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目次















私の住居は郊外の瀟洒な一戸建ての住宅


私は今もうワンピースを着たり、そういう今の若い女性が着ているようなもの着ているのですよ、ワンピースを着て、髪もカットし非常にモダンな女性になっているのですよ。私の住んでいる家もやはりもう現代風のちゃんとした家でございます。一戸前の家に住んでおります。

段々この地上界の生活というものに見合わせて霊界の方も変っておりまして、私の家の中には台所ですね、キッチソもあれば、応接間もあるし、寝室もあるし、居間もあるし、お客様や友達が遊びに見えられたら応接間にお通ししてお話することもあるし、音楽を聴くこともあるし、キッチソで手料理を造ることもありますし、こんな畳の居間で編物をすることもあります。けど、主としてやっぱり本を書いたり、仲間同士で本を書いたり、また書いたものを回覧したり、そういうことを日頃しております。私の住んで居る家は瀟酒(しょうしゃ)な木造の一戸前の家です。

そうですね、一戸建ての何といいますか可愛いお家(うち)があって、庭があります。庭があって、白い柵、低い柵ですけれども――してあって、花を栽培するのが私の楽しみです。そして前を歩いて行くと道路になっていて、向いにも似たような造りの家がありますし、暫く歩いて行くとそこにもあるという感じです。緑が多いです。草花が一杯咲き乱れています。やはり春のような感じです。

季節はいつも春みたいな季節です。美しい花はやはり素晴しい香りを漂わしております。音楽というのもあります。私どもも時折音楽を聴きに行きますし、友達と音楽の話をしたり、でもステレオもあるんですよ、はい、ステレオというのもあるんですよ、こちらの世界にも・・・・・。

テレビもあるんです。霊界放送しています。霊界で起きた事件とか、今度こういう本が出たとか、或いは霊界劇とか、こういうものを放送しています。例えば、霊界で今日はどこそこの誰がどういうことに遭遇してどうなったとかいうような事件、或いは、例えばですね、お釈迦様の時のですね、お釈迦様の劇とかですね、そういう日蓮様、日蓮さまのまあ時代劇ですね、そういうものを放送したり、或いは霊界の現在のこと、或いは霊界での政治のこと、そういうもの、或いは文化、文化座談会、そういうものをテレビで放送しております。

飛行機は私のところでは飛んでいませんが別のところでは飛んでいるようです。

友達の処へ行くときなんかはやはりキレイな新車に乗って行くと、格好いいと中しますか、非常に感じがいいんですね。歩いて行くよりかは車に乗って行った方がいいし、私もワンピースを着てハイヒールを履いているレディでございますので、歩いて、田舎道を歩いて行くというのは埃(ほこり)っぽくて、ちょっと堪えられないこともあるのです。

きのうも私、新しい黒のハイヒールを買って来たところなんです。お店もありますし、お店へ買いに行くんです。そうすると、やはり私どもは、ちょっと田舎の方に住んでいて、それぞれいい住宅街に住んで、いい一戸建の家に住んでいて花を作ったりしているんですけれども、街の方へ出て行きますと、やはり繁華街がありまして靴が買いたければ靴も売っているし、テレビが欲しければテレビも売っているんです。


こちらの世界で通用するお金とは


お金はいらないのですね、ハイヒールが欲しいなと思えばハイヒールを呉れるのです。くれて有難いなと念うと、それがお金なんでしょうか、向うの店の方というのは、ハイヒールを私に売って下さるのですが、ハイヒール相応の有難いな、という気持を持つとそれで満足されるのです。

ハイヒールを買う時はハイヒールに対する分の感謝をすると、向うは悦ぶし、ハイヒールを買うよりはテレビの方が高いですから、テレビを買う時はテレビ代だけの感謝の念を置いてくると喜んでくれるのです。
最近来られる方々というのは、今あなた方の世界にあるスーパーとかですね、そんなものをつくっておられて非常に便利になっています。大きな百貨店のようなものも造っていますし、そこへ行けば何でもあるんです。いい服が欲しいなと思えばありますし、望みどおりのものがみつかる、というのがこちらの世界のいいところなのですね。

