお考えになればいい。人間、人を裁くことはできないのです。すなわち、本当の世界とは、心の世界なのです。
外見を善人ぶることは、だれでもできます。いや、だれでもではないでしょう。しかし、できる人もいます。外見を、偉い人であるかのごとく、罪一つ犯さない、虫一匹殺さない人のように、とり繕うことは可能です。しかし、心の世界は、誤魔化すことはできません。神仏の眼から見た人間の心は、一目瞭然(いちもくりょうぜん)です。
「汝らのうちで罪なき者のみ、悪を犯したことがない者のみ、この女に石もて罰せよ」とキリスト、イエス・キリストは言いました。キリストは、罪を犯したことのない者と言いましたが、では、もう一歩進めて、「汝らのうちで、悪を思ったことがない者だけ、この悪人を罰しなさい、裁きなさい」と言ったとしたら、裁ける人は一人でもおりますか。あなたでも、裁けないはずです。あなたも身に覚えがある。心に覚えがあるはずです。
7.この世で失敗を反省できる者は神の愛を受ける
親鸞 私の悪人正概説は、一見奇異に聞こえるでしょう。悪人こそが救われるなどと言うのは、邪宗そのものに聞こえるでしょう。善人が救われるのに、悪人が救われないわけはない。悪人こそ救われるのだ。それが弥陀の本願だ。しかし、このようなことを言って、普通の頭の人が理解できるとは、私は思いません。
それは逆ではないか。善人こそ救われて、悪人は救われない。それが公平な裁きではないか、そう思うでしょう。しかし悪人は、よいですか、悪人というのは、悪人であるということ自体で、すでにもう罰せられているのです。すでに魂は苦しんでいるのです。あなた方は、人を殺そうと思うところまで苦しんだことはないのです。ないはずです。いくらあなたがつらい人生を送ったとしても、刃物で人を突き殺そうとまでは思わなかったはずです。すなわち、あなたの魂は、そこまで苦しんだことはないということです。彼らの魂は、そこまで苦しんだ、これが悪人です。
ところが、世の善人たちはどうでしょうか。自分たちは、法衣を被って、勉強して、その知識でもって淡々と事務処理を進めていきます。裁判官がそうです。彼らは法律をよく勉強して、刑法とかさまざまなものを知って、こういうことをしたらこの罰に相当することがわかっている。ですから、無期懲役であるとか、死刑であるとかを、いとも簡単に、決断を下しているのです。ところが、悪を犯す人は、そうした法律を学んでさえいません。勉強したこともないのです。自分の行為が、一体どのような罰に当たるのかも知りません。そうしたことすら知らない人を、それを知っている人が裁いておるのです。
それを知っている人は、自らの心のなかに悪がなかったかどうか、反省していただきたい。悪は、きっとあるはずです。心のなかに悪がある者が、他人の悪を責めるということは、私たちの世界、心の世界においては、一体どれだけつらいことであるかを知っていましょうか。わからないからこそ、責めるのです、人を。
よいですか、もし人の心と心が開けっぴろげにわかるならば、罪にうちふるえている人でさえ、それを裁かんとする人びとの心の曇り、誤り、悪を知っているはずです。そこで、「あんたの心のなかにも、悪はあるじゃないか」と言えるはずです。そのときに、裁きができるでしょうか。善悪は、人間では決められないのです。決められないのにもかかわらず、現代の人間において、やむを得ず裁きをする人もいましょう。しかし、これからの人もまた、救うべき立場ではなくて、救われる人です。これは、何も、法の裁きをする人だけではありません。あなた方の大部分が勤めている会社というところにもあります。人間は、会社という組織のなかで偉くなっていきます。しかし、出世をしていく途次(とじ)において、そのなかには、それだけの悪を含んでいるはずであります。栄達した人のかげには数多くの泣いてきた人がいるのです。たとえば、重役となり、社長となれば、彼らは、すなわち偉い人だとみなされます。本人も偉い人だと思っています。
