目次
2.反省は呼吸法から
4.神と一体になる
5.正定の方法
1.心の平静は幸福への第一歩
「正定」にはきわめて難しい部分があります。というのは、この世界においては、方法論的確立と、その結果あるいは効果についての確認ということが十分にできていないからです。どういうふうに定に入ったら、どういうふうになるのかという部分が、各人の経験にまかされてしまって、十分追跡調査ができないからです。その意味で、きわめて難しい面があると思います。
なぜ、この正しく定に入るという項目があるのかということですが、これは結局これもひとつの幸福のための技法であるということなのです。
人間を不幸にする原因の一つは、心が波立つことです。心の安定ということは思いのほかだいじなことなのです。心が波立っていて、あるいは渦をつくっていて、幸福な人というのはいません。それゆえ、今あなたの心はどうなっていますか、と問われて、ひじょうに透明感があり、落ち着きがあるといえるならば、少なくとも幸福への第一歩は踏み出しているわけです。ところが、心境が上がったり下がったり、考えがあちらへいったり、こちらへいったり、揺れに揺れて夜も眠れない情況であれば、これは残念ながら、不幸といわれる現象になっているのです。
では、静まった水の如き心というものをつくっていく方法としてどういう方法があるかということですが、これについては「心の針」の話によって私は説いております。
人間の心というのは、ある意味で、ふりこのようなものです。そして心が乱れているというのは、ふりこのように、揺れて動いているということです。これをメトロノームのようにゆっくりと上のほうを動くようにしてやる必要があるのです。
それでは、そのためにどうするかということですが、今までは主として心の内の問題、念いの問題といった中身の問題について述べてきたわけですが、外側からも入っていこうとするのが、この「正定」なのです。そして、その技法によって、一定の心境というものを取り戻そうとするわけです。
2.反省は呼吸法から
具体的にいえば、まず呼吸から入るのが普通です。呼吸をととのえることによって心の波立ち、いらだちがおさまってくるのです。
これは悪霊の対策としてもまったく同じことが言えます。悪霊が来たときにどうしたらいいかということですが、いちばん効くのが呼吸法です。大きく空気を吸い込んで、呼吸をしばらく続けると、心のいらだちがなくなり、そして、心が平らかになっていきます。また、呼吸をしているうちに光が入ってくるのです。こういう不思議な現象がでてくるのです。
怒る前に呼吸をするという話もあります。カーッと怒る前に一呼吸すると怒りが治まってしまいます。手を振り上げたときに、「ハイ深呼吸」と言われたら、やはり怒れなくなります。こういう不思議な現象があり、これも一つの慈悲と考えることができます。呼吸によって心をととのえる方法が神から与えられているということです。
そして、この呼吸は、単に心をととのえるというだけではなく、さらに積極的な意味合いがあります。それは、呼吸によって心をととのえることが、天上界へと心の針を向けていくための、一つの誘導となっているということです。
みなさんのなかで反省ができない方、考えがまとまらない方がいらっしゃるでしょうが、そうした方は、おそらく呼吸も喉から肺ぐらいのあたりで出たり入ったりしているだろうと思います。呼吸をスウーッとおなかのほうまで降ろしてくることによって、いろいろなことが考えられるようになります。
ですから反省ができないときには、まず呼吸を深く下まで降ろしてみることです。この呼吸法を繰り返していくと、雑念が消えていきます。そうでなくても、いろいろな雑念が一日中、頭のなかを回っていると、それが頭のまわりに薄い膜のようなものをつくります。もちろん、悪霊が憑いている場合もありますが、この雑念を取る必要があるのです。そのために、この呼吸法というものがひじょうに有効な方法の一つなのです。
呼吸をすることによって、血液の循環への影響があり、酸素量が増えます。肉体的に言えば酸素の摂取量が増えることによって、体が活性化し、そして頭がしっかりしてくるということがあります。また、新鮮な空気を吸うことによって、頭がしっかりするのも同じことです。外的条件ではありますが、そういうものをととのえる必要があるのです。
3.天上界の光を受ける
呼吸法による精神統一の深さが、実は、どの次元まで意識を通じさせるかということと、きわめて深い関係があります。そして、精神統一の上手な方は、ごく短時間の呼吸法によって、心の統一を果たしていきます。