私が前の日に、明日は紫色のワンピースが欲しいなと思って、次の日に出かけて行くと、思った通りのものがあるんですね。で、お店の人に聞くと、いや、きのうなんか紫色のワンピースが欲しいなと思うようになって仕入れて来たところだと、仰るのですね。そういうふうに欲しいものが手に入るということです。

八百屋さんもあれば、魚屋さんもあります。魚を買う時は魚一尾分だけの感謝の念を置いてくれば悦んでくれるのです。感謝の念が彼らの蓄えになって、彼らがこんどは何かを購いに行くときは、その感謝の念を、出せばまた何かを貰えるということになっています。


こちらにも文壇あり、霊界雑誌、テレビのシナリオも書いている


私たちもやはり似た様な人に、時折いいインスピレーションを与えたりすることはしています。そういう活動があるのです。週に一回ぐらいはそういう奉仕の時間というのがありまして、奉仕の時間という時に私達集まりまして、三次元の地上の方に、作家なら作家の方に、どういうふうにやっているかなあというか、大きな大映しのスクリーンの様な、テレビのようなものに映るんです。あ、此処で何とかいう人が今小説書いているなあというのが映って、で、この題材私に向いているわと思うと、奉仕の時間に、その方にいいインスピレーションを与えたり、いい構想を与えたりするんです。そういう奉仕の時間というものが、週に一回くらいあるのです。

やはり毎日幸せな生活をするという、自分の才能を生かして生きるということ、それと奉仕の時間には時々、いい奉仕をさせて頂くという、こういう生活でございます。


霊界文学と、地上文学との違いについて


私はね、元居たところに還って来たのであって、私の元居た家には標札だって懸かっていたんです。もちろんその家も改装して新しいものに変えておりますけれども、帰って来た時には、ちゃんと私の家には標札が懸かっておりました。帰るべき家があり、家族達、古くから一緒に住んでいた人達も居たんです。大きな家にはね、今は私は、もう核家族の時代ですから、ええ、独りで親元から離れて住んでいるわけですけど。

この霊界というもの、広い意味での霊界というものは、決してあなた方の現象世界の進度に合わしたものでなければいけないというものではないのです。あなた方にとっては今であっても、霊界においては平安時代もあれば、鎌倉時代もあるのです。
私達の世界というものは、過去も未来も一緒くたに入っているのです。ですから、それぞれの人が、それぞれの意識に合わせた処に住んでいるのです。私は丁度、あなた方が現在居られるような時代に合わせたぐらいが自分の住家としたらいいと思うので、それに合わしているだけなのです。ですから平安時代がいいと思う人は平安時代に生きているのです。


源氏物語」を書いたのは竹の簀子、霊界では念で印刷製本


私の住んでいる「邑(むら)」といいますか、ちょっとした町ですけれども、それは文学者の町というところで、ちょっとした郊外のような所なんですけれども、そこにはいろんな作家達、時代を超えてですね、まあ外国の方もいらっしゃいます。そういった方々がいま一つの町を作っています。そこで書き物をしてはね、お互いにサークルを作っていますから、いろいろと私達でも会が分かれるのですけれども、趣味の合う者同士が集まっては、小説を書いたり、いろんなものを書いて、雑誌を作って回覧したり、いろいろしているわけです。

印刷機はありませんが、印刷なさる方がいらっしゃいます。その方は何といいますか、機械を使って印刷するわけではないですね。そういった「念」でもって印刷をするのが得意な方が居るわけです。

ですから私は書き物をした。書き物といってもこれはあくまでも、肉の眼で分かるような形での表現ですけれども、勿論原稿用紙のようなものはあるわけです。それに書くわけですね、それで一冊の書物が出来ちゃう。そうすると、その印刷をされる人の所へ持って行って『これ書物にして下さい―。』と言うと『わかりました。』という形でその方は、自分の仕事部屋へ行かれるのです。仕事部屋で原稿用紙を積み上げられて、それを何て云うんですかね、念ずるわけですね、――これをニ冊の本にしたい――という感じで念を集中するわけです。何分ぐらいでしょうか、二、三分でしょうか、二、三分ぐらいその人が原稿用紙を積んで、――〈これが書物になりますように〉と、念ずると、なぜか机の左側には、出来上った書物が来ているという、こんな形なんですね。で、前にもお話したように思いますが、私達の世界は″念″で出来ている世界です。その念で出来ている世界ですけれども、やはり得意、不得意というものがあるのです。