しかし、世に偉い人と思っている人は、その奥にどれだけ悪を含んでいるでしょうか。一体何人の人を苦しめてきたか、一体何人の人を人事で左遷(させん)してきたことでしょうか。平社員で一生終わる人がいます。そういう人は不幸かもしれません。金銭的にも不自由かもしれません。しかし、そういう人は、人の悪口は言えても、人の首を切ったり、人を左遷したりしたことはないはずです。つまり、そういうことは、立場上しなくてもすんだからであります。ところが、社長と仰(あお)がれるような人は、幾度人の首を切り、幾度人を左遷し、幾度いろいろな家庭に不幸を起こしたことか。しかも、それを本人は善人であり、成功者であると思っておるのです。そして、世の人びとは、社長のようになりたいとうらやましがっているのです。
8.総理経験者が地獄で苦しんで理由(わけ)
親鸞 親鸞が善人、悪人は、今の世で言えば、成功者と、そうでない者であります。こう言えば、あなた方にもわかるでありましょう。
神は失敗した人と成功した人とでは、どちらを救ってくださるでしょうか。自分の人生は失敗をしたと思っている人、一生平社員で終わった人、会社を首になって職を転々とする人、能力を持ちながらもその芽を伸ばせずして苦しんでいる人、あるいは、能力を持ちながらも家庭環境、病、事故など、さまざまな問題が起きて、その才能を発揮できなかった人。あるいはまた、若い人たちが今、野球というものにうち興じているが、才能を持った子供が、たまたま晴舞台で怪我をしたがために、プロの選手として活躍する機会を失う。こうしたこともあるのです。
神は一体どちらをいとおしいと思われるでしょうか。仏はどちらを救いたいと思われるでしょうか。答えはわかっています。すなわち、世の失敗者こそ、神仏が、両手にとって抱きしめたいと思っている人びとなのです。
悪人もまた、悩んでいる人です。悩んでいる人とは、失敗した人です。成功した人ではありません。成功した人びとは、自叙伝を書いたり、自分の成功談を人に話します。「俺はこうして社長になった」と。しかし、社長になったときに、どれだけの悪を含んでいるかです。その人は、それをおそらく生涯反省することはないでありましょう。そして、失敗者たち、成功しなかった人たちは、自分の人生は何とつまらない人生であったことかと思う。一方、成功者たちは、何と素晴らしい人生であったかと、そう思ってその人生を閉じるのです。
しかし、その後の世界においてはどうでしょうか。イエスが言ったとおりです。すなわち、イエスは、「己れを低くするものは、高くされ、己れを高くするものは、低くされる――」と言いました。そのとおりなのです。自らの悪を見つめ、自らの弱さを見つめ、自らの悩みを見つめ続けた人こそが、本当に神の愛を受けるにたる人間になるのです。自らを成功者だと思い、この世的に偉いと思っている人、自分を秀れた人、立派な人、善人だと思っているような人。こうした人たちこそ、この世を去ったときに、反省すべきことが多いはずです。
失敗者は、この世において、すでに反省をしておるのです。この世において、なぜ自分は失敗をしたのかということを、日夜考えているのです。しかし、成功者は、この世においては、なぜ俺は成功したのかという点だけを、日夜考えている。そして、あの世に還って初めて、反省を始めるのです。
世に総理大臣とかいわれる人びとも、そうです。歴代の総理大臣のなかには、今、地獄で呻吟(しんぎん)している者もおります。しかし、彼らには、その理由がわかりません。俺は、世のなかで登りつめた人間だ。日本で一番偉かった、一番の成功者だ。その俺が、なぜ地獄にいるのかと考える。すなわち、自らの成功のみを考え、自らの失敗を知ることが少なかったからです。しかし、この世で自らの失敗を見つめた人は、あの世で自らの失敗を見つめ続ける必要はないのです。一方、この世で自らの成功を追い求めた者は、あの世で自らの失敗を、心の世界における失敗を知る必要があるのです。それがわかるまでは、反省を続けねばならんのです。
9.失敗したあなた方のために「神仏」の慈悲はある
親鸞 ですから、善人悪人とは、現代でいえば、成功者と失敗者です。私がもし、現代に生まれたら言うでしょう。失敗した方がたよ、人生に失敗した方がたよ、あなた方のために、神仏の慈悲はあるのです、と。成功した方がたよ、驕(おご)るなかれ、あなた方は、本当の成功者かどうかはいまだわかりませぬぞ。あの世に還ってみないとわかりませぬぞ。あなた方の成功のかげに、一体どれだけの悪があったか、一体どれだけの人が涙を流したか。それを知っていますか。私は、そう言いたいのです。