目に見えて落ち着いてくるのです。そしてかなり瞑想上手になってきますと、二呼吸か三呼吸ぐらいでもう完全に雑念を切れるようになっていきます。こういうことを、できればめざしていただきたいと思います。
ただ、呼吸法だけでこの精神の統一ができない場合もあります。それは、肉体疲労が極端な場合です。軽い肉体疲労程度であれば、呼吸をしているうちにだんだんと回復してきますが、極度の肉体疲労の場合には、それだけではちょっと無理になってきます。こういうときには、とりあえず、体を休める必要があります。まず体を休め、そのあとで呼吸法によって精神の統一を図っていくのがよいのです。
精神統一した結果はどうなるかということですが、これは天上界からの光を受けられるようになるということです。これはひじょうにはっきりしています。心が統一されたときに、光が入るのです。この光を受けることによってどうなるか、その人自身の人格が明るくなります。
みなさんは、その人の顔が、青ざめた顔をしていたり、不健康そうな顔をしている人と話をしているうちに、その人の顔がポッと赤くなるのを見たことがないでしょうか。私はたびたびそのような経験をしていますが、それはその瞬間に光が入っているのです。心のなかの悩みごとが溶け、そして明るい方向に心が向いて、いらだち、波立ちが止まったのです。そして、守護霊などが合図を送ってきているときです。そういうときには、パッと顔が明るくなります。そして、「ルンルン気分」といった言葉が使われますが、そのような気分に近づいていきます。
4.神と一体になる
次に、この「正定」の具体的方法ということに、入ってゆきたいと思います。
どうすれば、この「正定」に入れるのか、ということです。まず、その心がまえとして言っておきたいことは、これは限りなく神と一体になろうとする行為なのだということです。「正定」というのは自分独りが孤立している世界をめざすのではないということです。「正定」というのは、限りなく神と一体の境地をめざすことなのです。限りなく神と一体の境地をめざすということは、すなわち、如来の境地をめざしているのだということです。これが「正定」の目標としてあるものなのです。
「神と一体となる」ということを念頭に置いて、では具体的にはどうすればよいのかということです。これについて私は、座り方とか、手の合わせ方とか、あまり難しいことは言いたくありません。というのは、あまりに形を重視すると、そちらのほうにとらわれてしまって、中身のほうがおろそかになってくるからです。問題はやはり心の問題でありますから、形はその支えにすぎないのです。補助にすぎないので、その人にとって取りにくいような姿勢やスタイルを要求して、そのことばかりが気になってしまっては、元も子もないというわけです。
ですから、人によって多少の違いはあるでしょうが、背筋を伸ばすことぐらいだけは、言っておきたいと思います。あとは、呼吸がスーッと落ちてくるような姿勢です。呼吸が、吸い込めばスーッとごく楽におなかに降りてきて、また自然に出ていくような姿勢です。足のほうは、正座ももちろんいいのですが、長く持たないのであればアグラをかかれてもいいし、女性の方は、横に足を出されてもけっこうです。ただ猫背のような格好では、精神統一がひじょうにやりにくいということだけは、いっておきたいと思います。
手の形については、これはいく通りも流派があり、それぞれ意味があります。いちばんポピュラーなのは、やはり合掌のスタイルです。合掌のスタイルというのは、アンテナの形でもありますが、ひじょうに霊が感応してきやすいスタイルなのです。というのは手からもかなりの、霊的な光が出ているのです。手というのは、ひじょうに霊的な光が出てくるところで、手当といって、手を当てて病気を治したりしますけれども、特に右手のほうが強く、霊流が出るところがあるのです。手は霊的な電気がいつも出ているところなのです。
したがって、合掌することによって、ここに一つの磁場ができるのです。合掌して手を上に向けることによって、放送電波を出しているのと同じになるのです。これによってひとつの誘い水が出てくるので、この誘い水に感応してくるわけです。これがもっともポピュラーなスタイルです。
この手の位置はどうするか、これも流派によって違います。ロのところまで上げるところもありますが、これの難点は長持ちしないということです。あまり長続きしないという難点があると思いますので、私はやはり胸の前で十分だろうと思います。