例えば、私は頭でものを考えて、物語りとかそういうものを作るのが得意なんですね。ところが、そういった本を作ったりするのは、私には出来ません。そういった能力持っていないのです。ですからそういったことの得意な方が、またいらっしゃるのですね。ですからそういった原稿用紙を「念」でもって本に造り変える。そういった転換ですね、原稿用紙に書かれた文章、物語りというものも、一つのこれは念の集積でありますけれども、これを、別の書物というものに置き換える。これは念の転換ですね、こういった方が居るんです。

けれども、彼が出来るのは、その原稿用紙の束を書物に換える、こういった仕事だけなんです。彼はそこまでなんです。その出来上った書物を又、違う人の所へ持っていくわけです。又、専門家が居るんです。この方は、それを複製する専門家なんです。よろしいですか、その方はその、例えば自分の仕事部屋、片方には倉庫みたいなのがあるのですけれども、そこでその出来上った私の本ですね、例えば何でもいいですよ、『紫式部愛の生涯』という題をつけたとしましょう―紫式部愛の生涯―というので、私の出合った男性の中で、愛した男達の話を書いたとしましょう。この本が一冊、その男のところへ持って来られます。そうするとその男はまた、一生懸命、これを、たとえばね、あなた方は書物を出されているそうですが、これを一万部造ろうと、まあそんなにグループの人口居ませんから、本当は百部ぐらいですけども、百部なら―百部造ろう―と、こう念ずるわけですね。そうすると右側の方に、机の右側にドドド、と、百冊の本の山が出来上っちゃうわけです。山がね、で、出来上った本をまとめてこれを又、出すわけですね、そうすると、またこれを配達する方がいらっしゃるわけです。またその配達する方は、配達専門で、私達の住んでいる町のこの本が欲しい人がリスト・アップされていて注文が来ているわけです。そこへ届けます。こういった役割分担になっているのです。

これは私が現在居る私達の世界であってこれが総てでばないわけですね、私は人霊と、神霊があると申し上げました。私達は一応神の世界に分類される世界に居ります。けれども私などはまだまだ下の方でございます。もっともっと上の方が沢山おられます。その世界のことについては私は存じません。むしろあなた方の方がご存知のはずです。私が語れるのは私が住んでいるあたりの風景、世界のことだけであります。



生まれ変わりのメカニズムと私の失敗


今はね、今はこの日本国というのは人工流産というのが非常に流行っていますわね、私も母胎に宿ったことがあるんですけれども堕胎されてしまったんです。

意識が一旦消えてしまいます。ただ私の場合は地上に出てくる、つまり、人間として生まれて死んだわけではありません。人間として生まれて死んだ場合はね、非常に長年かかって霊界でも大人になっていくのです。いろんな守護霊、指導霊に教わってね、けれども私は母胎の中で、流産しましたので、ですから戻ってきた意識は紫式部の意識です。そのものです。すぐ大人です。子供ではないのです。要するにあなた方の世界の空気を一口でも吸うと、もうあの世の人間になってしまうのです。私達からみればあの世の人間として生まれたということなんです。籍が別になってしまうのです。

ですから一旦地上に出て直ぐ還って来たものはまだ赤ん坊のままですね、霊として、それで身内の者とか、いろんなものが大きくなるまで育てることになるわけです。ところが、私みたいに人工流産、堕胎された場合には、直ぐ元の世界に還って来るわけですね。で、この場合に言って置かなければならないことは、いま日本の国では流産、人口流産、といいますか堕胎というのが流行っております。これ非常に迷惑です。―私達の世界にとっては迷惑です。みんな困っています。一年に何百人もの方が堕胎されています。こういうことをされると私達は予定がつかなくなるのです。この地上で魂の修行しようとして生まれて来ようとするんですけれども、予定に反して堕胎されてしまうと狂ってしまうわけですね、大変困ってしまいますし、また苦痛でもあります。