人間心で、どう生きることが神の御意(みこころ)に適(かな)うかをわかる人は立派です。その方は神の心に適った生き方をしてください。ただ、この世の人間には、何か神の意に適ったかはわからないのです。わからないのであるならば、謙虚に生きていこうではありませんか。自らを成功者とするのではなくて、神仏の前に、謙虚な自分であろうではありませんか。
人を裁くような人間にならないようにしようではありませんか。人を裁くような人間とは、何でしょうか、それは、善人です。善人が、人を裁くのです。悪人は、人を裁けません。裁かれる立場です。善人が、人を裁きます。
言葉を換えましょう。成功者が失敗者を裁くのです。人生の成功者が、人生の敗残者を裁くのです。登りつめた人が、落零(おちこぼ)れた人を裁くのです。合格した人が、不合格の人を裁くのです。そうではありませんか。
しかし、私たちは、裁くような人間にはなりたくないものです。裁きには驕(おご)りがあります。神仏の心を分からない人間であるならば、謙虚に生きていこうではありませんか。失敗者であってもよいではありませんか。成功者であることを祈るよりも、願うよりも、失敗者として自らの罪、自らの失敗、自らの弱さを徹底的にみつめて、どうしようもない自分であるならば、「神仏」のおおいなる慈悲に、任そうではありませんか。お願いしようではありませんか。
生きているうちに、このことに気がついた人は、死んでから気づく人よりも、私は素晴らしいと思います。その意味においては、"悪人"こそ救われるのです。善人ではなくて、"失敗者"こそ救われるのです。よいですか、成功者ではなくて、失敗者こそ救われるのです。イエスが、「金持ちが、金持ちの天国に入るは、駱駝(らくだ)が針の孔(あな)を通るよりもむずかしい」と言ったのは、このことです。そして、私が言った。「善人が救われるよりも、悪人のほうが救われる」とは、イエスが言ったことを別の言葉で表したものです。
成功者が救われるのは、駱駝が針の孔を通るよりもむずかしいのです。成功者であって、しかも、その成功が神の御意(みこころ)にあった成功であるならば、それは素晴らしいものです。神仏の意を体現して、この世に地上天国をつくって、そして、成功された方は、素晴らしいです。おそらくは、悪人たちよりも素晴らしい方でしょう。ですから、あの世へ行っても、偉くなられるでしょう。
しかし、神仏の御意に適った成功が少ないのであるならば、失敗者であることを恥じないで、堂々と胸を張りましょう。そして、そのぶんだけ、神仏をより多く信じましょう。神と人間では、比較にならないのです。相撲(すもう)する相手ではないのです。神は、人間よりも、はるかに偉大なる力を持っておられるのです。そのおおいなる力の前に謙虚に平伏(ひれふ)すことです。これが大事なことです。私の話で、わからないところがあれば、ご質問ください。
―― 今まで聖人様が諄々(じゅんじゅん)とお説きくださったことは、あなた様のご法のなかで根幹となるもの、すなわち、「悪人正機説」についてであったと思います。しかも、"悪人"とは何か、また、"善人"とは何かということについて、往時の社会においての理解の仕方、あるいは、釈迦、イエス様の説かれた喩えなども加えての本義をしてくださいました。さらに、現代社会における認識、理解の仕方については、"失敗者"と"成功者"、"弱者"と"強者"の立場、"理"についてお諭(さと)しくださり、ありがとうございました。
"悪人"、今日的な悪人である"弱者"には、救いはないのかといえば、実は、反省という言葉のなかに、弱者にこそ神仏の救い、慈悲があるのだというお教えでございまして、私自身も、常に迷いと、悩みを持つ弱者の一人でもありますもので、わが身にもあてはめて、身につまされる思いでございました。そこで、私が、今一つ考えますのは、昔の衆生、今の大衆庶民が、この世の生を終えるまで、"悪人"、つまり、"弱者"であっていいものか、人間は常に"弱者"で"罪人"であるという意識を持ち続ける、これが、「神仏」の御本意にかなったものなのかということです。また、さきほどの例にもでました死刑囚が、死期が近づくにつれて教誨師(きょうかいし)より神仏の救いの、慈悲の話を聴いて悟り、死んで行くという場合に、この罪人は、はたして地獄に堕ちるのか、極楽浄土に迎えられるのか。これらのことが、まださだかにわかりかねていますが、これは如何なるものでしょうか。