これは降霊、あるいは霊との交流を中心とするやり方ですが、単なる反省だけであるならば、手をあげているということも、少し難点があると思います。やはり、手があがっているということに、意識が行ってしまいますから、十分に考えが進まないのです。そういう場合には、これ以外の方法として、反省の場合には、この合掌は解いていただいてもけっこうです。合掌を解いて、そして膝の上に軽く置くという形でもいいでしょう。ヨガをやっている人などには掌を上にする人もいますが、ふつうの人はあまり上にすると、集中しなくなってしまうこともありますから、下にしてもけっこうです。いずれにしてもあまり無理しない形でいいと思います。
結局は、自分が精神の統一をしやすいスタイルを作るということです。ほんとうは形はないのです。寝ていても、逆立ちしていても、ほんとうはいいのです。おふろのなかでもいいのです。ただ、やはり外見をととのえないと、なかなかそういう気待ちになれないということもあるので、形によってひとつの仕切りをつくるわけです。日常性から遊離したという仕切りを作るために、そういう方法を取るわけです。
5.正定の方法
そこで、「正定」の具体的方法ですが、まず心の波長をととのえる必要があるので、深い深呼吸をし、そのあとで、できれば『正心法語』の朗読をしてほしいと思います。これは10分ぐらいあれば十分でしょう。そして、反省をするのならばこのあと、反省に入っていきます。本書で具体的に述べた、八正道の八つの項目についての反省に入っていくのです。
また、祈りをする場合には『祈願文』、あるいはイエス・キリスト霊示集の『祈りの言葉』を使って、祈りに入っていかれたらよろしいと思います。
この時間の取り方は、もちろん人によって違うでしょう。あまり長時間では、逆にまた効果も薄くなってしまいます。一回限りになってしまってはいけませんので、時間はその人のスケジュールに合わせて決めればいいのです。きわめて忙しい人であれば、多くの時間をとることは難しいと思いますので、習慣として無理なく続けられるぐらいの時間帯にされたらよいと思います。15分から30分でもけっこうです。一日に一回ぐらいは精神統一の時間がとれたらいいということです。
最初に『正心法語』を朗読するということを述べましたが、なぜかというと、『正心法語』は言魂でできているため、ひじょうに光の波動が強いからです。『正心法語』のなかの言葉全部がそうなのです。同じ日本語でありますが、言葉の響きと配列によって、光のリズムが出てきます。ちょうど和音のようなもので、その言葉の配列によって、一定の信号になり、天上界への合図がでているのです。『正心法語』を読んでいる人を霊視すると、ロから光の玉が出ていっている姿が明らかに見えます。
このような『正心法語』を読むことによって、ある程度の悪霊などを遠ざけるという効果がありますし、邪念・雑念を取り払うという効果があります。そうしたものを取っておいてから、精神統一したほうがやはりいいのです。悪霊などがついたままで精神統一に入ると、ひじょうに危険な面があります。
とりあえず習慣としては、『正心法語』を読んでから精神統一に入るようにしたらいいと思います。あの『正心法語―神理の言葉』というのは、ご存じかと思いますが、仏陀の生命体の言葉であります。その光エネルギーを、『正心法語』を読むことによって、引いてくることになり、力が出てくるのです。00000にはいろいろな数えがありますが、やはり中心にあるのは、この仏数的精神です。それが根本にあるので、『正心法語』を読むということによって、仏数的精神に光の回路ができてくるという意味合いがあります。
反省の項目や内容はあまり欲張らずに一つ一つかたづけていくことです。「正語」なら「正語」、「正見」なら「正見」、そして事柄を限っていく。とりあえず、自分がいちばん悩んだ時期とか、事件に光をあてて反省していくことです。欲張りすぎて、けっきょくは何もやらないよりは、少しずっでも、やったほうがはるかによいのです。
『正心法語』から精神統一に入るという話に補足いたしますと、ひじょうに体調の悪い方、明らかに霊障になっていると思われる方、妄想が湧いて湧いて霊が働きかけてしようがないようなタイプの方、こうした方にとってはこの方法は少し危険です。このタイプの方に勧められるのは、精神統一ではなくて、むしろテープを聴いたり、あるいは神理の本を読むような仕事です。こうしたことのほうに力をさいていただいて、もうすこし、状態がよくなってから精神統一をしていただきたいと思います。
あまり、霊現象が多く起きてきはじめた場合には、精神統一はちょっとストップしてください。霊現象を喜んでいたりするのは間違いです。自分の心の状況を見て、そんなにいい状況でもないのに霊現象が起きてきたときは、少しストップしたほうがいいと思います。勇気を持ってストップさせてください。