私達の考えと、地上界の両親となるべき人の考えが一致してはじめて、私達は地上に生命を享けて生まれることができるのです。

ですからいま避妊ですね、避妊はまだいいでしょうが、人工流産というの、堕胎というのは、これはどうか止めて頂きたいのです。私のように計画が狂った者もおります。困るんです。
これは霊的な進化においては、マイナスは甚しいものです。大変なマイナスです。無駄になっちゃうのです、何十年もの年月が。

一説によりますと、生後七才ぐらいまでの間に他界した者は例外なく高級霊だと云われていますが、それは間違っております。そういったことはありません。七才までではどのような人生修行をすることもできません。それで高級霊のはずはありません。

高級霊というのはどういった段階の方を指されているのかは知りませんが、すくなくとも私達よりも上の階に居られる方を高級霊というふうに称んでいいとするならば、彼らは無駄足を踏むということはありません。彼らはそれぞれ使命を持って生まれて来ています。勿論幼くして死ぬことはあります。それはたまたま生まれて来た両親の肉体、母体が十分強くなかったために、子供としても肉体的に成熟することができなくて死んでしまう場合とか、あるいは不幸にして病気にかかる場合、こういったことで残念ながら還ってくる人もいますが、高級霊は少ないということです。

高級霊になる程ですね―あなた方は生まれてくる前に、予定とか、計画とかいうことを聴いたことがあると思います。高級霊になる程予定とか、計画とかいうものがはっきりしているんです。彼らははっきりしています。私らの段階になると、まあある程度は目的は絞れますが、そういう全体の人生計画というのはむつかしくなって来ます。大まかなことは分かります。たとえばどういったところに生まれて、こういうことを職業として、こういう人とめぐり合って生きたいと、こういったことは或る程度計画はつきます。けれども、もっと下の世界に行くと、段々分らなくなってくるのです。霊界の下段階から幽界ぐらいの方になってくると、どこの地域に生まれる。どういった家庭に生まれる。これだけの選択しかできない方々も居るんです。これ以外の後はどうなるか分らないのです。こういった方々、幽界の方とか、雲界下段階の方の生まれ変わりの場合には、自分の両親を選ぶという段階では選択ができるのです。これも運命といえば運命です。そうでしよう。そこまではできるんですが、その後の人生がどうなるかは、彼らには絶対分かりません。

私ぐらいの階層に居る者は、生まれ変わる時に勿論両親は選びます。そしてどういう環境かよく見定めます。そしてこういう職業を、例えば私であるならば、小説家か、文筆家になりたい。こういうことを考えます。そしてたとえば、こういう人とめぐり合って、こういう一生を送りたいという計画を立てます。これはその通りには必ずしもいきません。七割ぐらいです。七、ハ割は大体予想通りの生涯を送ることができます。

私の上の方々になると、もっと計画が精密になってきます。ほとんど狂いがなくなってくるのです。例えばあなたのような魂の方であるならば、仏法の伝道ということ、これを果たさずして還るということは、まあほとんど九九パーセントはあり得ないことなのです。必ず果たされるのです。ただその果たし方が、いろいろと変ってくるのです。あなたの個人の努力によって、あるいは環境の変化によって――ただあなたの目的と結果自体は、恐らく九九パーセント成就されることになるのです。ただ、その質とか、巾とか、そういったものが個人によって味付け、色つけが違ってくるんです。如来界の方になりますと、もうほとんど当たり外ずれはありません。ほぼ百パーセント予定通りになって来ます。

それで、霊界下段階、或いは、幽界でもまあ上の方の精霊界といいますか、或る程度悟った方々は、両親を選んで生まれ変ってくる。或る程度の環境を定めて来ますが、もっと下になって幽界の段階ですね、何とか死んだということが分かったぐらいのレペルの魂、こういった魂はまた、この地上界の波動に引き寄せられて生まれ変ってくるんですが、このような場合は、両親さえ選ぶことができない人も居るんです。要するに自分の持っている波動に近いところに生まれてくるんですね。たとえば、自分が生前お酒が非常に好きだったとすると、そのお酒の臭いというのが忘れられないのです。そうするとお酒の臭いが漂っているような家ですね、こういった家庭になぜかスーウッと引寄せられていくのです。両親の名前も何も知りません。