10.成功者「松下幸之助」は、なぜ天上界へ昇れるのか
親鸞 わかりました。お話ししましょう。私は最初に、「毒矢の喩え」をお話ししました。親鸞が教えは、毒矢に当たったら、まず、命をとりとめるために応急処置をしなさい、と。それからあとのむずかしいことは、専門家がおるでしょう。こういうことを、私は申し上げました。私の教えは、まさに応急処置であります。
私は善人や悪人ということを言いました。悪人は自ら悪人であるということを知っているからこそ、神仏に近い距離にあるのです。おわかりになりますか。生きているときに、自らの悪を見つめて、反省する機会があるからこそ、神仏に近いところにいるのです。善人は、自らの善に驕(おご)って、神仏を考えないからこそ、神仏から遠いところにあるのです。成功者というものは、ある意味では、唯物的なのです。"自力"というのはね、素晴らしいのですが、自力は、ある意味においては、神仏を否定することになっているのです。
しかし、神仏のお力によって自らが成功したと言っている経営者は、立派な方です。松下幸之助氏のように、「私が成功したのは、九〇パーセントまでが運でありました」と言っている方は、本当のことを知っている方です。自分自身の力で成功したのではない。神仏や、高級霊たちの力によって、今日の彼の成功はあった。それを彼は知っていて、自らの成功は、九〇パーセントが運であったと言っております。彼こそは、名経営者です。こういう人は、地獄へ行くわけはありません。
ところが、たいていの成功者は、そうは思わないのです。自らが成功したのは、自分が努力をしたからだ。言葉を換えて言うならば、自分が秀れていたから、成功したのだ。世の他の人びとが成功しなかったのは、要するに、努力がたりなかったか、秀れていなかったからだ。人間として劣っていたからなのだ。こう思うのであります。しかし、こういう人たちは、「天国」には遠いのであります。天国の心から遠いのです。自らを高しとするもの、自らをしてこの三次元において巨人だと思っている人は、あの世では一番小さな人となるのです。
11.マイナスの人間は零(ぜろ)になっただけで幸せだ
親鸞 ところが、世の失敗者たちは、自らの失敗というものをしっかりと考え、受け止めています。弱さを知っています。自分の弱さを、無力さを知っています。この点において、反省、要するに反省への"契機"があるということです。また、神仏を知る契機があるということです。この契機があるということにおいて、神仏に近いところにいるのです。世の失敗者たち、世に失敗を続ける人であるからこそ、神仏への道というのがあるのではないですか。
病気というものを、たとえば"悪"としましょう。そして、いつも健康でいる人を"善"としましょうか。健康でいる人は、自分が生かされているということがなかなかわからないのです。体が強いだけでね、体が強いということで、感謝を忘れています。当然だと思っています。体が健康なのは、当然だと思うからこそ、感謝の気持ちがありません。ご両親のおかげ、あるいは、あの世の人たちのおかげで健康なのです。それを忘れています。
ところが、病人というものは、そうではありません。病人というのは、健康の大切さというのをよく知っています。健康がどれだけありがたいか、それが幸せの基礎であるかということを知っています。それだけ、こういう人たちは魂の修行をしているのです。感謝をするチャンスがあるのです。ですから、健康になっただけで、こういう人たちは幸せなのです。いわば、マイナスからの出発です。
世にプラスの人間とマイナスの人間がいるかもしれません。プラスの人間は、自分を驕(おご)っているでしょう。けれども、マイナスの人間は思うでしょう。零になっただけで、幸せなんですよ、と。実際、マイナスの人間は、零になっただけでも幸せなのです。そして、そう感じている。
そこで、これで幸せを感じる人と、プラスをいくらかでも積まないと幸せを感じない人と、どちらが本当に幸せに近いかです。ですから、私が「毒矢の喩え」で言ったように、まず、命をとり止めることです。つまり、そういう止血(しけつ)という行為、これは一つの手当の最初であり、きっかけとなるからです。
12.悪人が救われな理由(わけ)
親鸞 あなたは、「悪人が本当に成仏しているか」とおっしゃいました。成仏している場合も、していない場合もあります。それは当然です。ただ悪人であるということにおいて、神仏の心を知る契機を持っています。そのきっかけを持っています。きっかけを持つとは、すなわち、神仏に近いということです。自分を驕(おご)っている善人よりは、そのきっかけがあるだけ、神仏に近い。
病気の人よりも、神仏を知る近道があるのです。だれもが、病気をして、神や仏のことを考えるのではありません。健康で、何もかもうまくいっているときには、何も考えないはずです。ところが、病を得て初めて、宗教というものを知ることができるのではないですか。医者に見放されて初めて、宗教というものを勉強し始めるのではないですか。
つまり、悪のなかに、神仏への近道、契機があるということです。ただ、この契機、きっかけを生かし得る人と、そうでない人がいるでしょう。ですから、結局、その後の人生、あるいは死後の人生は、そのきっかけを十分に生かし得たかどうかです。それによって、変わってきます。
"毒矢"が当たっても、止血することはできます。ただし、止血のままで放っておいたのではよくありません。手当が必要です。看護が大事です。あとのことが大事なのです。ですから、腕を縛っておくだけではいけないのです。さらに先のことが大事なのです。
すなわち、「悪人正機説(あくにんしょうきせつ)」とは、正しく救われるきっかけであるということです。きっかけだということ、すなわち、きっかけを授(さずか)っているだけ悪人は、天国に近いのだということです。死後、あの世できっかけが与えられるよりも、生きているこの世において、きっかけが与えられている。この世に失敗することにおいて、初めて、神仏を知るチャンスがある。これは、"失敗礼讃"ではありません。"病気礼讃"ではありません。そういうことと間違っていただいては困ります。
ただ、矢敗者のなかには、神仏に目覚めるチャンスがあるということです。一部の優れた人たちを、私は否定はしません。神仏の御意(みこころ)に適(かな)って成功している人、自力で成功を収める人、そういう人たちもいることを、私は知っております。しかし、そういう方は、そういう方です。
泳ぎの達人は、救う必要がありません。私が言っているのは、溺れそうな人です。泳ぎの達人に、私は説いているのではないのです。ですから、現代の方がたに言うなら、失敗しているから救われるわけではありません、と。失敗しているから、救われる契機がそれだけ多く与えられているのです。病気をしているから、それだけ本当の心の世界で救われるチャンスが与えられているのです。つまり、健康な人以上に、それを忘れるなということです。むしろ、あなた方は、恵まれた方なのです。神仏の慈悲を受けるきっかけを持っている。ない人よりも、自分の力だけで、健康保険だけで生きている人よりは、神の保険にかかっている人のほうが素晴らしい。そういうことです。
13.「悪人正機説」の間違いやすいところ
―― そこのところが、とかく現代人の間違いやすいところだと思います。この「悪人正機説(あくにんしょうきせつ)」については……。
親鸞 悪を犯せば救われるというわけではありません。
―― それをですね、"罪人礼讃""受難礼讃"というふうに解釈し、そのように誤解されると、これは大変な間違いになるということですね。
親鸞 そうです。止血の方法を知っているからといって、毒矢をいくらでも受けていいわけではありません。そうでしょう。毒を消す薬があるからといって、毒薬をいくらでも飲む人は馬鹿です。そうではありませんか。よく効く注射があるからといって、病に自ら罹(かか)る人がいますか。よく効く風邪薬があるからといって、裸でですよ、酷寒の川のなかで坐っている人は馬鹿です。そうではありませんか。風邪薬があるから、風邪をひいても癒(なお)せる。よく効く薬があるから、裸で水のなかに入っても平気だ。こういう人は馬鹿です。風邪をひかないように注意をするのが当然です。