お酒ということに引かれて生まれてくる霊があるのです。よろしいですか。また生前、お金に対してものすごく執着を授っていた霊があります。この人は死んでまあ、地獄に堕ちたとしましょう。或る程度心の垢を落として幽界の下段階まで上って来ました。この方がまたお金のジャリ、ジャリという音に引かれて生まれ変ってくることがあるのです。これはお金持ちのところだけをねらって生まれ変ってくるのですね、その波動に引かれるんです。けど両親の名前も何も知りません。ただ生まれていくだけです。

そして、下段階に居る人は、往々にして生まれ変わる時期、周期(サイクル)が早くなることがあります。なぜなら、地上に近いところに居るため、地上の波動に引かれ易いのです。共鳴し易いのです。波動が共鳴すると、直ぐ生まれ変わっていくのです。こういうふうに今あなた方は、指導霊達から―人生というのは目的計画があって予定通り進むんだ―、ということをいろいろ教わっているでしょうが、それは高次な方ほどそうであって、その目的、計画も段々に下に行く程、不明確、不正確になってくるのだと、いうことなのです。

私などは、或る程度こういった理性的に物事を考えるタイプですので、生まれ変わる時は、もう自分の意志で決めるわけですね。

これは役場みたいなところがあるんですね。《生まれ変わり局》みたいな所があるんです。ここへ申請するんです。番号とりましてね、たとえば一年ぐらい前から申請するんですね、何年何月頃に生まれ変わりたいと、所は、日本のこういうところであると、希望両親先としてはここであると、この方々を第一希望にします。ここがうまくいかない場合は、第二希望としてここを希望します。こういうふうに希望を出します。そして生まれていったら、こういう職業につきたいとか、いろいろそういったいわゆる「志望票」ですね、志望カード、こういったものを出すんです。それでその役所で、それが整理されまして、分類されるんですね。で、第一志望通りいく時もあるし、第一志望の両親を他の方に取られる場合もあるわけです。そうすると第二志望の両親で諦めるとか、或いは第三志望であるともう生まれ変わりたくないと思うと届を願い下げをして諦めるとか、また別の機会を待つ、こういうことをするわけです。

その役所の中には、この地上にあるコンピューターも入っておりまして、そういったものもちゃんと分類されています。ですから私のような現代的な意識を授っている人間にとっては、そういった役所のような《生まれ変わり局》みたいなのがあって、コンピューターで情報処理をして、それでデータに基づいて生まれ先を決めるんですが、こういった意識を持っていない方、また古い時代の意識でおられる方には、そういう方には、そういった古式ゆかしい″生まれ変わりの池″とかですね、そういったものが用意されていて、あくまでもその意識に応じた世界が現ずるというのが私達の世界なのです。


"水子霊゛と幼児死霊との区別


″水子供養″に関して私の意見を申しますと、まず、水子というか、地上に生まれる前に亡くなった、生命を失った方々が地獄に堕ちるというようなことはありません。なぜなら地獄に堕ちるかどうかということは、この地上に生まれて修行した時の、心の状態によって決まるからです。ですからこの地上、或いは私達から言えばあの世です。あの世の空気を一呼吸も吸い込んでいない方々は、地獄に堕ちることはないということです。

ですからすべて天国に還って来ます。ただそういったことでね、挫折をした経験を得るわけです。すべての霊が挫折するわけです。しかしご両親達は気付いていません。自分達がそういうことをしたということの本当の意味には気付いていません。だけど挫折したことは確かです。そういう意味において、肉体的な傷は残らなくとも、心の傷は残るのです。ですから両親達が、自分達が悪いことをしたということを念じてくれることによって、その心の傷は癒えることはあります。地獄に堕ちることはありません。ですから私にしても、私が選んだ両親は、宗教的な心を待っていた方々ですから、経済的な理由によって堕胎ということをされたわけですけれど、私に対する後悔、お詫びの念というものをずい分送って来られました。それによって、心の傷は癒えるということはあるわけです。

ですから″水子供養″というものは、必ずしも意味があるものではありませんが、しかし、この世に生まれて来ようと、あくまでも計画した霊達であることは確かです。彼らが出て来れないということは、やはり残念なことではあります。それに対する気持、思いやりというものはあってもいいのではないでしょうか。