同じように、悪人でも救われるからといって、悪を犯そうという人は馬鹿であります。もっと悪を犯せば犯すほど、きっかけがあるのではないかと、それで悪を犯すような人は、これは間違っています。それは、たとえ溺れかけていても救ってくれるからといって、わざわざ溺れる危険性のある急流のなかに身を投げ込む人と同じです。どうせ救ってくださるのだから、死にそうなら死にそうなほど、一番に救ってくださるなら、一番救いにくそうなところで溺れてみよう、と。こんなことをする人は馬鹿です。そうではありませんか。そこを間違ってはいけないのです。そこを間違う者は愚かです。知恵がたりないのです。
―― 親鸞様がおっしゃることが、よくわかりました。
14.現代のバベルの塔「唯物科学至上主義」は、邪神バールの化身
親鸞 ですから、あなた方の時代において、他力信仰ということをどうとらえるかは、むずかしいです。現代では、『南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)』を称(とな)えて救われるとは、だれも思わないでしょう。「阿弥陀仏」という方がどういう人かわからないでありましょう。しかしね、私は思うのです。今のあなた方は、昔にくらべて進歩をしているように思っているかもしれません。けれども、鎌倉の時代には、少なくとも、『南無阿弥陀仏』と称えられたらという素朴な宗教心を持った人びとがいたということです。
今の世の中で、神仏の力、神仏の加護(かご)というものを信じている人はどれだけいますか。世はもっと哀れな状態になっているのです。こうしたときに、本当の意味での神仏の加護を、神仏の力というものを知るきっかけとは何でしょう。
あなたは、すでに想像が働いてきたはずです。災害が起こり、天変地異が起こり、人知を越えた異常が起きたときになって初めて、人間は、「これは私たちの努力では、私たちの知識では、私たちの力では、どうにも救われない」と思い始めます。しかし、成功繁栄をしているときには、そうは考えないのです。
これからそういう時代がきます。今後十年、二十年のうちに、世界的な大混乱が起きてきます。さまざまな不幸や、災害が起きるでありましょう。不幸や災害は、それ自体としては、悪いことであります。ただそのなかで、人びとは神仏の力というものを信じることを始めるでありましょう。
現代の人びとは、ある意味において、「バベルの塔」を築こうとしているのです。人間が、自らの力を過信して、神に近づくとどうなるか。神が雲の上にいたとしたら、バベルの塔を築いて、もう神様と対等になった、と。「よし、神様と対等に話をしよう」と思っていると、一夜にして、雷が落ちて、バベルの塔は崩れていったのです。そして、人びとはお互いに異なった言葉を話し始めて、お互いの意志疎通(いしそつう)ができなくなっていったのです。これがバベルの塔の話であります。
これは旧約聖書にある話ですが、同じであります。現代においてもまた、人びとはバベルの塔を築こうとしています。現代のバベルの塔とは何か。すなわち、この世の中に不思議など何もないのだ、すべて科学で解明できるのだという思い、これが現代のバベルの塔なのです。
たとえば、子供というのは簡単だ、と。精子と卵子を試験管のなかで交配すれば子供ができるのだ。神秘でも何でもない。生まれてくる前に、男女の区別はすでにつく。産みわけもできる。神様を信じる時代ではなくなった。神様、男の子をください、女の子をくださいと祈る時代ではない。遺伝子の組替えでいろんな生物ができるようになったのだ、と。一方では、心霊現象などまったく否定して、そんなものはない、科学の領野の外にあるものは何もないのだと言う人もいるでしょう。四次元以上の世界といっても、そんなものはわからない。それは物理学だけが解明できるのだ。そう思っている人もいるでしょう。
こういう人びとは、日々にバベルの塔を築いているのです。魂の本質を知らず、霊を知らず、あの世のことも知らないで、自分らこそを最高だと思っておるのです。原始人たちは、素朴なシャーマニズムを信じる。だから、霊魂信仰があったと、これを嘲笑っておるのです。しかし、現代人たちは、ある意味において、南方未開の住民にも劣るのです。
これもまた、善人と悪人で話ができます。すなわち、現代人、文明人は善人、南方住民は悪人だ、と。そうとらえることもできるでしょう。南方住民たちは救われないと思っているのかもしれません。しかし、物質文明に恵まれている人だけが、救われるのでしょうか。幸せなのでしょうか。素朴なアフリカの原住民もおります。彼らは信仰を持っています。死後の世界があることを知っています。はっきりと知っているのです。つまり、現代のバベルの塔を築いている人は、それにも劣るのです。大学で五年、十年と学問をやって、教授とかいうものをやっている人が、霊魂も知らないのです。「あの世などあるはずがない」と言っている。インテリと称する人たちは、素朴な原住民にも敵(かな)わないような、そういうみじめな精神生活をしておるのです。
これもまた、親鸞が、"善人""悪人"であります。自らを善人だと思っている、あるいは、自らを知識人だと思っている人が、自分たちより無知だと見下し、同じ人間だと思えない、彼らが類人猿に近いと思っているような人よりも、真実は劣っているのです。素朴な彼らが天国へ行って、"大知識"だと自らを思っているような人が、地獄で苦しんでいるのです。
私は、日本を代表するような学者が、数多く地獄にいるのを知っています。彼らは、唯物思想に染まって、生きているときには、「霊なんてないのだ。神仏などあり得ない。科学が万能だ。技術こそが万能だ。すべては、人間の脳味噌で考えるのだ。脳細胞が考えるのだ」と、そんなことを信じていた。そして、そうしたことを、多くの人に教えてきました。科学者で唯物思想を一生懸命に学生に教え込んでいる人たち、こういう人たちは、ある意味において、かつての宗教家が邪宗を説いたのと同じなのです。すなわち、間違った説教において、人びとの魂を腐らしているのです。そういう意味において、間違った宗教家が地獄に堕ちているのと、間違った唯物思想を持って人びとを教導(きょうどう)している人たちが地獄に行くのとは、同じであります。行く先は同じく、無間(むけん)地獄であります。
霊的なものを知らない、神仏を知らないのは最大の罪なのだということがわかっていない。神仏を知らない人が、人を裁いている。最大の悪人が、ちっちゃな悪人を裁いているのです。「悪人正機説」は、ここにもまた、あるのです。未開だと思う人のほうが救われて、文明人だと思う人が救われていないのです。その素朴さを嘲笑う人たちこそが悟りに一番遠く、神仏に一番遠いのです。やがて、現代人がつくった"バベルの塔"は滅びていくでありましょう。現代文明の粋(すい)を集めたものが、崩壊していくでありましょう。
本書の読者の皆さんは、親鸞が今だに日本の仏教の枠のなかにあると思いきや。私は、現代のことを知っているのです。過日は、ソ連で、原子力発電所が事故を起こしました。これを偶然だと思っているのでしょうか。これもまた、"バベルの塔"が滅びていく前兆なのです。現代の科学の粋を集めている原子力発電の威信、これが一挙に崩れていきました。あるいは、アメリカで打ち上げた宇宙船が、一瞬ののちに、バラバラとなって天空で飛散してしまいました。これとて、前兆なのです。これから起きる大きな事件の前兆なのです。
人びとは、まずそれに気づかなくてはいけません。そうした大きな不幸が起きる前に、過去においても、さまざまな前兆があったのです。現代人たちは、その警鐘に気がつかねばなりません。自らが過信しているものが、どれだけ脆弱(ぜいじゃく)な基盤に立っておるのかということを知らねばならないときがきているのです。
かつて、バベルの塔のときに、異端の信仰がありました。これは唯物的な神でありました。このときの神は、"バールの神"という名の神でありました。邪神であります。このバールの神を人びとは信じました。バールの神を拝めば、何でもかんでも手に入る、と。こういう信仰が、昔、あったのです。唯物信仰です。形を換えた唯物信仰が、バールなのです。バールの神であったわけです。真実の神は、バールの神を雷でもって、退治をされました。現代もまた、バールの神がでているのです。唯物主義という、科学万能という名のバールの神です。
これが一つの信仰であることを、これが異端の信仰であることを、人びとは気がついていないのです。教科書に唯物論を採って、進化論を採って、霊魂などは、昔の人の笑い話だと書いておるような人は、やがて自分がどのような運命を辿(たど)るかということを、気づかねばならないと思います。現代でも、自分が優れた善人だと思っている人こそ、神に遠いということを忘れてはなりません。まだ何か質問があったら、続けてください。