未熟児であったためにこの世の環境に湛えられずに死んだ様な幼児がおりますけれども、こういう幼児の霊というものはすくなくとも、地獄に行くケースは非常に少ないと思います。やはり天上界に還ってくると思いますが、そういった霊達は、本当はたとえば、そういった子供で死んでも、私達の世界に還って来てもやはり赤ん坊です。赤ん坊で段々大きくなるわけですけれども、また魂の修行があるわけです。老人となって死ぬと、死んだ時に老人の意識で私遠の世界に還ってくるわけですね、そうですね、一生のことを総決算して―ところが、子供時代で死ぬというような経験、何かのカルマの具合で子供時代で死ぬという経験を積む必要がある霊も居るんです。そういったことのために比較的早く死ぬという場合があるわけです。雲界の人口構成ということからしますと、死んで還える方がみんな年寄ばかりでも困るんです。少なくとも、霊界の下段階、幽界においては死んだ時の意識をそのままで持ってくる方が多いのですから年寄で死ぬと、もう年寄ばかりになってしまいます。ですから若くして死ぬ人、子供で死ぬ人、病気で死ぬ人も居ます。事故や怪我で死ぬ人もあります。けど、そういった方々も要るのです。私達の世界に帰って来て家族で住んだり、いろんな修行するんですが、そういう時に子供もいるんです。子供が居たり妻が居たり妹が居たりしてはじめて世界が成り立っているんです。

義務があるわけではありませんが、自ら好んでそういったことをしていろ人があります。やはりその人、その人に適した修行の場というのが与えられているのです。まあ義務というよりは、どちらかというと、自分を自分が学ぶための勉強課題なのですね、義務ではないのです。義務という考えは間違っています。ただ、そういうことを経験していないので、経験してみたいと思う人がするということです。しかし、興味もなにもない人も居るんです。それはそれでいいんです。


男女は別居、たまには同居もある


女性も男性もそれぞれ町の中には住んでいますが、それぞれの自分の家を持っていることが多いです。独りで住んでいる人が多いです。

アパートというようなものはないです。私らの世界は、人口難でも、人口が多過ぎるということもなくて、それぞれが持ち家ですわ、独りひとりの家を持っています。ですがたまにはね、私達の世界に来ても非常に仲のいいカップルというのがあるわけです。そういった方々は同じ垣根の下に住むこともあります。

そういう場合は稀です。夫婦でこちらへ来ても夫婦というのも稀なケースだと思います。ただ私達の世界でもね、こちらで波長が合って、たとえば私は小説を書いたりしていますが、文学的な意見が一致するので、近くに居ていろいろ話をしたいというような場合に近くに来られるわけですが、一緒に住むこともあります。けれどもあなた方の世界のような、夫婦というようなそういったものがあるわけではありません。一緒に棲むことはあります。ただそれに対してですね、人々の評価は様々です。羨しいと思う人も居ますが、そういったことは恥ずかしいと思う人も居るんです。どちらかというと恥ずかしいと思う人が多いのです。恥ずかしいというのは、あまりにも地上的な感じがするんですね、私達の世界においては、地上的であるということは恥ずかしいということですね。あまり神の方に近くない地上的な行為だ、ということで恥すかしいと思うことが多いのです。ただ自分もああいう経験をしてみたいなと思う方は、いいな、羨しいなと思う方も居ます。

同じ屋根の下で住居を一つにするということについての許可は要りません。ただ一緒に住んでいましてね、それで何か古い魂の飛跡が出て来まして、それで昔の欲情とかそういったものが芽生えてくると、段々不調和な雰囲気をつくっていって、私達の世界に居られなくなってきます。もっと彼らにとって自由な世界、私達からみれば下の世界へと降って行く霊もあるのです。

漸く私達の神界の世界まで来たのだけれど、そこでもやはり男女の愛が忘れられなくて、一緒に棲むようになる。一緒に棲みながら神様の世界に居れないような、地上的なことをしたくなってくる。そうするとやはり、下の世界へと自ら選んで降りていく人達も居るのです。


生まれ変わりには勇気と決意が要る


世の中がずいぶん変って来ました。そして今、日本の国を中心として新しい文化文明が出来上がるという話を聴いています。ですから私もそういった文化や芸術が花開く中において、又、自分の才能を、もう一度生かしてみたいなということを思ったということです。新たな文学みたいなのを書いてみたいなと思っておりました。ちょっと計画が挫折しましたので、いま暫くは私も、いわば心の傷があるわけですから、それが癒えるまではじっとしているつもりでいます。

地上に生まれるということは、或る程度、決意がいります。地上を去ってもう千年も経っております。この世界を離れてもう一回ね、遥かなる異世界へ行くということなのです。あなた方の世界でいうなら例えば宇宙飛行というのがあります。譬えて言えば、宇宙飛行士になるということなんですね、私達の世界からあなた方の世界へ生まれていくということは宇宙飛行士に選ばれて行く場合は、まあ確かにロマンはありますが危険があります。どんなふうになるか分らないのです。自分が今居る世界に還って来れるかどうか、分からないんです。地獄に堕ちるかも分からないのです。危険が一杯です。それと同んなじで、生まれ変わるということは、夢もありロマンもあるのですが、逆に危険もずいぶんあるんです。ですからそれだけの決意をして届出をして、そして暗い世界ですね、母胎の中というのは暗いです。その洞窟の中みたいな暗いじめじめとした世界でね、ハか月も、十か月もじっと我慢するわけです。じっとね、霊達は窒息しかかっています。これを生まれ変わってくるための苦痛として我慢しているのです。これだけの努力をしてね、それが報いられなくて、出て行けないということはこれは挫折ですわ、苦痛でしかありませんわ。

紫式部としての意識ですか、それはもう宿る時になくなります。暗い洞窟みたいな中に入って、躯(からだ)を屈めてですね、心悸(しんき)を抑え、ただ待っているというような状態ですね。そうして元に戻った場合には、ああしくじった、と思うわけです。

ですから皆嫌がるのです。偉い方ほどね、そう出て来なくなるのです。みんな嫌ですから、そんな経験が不愉快ですからね。


"先祖供養゛の是非とその正しい措置について


″先祖供養″ということについて、すくなくとも地獄に居られない人にとっては、お墓参りとか言うことは特に意味があるわけではありません。供養するということは、意味があることではありません。ただ、先祖達、父母達も、やはり時折りは、自分達の子供のことは気に掛かるわけです。ですから、たまには懐(おも)い出して欲しいと念う気持はあるわけです。だからあなたにしてもそうでしょう。もしあなたがこの世を去って自分の世界に還られたとしても、ときたまは自分の子供のことは気になるでしょう。で、気になって、勿論あなたは見に来ることはできるのですけれども、子供達、お子様達にもあなたのことを、時々は想い出して欲しいという気持はあるでしょう。ですから人間として当然ですね。まあ盆、暮、には挨拶するようなもので、里帰りの時もありますし、その意味で神社仏閣にお脂りしたり、或いはお墓参りをしたり、お仏壇にお供え物をしたりすることは無意味とは言いません。

霊能を持っておられる人は勿論念が届きますが、それ以外の場合には、両者の念が一致した時には届くということです。たとえばそのためにお盆とかがあるわけなんです。お盆というものは、生きている者は死者のことを懐い出す、時々思っていますね、で、死者の方もですね、お盆になると自分達のことを供養してくれることを知っているわけです。ですから両者が念い合わせるとそこに意志が疏通するのです。そういうことなのです。ですからそういう盆暮れとか、特定の日というのは大切なのです。

何回忌とかに回向するということは、まあ悪いことではありませんし、地上を去った方が、そういうことを記憶に持っておられるのであれば、勿論有効です。ただ、死んですぐそんな日付など忘れておられる方にとっては意味のないことですね、向うの方も地上の者達がそういうことをやっているということを知っていて、地上の方々も、向うの方のことを想い出したいと思っている時には波長が一致して相互の気持は通じ合います。ただ自分は生きていると思っている人にとっては、もう子孫がお仏壇にお供物をしたり回向をしたりするということは、もう無理ですね。死んだと思っていないのですから。死んだと思っていないということは、自分を供養している人は居ないと思っていることなのです。ということは″念い″が届かないということなのです。

ただ地獄へ行かれる方が居ますね、そういった方にとってこんどは供養が有効かどうかという問題になります。

これは功罪の両方の面があります。功の面としては、死んでいることがまだ分っていない方々にとって、子孫のこと考える以外にないのですね、縋(すが)るものとしては。だから子孫のことをいつも懐っているわけです。で、子孫が彼らを供養すると、そこで念が一致するわけです。そこで救いの梯子(はしご)が成立するわけです…。念が伝わっていくわけです。それで、子孫達が、本当に神の子としての調和された生活を送っておれば、その救いの念波によって、ご先祖達、その浮かばれないご先祖達も救われていくのです。

――ところが、子孫達が形式上は供養はするけれども、心が神の子としての波長に合っていない場合、これはどうなるかです。これは悲惨なことになってくるのです。先祖達が憑依(ひょうい)してくるというのは、ほとんどこういうケースなのです。先祖で苦しんでいる方達は何んとかして暗い穴から抜け出したいと思っています。そこに子孫達が供養をしたり、三回忌をしたりすると、これは暗い穴の上から梯子が下りてくるようなものなのです。そうすると梯子が下りて来たというので、もう懸命になってこの梯子を駈け登っているんですね。駈け登って行って引っ張っているんです。梯子をね、ところがこれが実は″憑依〃という現象になっているんです。そして子孫達は、これに憑依(とりつ)かれたという形になって苦しんでいるんです。

ところが地獄霊達は、分らないんですね、自分ら真暗なところに居て梯子が下りて来たもんだから、これ幸いに掴んだものを放さないと、一生懸命梯子を登っているんです。こういう状態なんです。ところが生きている者はたまりません。ぐいぐい、ぐいぐい下の方から引っ張られるもんですから、身体の具合は悪くはなるわ、事業は失敗し倒産するわ、そういったことが次ぎつぎ起きてくるわけです。

ですから先程、供養というものも生きている人間が、あくまでも神の子としての調和された心を持っていてはじめて生きてくるのであって、生きている人間が、自分が神の子であるということも知らずに、唯物的に、物しか無いというような考えを持っていながら、そういった人びとの供養なんかすると、逆に大変なことになってくるわけです。

供養というのは、まあ、善し悪しなんですね、少なくとも彼らが自分から死んだということに気付くきっかけにはなります。そういう供養をされることによってね、―ああ自分は死んだんだなあ―ということが分かります。ところが、死んだけども、どうしたら救われるのかが分らないのです。ですから子孫が悟っておればね、それを感じとって救われることがあるんです。

ところが、死んだことは分かったものの、どうしたらいいのか分からないのですね。それで地獄界で反省して上ってくればいいんですけれど、反省することを知らなくて、子孫に縋ることだけしか考えない人達が多いのです。手近ですからね、手軽ですから、それで苦労されるんです。同じようなことはいっぱいあるんです。地獄というのは、例えば古い、古井戸の中みたいなものなんですね。そこに亡者がいっぱい落ち込んでいるんですね。

これを通りすがりの人がね、供養したり、いろんなことをしますね。何かで縁ができるんです。そういう地獄霊達と縁ができるということは、梯子がするすると降りていったり、或いは縄がスルスルッと下りることと一緒なんですね。何かのきっかけができるということは―そうするとそれに縋(すが)ってくるのです。これがいわゆる地縛霊、とか或いは単なる憑依ですね、何の理由もない憑依―先祖ではなくて、そういう憑依のきっかけとなるということがあるんです。

たとえば、ある宗教に、間違った宗教に帰依することによって、そういう縄をですね、井戸に下ろしてしまうことがあるのです。そうすると亡者がそれに縋ってどんどん上ってくる。そしてこれに憑依(とりつ)かれて苦しむ。こういうことがあるのです。ですから死者を弔らう人が正しい心を持っておればのことであって、弔らう人が何も知らずにやると自分も同じ穴に堕ちて行くということなんです。怖いことなんです。

そういうことであるならむしろ何もされない方がいいのです。何も知らないで、むしろ無神論者でいる方が何の影響も受けられなくていいのです。何も悟っていないのになまじつかな信仰心だけ持っていると大変なことになってしまうのです。